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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
弐の章 【御影之石】
35/74

2-5 鬼哭啾啾

 通路を駆ける俺と美影を追いかけながら、暴力団の連中が飽きずに発砲してくる。紛争地帯もかくやと言わんばかりの銃弾の雨が、ホテルを内部から食い荒らすように小さな穴を開けていった。

 俺が異能で、美影が『糸』で、それぞれ銃弾を防いでいるのだが、こうも乱射されては精神衛生上よくない。しかも、俺は力を使いすぎたせいか体が重いし、美影も傷の影響のせいで動きが鈍い。それに銃弾自体は防げても、跳弾までは予測できない。跳ね返った弾だけあって威力が落ちているのは幸いだが、それでも何発かは体に掠ったりもした。なにか打開策が必要だった。


「夕貴」

「なんだ!? ふざけた話ならあとで聞いてやるから、いまは」

「赤いの」


 美影の視線の先を辿ると、そこには赤い消火器があった。


「なるほど、確かに使えそうだな……!」

「任せる」

「ああ!」


 そうして俺たちは、消火器を素通りした。こちらに飛んでくる銃弾の軌道を『逸らす』のではなく”捻じ曲げて”、消火器に穴を開けようと試みる。

 カン、カン、と甲高い音がして、鉛弾が消火器にぶつかるが、金属板がへこむだけで、なかなか穴が空かない。


「……くそ!」


 一昔前ならともかく、いまの安全基準だと金属板が厚すぎて、暴力団の持つ小口径の銃じゃ消火器を貫けない!

 それでも諦めずに異能を行使し続ける。そして、ちょうど消火器と男たちの距離が狭まったとき、聞きなれない破裂音がして、消火器に穴が空いた。

 ガス容器のところに穴が空き、気化した圧縮ガスとともに白い消化剤が勢いよく噴き出した。それはジェットエンジンの要領で本体をくるくると回転、暴走させて、通路の一帯にもくもくと白い煙幕をかたち作っていく。あの消火器が蓄圧式じゃなく加圧式でよかった。

 大量の粉塵が、噴射するガスによってあたりに立ち込める。男たちは喉、肺、網膜をやられて、苦しげに咳き込みながら足を止めていた。


「なんとか上手くいったな……」

「これも消火器に気付いた私のおかげ」

「確かに今回ばかりはおまえの手柄だ」

「私、偉い?」

「ああ、偉いぞ」


 乱れた黒髪を撫でてやると、美影は「んー」と不愉快そうに唸って、俺の手を払いのけた。まだ懐かれてはいないらしい。

 暴力団の連中を黙らせたとはいえ、それは一時的なものだ。すこし時間を置けば彼らは回復するだろう。

 俺たちは駆け足で、一番初めにいた部屋まで戻ってきた。美影は『ここで何をするんだろう? 逃げるつもりなら下に降りたほうが早いんじゃないか?』と怪訝顔である。

 むう、と顎に手を添えて思考に耽っていた美影は、明快な答えを思いついたのか、ぽんと手を叩いた。


「なるほど」

「分かってくれたか。まあかなり無茶だけど、おまえなら平気だろ?」

「私が責め、夕貴が受けなら平気」

「なんの話だ!?」

「不純異性交遊か援助交際」

「不埒なことをするためにベッドのある部屋に戻ってきたわけじゃねえよ!」


 まったく、どんだけマイペースなんだ、こいつ。

 俺は窓辺に歩み寄った。


「夕貴」

「なんだ?」

「交渉は二千円から」

「安っ! おまえ、安すぎだろ! つーか、意味が分かって言ってんのか!?」

「うん。私、テクニシャン」

「マジかよ……」


 最近の女子高生は進んでんのか? まあ美影の言うことだから本当かどうかは分からないけど。

 俺はカーテンを引きちぎるようにして取り外した。かなり大きなサイズの窓があらわになる。そのガラスを片っ端からぶち壊しまくった。ぽっかりと開いた穴からは、となりのホテルの屋上が見えた。あの看板とかが置いてある背の低い建物である。ここが七階だから、向こうは五階か六階だ。直線距離にして十メートルもない。


「いけるか?」

「余裕」


 反論も、説明を要求されることもなかった。

 これが美影じゃなくて一般人なら『おまえ馬鹿だろ』と一蹴されていたはずだが、人間離れした運動能力を持つ彼女ならば、この幅飛びは楽勝だろう。それは俺だって同じだ。

 本当なら暴力団の連中がホテルに乗り込んできたとき、ここから跳ぶべきだった。でもまあ、あのときは美影が優れた運動能力を持っていることを知らなかったので、そんなアバンチュールな判断ができなかったのも、やっぱり仕方ないのだ。

 すこし遠回りをしたが、まだ遅くはない。


「じゃあ」


 行くか、と言おうとしたところで、通路のほうから怒声が聞こえてきた。


「……もう時間はねえか」

「夕貴、早く」

「わ、分かってるって」


 実を言うと、俺はびびっていた。人間離れした芸当ができるようなっても、それは飽くまで『体』の話であり、俺の『心』は純粋な人間のままなのだ。

 銃弾を防ぐ、という受動的なアクションならともかく、ビルの七階から飛び降りる、という能動的なアクションをするのは、ぶっちゃけ怖い。銃弾は向こうから飛んできたが、今回は自分の意思で窓から身を投げ出さないといけない。まさに紐なしバンジーだ。それもコンディション体制が最悪な。


「はぁ」


 美影が外人のように肩をすくめて、ため息をついた。これみよがしに。


「やっぱり夕貴、男らしくない」

「……んだと?」


 顔の筋肉が引きつった。


「てめえ、この男の中の男である俺を、女々しいって言ったのか?」

「ぷぷっ、足が震えてるくせに」

「…………」


 こいつ、あとで絶対にしばく。

 しかし美影の激励――ただおちょくってるだけかもしれないが――により、覚悟が決まったのも確かである。

 俺が窓枠に足をかけるのと、部屋に暴力団構成員が踏み込んでくるのは、まったくの同時だった。男たちが拳銃を向けてくるのを無視して、俺は目を閉じた。こういうのは総じて自分との戦いだ。いまの俺がその気になれば、ビル間の跳躍も難なくこなせるはず。


「夕貴」


 出会ったときからいまのいままで変わらない、抑揚のない声。確かに女の子らしい綺麗な声ではあるけど、こんなやる気のなさそうな呼びかけで腹を括るなんて、俺も人のことは言えないよなぁ。

 背後でマズルが火を噴く。重なる銃声。

 こんなときなのに、ガキん頃の運動会を思い出した。小学校の徒競走で、母さんにいいところを見せたくて、日が暮れるまで河川敷で練習してたっけ。本番では一位を取った俺を、母さんが抱きしめてくれた。俺はクラスでは一番足が速かったけど、やっぱり本番は不安で。スタート前に、先生が鳴らしたピストルの音が、暴力団のそれと重なって聞こえた。


「――っ!」


 跳んだ。勇気を出して。

 ごお、と冷たい強風が肌を乱暴に撫でていく。髪が逆立ち、服がなびいた。夜に身を投げた俺の頭上を、男たちが放った銃弾が掠めていく。

 想像していたよりも、それは難しくなかった。建物の距離が近かったこともある。ただやっぱり、走り幅跳びの選手が助走をつけて跳ぶような距離を、助走なしで跳べてしまう俺のほうが、この場合は異端なのだろう。

 コンクリートに足がつく。無重力に近いような体感が終わる。自分の足で地面に立つということが、やけに素晴らしく思えた。

 ひたいの汗を拭う俺のすぐとなりを、黒い人影が横切っていった。その小柄な少女は、衝撃を殺すようにニ回転ほど地面を転がり、止まった。


「……なんとか上手くいったみたいだな」

「これぐらい朝飯前」


 振り返ってみると、俺たちが跳んだ窓のあたりに暴力団構成員が詰め寄っていて、こちらを幽霊でも見るような目で凝視している。また馬鹿の一つ覚えみたいに銃を撃ってくるかと思ったが、果たして、彼らは慌ててホテルの中へ引き返していった。


「……おかしいな」


 この距離からでも十分に照準できるのに。それに、あれだけ執拗に俺たちを――いや、美影を追っていたあいつらが、大人しく引き下がるとは思えない。


「お見事。まずは褒め称えましょう。願わくば、麗しき姫と小さな勇者に、神のご加護があらんこと」


 きっと俺の期待に応えたわけじゃないだろうが――小気味よい拍手の音と芝居がかった声が聞こえてきた。


「……夕貴」


 珍しく緊張した美影の声。慌てて視線を前に向けると、俺たちの行く手を遮るように、屋上の向こうに一人の男が立っていた。

 日本人離れした金色の髪。不気味なまでに細い糸目。敬虔な神を僕を思わせる神父服。なるほど、容姿だけならば善人にも見える。

 しかし、そいつが悪の塊のような存在であるということは、一目見ただけで分かった。

 化け物が人間の皮を被って歩いているような違和感。まるで夜にぽっかりと穴が空いたような喪失感。あの男の周囲だけ次元が歪んでいるようにさえ見える。

 一難去ってまた一難どころじゃない。いま分かった。さっきまでのドンパチは危機じゃなくて鬼ごっこだ。

 本当にやばいのは。美影が狙っているという《敵》は、この男なのだから。





 屋上はかなり広かった。

 中世の城をイメージしたようなかたちの大きな看板が建てられているが、それの分のスペースを差し引いても、小さな子供が遊びまわれるぐらいの広さは残っている。隅のほうには空調設備や給水設備が並んでいて、いまもごうごうと音を立てていた。看板をライトアップするための照明が四方に設置されているため、視界は悪くない。

 なにか本能的な危機感を感じて、俺は身構えていた。銃口を向けられても気だるそうな態度を崩さなかった美影でさえ、いまはピリピリとした緊張感を放っている。そんな俺たちを薄気味悪い糸目で睥睨し、男は苦笑した。


「おやおや、この崇高な僕に挨拶もなしですか? 近頃の若者は、どうも礼節を弁えていないらしい」

「黙れ」


 間髪入れず、美影が一蹴した。おまえの声なんか一秒だって聞いていたくない、とでも言うような刺々しい口調だった。男はやれやれと肩を竦めると、


「さて。そこの小さな勇者様に一つ、お聞きしたい」


 俺に声をかけてきた。


「……小さな勇者様じゃねえよ。夕貴だ」

「それは失礼。では夕貴少年。命だけは助けてあげましょう。ですから、そこの小娘を、この崇高な僕に渡しなさい」

「……なんだって?」

「聞こえませんでしたか? それとも聞こえた上で惚けたフリをしているのでしょうか? どちらにしろ二度は言いません。これ以上、崇高な僕を煩わせる問答を続けた場合、君の命は保障しかねます」

「私をどうするつもり?」


 美影が一歩前に出る。その横顔は凛としていて、これっぽっちも男を恐れていない。ほう、と感心する男。


「いいですねえ。強く、気高く、美しい。優美な肉体と、堅固な精神。貴女のような女を跪かせて、その澄ました顔を絶望に歪ませることができれば、実に楽しいでしょう」


 クックック、と癇に触る笑い声。美影の瞳が鋭くなる。


「……ヘンタイ。死ねばいいのに」

「おや、嫌われてしまいましたか。まあいいでしょう。おもちゃを買うにも金を支払うのが人間社会だ。欲しいものは力で勝ち取るとしましょうか――」


 夜の屋上を満たしていく濃密で、不吉で、邪悪なまでの殺気。それは息苦しさを覚えるほどだった。全身が泡立ち、嫌な汗が肌を伝っていく。まるで俺たちを虫として認識しているような、そんな遠慮のなさ。自然と呼吸が荒くなる。拳銃を前にしても動きが鈍らなかった俺の身体が、いまはコールタールの海に沈んでいるように重い。こいつ、本当に人間なのか……?


「夕貴」

「……なんだ」

「あいつ、ヘンな力を使う」

「分かった」


 気をつけろ、とも、頑張れ、とも言葉に出していないが――その短いやり取りだけで、俺たちは互いに『死ぬな』と伝えていた。

 あれだけ晴れていた夜空は、すこしずつ曇り始めていた。遠くのほうから流れてきた暗雲が、見事な三日月を覆い隠そうとしている。


「くっ、くくく、ははははは――」


 男の笑い声。そのとき、信じがたいものを見た。


「――っ!?」


 俺たちの目の前から、男が消失した。姿が消えた。まるで初めからそこにはいなかったかのように。男の姿を見失ったのは美影も同様らしく、その瞳には明らかな驚愕の色が浮かんでいる。

 あまりに現実離れした現象を見て、俺たちは警戒するどころか困惑するので精一杯だった。


「いやはや、美しきかな人間愛。なんとも安っぽいドラマだ」 


 ほとんど反射的に振り返ると、そこには男の姿があった。

 生物にとって『背中』とは最も無防備かつ護りにくい場所である。それが分かっているからこそ俺は――きっと美影も――背後には細心の注意を払っていたのだ。いきなり第三者が現れて襲い掛かってくるならまだしも、俺たちと会話をしていた男が、俺たちに気付かれることなく、俺たちの背後を取るなど正気の沙汰ではなかった。


「……っ?」


 気付けば、視界が薄暗くなっていた。怪訝に思って空を見上げると、もう月が見えなくなっている。今夜の風はよほど強いのか。雲の流れも速いみたいだった。

 戸惑いから一歩、また一歩と後ずさる俺たちを満足そうな目で一瞥し、男は獣のように姿勢を低くする。間もなく男は駆け出した。視認するのも難しい超人的なスピード。その爆発的な踏み込みは、コンクリートの床に穴を穿つほどだった。

 だが目で追えない速度じゃない。俺だって偉大な父さんの血を引いてるんだ。

 数瞬のうちに間合いを狭めた男は、希少価値の低い虫を採集するかのような乱暴さで俺の頚椎を掴もうとしてきた。技術も戦術もない、ただ相手を破壊することだけを考えた動き。夜気を切り裂きながら振るわれる腕。プロボクサーのパンチですら楽々かわせるいまの俺でも、回避するのが精一杯だった。


「この野郎っ!」


 咄嗟にサイドステップを踏み、男の右方に回りこむ。男は右腕を振るった状態なので、こちらに回り込めば一方的に攻撃できる。

 手加減も躊躇もせず、腰だめに構えていた拳を突き出した。パンッ、と乾いた音。男は両腕を交差させて、右方からの拳打を左のてのひらで受け止めた。明らかに戦闘慣れした体捌き。ただ数秒、拳を交えただけで、踏んできた場数の差が決定的に違うことを思い知らされた。


「夕貴。六時の方向」


 こんなときでも冷静な美影の声。俺は咄嗟に六時、つまり後方に跳び、男から距離を取った。それと合わせて、天空から極細の『糸』が雨のように降り注いでくる。

 月明かりを反射して銀色に輝く『糸』は、ムチのように変幻自在な動きで男を攻め立てる。さすがに素手で防ぐことは無理なのか、男はたちどころに駆け出した。彼を追うようにして『糸』が翻り、古くなったコンクリートに切り傷をつけていく。

 美影は目にも留まらぬ俊敏さで屋上を駆けながら、オペラの指揮者さながらの洗練された所作で両腕を振るっていた。それと呼応して『糸』が、”男”をというよりは”空間”を切り刻んでいく。しかし男のほうが一枚上手だった。なにひとつ当たらない。


「ちっ……」


 埒が明かないと悟ったのだろう、美影は苛立たしげに舌を打ち、『糸』を手繰り寄せた。


「おや、もう終わりですか? 最近の曲芸師は客も満足させずに退場するのが一般的のようですね。いやはや、つまらない世の中になったものだ」


 身を寄せ合うようにして並ぶ俺と美影の正面に立ち、男は芝居がかった口調で嘯く。その余裕に満ちた言動が、決して虚構のものではないと俺たちは知っている。こちらが全力で挑みかかっているのにも関わらず。男はまだ力の一端すら垣間見せていないのだ。


「さて。時間も押していることですし、手早く幕を引くとしましょうか」


 唇の端が釣り上がる。男の腕が上がる。それがどうしようもなく死刑宣告に見えた。

 ……来る!

 俺は後先のことは考えずに《悪魔》の因子を解放した。全身の細胞が活性化する感覚。天才的な数学者にでもなったみたいに脳の気分がよくなる。いまの俺ならば、格闘技の世界チャンピオンを圧倒することさえ可能だ。

 男の姿がゆらゆらと揺らぐ。まるで陽炎のように。

 ……なんだ、これ?

 上手く認識が……できない?

 キィン、と微かな耳鳴り。鼓膜を突き刺すような痛みに顔をしかめる。


「美影!」


 なにがなんだか分からず、となりを見てみると――彼女は呆然としたまま、その場に突っ立っている。


「アホがっ、ぼさっとすんな!」


 俺は美影の身体を抱きかかえると、そのまま後ろに跳んだ。数瞬前まで美影がいた場所を、男の腕が薙ぎ払っていく。そのまま男は、肉食獣のような獰猛な動きで俺を追尾してきた。


「……マジかよっ!」


 驚異的なスピードで振るわれる拳や蹴りが、夜の闇を削り取っていく。なんて力だ。この男の一撃をモロに食らってしまったら、胴体に風穴が開いてしまう。明らかに人間離れした身体能力だった。

 美影を抱いたまま逃げるうちに、看板のほうに追い込まれてしまった。もう後ろには逃げられない。


「さようなら。この崇高な僕の手にかかって死ねることを誇りなさい」


 男が腕を振りかぶる。その間際、俺は体内に眠る力を、いまの自分にできる限界の範囲まで引き出した。バネのように収縮した脚の筋肉が、男の攻撃と合わせて一気に弾ける。後ろに逃げられないのなら、上に逃げればいいだけの話。空高くジャンプして、俺は美影とともに窮地を脱した。

 ばがんっ、となにかが潰れる、轟音。

 男の腕が、あの大きな看板を真っ二つに破壊した。それは例えるなら、幼稚園児が学校の黒板を叩き潰したようなものだ。あまりにもショッキングな光景。少なくともナベリウスと互角か、それ以上の膂力である。しかし驚いているのは、なぜか男のほうだった。


「……この波動……まさか……」


 男の顔から笑みが消える。俺は美影を揺さぶった。


「おまえ、現実逃避をするならあとにしろ! まだ終わってねえぞ!」

「えっ、あ……?」


 美影は慌てて自分の足で地面に立つと、


「……私、なにしてた?」

「は?」


 そんな意味不明なことを俺に聞いてくるのだった。本人も間抜けな質問だと思ったのか、透き通った色白の肌に薄っすらと朱が差す。


「……なんでもない」


 そう誤魔化すように言って、美影は男に向き直った。俺も気を入れなおし、ここからが正念場だと己を戒めた。男は驚愕と歓喜が入り混じった複雑な顔で、ぶつぶつと独り言を呟いている。


「……これは……知らない……《アスタロト》……いや、違う……それにしては弱々しすぎる……だがしかし……」


 一人で自問自答を繰り返していた男は、やがて明快な答えに行き当たったのか。


「そうか、そういうことですか! まったく、運命の悪戯というものは恐ろしい! そしてやはり神は、我に味方をしているようだ!」


 よほどハイになっているのだろう、男の口調からはうざったらしい自己陶酔的な色が消えていた。これまで虫を見るような目で俺たちを見ていた男が、ここにきて初めて対等な生物と、いや、目上の者と対峙するかのように、うやうやしく礼をした。困惑する俺たちを他所に、男は続ける。


「まずは無礼を詫びましょう。どうかお気を静めていただきたい。偉大なる《悪魔》の遺児よ」


 それが誰のことを言っているのか。俺にはすぐに分かった。俺にしか、分からなかった。


「悪魔の……遺児?」


 美影がきょとん、とした顔で俺を見る。彼女の疑問に答えるように、男が言葉を足していく。


「然り。そこの少年――否、そこにおられる方は、ソロモン72柱が一柱にして、序列第一位に数えられた最強の魔神である《バアル》のご子息です。そうですよねえ? 夕貴様?」


 とても俺を敬っているとは思えない、どちらかと言えば人の神経を逆撫でする口調だった。


「いやぁ、本当に驚きましたよ。数週間前、この地で《バアル》に似た波動を感じたものですから、まさかと自分を疑いながらも足を運んでみたのですが――どうやら当たりだったようですね。《バアル》が人間の牝との間に子を作ったなどと、出来の悪いジョークだとばかり思っていたのですが」


 数週間前。つまり菖蒲の誘拐事件があったときのことか? 

 きっかけは分からないけれど、あのときに俺は純粋な人間から《悪魔》になった。その覚醒の際に、膨大なDマイクロ波が放出されてしまったという。ナベリウスがいらぬ外敵をおびき寄せぬために、間もなく俺を正気に戻してくれたのだが……。

 《悪魔》には同胞を知覚する能力がある、とナベリウスから聞いている。ただしそれは、まだ鍛錬も積んでおらず、《悪魔》の力に振り回されているような状態の俺には到底無理な芸当だが。

 しかし、この男は、俺の波動を感じ取ったというのだ。それが果たして、なにを意味するのか。


「さて、名乗り遅れましたが」


 男は両手を広げて、空を抱くようにしながら宣言した。


「我はソロモン72柱が一柱にして、序列第七十一位の大悪魔ダンタリオン。貴方のお父上の同胞。その末席を汚す者ですよ」


 どこか威厳さえ感じられる声だった。


「……っ」


 悪魔。ナベリウスと同じ、ソロモンの悪魔。俺の父さんの同胞。人知を超えた強大な異能を操る、紛うことなき一騎当千の怪物。

 正直に告白すると、いつかこんな日が来るんじゃないかって思ってた。それと同時に、こんな日は絶対に来ないんじゃないかとも思ってた。

 いくら《悪魔》の血を引いているからといっても、俺は元は平凡な大学生なんだ。ちょっと女顔ってことにコンプレックスを持ってて、大好きな母さんがいて、大事な女の子がいて、バカみたいな親友がいて、ちょっと家が大きくて、悪魔の同居人がいて。

 確かにそれは、普通の人よりも愉快な要素に溢れた『日常』だったろう。出来の悪いB級映画みたいな事件に巻き込まれたり、いきなり憧れていた女優が家に訪ねてきたり、不思議な力が使えるようになったり、愛する女の子と結ばれたり。

 でも、今回は違うんだ。

 いままでは俺が巻き込まれる側だったのに対して、今回は俺がこの街にいたからこそ、あの男――ダンタリオンがやってきたんだ。

 言い知れない恐怖が全身を駆け抜ける。俺の平穏で、平凡で、幸せな『日常』が、音を立てて崩れていくような気がして、暴力に満ちた『非日常』に塗りつぶされていくような気がして、たまらなく怖い。


「……おまえの目的はなんだ?」


 震える膝に力を入れて、前を向く。ダンタリオンは顎に手を添えて、考え込むような素振りを見せた。


「ふうむ、目的ですか。そう尋ねられると思いのほか困りますねえ。ただあえて答えるとするならば、自衛のため、でしょうか」

「自衛だと?」

「貴方は知らないでしょうが、我らがソロモンの同胞たちは、この人間によって支配された世界のなかで、いまもなお壮絶な殺し合いを行っています。それは人間の組織した《悪魔祓い》や《法王庁》と呼ばれる組織もしかり、人のことわりを外れた異端の存在もしかり――つまり僕たちにはあまりにも外敵が多すぎるのですよ。

 加えて、我らが同胞のあいだにも派閥があります。まあ現時点では《マルバス》、《バルバトス》、《グシオン》が率いる三大勢力が抜けていますがね。彼らはこぞって貴方のお父上である《バアル》、ならびにその従者二名を血眼になって捜索していたようですが、ついぞ行方は掴めなかったという話です。

 とにかくそうした諸々の脅威から身を護り、己の存在を保持するためには、偉大なる血統を受け継ぐ貴方様のお力が必要なのですよ」


 いつかの朝、ナベリウスが言っていたことを思い出した。封印から解き放たれた悪魔たちは、それぞれの勢力に分かれて殺し合いを始めたという。いわゆる闇の権力争い。それを嫌った父さんは野に下り、人間社会に潜伏して、母さんと出会った。


「いまの君は、意識しなければ感じ取れるほどの微弱な波動ではありますが、きっと強くなる。あの恐ろしいバケモノの血を引く君ならばね」

「話が長い。夕貴を利用したいのなら、そう言えばいい」


 美影が苛立ったように口を挟んだ。ダンタリオンは不気味な笑みを浮かべて、首を傾げる。


「これはこれは人聞きの悪い。利用だなどと空恐ろしいことは考えていませんよ。ただ崇高な僕は、少しばかり彼のお力を貸していただこうかと愚考したまでです」


 それからも美影とダンタリオンが口論を続けていたが、あまり耳に入ってこなかった。でも漠然と、このままではいけない、俺がどうにかしなくちゃ、俺がしっかりしなくちゃ駄目なんだ、ということだけは理解できた。


「……ふむ、どうやら時間切れのようですね」


 その呟きと時と同じくして、けたたましいパトカーのサイレンが聞こえてきた。どうやらこちらに向かっているらしい。それも凄まじい勢いで。さすがに被害が大きすぎたのか、公的機関もご立腹のようだった。


「日を改めましょう。今夜のところは《バアル》の血に免じて引き下がるとします」


 ダンタリオンが身を翻す。豪奢な金髪と、嘘くさい神父服が風にそよいだ。


「それでは。また夜に」


 芝居がかった口調でそう告げて、ソロモンの悪魔は屋上から飛び降りていった。

 気付けば雲は流れに流れて、ふたたび晴れた夜空が広がっている。明るい月の光が、いまは何となく疎ましいと思った。





 あのあとホテルの屋上から退避した俺たちは、集まった野次馬や警察の目を潜り抜けて、人気のない場所に向かった。念には念をということで、夜が明けるまでは身を隠していたほうがいいと思ったからだ。

 閑散とした場所にある廃墟の中で、俺たちは息を潜めていた。


「美影。ほら」


 そこの自販機で買ってきたスポーツドリンクを放り投げる。 キンキンに冷えたペットボトルを受け取った美影は、なにも言うことなく、すぐさまキャップを空けて中身を呷った。

 二人とも埃にまみれた挙句、これでもかと汗だくである。それにもう数時間以上、水分を摂っていない。あれだけ激しい運動をしたっていうのに。喉がカラカラだった。

 俺も美影も一気に半分ぐらい飲み干して、ぷはー、と景気のいい吐息を漏らした。


「夕貴」

「なんだ」

「疲れた」

「そうか」

「夕貴」

「なんだよ」

「悪魔の子供って、本当?」


 いつもの抑揚のないトーンで。覇気のない気だるげな瞳で俺を見つめて、美影は言った。どう答えるべきか迷ったが、いまさら隠すのも意味がないと思って、俺は正直になることにした。


「……ああ、本当だよ」


 しばらく逡巡するような間が続く。やがて美影は興味をなくしたように、俺から視線を逸らした。


「眠い」


 目がしぱしぱするのか、ひっきりなしに瞼を擦っている。本当は聞かないほうが正解かもしれなかったが、どうしても気になって、俺は話を蒸し返した。


「……あのさ。おまえの家って、いわゆるバケモノを退治する家系なんだよな?」

「うんうん」

「じゃあ、こんなことを聞くのも野暮なんだけど……俺をやっつけなくてもいいのか?」


 やっつける。

 そう表現してしまったのは、きっと言葉の中だけでも、自分を『殺す』と言いたくなかったからだろう。

 美影は尻尾のようになった毛先を弄りながら、


「仕事じゃないから」

「は? どういうことだ?」

「夕貴、勘違いしてる。例えば、自分の子供が犬に殺されたとする。その場合、夕貴は世界中の犬を殺す?」


 気性の荒い犬がいれば、大人しい犬もいる。

 残忍で獰猛な怪物がいれば、心優しい人間を愛するような怪物もいる。

 この世界には人間など足元にも及ばないような上位の存在がたくさんいる。それは吸血鬼だったり、人狼だったり、妖だったり、悪魔だったりする。

 裏社会にも裏社会なりのルールがあって、特にこの日本では、《青天宮せいてんぐう》と呼ばれる退魔組織が幅を利かせているらしく、好き勝手に異端のバケモノを殺してまわっては、様々な面でネガティブな摩擦が生まれてしまう。

 つまり狩りをしないライオンは、いっそのこと放っておいたほうが安全だという話だ。無理をして手を出すから、彼らは自衛のためにその力を振るわざるを得なくなる。

 基本的に《壱識》が動くのは、指定された危険度を超えた生物を討伐するためか、正式に依頼を通された場合だけ。


「まあなんだかよく分からないけど……とにかくおまえは俺の味方って認識でいいんだよな?」

「…………」

「まあ、その……なんだ。おまえが俺を警戒するのも分かるよ。なんだかんだ言っても、俺は《悪魔》の血を引いてるからな。もしかすると悪いヤツかもしれないし」

「…………」

「でも信じてくれ。俺は女の子をいじめて悦ぶような女々しい男じゃないんだ。こう見えても一部じゃあ男らしいって評判なんだぜ? ……ま、まあ、最後のは嘘なんだけど」

「……ぐう」

「寝てんじゃねえぞコラぁぁぁぁっ!」


 こいつとは一度、白黒つけたほうがいいのかもしれない。むしろ俺の男らしさでメロメロにしてやる。

 遠くのほうを見ると、空が薄っすらと白ずんでいることに気付いた。携帯で時間を確認すると、無機質なデジタル時計の表示が、もう間もなく夜が明けると告げていた。

 そこで、俺はダンタリオンよりも恐ろしい事実に気付き、頭を抱えた。


「……やべえ。菖蒲にメール返すの、忘れてた」



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