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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
弐の章 【御影之石】
34/74

2-4 危急存亡

 ラブホテルというものは基本的に防音がしっかりしているはずだが、どうにも騒がしい。巻き舌の怒声、大地を踏み鳴らすような足音、暴力的な破壊音、一般人の悲鳴。それら怒涛の騒音が渾然一体となって、この建物を包み込んでいる。

 不幸中の幸いは、ここがラブホテルだったことだ。フロントは無人。会計も自動清算支払機で済ませられるので、身分証明書を提示せずとも部屋まで直行できる。つまりホテル側の人間は、泊まっている人間のことを逐一把握していない。いくら暴力団でも、客のプライベートに関与していない従業員から、俺たちの所在を聞きだすのは無理だろう。


 警戒しながら廊下に出ると、ちょうどとなりの部屋から初老の男性と若い少女が出てくるところだった。親子ほども年齢が違う彼らからは、明らかな犯罪の匂いがした。ズバリ援助交際だろう。

 ほかにも何組かのカップルが慌てて部屋を飛び出しては、転がるようにしながら階段やエレベーターのほうに駆けていく。威嚇のためか、さきほど階下から何発かの銃声が聞こえてきた。ホテルでお楽しみ中だった人たちが泡を食って逃げ出しているのはそのため。

 一般客の姿はちらほらと見かけるのだが、しかし暴力団らしき影はどこにも見当たらない。おそらく、彼らは一階からしらみつぶしに俺たちを探している。ゆえに地上七階にあるこのフロアには、まだ捜索の手が及んでいないのだ。


「よし、逃げるならいまだな」


 ここで問題は、どこからどう逃げるか。


「夕貴。どうする?」


 俺の服を引っ張りながら、美影が尋ねてくる。その茫洋とした瞳からは、どこか俺という人間を試そうとするかのような思惑が感じられた。


「そうだな……」


 目を閉じて、脳裏でありとあらゆる情報を再生し、咀嚼し、反芻していく。


「たぶんだけど、この建物には三つの出入り口があるはずだ。一般客が利用するものと、従業員が利用するものと、緊急時に使われる非常階段」

「うんうん」

「このなかで一番手っ取り早いのは三番目のやつだな。表口も裏口も一階からしか繋がってないけど、非常階段は全フロアから繋がってる。あの緑のマークに従って移動すれば、迷うことなくたどり着けると思う。ただ」

「相手がもう抑えてる」


 そんなことは初めから分かっている、とでも言いたげに、美影が言葉を引き継いだ。

 暴力団側としても、せっかく追い詰めた獲物を逃がす真似だけはしたくないだろう。初めから出口なんて塞がれてると考えたほうが後々に気が楽だ。まともな方法で逃げ切れる、と楽観視するのは止めたほうが無難。

 だが正面から突破するのもリスクが大きすぎる。俺の能力にも限度があるし、美影がどの程度戦えるのかも分からない。相手は拳銃や刃物を装備しているし、その具体的な人数だって不明。あまりにも不明瞭な要素が多すぎて、作戦を立てようにも上手く行かない。

 どうする、どうすればいい……?

 必死に頭を働かせるが、利口に迷う時間などあるはずがなかった。それを思い知らせるように、俺たちのいるフロア、七階に暴力団がなだれ込んできた。けたたましい騒音と、暴力的な緊張と、乱暴な気配。


「いたぞ! こっちだっ!」


 敵の一人が出したその合図を皮切りにして、階下にいた暴力団構成員が次々と七階に上がってくる。

 通路の向こう、ちょうど階段のあたりにいる男たちは、目算で七人。彼らは拳銃を構える。背後にいた美影が動く気配がしたが、俺はそれを左手で制し、右手を前に突き出す。べつに手を伸ばす必要はないのだけれど、そうしたほうが『銃弾を逸らす』というイメージを作りやすいのだ。

 警告もなく男たちが発砲してきた。ガァン、と鼓膜が割れそうな轟音。ホテルの通路に、たちまち硝煙の臭いが漂う。

 キィン、とかすかな耳鳴り。

 空気を切り裂くように突貫してくる銃弾を知覚し、それを構成する『金属』にDマイクロ波を作用させる。でたらめになる運動エネルギー。銃弾は真っ直ぐに飛ぶことができず、ありえない急角度で方向転換していった。いくつかは天井に跳弾し、電灯を破壊した。ぱらぱらとガラスの破片が降り注ぐ。

 数瞬、男たちが困惑した。それは絶好の隙と言えたが、いかんせん距離が遠すぎる。これといった遮蔽物のない通路においては、拳銃を持っている彼らのほうが圧倒的に有利だ。


「逃げるぞ、美影!」


 この場でじっとしていても事態は好転しない。少なくとも拳銃の射線から逃れることのできる場所に移動する必要がある。


「でも」

「こっちだ!」


 ぼんやりとした顔でなにかを言いたげにする美影の腕を引っつかみ、ほとんど引きずるようにしながら、俺は走り出した。

 このホテルの通路は、アルファベットの『L』のようなかたちをしている。とりあえず角さえ曲がってしまえば、被弾の心配はしなくていい。

 電灯が割れたせいで薄暗い通路をひた走った。男たちは俺と美影を追いながら発砲してくる。すぐ近くの壁や、足元の床、天井に穴が穿たれ、コンクリート片が飛び散った。

 間もなく、角を曲がる。銃弾の雨が止んだ。

 遠くのほうには緑のランプ。緊急用の出口。あの重々しい鉄の扉を開けば、屋外に設けられた避難階段に出られる。そこにも敵はいるだろうが、真っ直ぐ伸びたホテルの通路とは違い、階段の踊り場なら迂闊に拳銃は使用できないはずだ。多少のリスクは伴うが、もう贅沢を言っている場合じゃない。なんとか接近戦に持ち込み、相手を蹴散らす。あとは闇に乗じて逃げればいい。

 幸いにも、非常出口は屋内からしか開かないようになっている。つまりいま扉がバーンと開いて、向こうから敵が出てくるというようなシチュエーションはありえない。それは俺たちにとって幸運と言える。

 だが、間に合わない。

 俺たちが非常出口に到達するよりも、暴力団の連中が角を曲がり、拳銃の照準を合わせるほうが明らかに早い……!


「美影!」

「わかった」


 俺はその場で立ち止まり、美影は非常出口のほうに駆けて行く。あの扉を開くのには数秒の時間を要する。それまでの間、雨と注ぐ銃弾から身を守る必要があるのだ。

 向こうの角から、スーツを着崩した男たちが姿を見せる。それと同時に、美影が非常口の取っ手に手をかけた。

 しかし。


「……開かない」


 ガチャガチャ、と取っ手を動かすが、扉は固まったように動いてくれない。

 それは力が足りないとか、開け方が分からないとか、そんな単純な理由じゃなかった。こうしたホテルの非常口は、誤用を防ぐために非常ベルが鳴らなければ開閉しないタイプの場合があるのだ。そして最悪なことに、今回がそのパターンだった。

 だが開きませんでした、では済まされない。もう俺たちに逃げ場はないのだ。かといって男たちを撃退するには、銃弾を防御しながら数十メートルほどの距離を詰めなければならない。さすがの俺も、美影を護りながらそれをするのは無理がある。

 こんなことになるなら最初から接近戦に持ち込めばよかった、と後悔するが、それは後の祭りだろう。

 どうする。どうする、萩原夕貴。落ち着いて考えろ。頭を使え。思考を止めるな。


「…………」


 この場合、非常ベルを鳴らすことができれば俺たちの勝ちだ。でも近くには手動タイプの警報装置はない。

 ただ、天井のほうに丸っこいかたちをした機械が見える。あれは恐らく、特定の条件が揃ったときのみ作動する非常ベルだ。それはちょうど、通路の向こう側にいる男たちの真上あたりに設置されている。あいつをどうにしかして鳴らしてみせるしかない。


「……やるしかないか」


 男たちが曲がり角のところに立ち、揃ってバカみたいに拳銃を発砲してくる。こちらが不可思議な力を使うことを知っているせいか、遠慮がない。

 俺は《ハウリング》を使った。

 キン、キン、と甲高い音がして、そのたびに銃弾が逸れていく。鼻腔を突く火薬の臭い。通路全体に硝煙が立ち込めていく。

 俺は一歩、一歩と下がりながら、能力を行使し続ける。


「ぐっ!」


 ずきん、と心臓が痛んだ。思ったより限界が近い。

 《悪魔》の異能も万能じゃない。《ハウリング》には膨大なDマイクロ波が必要とされる。Dマイクロ波を作り出すのは心臓だが、あまり過剰に力を使いすぎると、需要に供給が追いつかなくなる。それによって無茶な労働を課された心臓には過度の負担がかかり、刺すような痛みが胸を圧迫する。

 半分だけしか《悪魔》の血を引かず、まだ満足にトレーニングもしていない俺にとって、異能を連続して使用するのは危険だった。その証拠に、ナベリウスからも口を酸っぱくして止められてる。

 でも、ここで止めるわけにはいかないんだ……!

 天井にぽつんと設置された機械を見つめる。それは数秒おきに点滅し、弱い光を放っている。あの機械こそが、いまの俺たちを救うかもしれない命綱だった。

 本来ならば”量”が足りないかもしれないが、あの装置が男たちの真上にあるという事実を踏まえれば、決して不可能じゃないはずなんだ。


「夕貴」


 すぐ後ろにいる美影が、相変わらず感情の読み取れない声でつぶやいた。心配してくれているのか。手際の悪い俺を叱っているのか。


「……っ、大丈夫、だ!」


 そう声に出した瞬間だった。じりりりりり、と身も竦むような音がホテルを包み込む。突然のことに驚いた男たちの銃撃が一瞬だけ止まった。


「開いた」


 美影の細っこい手が、頑丈な非常口をいとも容易く開いた。非常ベルが鳴ったことにより、仕掛けが作動したのだ。ホテルの内部と比べると冷たい外の風が、体を吹きつける。

 俺は例の機械を見た。

 天井に設けられているのは、光電式スポット型煙感知器。数秒おきに点滅する光源の光が『煙』に乱反射されると、それを受光素子が検知し、ベルが鳴るという仕組みである。

 男たちが拳銃を使ったことにより発生した多量の硝煙は、俺たちが逃げるための一手となった。これで彼らと警報装置の距離がもう少しでも開いていたなら、受光素子に届くまえに硝煙が霧散してしまい、光源を乱反射させるだけの『煙』を確保できなかっただろう。

 そういう意味では、俺たちはまだツキに見放されていない。


「……よし、行くぞ」


 鋭い痛みの走る左胸を押さえつけながら、非常口を通って外に出る。振り返ってみると、通路の奥から、男たちが慌ててこちらに駆け寄ってくるところだった。その何かに取り憑かれたような必死の形相に違和感を覚えながらも、俺は非常口を閉めた。どうせすぐに開けられるだろうけど、少しでも時間を稼げればいい。

 外に出ると、晴れた夜空と、かたちのいい三日月が目に入った。まわりにはラブホテルが立ち並んでいて、少し狭苦しい印象を受ける。

 地上七階ともなると、さすがにそれなりの高さになる。避難階段は鉄かステンレスのようなもので造られており、歩くと小気味よい音が鳴る。階段は一階まで通じているらしく、上手くいけばこのまま逃げ切ることも可能に思えた。

 ただし、下のほうからは人の気配がする。注意は必要だった。俺たちは小走りで階段を駆け下りる。


「夕貴」

「なんだ。いまは無駄話してる場合じゃねえだろ。それともあれか? 俺の男らしさに気付いたのか?」

「冗談は顔だけにして。それより」

「なんだとてめえコラぁ! 俺の顔が冗談だって言ったのか!? 俺はよく母さんに似てるって言われんだぞ! つまりおまえはいま俺の母さんを侮辱しやがったってことだ! すぐに謝れ!」

「狙われてる、って言おうとした」

「は?」


 俺がまくし立てても、美影は表情一つ変えなかった。代わりに、美影は指で上のほうを指した。まるでそっちを見てみろ、とでも言うように。

 見上げると、そこには七階の非常口から飛び出してきた男たちがいて、俺に銃口を向けていた。


「バカっ! もっと早く言え!」

「ごめんごメンゴ。……あ、”ごめんごメンゴ”とは、使い古された”ごめん”という謝罪の言葉を、今時の女子高生を中心に流行ってほしいという願いを込めてプリティーに換言したもので――」

「説明ならあとで聞くから黙ってろぉぉぉぉっ!」

「ごめんごメンゴー」


 美影の手を引っ張って、俺は目の前にあった非常口に飛び込んだ。まだ二階分しか降りていないので、そこは五階だった。せっかく外に出たのに、またホテルの中に逆戻りである。おまけに悪いことは重なるらしく、通路の奥のほうにはさっきの男たちとは別の連中が待ち構えていた。彼らは俺たちに気付くと、ふところから拳銃を取り出す。それと合わせて、背後からは避難階段を駆け下りてくる気配。

 まずい。これは洒落にならない……。

 さきほど力を使いすぎたので、しばらくは間を置かないと、俺は《ハウリング》を満足に行使できない。銃弾を防げない。

 正面には拳銃を持った男たち、背後からも拳銃を持った男たち。図らずも挟み撃ちだった。

 迷っている暇はない。

 俺は美影を連れて、一番身近にあった部屋に飛び込んだ。すこし前までは一般客が利用していたのか、オートロックはかかっていなかった。

 部屋はかなり広く、調度品も趣向を凝らしたものが多かった。よく見ればテーブルのあたりにピンク色のブラジャーが落ちている。前の客が付け忘れたらしい。俺は扉を内側からロックした。美影はブラジャーを拾って「おおー」とか言っている。アホだった。


「ちくしょう、あいつらアホみたいに拳銃を撃ちまくりやがって! そんなに明日の朝刊を飾りたいのかってんだ!」

「ううん、たぶん飾られない」


 大きなあくびをかみ殺し、美影は言う。


「さすがに今回は事態が特別。明るみに出てはいけない問題が多すぎる。【哘】か【如月】が出張ってきて、公的機関にエクスキューズをかけるはず」

「それってどういう――」


 意味だ、と続けようとした俺の声を、暴力的な騒音が遮った。扉はロックしたはずだが、筋骨隆々とした大の男の力と、拳銃の破壊力には耐え切れなかったようだ。勢いよく扉が開いて、暴力団構成員が部屋のなかに押し寄せてきた。その数は、十二人。


「追い詰めたぞクソガキども! てこずらせやがってっ、観念しろや……!」


 荒い呼吸の合間に、搾り出すようにして一人の男が言った。その表情には余裕がなく、目の焦点も微妙に合っていない。


「おら坊主。そこの女をこっちに渡せや」


 ここで美影を引き渡せば、俺は助かるかもしれない。五体満足で帰れるとは思えないが、殺されはしないかもしれない。それでも女の子を犠牲にしてまで、俺は助かりたくなかった。


「うるせえよ。大の大人がよってたかって、こんな小さな女の子を追い掛けまわすなんて、恥ずかしくねえのか」

「私、小さくない」


 ぐいっ、と服が引っ張られる。状況が分かっていないのか、美影が不服そうな顔で俺を睨んでいた。それを無視して、俺は男たちに宣言する。


「べつに正義の味方を気取るわけじゃないが、おまえらにこの子は渡せない。どうしてもって言うなら、力ずくで奪ってみろよ」


 張り詰めた緊張と、高まる敵意や悪意。冷や汗が背中をべっとりと濡らしていく。

 つい啖呵を切ってしまったけど、状況は悪い。

 いまの俺に《ハウリング》は使えない。それに相手は十人近くいるのだ。格闘戦に持ち込むにしても、高いリスクが付きまとう。美影は自分のことを超強いとかほざいてやがったが、それもどこまで本当か分からない。そう考えると、仲間である美影ですら不安要素の一つに見えてくる。

 美影を護りながら、武装した男を十人も倒す。無理とは言わないが、かなり厳しいことは間違いない。

 じりじりとした空気。俺も、男たちも、迂闊には飛び出さない。しかし、その一触即発の膠着を崩すように、


「そういえば」


 平坦とした美影の声。俺より一歩前に出た彼女の背中では、後頭部の高い位置で一つに結われた漆黒の髪が、尻尾のように揺れていた。


「あのバケモノは元気?」


 バケモノ。その単語が出た瞬間、男たちの顔が恐怖に塗りつぶされた。正気を失っていくのが目に見えて分かる。


「次、会ったら伝えて。”お前は私が殺す”と。そしてもう一つ――」


 美影は言った。


「――”用済みになっても、道具を捨てないであげて”――」

「う」


 道具。

 それが何を。いや、誰を指しているのか。いまそのバケモノの指示に従い、働いているのは誰か。使われているのは誰か。道具とは誰なのか。用済みになれば殺されるのは、果たして誰なのか。


「殺されたくないからって、バカ正直に従いすぎ。うざい」

「うう」


 がたがたと震える男たちを指差して、美影は罵倒を続ける。俺が止めに入るよりも早く、


「う、うわあああぁぁぁああぁぁぁぁぁーっ!」


 半狂乱になったような悲鳴が部屋を占領した。精神に支障でもきたしたのか、男たちは不気味な笑みを浮かべ、口端からよだれを垂らしながら拳銃を構えた。トリガーにかかっていた指が引かれていくのが、やけにゆっくりと見える。俺は反射的に、近くにあったベッドの影に隠れるようにして身を伏せた。

 でも美影は、男たちの正面でじっとしたまま動かない……!


「あんのバカがっ!」


 急いで助けに行こうとするが、それを遮るようにして、発砲音が重なった。狂ったように部屋を侵食していく破壊の雨。いまベッドから飛び出せば、俺が死んでしまう。


「美影っ! 隠れろっ!」


 声を張り上げてみたが、銃声がうるさすぎて自分でもよく聞こえなかった。ぱりん、ぱりん、と窓ガラスが割れて、俺の身体に降り注いだ。充満していた硝煙と火薬の臭いが、清浄な空気に押し流される。こんなときなのに、汗に濡れた体を撫でていく夜風がやけに気持ちいいなぁ、と思った。

 それは一瞬にも永遠にも思える時間だった。しばらくして銃声が止む。もしかして、美影が……?


「――っ!」


 そこから先を考えたくなかった。あんな小さな女の子が、銃弾を防ぎきるだけの力を持っているとは思えない。いくら小口径と言えども、あれだけ撃ち込まれれば、誰だって瀕死の重傷を負うだろう。

 俺は恐る恐る、ベッドの陰から頭を出して、部屋の様子を覗いてみた。

 果たして、美影は無事だった。

 ほっとするのも束の間、今度は言い知れない疑問が脳裏をよぎった。美影は一歩も動いておらず、男たちの正面に立ったままだ。手には何も持っていない。

 一体、何があったんだ……?

 美影はどうやって銃弾から身を守った……?

 マガジンを交換し終わった男が、美影に銃口を向ける。


「止め――!」


 今度こそ止めようと思ったが、遅かった。ガァン、と長く尾を引く轟音。スパイラル回転を加えられた鉛弾が、冷たい夜気を焼きながら高速で飛来する。


 その瞬間、俺が見たものは、まるで魔法だった。


 美影が右腕を振るう。それこそハエでも払うように。相変わらずの気だるそうな顔で。ただそれだけ。ただそれだけなのに、銃弾が彼女の体から逸れていった。


「は……?」


 自分の目が信じられず、俺は何度か瞬きをした。ふたたび、男が発砲。美影が腕を振るう。銃弾の軌道が変わる。躍起になった男たちが何度も何度も、装填したマガジンが空になるまで撃ち続ける。しかし、大量生産の鉛弾は、どれ一つとして美影には届かない。

 ガラスの破壊された窓から、横殴りの強い風が吹き込んできた。ふわりとカーテンが舞い上がり、眩い月明かりが室内を照らし上げる。


「……あれは」


 なにか銀色の『糸』のようなものが、室内を縦横無尽に行き交っていた。その『糸』は、主人を護るように美影の周囲に展開している。

 美影が腕を振るうと、『糸』は途端に表情を変えて、静かに、けれど力強く、銃弾の雨から彼女を守護するのだ。それは見蕩れるほど美しい光景だった。

 彼女は純粋な人間である。動体視力や反射神経も、人の域を超えていない。いくら鍛えたところで、人の身には限界があるのだから。

 美影は銃弾をいとも簡単に防いでいた。恐らく、銃口の向きから着弾点を予測し、その軌道を計算することによって、目で見えないはずの銃弾を、感覚で視ているのだろう。しかしあんな細い糸で銃弾を弾くなら、それこそ万分の一ミリの誤差も許されない、絶対的な技量が必要になるはずだ。なのに美影は、いとも容易く己の身を護っている。

 年端もいかない女の子が、すでに超人的な技能を身につけている。それは人が何代にも渡って研鑽してきた技術の結晶だった。

 水のように流麗な『糸』が、火のように怒涛な銃弾を防ぐ光景は、どこまでも芸術的だった。思わずため息が漏れるほどに。

 でも俺は同時に、打ちのめされたような気分も味わっていた。 

 

 ”おまえたちが《悪魔》だとしても、驚異的な能力を持っているとしても、私たちは一族で積み重ねてきた業によって、おまえたちに追随してみせるぞ。人間であることは恥ではない。ゆえに侮るなかれ。私たちは決しておまえたちに負けはしない”


 美影の小さな背中が、俺にそう訴えかけてくるような気がした。あの覇気のなかったラインの細い身体が、いまは実際の寸法よりも遥かに大きく見える。儚げな美貌を湛えた横顔から目が離せない。

 ギャップに惹かれる、というやつだろうか。

 常に気だるげな態度を崩さなかった美影が、いまや切れ長の瞳をすっと細めて、息を呑むほどの凛とした空気をまとっている。その事実に、たまらなく好感を抱いてしまうのだ。

 発砲が途切れる。

 弾切れ。男たちが慌ててマガジンの交換をしようとする。そのとき、獣を思わせるような俊敏さで美影が駆け出した。

 ただでさえ小柄な身体が、地を滑空するツバメのごとき低姿勢で疾走してくるのだ。男たちにしてみれば美影が消えたようにしか見えなかっただろう。

 ぶらりとしていた美影の両腕が、交差するように振るわれた。極細の『糸』が翻り、男たちの”指”の肉を的確に切り裂いていく。鋭い痛みにより、彼らは武器を取り落とした。

 美影は体術を用いて接近戦を仕掛ける。しなやかな肉体を生かした、パワーというよりはスピードを重視した体捌き。類稀な身体能力によって繰り出される一撃は、その小さな身体から繰り出されたとは思えないほどの力強さ。

 仮にも武道を志し、幼い頃から修練に励んできた俺には分かる。この壱識美影という少女は、途方もない才能の塊だ。天才と呼ぶのも失礼に当たるような、磨いても磨いても研磨の終わらない至高の原石。


 誰かを護ることのできる”強さ”に、ただひたすら愛された人間がこの世にいるという事実に、俺は戦慄さえ覚えた。


 応戦する男たちは、この場において、美影という主役を際立たせるだけの脇役に過ぎない。

 息つく間もなく放たれる拳、くびれた腰の回転から繰り出される蹴り。その一挙手一投足に俺が見蕩れるたびに、男たちが一人ずつ薙ぎ倒されていく。

 最後の男がくずおれるのと合わせて、美影が俺に振り向いた。


「終わった」 


 その顔には、何もなかった。学校に遅刻しないのは当たり前。遅れずに始業に間に合ったぐらいで何を騒ぐのか。そんな顔だった。


「……あ、ああ。お疲れ」


 気が動転しているせいか、場違いな労いの言葉をかけてしまう。自分でも頭がおかしいとは思うが、俺は美影に憧れのような感情を抱いていた。あの極限とも言うべき次元にまで磨き上げられた戦闘技術。それは生まれ持った天賦の才と、たゆまぬ努力の結晶だろう。いまの俺には、美影が美しい宝石のようにさえ見えた。


「夕貴。ちょっとヘン」


 ぐいっと美影が顔を近づけてくる。ほのかなシャンプーの香りがした。

 当面の危機を排除したからか、美影はふたたび気だるそうな空気をまとっている。ぼぉーとした切れ長の瞳が、俺をじっと見つめていた。

 もちろん惚れたわけじゃない。それは確かである。恥を承知で告白すると、俺は巨乳が好きなのだ。こんな貧相な身体をした女など御免被る。


「てい」

「痛っ、なにすんだ!」


 いきなり頭を叩かれてしまった。わざわざぴょんとジャンプまでして。美影は艶やかな黒髪をちょこちょこと弄りながら、


「バカにされたような気がした」

「くっ!」

「たぶん、私の身体を嘲笑った。違う?」


 読心術でも心得てるのか、こいつ。俺は胸中に渦巻く気持ちを悟られたくなくて、わざと挑発するような言葉を口にした。


「違わないよ。だってさ、おまえって今年で十六歳だろ? それにしては身体に成長が見られないよなぁ。胸だって小さいし」


 むっ、と美影の瞳が鋭くなる。


「夕貴」

「なんだ、反論があるのか?」

「巨乳はファンタジー、貧乳はリアリティ」

「名言っぽく言うなよ! ちょっと感心しちゃったじゃねえか!」

「私はリアリティを捨ててファンタジーを目指す」

「やっぱり気にしてんのか……」

「私にも希望は……あるはず」


 自分の胸を揉むような仕草。心なしか肩が落ちているような気がする。やっぱり年頃の女の子としてはコンプレックスの一つなんだろうな。

 それから俺たちは気絶した男たちを放って、部屋から移動することにした。ただしホテル内には、まだまだ暴力団の連中がいる。階下に向けて移動するのは悪手だろう。


「……いや、待てよ?」


 閃くものがあった。

 多少無茶だが、いまの俺と、優れた身体能力を持つ美影なら、上手くやれば可能かもしれない。

 俺は眠そうに目をこする美影を誘導して、ふたたび上を目指すことにした。



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