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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
弐の章 【御影之石】
31/74

2-1 相思相愛


 五月の下旬にもなってくると、昼間は温かく、夜は肌寒くなってくる。いわゆる季節の節目というやつだろう。人間が最も体調を崩しやすい時期だ。

 暦が四月に変わると同時に母さんが実家に遊びに行ってしまったため、俺は萩原邸に一人ぼっちで留守番していた。でも四月の初旬には憎たらしい銀髪悪魔が出没し、四月の下旬には可愛らしい予知っ娘が訪問してきたせいで、いまとなっては萩原邸も賑やかなものだった。


「夕貴様。課題が終わりましたので、見ていただけますか?」

「おっ、もうできたのか」


 俺と菖蒲がいるのは、一階にある客間の一つだった。まあ現在は菖蒲に私室として使ってもらっているので、客間という表現は正しくないかもしれない。壁に取り付けられたハンガーには、黒を基調としたセーラー服がかけられている。この客間は庭と面しているので、よく風が通る。開けた窓から入り込む風が、スカートの裾をひらひらと揺らしていた。

 部屋の中央には折りたたみ式の丸テーブルが鎮座していて、それを挟み込むように俺と菖蒲が座っている。テーブルの上には温かい紅茶の他に、所狭しとプリントやノートや教科書といった勉強道具が並んでいた。

 率直に言えば、俺は菖蒲に勉強を教えていた。まあ金のかからない家庭教師みたいなものである。大学生のアルバイト先として家庭教師はよく聞くし、俺が菖蒲に勉強を教えるのは自然だろう。

 外出するときは今時の女の子のように大胆な服を着ることもある菖蒲は、しかし、本当は丈の長いロングスカートのほうが好みらしく、家にいるときはゆったりとした服を着ていることが多い。いまの彼女は、どこからどう見ても深窓のお嬢様だ。


 俺は彼女から受け取ったプリントを採点していく。この場合における”課題”とは、学校が課した宿題にあらず、俺が参考書などを元に作成した勉強用の小テストみたいなものだ。プリントには、びっしりと数学の公式が書き込まれていた。女の子にありがちな丸まった文字じゃなく、やや大人びた筆跡である。

 今日はこれでノルマは終わりだった。

 礼儀正しく正座していた菖蒲は、ようやく膝を崩して、女の子座りをした。彼女はその楽な姿勢のまま、俺が自室から持ってきた高校時代の教科書やノートを興味深そうに見ている。いままで菖蒲が頑張っていたのだから、今度は俺が集中する番だった。

 半分ほど採点が進んだとき、菖蒲が何かを思い出したようにぽんっと手を合わせた。


「そういえば夕貴様。お父様とお食事に行くのは、明日でしたよね?」

「えっ、明日だっけ?」

「明日ですよ。間違いありません」

「い、いやぁ、たしか一週間後ぐらいじゃなかったっけ?」

「明日です。夫のスケジュールを管理できない妻がどこにいますか。菖蒲に間違いはないのです」

「……そっか。とうとう俺の命日がやってくるのか」

「あの、夕貴様。ご冗談だとしても、命日などと不吉なことは口になさらないでください」


 唇を尖らせる菖蒲は、わりと本気で怒っているように見えた。でも恐るべきことに、明日が本当に俺の命日になる可能性も否定できないので、笑って謝罪することはできない。

 事の起こりは、二週間ほど前、俺が重国さんからディナーのお誘いを受けたことに帰結する。もちろんそれは光栄なんだけど、ここで問題は、その楽しいはずの食事会が、なぜか俺と重国さんの二人きりで行われること。

 きっと目玉が飛び出るような高級料理を食べに行くのだろう。ただでさえ俺は正式なマナーに自信がないのに。これは暗にイジメられているのだろうか、と被害妄想が生まれてしまう。

 明日から菖蒲は、数日間だけとはいえ萩原邸を離れてしまうのだ。ゆえに食事会には参加できない。学業に慣れ、私生活が落ち着き、新しい環境に順応した菖蒲は、休止していた女優業を再開した。映画やドラマといった、数ヶ月単位で時間を縛られるような仕事は断っているそうだが、テレビの出演、雑誌の撮影など、比較的拘束される時間の短い仕事は請けるようになった。

 ちょうど明日から、いくつかの仕事が連続しているらしく、菖蒲は向こうに泊り込む。ちなみに女優『高臥菖蒲』のマネージャーは、高臥家の家令を務める参波清彦さんである。運転手とボディーガードも兼ねているらしい。

 つまり俺と重国さんが楽しく(だったらいいな……)食事をしている頃、菖蒲と参波さんは揃って都心のほうに赴いているってことだ。

 せめて菖蒲がとなりにいてくれれば頑張ろうという気にもなるのだが……。


「大丈夫ですよ、夕貴様。過密なスケジュールですので頻繁に連絡を取るのは難しいと思いますが、定期的に近況をメールします」


 電話ではなくメールします、と言ってる時点で、菖蒲の忙しさが分かろうというものだ。


「……分かった。ちゃんとメールしてくれよ?」

「もちろんです。夕貴様も、ちゃんと返信してくださいね?」


 女々しく寂しがる俺を見て、菖蒲は『しょうがないなぁ』みたいな笑顔を浮かべた。やはり見ているだけでも胸焼けしそうなバカップルが、そこにはいた。


「……言い忘れておりましたが」


 採点が佳境に入った頃、菖蒲がぽつりと漏らした。


「どうした? そんなに改まって」

「いえ、それほど差し迫った案件でもないのですが……参波曰く、ここ最近、この街に不穏な動きがあるとか。ですので、夕貴様もご留意なさってください」

「不穏な動き? 具体的には?」

「分かりません。ただ、その……暴力団、の方々の間に、小規模の抗争が起きていると聞いております。表沙汰にはなっておりませんが、すでに死者の方も出ているという話です」


 死者が出るほどの抗争か。ニュースになっていないところを見ると、この件が明るみに出ると困る人間がいるってことなんだろうな。


「明日、夕貴様がお食事に赴かれるのは繁華街にあるお店です。……正直、菖蒲は心配でなりません」


 俺は詳しく知らないのだが、繁華街には暴力団の事務所がいくつかあるらしく、この抗争が勃発している時期に進んで行くのはあまり賢い選択ではないという。


「お父様のことですから、きっと日時を変更したりはしないでしょう」

「そっか。まあ重国さんは多忙な人だし、もう一度スケジュールを合わせるのも難しいんだろうな」

「仰るとおりです。でも、それとこれとは別の話と言いますか……もし、夕貴様の身に何かあれば、と考えるだけで、菖蒲は途方もない不安に駆られます。絶対に、ご無理だけはなさらないでくださいね?」

「無理なんかしないよ。だからさ、そんな悲しそうな顔しないでくれ」

「……約束ですよ?」

「ああ、約束する」


 いまだ釈然としない様子だったが、それでも菖蒲は頷いてくれた。俺としても、怪我だけは絶対に避けたい。そろそろ大学のほうも、七月に予定されている期末試験に合わせて忙しくなってくる。だから、この時期に講義を休むのは学生にとって痛手なのだ。

 ……そういや大学で思い出したけど、託哉のやつ、ここ最近ずっと休んでるよな。まあ託哉は昔から意味もなく学校を数日続けて休んだりする馬鹿だったし、さほど心配はしていない。ただ一切の連絡がつかないってのは珍しいんだけど……。

 頭の隅でぼんやりと思考しながら、俺は課題の採点を終えた。多少のケアレスミスを除けば、それ以外は満点と言ってもいい結果。愛華女学院は県内でも上位に位置する偏差値なので、そこの生徒である菖蒲の成績も元から優秀だった。本来ならば俺が勉強を教えなくてもいいのだけど、女優という職業柄、今回のように長期間授業を欠席さぜるを得なくなることもあるため、こうした家庭教師も必要となってくるのだ。


「採点終わったぞ。あとで見直しして――」


 プリントを手渡そうとしたところで、菖蒲が読書に夢中になっていることに気付いた。


「なに読んでんだ?」


 わざわざ立ち上がり、菖蒲のとなりに移動した。彼女は目元を和らげて、身を寄せてきた。ふんわりとした甘い匂いが、鼻腔をくすぐる。廊下とかですれ違うだけでもいい匂いがするもんな、菖蒲って。


「夕貴様が持参なさった理科の教科書です。こういうものを見るのは久方ぶりなので、つい読みふけってしまいました」

「なんか恥ずかしいな。それ、俺が小学生のときの教科書だぞ」


 俺は教科書を覗いた。


「……懐かしいな。火成岩か」


 本当に懐かしい。火成岩とか、火山岩とか、深成岩とか。ガキの頃は、その無駄に格好いい名前にテンションが上がったもんだ。まあテストのときは覚えるのが面倒でテンション下がったけど。


「夕貴様。この火成岩の名前、分かりますか?」


 悪戯っ子のような笑みを浮かべて、菖蒲が俺を見上げてきた。見れば、教科書の一部が手で隠されている。ちょうど岩の写真の下部が見えなくなっているわけだが、そこにクイズの答えが書かれているのだろう。しかし偶然にも、俺はその火成岩を覚えていた。


「ああ。それは確か……花崗岩かこうがんだったかな」

「さすが夕貴様ですね。大当たりです」


 なぜか嬉しそうに微笑み、菖蒲は手を退けた。記されていたのは『花崗岩』の三文字。正解だった。俺は調子に乗った。


「花崗岩ってのは、石垣とか石橋にも使われるぐらい綿密で硬い石材なんだぜ」

「そうなのですか? さすが夕貴様です……」


 きらきらと瞳を輝かせる菖蒲。


「まあ花崗岩ぐらい誰でも分かるよなぁ。小学生レベルの問題だし」

「……申し訳ありません。菖蒲は夕貴様の妻に相応しくないようです。花崗岩も覚えていませんでした」

「ああっ、違う! いまのは違う! だから落ち込むな!」


 がっくり、と肩を落とす菖蒲。速攻で地雷を踏んだ俺だった。それから俺たちは勉強道具を片付けた。





 日が落ちても、繁華街は祭りのような喧騒で満ちていた。このあたりには数えるのも億劫になるほどの居酒屋やバーやクラブがあるし、他にもカラオケ、ゲームセンター、ボーリング場などといったアミューズメント施設がそこかしこに点在している。

 さきほどから仕事帰りのサラリーマンが同僚と連れ立って居酒屋に入っていくのを何度も見かけるし、表通りには周辺店舗のキャッチマンが過剰なまでの大声で、それぞれせめぎ合うようにして行き交う人々にセールストークを振りまいている。実に賑やかだった。

 俺は一人、小さなメモ用紙を手に、煌びやかなネオンで彩られた繁華街を歩いていた。その紙には見慣れぬ住所が明記されており、俺はそこに向かって黙々と歩いているわけなのだが。


「……やばい」


 背中に嫌な汗が流れる。

 今朝、菖蒲が女優としての仕事を果たすために都心のほうに出発した。その際、彼女が「これがお父様の指定したお店です。絶対に遅刻はなさらないでくださいね」と言って、俺に渡してくれたのが例のメモ用紙。この繁華街には多種多様な店舗があるものの、基本的な価格帯はリーズナブルで、重国さんが通いそうな高級店はないと思うのだが。

 しかも、あまり繁華街の地理に詳しくない俺にとって、”住所”という簡素な情報だけを頼りに目的地に向かう、と言うのは少々難しい。そもそも色んな店が密集しているせいで、このあたりは複雑なのだ。とてつもなく分かりにくい。

 俺が家を出たのは、午後七時。約束の時間は、午後八時。萩原邸から繁華街まで徒歩で二十分ほどだから、かなり余裕を持って家を出たはずなんだけど、道が分からない。


「……はぁ」


 途方に暮れるしかなかった。そろそろ本格的にまずい。マジで今日が俺の命日になるんじゃねえか、これ。

 わりと真剣に遺言を脳内でしたためながら、俺は肩を落としてとぼとぼと歩いていた。正面から勢いよく誰かがぶつかってきたのは、そんなときだった。


「おっと!」

「痛っ」


 二人揃って体が傾ぐ。かなり強い衝撃だったのだが、咄嗟に足を踏ん張ったおかげで転ぶことはなかった。接触した箇所を手で押さえながらも、俺は前を向いた。


「いやぁ、悪かったね。ちょっと急いでたもんだからさ。いまのは僕の不注意だ」


 そこにいたのは、よれよれの背広に身を包んだ三十代後半ぐらいの男性。

 特筆すべきほどの容姿ではないけれど、あえて言うなら、無造作に伸びた黒髪と顎まわりの無精ひげが目立つ。よく見れば整った顔立ちをしているが、口元に浮かぶ締まりのない笑みが、どこか頼りない印象を彼に与えていた。

 失礼な言い方をすれば、うだつの上がらなさそうな男性に見えた。きちんと身だしなみを整えれば有名商社の面接担当官にも好印象を与えられるだけの素材を持っているとは思うのだが、それをわざと台無しにするように、彼は容姿に気を遣っていない。

 その胸元には、社会人の装いに相応しくない、安っぽそうなペンダントが揺れていた。やや歪なかたちをした石が、チェーンに繋がれている。


「大丈夫かい? ちょっと強くぶつかっちゃったようだけど」


 右手で頭をかきながら、彼は申し訳なさそうに苦笑した。まだ出会ったばかりなのだけれど、俺はすでにこの男性に好感を抱いていた。パッとしない風貌だが、それを補って余りある柔らかな空気を彼はまとっているのだ。偏見が許されるのなら、きっと彼は、家では優しい父親をやっていると思う。


「あぁ、はい。大丈夫ですが」

「それはよかったよ。僕の不注意で人様に怪我させたとなったら、娘が泣くからね」


 俺のイメージどおり、彼は父親だったらしい。間もなく彼はその場で膝を折り、アスファルトに右手を伸ばしたかと思うと、そこから手品のように一枚の紙を取り出した。


「これ。落し物だよ」


 紙に付着した微かな汚れを落としてから、それを右手で手渡してくる。メモ用紙だ。どうやら衝突した際に落としてしまっていたらしい。軽く頭を下げて、紙を受け取る。


「わざわざ拾っていただいて、どうもありがとうございます」

「いいさ、元はといえば僕が悪いしね。そんなに畏まらないでもいいよ」


 言って、彼は右手で頭をかいた。

 ……あれ?

 なんか言葉にできない違和感があるような。

 これまでの記憶を振り返ってみる。

 彼が頭をかくとき、メモ用紙を拾うとき、メモ用紙を手渡すとき――そのすべての動作を、彼は右手だけで行っていた。

 よくよく見てみれば、背広に隠れて分からなかったが、彼には左手がなかった。


「……ああ、これかい?」


 俺の不躾な視線に気分を害することなく、彼は鷹揚と笑みを浮かべた。


「ちょっとした不注意でね。もう慣れたよ。とっくの昔にね」

「……すいません、じろじろと見てしまって。俺の配慮が足りませんでした」

「謝らなくてもいいさ。ただ僕みたいな障害を持った人間からすれば、君みたいな健常者から、そういう腫れ物に触れるような態度で接せられることが一番の苦痛なんだってことは知っておいてほしいな」

「……分かりました。憶えておきます」

「うん、素直でいいね。僕の娘も、君ぐらい人の話を聞く子だったらよかったんだけどね」


 口ではそう言いつつも、彼は誇らしげだった。なんだかんだ言っても自分の娘を愛しているのだろう。

 本音では、もう少し彼と話をしていたかったのだが、さすがに時間が圧迫していた。あと十分で俺の死亡推定時刻――じゃなかった、午後八時になってしまう。

 しかし、偶然とは面白いものだ。駄目元で彼に、メモ用紙に記された住所について聞いてみると、思わず涙しそうなほど素晴らしい答えが返ってきた。


「ああ、そこなら知ってるよ。かなり近いね。ここから徒歩で五分、走れば三分かからないよ」


 これで俺が重国さんに殺されることはなくなりそうである。しかも彼は、ぶつかったお詫びにわざわざ案内してくれると言うのだ。もうこの男性が神様に見えてきた。

 重国さんとの待ち合わせ場所に近づくと、彼は「じゃあ僕の役目は終わりだね。君と出会えてよかったよ」と最後に言い残し、人ごみの中に消えていった。わざわざ俺を案内する余裕があったわりには、かなり急いで走り去っていったのが謎と言えば謎だった。

 なんにせよ、ギリギリ時間には間に合ったのだから、俺の命日も先延ばしにされたはずだ。


「遅かったな。まさか迷子になっていたわけでもあるまい」


 とてつもなく不機嫌そうな声。店先に佇んでいたのは、夜を従えるような存在感を持ったスーツ姿の男性。どこか菖蒲と似ているその人は、十六歳の娘がいるとは思えないほど若々しく、まるで俳優のように格好いい。


「言い訳ならあとで聞こう。まずは俺についてこい」


 …………。

 やっぱり、今日が俺の命日になるかもしれない。



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