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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
弐の章 【御影之石】
32/74

2-2 花顔雪膚

 重国しげくにさんが指定した店は、驚くべきことに、街を歩けば日に五軒は行き当たりそうな普通の洋食屋だった。

 立派というにはお世辞が過ぎ、貧相というには失礼な、そこはかとなく年季の入った店。外観こそ古びた印象を受けるが、店内は感心するほど清潔だった。

 死ぬほど緊張していた俺は、重国さんの予想外のチョイスに混乱し、自分でもよく分からない境地に至っていた。

 食事時ということもあり、店内はそこそこのお客さんで賑わっている。大繁盛とまではいかないが、店の行く先を憂うほど閑古鳥が鳴いているわけでもない。

 まだ入ったばかりだが、実を言うと、俺はもうこの店を気に入っていた。壁際に大きく女優『高臥菖蒲』のポスターが貼られているからである。もう常連になってもいいとさえ思う。菖蒲の可愛らしさが分かる人間に悪いやつはいないのだ。

 俺は重国さんに続くがまま、カウンター席に腰を下ろした。眼前には厨房があって、人のよさそうな初老のマスターとその奥さんらしき女性が調理に勤しんでいる。

 でもまあ、いい意味で庶民的なこの洋食屋の中においても、やっぱり重国さんは微妙に浮いてるよなぁ。

 店主も対応に困るんじゃないだろうか。


「おおっ、しげっちゃん、また来たのかい。たしか四日ぐらい前の昼にも来てくれただろ?」


 と、思った矢先、厨房にいたマスターが重国さんに親しげな挨拶をした。


「ああ。正確には五日前の昼だ」


 氷水の入ったコップを傾けながら、重国さんが返す。ただ水を飲んでいるだけなのに、どうしてこの人はこんなに渋いんだ。

 おっと、五日前だったかい。粋に笑って、マスターは続ける。


「そういえばしげっちゃん。ここ最近、菖蒲ちゃんがシャンプーのコマーシャルに出てるじゃないか。いやぁ、あの子は見るたびに綺麗になっていくよなぁ。お母さんにも似てきたし」

「俺の娘だからな」


 その簡素な相槌とは裏腹に、重国さんは誇らしげな気持ちを腹に隠しているように見えた。やっぱり菖蒲を褒められたから嬉しいんだろうなぁ。心なしか水を飲むスピードが上がったような気がするし。

 しばらく他愛もない話に興じていたマスターは、会話の途切れたタイミングを見計らって、重国さんのとなりで小さくなっていた俺に声をかけてきた。


「ところで、君は……?」

「俺の連れだ。何の因果か、一緒に食事をすることになった。今夜は美味いものをご馳走してやってくれ」


 間髪いれず、重国さんが説明を入れた。


「紹介が遅れました。僕の名前は萩原夕貴です。よろしくお願いします」


 失礼のないように頭を下げてみる。しかし反応がない。怪訝に思って顔を上げてみると、マスターが驚いたように目を丸くして、じっと俺を見つめていた。


「……あの、どうかしましたか?」

「そりゃあ、どうかしたさ。だってしげっちゃんが」

「余計なことは言わなくていい。それよりも注文を頼みたい」


 有無を言わせぬ強い口調で、重国さんが遮る。マスターは何か言いたげにしていたが「……ま、しげっちゃんがそう言うなら」と渋々引き下がった。

 結局、俺はサーロインステーキセットを、重国さんは牛ヒレカツセットを注文した。ちなみに値段は、食前のポタージュスープとライスがついて、それぞれ千円ぐらい。ディナーとしては安上がりなほうだろう。

 マスターとその奥さんが調理を開始し、とうとう俺と重国さんの二人っきりになってしまった。まわりに他のお客さんがいるので閑散とはしていないが、誰も俺たちに干渉してこないという意味では、これは完璧なまでの二人っきりに違いなかった。きっといまの俺は、はたから見れば就職面接を受けている若者にしか見えないと思う。


「意外だったか?」


 俺とは視線を合わせずに、重国さんが口火を切った。そんなことはないです、と答えるのが正解だったのかもしれないけど、俺は馬鹿正直に頷くほうを選んだ。重国さんとは、菖蒲の父親であるこの人とは、本音で語り合いたいと思ったから。そのために重国さんは、俺を食事に誘ってくれたと思ったから。


「……はい。正直に言えば意外でした」

「だろうな」


 なにかを思い出すように目を細め、続ける。


「ここは、俺がお前と同じぐらいの年齢のときから通い続けている馴染みの店だ。それこそ瑞穂と――菖蒲の母親と出会うよりも前からな」


 聞くところによると、いまのマスターは二代目で、重国さんは先代が腕を振るっていたときからの常連客だという。

 まだ学生の頃、ちょっとした気まぐれで入った店の味を気に入り、定期的に通うようになった。いきなり「わたしは絶対に貴方となんて結婚しないからね!」と怒鳴りつけてきた見知らぬ女性と、未来に翻弄されるようにして愛し合うようになると、よくこの店でディナーを食べた。いつしか娘が生まれると、その愛らしい我が子を自慢するように、やはりこの店に足を運んだ。

 絶賛するほど美味いわけじゃないし、大した人気があるわけでもない。近場では隠れた名店として知られているらしいけど、それが重国さんを虜にするだけのアドバンテージになるかと聞かれれば、答えは否だ。

 それでも。それでもこの店には、高臥重国という人間が歩んできた軌跡があって、かけがえのない思い出がたくさん詰まっているんだ。


「夕貴」

「えっ? あっ、はいっ」


 唐突に下の名前で呼ばれて、俺は裏返った声を上げてしまった。

 それを気にした様子もなく、重国さんは言う。


「望むとも、望まざるとも、お前が誰かの上に立つような人間になったのなら――まずは膝をかがめて、下を見ろ」


 なんの脈絡もない話だったが、それでも俺は真剣に耳を傾けた。

 膝をかがめて。

 下を見る。

 例えば――会社を経営する人間が、社員の意見にもきちんと耳を傾けるような人だったら、雇用される側も嬉しいよな。

 つまり。


「……目線を合わせるってこと、ですか?」

「ああ、そうだ」


 俺の答えに満足したのか、重国さんは珍しく機嫌のよさそうな顔をした。


「他者の意見に耳を傾けるのは簡単だろう。その中から優れたアイデアを見つけるのも、採用するのも、実用化するのも容易だ。しかし、人は誰かの上に立つようになると、社会的に弱い地位にいる者と目線を合わせることを嫌うようになる。それでは駄目だ。分かるか?」


 その言葉を脳裏で反芻し、きっちりと理解してから、俺は頷いた。


「保育士は、小さな子供と話すとき、自然と膝をかがめて目線を合わせるようにする。なぜか。そうしなければ子供が言うことを聞かないからだ。逆に言えば、目線を合わせて話しかければ、物心がついていない子供であろうとも意思疎通ができる。これは社会でも同じだ」


 ゆっくりと、低いトーンで紡がれる声には、不思議な説得力がある。

 この人の言うことなら間違いないと、頭ではなく心が信じてしまうのだ。

 それは恐らく、重国さんが俺と目線を合わせているから――だろう。


「勉強になります。今日は僕のために貴重なお話を聞かせてくださり、本当にありがとうございます」

「礼はいらん。お前が恥をかいて被害を被るのは、他の誰でもない菖蒲だ。俺は菖蒲のためを思って動いているに過ぎん」

「菖蒲……ですか」


 俺たちは揃って、壁にかかっているポスターを見た。


「あれも瑞穂に似て、美しく成長した。親の欲目を承知で言うなら、菖蒲は日本で最も愛らしい女子だろう」

「違いますよ」


 親馬鹿とも取れる重国さんの発言を、俺は即座に否定した。ギロリ、と明らかに不機嫌そうな目を向けられる。


「それはどういう意味だ。俺の娘に不満でもあるのか、お前は」

「いいえ、僕が不満なのは重国さんの言葉です」


 これだけは自信を持って言える。


「いいですか? 菖蒲は日本一可愛いのではありません」


 俺は胸を張った。


「菖蒲は、世界一可愛いんですよ!」

「――っ!?」


 どんなときも冷静沈着だった重国さんの瞳に、驚愕の色が混じった。がたっ、と椅子を動かして、俺と正面から向かい合った重国さんは、神か悪魔を見たような畏怖した声で、


「貴様……天才か?」

「え?」

「まさかお前が、菖蒲の美貌をここまで正しく認識しているとは夢想だにしなかった。それに比べて俺は親失格だな。菖蒲の愛らしさを日本という小さな島国ごときに収めてしまうとは……」


 重いため息をつき、重国さんは俯いてしまった。

 ……まさか。

 俺を出会い頭に殴り飛ばしたことといい、いまこうして落ち込んでいることといい、この人は菖蒲が絡むとまわりが見えなくなるんじゃないか?


「げ、元気を出してください! ほらっ、菖蒲の声を思い出してみてくださいよ!」

「菖蒲の声、か」

「そうです! あの水のせせらぎのように澄んだ声を持つのは、世界を探しても菖蒲しかいませんよ! 菖蒲の声を聞くだけで、不思議と元気が沸いてきますし!」

「……確かに、お前の言うとおりだ。あれは菖蒲が生まれてから四年と九十八日と十三時間ほど経った頃の話だが、とある些細な案件から苛立っていた俺は、菖蒲の『お父様と結婚するにはどうすればいいのですか?』という一言により、不思議と笑顔になったものだ」


 どこまで詳細に覚えてんだ、この人は……。

 よほど菖蒲から言われた一言が嬉しかったんだな。


「で、ですよねっ! それにほら、菖蒲の雰囲気も素晴らしいとは思いませんか? そばにいるだけで安らぎますよね!?」

「いいや、安らぐどころではない。菖蒲がとなりにいるだけで無限の気力が沸いてくると言っても過言ではないだろう。違うか?」

「違いません! 重国さんの言うとおりだと思います!」


 俺が満面の笑みで同意すると、重国さんは楽しげに唇を歪めた。見つめ合って、通じ合って、認め合う。それは例えるなら、赤い夕日に照らされた河川敷で拳を交えた男たちの間に流れるような空気だった。


「……やはり、お前は稀有な才能を有する男だったようだ。ここまで話が分かるとはな」

「まだまだですよ! 正直に言って、僕はまだ菖蒲の魅力を語りきっていません!」

「面白い。お前という男から見た『高臥菖蒲』という女を、俺に聞かせてみろ」

「もちろんです。でも、重国さんから見た『高臥菖蒲』という女の子も、僕は聞いてみたいです」


 重国さんは僅かに目元を和らげた。その顔は、思わず息を呑むほど菖蒲と重なって見える。


「いいだろう。瑞穂や参波にも話したことのない菖蒲の素晴らしさをお前に教えてやる」


 何かの決めゼリフのようだった。この二人っきりの食事会で改めて思い知らされたことは、重国さんが菖蒲のことを溺愛している、という事実だった。






 午後十時過ぎ。

 大勢の人で賑わう夜の繁華街を、俺はひとりで歩いていた。すでに重国さんとは別れている。本当なら車で送ってもらうこともできたのだが、さすがにそれは厚かましいような気がして遠慮したのだ。


「……ん?」


 ふと、ポケットに振動を感じた。携帯電話を取り出してみると、案の定、誰かからメールが入っている。確認してみると、それは菖蒲からだった。

 そういえば一日の終わりに連絡してくれるって言ってたっけ。なんかメールって新鮮だな。ちょっと……いや、かなり緊張するぞ。実を言うと、俺と菖蒲はいつも一緒にいたので、ほとんどメールをしたことがなかった。する必要性がなかった、と言い換えても間違いじゃない。

 俺は、かの女優『高臥菖蒲』はどんなメールを打つのだろう、一ファンとしてワクワクしながら――


「…………」


 なんだこれ。文頭が『謹啓、愛しの夕貴様へ』から始まって、文末が『謹言』で終わってるんだけど。たかがメールを送るだけなのに畏まりすぎだろ、菖蒲のやつ。俺たちは気心知れた間柄なんだから、こんな丁寧な文章じゃなくてもいいのに。

 さらによく見れば、なにかの画像が添付されているようだった。菖蒲の馬鹿丁寧な文面に呆れていた俺は、大して期待せずに添付ファイルを開く。


「――っ!?」


 どくん、と心臓が跳ねる。かあ、と顔が熱くなるのが分かる。

 携帯の液晶に映っているのは――気恥ずかしそうに目をつむり、こちらに向けて瑞々しい唇を突き出す菖蒲の顔だった。まあ、いわゆる一つのキス顔というやつである。

 ほんのりと赤くなった頬を隠そうともせず、まるで遠く離れている俺に想いを伝えようとするかのように、菖蒲はとんだサプライズ写真を送ってきてくれた。

 もう一度、彼女が送ってきたメールをじっくり読み返してみると、『夕貴様に、早くお会いしたいです』という一文が見受けられた。いや、もっと下には『夕貴様のフレンチトーストが……』とか、『夕貴様の腕の中に……』とか、『夕貴様が菖蒲以外の女性と懇意になってしまわれないか心配で……』とか、色々と書いてある。

 ていうか、菖蒲のキス顔が爆弾クラスの破壊力を有していて、見つめているだけで唇が緩んでしまう。まあ速攻で待ちうけにしたけどなっ! 

 この画像をオークションに売り出せば、一体どれほどの高額で落札されるのか……もちろん誰にも渡さないけど。

 ……いや、待てよ?

 これって、菖蒲が勇気を出して俺にキス顔を送ってきてくれたんだから、俺のも送らないといけない感じのノリじゃないか?

 でもなぁ。

 菖蒲のやつ、俺のキス顔をゲットしたら、絶対に待ちうけに設定するだろうしなぁ。

 人様のあられもない写真を待ちうけにする奴がいたら、そいつはきっと鬼畜さんに違いないのだ。

 俺は自分の正論に頷きながら、菖蒲の待ちうけ画像を見つめつつ、返信するメールの文面を考えていた。

 そのとき、ガァン、ガァン、と短い破裂音が、連続して聞こえたような気がした。


「……なんだ?」


 立ち止まって、あたりを見回してみる。しかし、周囲の人たちには何も引っかかるものがないらしく、不審げな顔をしているのは俺だけだった。

 ……気のせい、か?

 そう片付けてしまうのが正解だろう。

 でも、あの耳に馴染みのない、何かが炸裂するような音が、頭にこびりついて離れない。

 自分でも上手く言葉にできないが、とにかく嫌な胸騒ぎがする。

 人間の勘は、俺たちが思っている以上に論理的な作業であり、信頼に足るものだ。決して侮ってはいけない。

 とは言え、ちょっと変な音を聞いたぐらいで警戒心をあらわにするのもバカらしい。これが住宅街ならまだしも、ここは繁華街なのだから、俺の知らないところでクラッカーが鳴らされていてもおかしくない。今頃、近くの居酒屋で誕生日パーティーでもやってるのかもしれないし。

 無理やり自分を納得させた俺は、そこはかとなく周囲に視線を巡らせながら、家路を急いだ。  

 それは歩き始めて、およそ一分ほどしたときのことだった。

 どんがらがっしゃーん、と。

 今度は、近くの路地裏からゴミ箱を盛大にひっくり返したような音が聞こえてきた。

 なんだなんだ、と思いつつも、路地裏を覗き込んでみる――すると、そこには一人の少女が、ゴミ箱を盛大にひっくり返したような光景の中に、転がっていた。


「…………」


 無視したい。

 めちゃくちゃ無視したい。

 ぶっちゃけると、これが酔っ払った成人男性だったのなら見なかったことにもできたが、若い女の子が相手だとそうもいかない。ただでさえ暗い通りなのだから、誰かに襲われないともかぎらないし。なにより母さんから『困っている女の子を見かけたら、夕貴が助けてあげてね』と口を酸っぱくして言われているのだ。

 ため息一回分だけ思考した俺は、華やかな表通りから外れて、人気のない路地裏に足を踏み入れた。

 残飯や余った食材が散らばっているところを見るに、あの中身がぶちまけられたゴミ箱は、きっと付近の飲食店が利用しているものなんだろう。

 饐えた臭いが鼻腔を刺激する。

 俺は口で呼吸しながら、片膝をついて蹲る少女に声をかけた。


「……大丈夫か?」


 自分でも情けないぐらい小さな声。


「……?」


 すると、少女は怪訝そうに顔を上げる。

 その少女は――どこか触れがたい鋭利な美しさを持っていた。

 鏡のような艶やかさを持った長い黒髪は、後頭部の高い位置で一房に結わえられ、尻尾のように腰の下まで真っ直ぐに伸びている。

 まだ踏まれていない新雪のような肌は、白磁を連想せずにはいられないほど白く透き通っていた。

 こちらを見つめる切れ長の瞳は、しかし精彩がなく、どこか気だるげに見える。左目の下にある寂しげな泣きぼくろが、何とも言えない憂いを湛えており、少女の美貌を引き立てていた。

 ほんのりと朱に色づいた唇。すっきりと通った鼻筋。小柄ながらも引き締まった肢体――どれを取っても欠点はなく、一つのパーツとして完成していた。

 年齢は、恐らく菖蒲と同じぐらいだろうか。少なくとも俺より年上には見えない。

 上は黒のタートルネック、下は黒のデニムという、まるで闇に溶け込むかのような出で立ちで、少女は夜に君臨している。

 俺たちは何をするわけでもなく、ただ見つめあっていた。


「いたぞぉ! こっち来いやっ!」


 路地の向こう――奥まったところから、巻き舌の怒声が聞こえてきた。

 俺と少女が同時に振り向くと、そこには派手なスーツに身を包んだ男性が二人、立っていた。遠目でも殺気立っていることが分かる。明らかに堅気ではない人たちだ。

 混乱する俺をよそに、彼らはふところに手を突っ込んで――拳銃を取り出した。そして、ためらいもなく俺たちに銃口を向けてくる。


「……逃げて」


 現実逃避しかかっていた意識を呼び戻す、鮮烈な声。

 それは危機感を覚えていないような抑揚のない口調だったが、少女の強い意志の篭った瞳が、俺に『逃げろ』と促してくる。

 よく見れば、彼女の顔は辛そうに歪み、額には脂汗が滲んでいた。押さえた腕から真っ赤な血が滴っているところを見るに、ほぼ間違いなく、この少女は負傷している。

 状況から見て、さきほどの破裂音は銃声で、この子が撃たれたもの……だろうか?

 とりあえず悠長に思考している場合じゃなさそうだ。


「足を撃て! あの牝ガキが生きてさえいりゃいいんだ! 絶対に逃がすな!」


 屈強な体、温厚とは言いがたい形相、黒光りする拳銃――なるほど、恐らくは暴力団の人間だろう。

 彼らは、まるで何かに取り憑かれているような必死さで、例の少女を狙っていた。

 間もなく、トリガーが引かれる。


「くそっ!」


 考えてる場合じゃない!

 ナベリウスに教わったことを脳裏で反芻しながら、右手を前に突き出す。

 普段は体内で抑えている《悪魔》の因子を開放し、己の肉体に作用させる。

 溢れる高揚感、高まる身体能力、研ぎ澄まされていく五感、活発化した脳の情報処理。まるで世界が変革したかのような錯覚に陥るが、この場合、変わったのは世界ではなく俺だった。

 夜気を切り裂くような高音がして、強烈なマズルフラッシュが明滅する。それと合わせて、人体を軽く穿てるほどの威力を持った四発の弾丸が、高速で飛来してきた。

 網膜から取り込んだ映像を綿密に解析し、弾丸を見切る。


 ――いける!


 確信を抱くと同時、俺はDマイクロ波を一気に開放した。キン、キン、と何かに弾かれるような音がして、そのたびに、強力な運動エネルギーを有していた銃弾が、魔法のように俺たちから逸れていく。

 まだ弾き返すような芸当は無理だが、弾の軌道をずらすことはできるようだ。ぶっつけ本番だったので心配だったけど。


「……な、なんだっ?」


 事態を飲み込めず、呆然と突っ立っている男たちに向けて、俺は走り出した。


「舐めんなよクソガキぃ!」


 男たちは顔を真っ赤にして銃を構える。

 しかし、拳銃とは意外に当たらないもので、対人用として殺傷が期待できる有効射程距離は五十メートルほどだが、実際に多く使用される距離は二十メートル程度で、プロフェッショナルの人間が平均的に使用する距離ともなると実に七メートル前後にまで落ちる。

 訓練を受けたプロの傭兵ならまだしも、拳銃をちらつかせて威張るだけの暴力団構成員が、俺という『近づいてくる標的』に弾を当てるのは不可能と言っていいはず。

 しかも、発砲するためには『構える』、『照準を合わせる』、『トリガーを引く』という三つの動作を流れるように行わねばならない。このうち一つでも欠ければ、拳銃は殺傷兵器として機能しない。

 男たちが『構えた』ときには、もう俺は彼らのふところに潜り込んでいた。


「こんの野郎ぁ!」


 一人の男が闇雲に発砲する。しかし、正しくシークエンスを完了させずに射撃した結果、弾は斜め上に発射されていき、夜空の向こうに消えていった。

 発砲の反動で手首が上がる――その隙を見逃さず、俺は男の腕を蹴り上げた。拳銃が空高く舞い上がり、夜の黒と同化して見えなくなる。


「ちっ……!」


 だが、相手も暴力を生業とする人間だけあって、次のアクションが早い。

 男は得物を失っても戦意を喪失せず、ラリアットするように大振りのパンチを繰り出してきた。

 それを屈んでかわし、腹の右上、ちょうど肝臓のあたりを掌底で打つ。内臓にダメージを与えるのなら、拳よりも掌底のほうが効率的だ。そも肝臓とは、人体急所の一つ。的確に打たれれば激痛を伴う。それを証明するように、男は膝からくずおれた。

 しかし、安心するのはまだ早い。


「――ふっ!」


 鋭い呼気とともに、もう一人の男がナイフを突いてきた。

 さっきの男と違い、こっちの男は頭がよさそうだ。接近戦ならば拳銃よりもナイフのほうが断然使えるし、俺みたいな一般人には常識の範囲外である”拳銃”よりも、日常で使用している”刃物”のほうが、本能的な恐怖感が強く、先端を向けられると動きが鈍ってしまうことがある。

 喧嘩慣れした動き。

 暴力を振るうことに躊躇いのない身のこなし。

 的確にナイフを振り回してくる男は、かなり荒事に馴染んでいるようで、分かりやすい隙がなかった。

 でも俺に『金属』は効かない。

 萩原夕貴という人間――あるいは《悪魔》と呼んだほうがいいのかもしれないが――には《ハウリング》と呼ばれる異能がある。


「――っ?」


 意図せずに生じた耳鳴りにより、男が顔をしかめる。ナイフが見えない糸に操られるように、男の手から飛んで、離れたところにある地面に落ちた。


「――なん」


 ありえない事象を目の当たりにして、男に『分かりやすい隙』ができた。それを見逃さずに放った上段回し蹴りが、男の側頭部にヒットする。

 二人目の男が倒れるのと同時、空から、さきほど俺が上空に蹴り飛ばした黒塗りの拳銃が降ってきた。

 しーん、と静まり返る。

 残心する余裕もないので、俺はすぐさま少女に振り返り――


「そこ動くなやぁ!」


 静寂は許さない、と言わんばかりの大声で、さっきの男たちとはべつの男たちが路地の奥から駆け寄ってくる。


「……マジかよ」


 頭を抱えて蹲りたい気分だった。

 次から次へと湧き出てくる暴力団構成員は、あの少女を狙っているらしく、俺には目もくれない。


「おいっ! 逃げろ!」


 一喝した。

 少女は気だるそうに立ち上がるが、腕を負傷し、血が抜けて貧血状態になっているらしく、身体がふらついていた。

 不思議と迷いはなかった。というよりも、迷っている暇はなかった、といったほうが正しい。俺は少女の小柄な身体を無理やり抱きかかえると、そのまま走り出した。


「……これ」

「うるせえ! 黙ってろ!」

「うん。分かった」

「はあ!? おまえ、なんで無駄に落ち着いてんだ!?」

「黙ってろって言われた。でも騒いだほうがいいなら騒ぐ」

「騒ぐな! いまは逃げるのが先だろうが!」

「うん。逃げぴこ、逃げぴこ」

「なんだその呪文は!?」

「”逃げる”を今時風に言い換えてみた。語尾に”ぴこ”をつけることで緊迫なイメージが薄れるという寸法。これ、きっと流行る」

「なんだこいつはぁぁぁぁ!?」


 なんとも間抜けな逃走劇だった。

 

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