1-15 在りし日の想い
高臥菖蒲の救出及び犯人グループの制圧を目的とした作戦は、まあ紆余曲折はあったものの、無事に終わりを告げることになった。
誘拐を企てた六人の男たちは、それぞれ入院が必要になるほどの怪我を負っていたが、命に別状はないという。
もしかすると、あいつらは社会的に抹殺されるんじゃ……? 俺は微妙に心配していたのだが、どうやら高臥重国という人の器は空よりも大きく、海よりも深いらしい。
「貴重な労働力を無駄にはできん。菖蒲に危害を加えたことは許せんが、かといって奴らを抹殺しても利は生まれん。あの男たちには【高臥】監視の下、社会に貢献できるような立派な人間になるよう矯正してやる。当然、罪を償わせ、しかるべき罰を与えたあとでな」
要するに、真っ当な人間に仕立て上げてやるから覚悟してね、ということだ。
重国さんが大見得を切ったのだから、あいつらが社会復帰する頃には悪事の”あ”の文字も出ないぐらい人格が変わってしまっているかもしれないが――
それでも将来、愛する人を見つけて、子供をもうけて、孫の顔でも見たとき。いまの自分があることに感謝する日が、きっと来ると思うのだ。
そういえば、と何かのついでのように振り返るのも可哀想な話なのだけれど、俺の親友こと玖凪託哉くんは、驚くべきことに無傷だった。
喧嘩したことがない、とか言ってやがったくせに、託哉は犯人グループのうち二人も生け捕りにした。
本人曰く「いやー夕貴ちゃんにも見せたかったなー。オレの華麗なる戦闘振りを。まあぶっちゃけ、不意をついた挙句、ラッキーパンチが当たっただけなんだけどね。てへっ」とのこと。誰が夕貴ちゃんだ。
とにかく託哉が無事でよかった。あんな軽薄な野郎でも俺の友人には変わりない。でも武器を持った男二人を無力化するほどのラッキーパンチが炸裂するとか、託哉はもう明日あたりに死ぬんじゃないだろうか。運を使い果たした的な意味で。
さて。
これで事件は、一端の終結を迎える。
男らしいことだけが取り得の俺みたいな大学生には荷が重過ぎる事件だったけれど、過ぎ去ってみれば一瞬だった。自分が何をしたのかもあまり憶えていない。
でも、それでいいと思う。菖蒲が無事だったのなら、それでいいと思うんだ。
事件の二日後。
萩原邸のリビングには俺と、菖蒲と、そして重国さんの姿があった。
すでに夜の八時を回っているので、窓の外は暗く、心地のいい静けさが住宅街には満ちている。いわゆる一家団欒の時間というやつで、この時間に出歩くような人は、まあ少数派だろう。
数日前までは大規模な人数を動員していた重国さんも、事件が解決してしまえば多少は自由の身となるらしく、今日は車の運転手が一人と、黒服のボディーガードが二人の、計三人しか連れていなかった。参波さんは諸々の事後処理に追われていて、この場にはいない。
俺と話がしたい。そう、重国さんは言った。
ナベリウスに席を外してほしい、と改まって告げたところを見ると、どうやら大切な話のようだ。その証拠に、重国さんはスーツを、菖蒲は学校の制服を着ている。わざわざ正装しているぐらいだから、少なくとも世間話ではないだろう。
リビングのダイニングテーブルに腰掛ける俺の真正面に重国さんが座り、そのとなりに菖蒲が座っていた。
「まずは礼を言おう」
口火を切ったのは重国さんだった。
「参波から話は聞いた。おまえは俺の娘を救出するのに一役買ってくれたそうだな。やはり菖蒲の見る目は正しかったというわけだ」
これは褒められている……のか?
重国さんと話をするだけでも緊張するのに、感謝と賞賛の言葉まで重ねられると、ひたすら恐縮してしまう。
俺は小さく頭を下げて、なるべく気丈に言った。
「ありがとうございます。僕が役に立てたのかは分かりませんが、菖蒲を助けることができたのは自分でも誇れる結果だと思っています」
顔を上げると、菖蒲と目が合った。
誘拐されたことにより憔悴していた彼女も、病院で点滴を受け、一晩ぐっすり眠ると、なんとか元気を取り戻した。
事件自体は、およそ午後六時に発生し、午後九時半には決着という早期解決だった。つまり事件の解決が早かった分だけ、菖蒲にかかる負担も軽減されたわけだ。まだ目の下に隈があったり、笑みに力がなかったりはするけれど、日常生活に支障をきたさない程度の活力をいまの菖蒲は持っている。
俺と重国さんが大切な話をしている、と分かっているからか、菖蒲は余計な口を挟もうとしない。それでも目が合うたびに、温かな笑顔を送ってくれる。……なぜか誘拐事件が発生する前よりも、菖蒲が俺を見る目には熱が篭っているような気がしなくもないが、まあそれは差し迫った案件でもないので棚上げしておくことにする。
「さて、萩原夕貴。次に、お前を使えない男と侮蔑したことを詫びよう」
「……お父様? 夕貴様に、そのような暴言を口になさったのですか?」
重国さんの服を引っ張って、ちょっと不機嫌そうに菖蒲が言う。
「ああ、確かに言った。しかし」
「もういいです。お父様の言い訳など聞きたくありません」
ぷいっ、とそっぽを向く菖蒲。珍しく困ったような顔というか、まるで飼い主に捨てられた子犬のような顔をした重国さんは、俺の視線に気付くと、こほんと咳払いした。
「……話が逸れたな。そろそろ本題に戻ろう」
相変わらず不機嫌そうに顔を背けた菖蒲の様子をちらちらと伺いながら、重国さんは――
「お前が菖蒲を助けてくれたことには礼を言おう。しかし今後、菖蒲は【高臥】の本邸で生活させる。お前たちの逢瀬も認めん。異論はあるか」
――承諾できようはずもない事柄を、決定事項のように告げるのだった。
俺が反論しようとするよりも早く、バンっ、と鈍い音がリビングに木霊した。それは菖蒲がテーブルを叩いて、椅子から立ち上がった音。
「お父様! そんな話、わたしは聞いていません!」
顔を真っ赤にして憤る菖蒲とは対照的に、重国さんは鷹揚と構えている。
「瑞穂に教わらなかったか。淑女たる者、みだりに声を荒げるものではないと。母の忠告は聞くものだ」
「ここでお母様を引き合いに出すなんて卑怯です! わたしが聞きたいのは、そんなことじゃなくて……!」
「菖蒲。これは決定事項だ。覆す気はない」
「そんな……! わたしは!」
「俺が決めたことだ。覆らん」
「……お父様は、なにをお考えになっているのですか」
力なく着席した菖蒲は、俯いたまま搾り出すように問いかける。
「決まっている。娘を幸せにするためだ。お前に幸福を与えるためならば、俺は手段を選ばん。それだけ言えば分かるだろう」
唇を噛み締め、菖蒲は沈黙。
恐らく、反論するだけ無駄だと悟ったのだろう。いまの重国さんは、もはや父親ではなく、高臥家当主の顔をしている。こうなった重国さんは、例え愛する娘の意見でも――いや、愛する娘の意見だからこそ、耳を傾けない。
だから彼の真意を聞くのは、俺の役目だった。
「菖蒲を幸せにするため、と言いましたよね。僕には菖蒲がここに滞在したいのか、高臥家の本邸に帰りたいのかは分かりませんが」
「……わたしは」
遮るようにして、菖蒲はつぶやく。力のない声で。いまにも消えてしまいそうな、儚い声で。
「夕貴様と、一緒にいたいです」
涙で潤んだ瞳。それは明らかに重国さんの決定を悲しんでいる姿だった。しかし、菖蒲の悲哀に暮れる顔を見ても、重国さんの言葉は変わらない。
「萩原夕貴。確かにお前は娘を救ってくれた。それは認めるし、感謝もしよう。だが、お前が俺の娘を危機に晒した、という事実は変わらん」
「……それは」
「これまでの経歴を見れば、お前が優秀な男だということは分かる。しかし、俺が欲するのは英雄ではなく、菖蒲を任せるに相応しい男だ」
つまり、俺は菖蒲を任せるに相応しい男じゃないと、重国さんは言いたいのだ。
「……わたしは、夕貴様以外の殿方と結ばれるぐらいなら、生涯独り身を貫きます」
「滅多なことを言うものではない。男が女を幸せにするのが義務ならば、父には娘の幸福を願う権利がある。お前に相応しい男は、俺が見つけよう。だから頑なになるな」
「……お父様は間違っています。第一、高臥直系の女児が見る予知夢は絶対だと仰ったのは、お父様とお母様ではありませんか。わたしは夕貴様と添い遂げる未来を視たのです。ですから……」
「確かに、【高臥】の予知夢は外れた試しがない。しかし何事にも例外は存在する。お前を不幸にする未来など、俺が絶対に変えてみせよう」
重国さんの意思を変えることができるのは、重国さんが認めた男だけ。そして、俺は認められなかった。
「帰るぞ、菖蒲。まずは落ち着いた環境で、身体を癒すことに専念しろ。精神的にもダメージは残っているはずだ。この場にいても、お前の心労は募るばかりだろう」
椅子から立ち上がった重国さんは、菖蒲の手を引いて、半ば無理やり連行しようとする。菖蒲は髪を振り乱して抵抗するが、重国さんは握力を緩めない。
「嫌です! お父様、離してください! わたしは夕貴様のお側にいたいのです!」
「一時の感情に流されるな。俺はお前のためを思って言っているんだ」
「わたしのためを思うのでしたら、今すぐこの手を離してください! わたしはは、夕貴様と添い遂げる未来しか歩みたくありません!」
断固として父の決定に逆らう菖蒲を見て、重国さんは苛立たしげに舌を打ち、
「いい加減にしろ。もっと柔軟な思考を持て。いいか、菖蒲。お前が視たという、この男と添い遂げる未来など――」
――”絶対に信じるな”――
俺を失望させる一言を、口にしたのだった。
その言葉を聞いた瞬間、俺は勢いよく椅子から立ち上がっていた。父親の決定であるのなら、それは赤の他人である俺が否定していいものではないと――そんな賢明かつ臆病な考えに至っていた俺は、もう黙っていることはできそうにない。
「おい、その手を放せよ」
目上の人間に、菖蒲の父親に、高臥家の当主に、俺は言った。重国さんは菖蒲の手を掴んだまま、ゆっくりと振り返る。その眼差しは鋭く、明らかに不愉快そうだった。
「今、なんと言った」
恐ろしいまでの威圧感。それでも俺は堂々と胸を張る。絶対に悲しませたくない女の子がすぐそばにいるから。
「聞こえなかったのか。その手を放せって言ったんだよ」
「貴様。誰に口を利いているのか、分かっているんだろうな」
「当たり前だろ。俺はあんたに話しかけてんだよ、重国さん」
「いい度胸だ。一応聞いておくが、それは俺が誰であるのか知った上での言葉なのだろうな?」
「知らないわけねえだろ。知らなかったら、こんな口は利けねえよ」
「よく言った。この高臥家当主、高臥重国に」
「違うだろうがっ! 俺は高臥家の当主様なんかと話してねえよ!」
重国さんの名乗りを聞いて、俺は心底失望した。視界が赤く染まる。憤怒が湧き上がってくる。この抑え切れない怒りを発散するために、この馬鹿な男の目を覚ますために、俺は腹の底から叫んだ。
「俺が話してるのは、”菖蒲の父親”としてのあんただろうが!」
「…………」
息を呑む気配。重国さんのとなりでは、菖蒲が瞳に涙を浮かべて俺を見ていた。
「さっきから黙って聞いてりゃ独りよがりなことばっかり言いやがって! あんたみたいな男が、どうして娘を幸せにできんだよ! なにより――!」
なにより。
俺が泣きそうなぐらい悲しかったのは。
「自分の娘に”菖蒲”と名付けたあんたが……どの口で未来を信じるなって言えんだよっ!」
そうだ。
重国さんは誰よりも未来を信じてるはずなんだ。誰よりも菖蒲の未来を案じているはずなんだ。高臥家の歴史なんて知らないし、『未来予知』という異能がどこまで正確なのかも分からないけれど。
それでも、重国さんは娘を愛している。その何よりの証拠が、”菖蒲”という名に他ならない。
「あんたの言うとおり、俺には何の力もねえよ! 自分で言うのも馬鹿みたいだが、俺みたいな男は菖蒲に相応しくないだろうさ! ああ、認めてやる! 俺は無力で、情けなくて、恥知らずな男だ! それに比べて、あんたは憧れちまうぐらい優秀で格好いい大人だよ! だから――」
そんなあんたが。人の上に立つべき人間が。菖蒲をここまで育ててきた人が。自分の娘に”菖蒲”という名を授けたあんたが……!
「俺の今後の一生を賭けて、お願い申し上げます! 俺はどうなってもいいんです! だから、どうか――」
みっともなく。恥も外聞もなく。俺はその場に土下座して、フローリングの床に額を擦りつけながら、懇願した。
「どうか……菖蒲が信じる未来を、奪わないでやってください……!」
せっかく『未来は変わらない』という妄念を突き崩すことができたんだ。前を向いた娘を否定するようなことだけは、しないであげてほしい。彼女が俺を肯定しようが否定しようが構わない。ただ彼女が信じた未来を歩ませてあげてほしい。
「……そんな……止めてください、夕貴様……!」
駆け寄ってきた菖蒲が、俺の肩を掴んで体を起こそうと促してくる。でも、それに逆らうように、俺は土下座を続けた。重国さんが許してくれるまでは絶対に頭を上げないと心に決めていたから。
「夕貴様、お願いですから……菖蒲のために、そんなことをしないでください!」
すすり泣く声。
菖蒲が思わず泣いてしまうほど、いまの俺はみっともないってことなんだろうな。でも悪いな、菖蒲。おまえのお願いは聞けないよ。誰にだって譲れないものがあるように、萩原夕貴という男にとっても譲れないものがある。だから俺は頭を下げ続けるよ。
果たして、俺が土下座を敢行してから、どのぐらいの時間が経ったのか。
「つまらん」
この嫌な膠着を破ったのは、他の誰でもない重国さんの声だった。
「……見る目がない」
自嘲気味に呟いた重国さんは、わずかに苦笑すると、なにも言わず踵を返した。俺が慌てて顔を上げると、そこにはもう重国さんの姿はなく、代わりに、きっちりと閉めていたはずの廊下に通ずる扉が、所在なさげに揺れていた。
しばらくして、萩原邸の外から車の排気音が聞こえてくる。遠ざかっていくロードノイズを聞いて、俺はほとんど直感的に、重国さんが帰ってしまったんだと理解した。
「……どうなってんだ?」
「さあ……どうなっているのでしょうか?」
俺と菖蒲は顔を見合わせて、氷解しない疑問を突きあう。
もう俺との逢瀬は認めない。そう断言していた重国さんが、菖蒲を残して帰ってしまったという事実。これが意味するところは、きっと一つだけだろう。もしも俺に自惚れが許されるのならば、自分に都合よく物事を湾曲して捉えていいのならば、やっぱり答えは一つしかない。
「……あー、その、おかえり?」
「あっ、はい……えっと、ただいま?」
それは何とも締まらない、共同生活再開の合図だった。
****
夜の静けさに包まれた街並みが足早に流れていく。夜闇のなかを悠々と走行する車内は光の届かない深海のように静謐で、高臥重国はずっと昔に置き忘れた記憶と感情が心の奥からゆっくりと浮上してくるのを感じていた。
少年の言葉がまだ耳に残っている。あれは奇麗事だ。世間の荒波に揉まれたこともない若者だからこそ平然と口にできる青臭い理想だ。事実、重国の頭は、理論ではなく感情で訴えた少年を否定していた。あんな子供に自慢の娘を任せられるわけがない。それは高臥家の当主として、そして一人の娘の父として、決して揺るがぬ矜持だった。
しかし、なぜだろうか。あの少年にいつかの自分を重ねてしまったのは。
窓のそとに目をやる。スモークフィルムの張られたガラスに映る街並みは、古いアルバムのなかの一枚のように色褪せて見えて、それが重国の古い記憶を呼び覚ます。想起した風景はセピア色にかすんでおり、あらためて時の流れがもたらす記憶の風化に驚かされた。
だが重国はすべて覚えている。忘れられるわけがない。自分の大切な娘が生まれたときのことを忘れる父親などいるはずがない。
当時、彼には心痛の種があった。高臥家の入り婿として由緒ある大家の末席に加わり、かの一族が紡いだ歴史と不可思議な異能のことを妻から聞かされた。曰く、未来を垣間見る。その神の所業にも等しい力は、彼と妻のあいだに産まれてくる娘にも備わるであろうことは想像に難くなかった。
未来とは、個人が扱うには重すぎる究極の情報だ。それに娘が惑わされる可能性を、彼は夢想せずにはいられなかった。
それはどこか、おとぎばなしを眺める感覚に似ていた。喧騒は遠く、自分がどこにいるかも定かではない。病院の片隅、祈るように組み合わせたてのひらには汗が滲んでいた。
白いリノリウムに囲まれた世界は現実感がなく、あと数瞬で自分の子供が産まれるという事実を夢見心地にしていた。知識はあったし、責任も持ち合わせているつもりだった。それでも、自分が一人の父となる事実だけは、愛する女性が苦しんでいる最中も実感がないままだった。
そんな愚かな男の認識は、ほんの一瞬で変えられた。
踏み出す足は重く、心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。寝台に身を預けた妻はひどく憔悴していたが、出産に無事耐え抜いたという自負が女性としての魅力を高め、生来の美貌をより際立たせていた。
幼すぎる赤子のかんばせは、ずっと想像していたものよりも儚くて、小さかった。誰かが護ってやらなければ今にも散ってしまいそうな、頼りなく揺れる命の灯火だった。
いま考えても、なぜかは分からない。赤子をじっと見つめているうちに、彼の目からは訳もなく涙が溢れた。ありがとう、と言葉が漏れた。
だからこそ彼は、生まれてきた娘を抱くよりも早く、母親の腕のなかでむずがる我が子に一つの名を授けた。歩むべき道を迷わぬように。己の信じた未来を違えぬように。こんな自分のもとに産まれてきてくれた娘が、生涯の伴侶を見つけるまでの間、その名に護られて強く生きていけるように。彼の父としての最初の仕事は、娘の未来を祈ることだった。
妻に勧められて、彼は菖蒲と名付けられた赤子を胸に抱いた。ほんとうに、小さなぬくもりだった。それでも懸命に生きていた。いままで持ち上げてきたどんなものよりも重く、温かかった。おとぎばなしが現実になった瞬間だった。
あのときに抱いた想いとは、なんだったのか。
父親として娘を護ることか。それは果たして義務なのか、権利なのか。あるいは傲慢なのか。娘の幸福を願うあまり、彼は忘れてはいけない大切なものを忘れてしまっているのではないか。
高臥宗家の直系女児として生まれた娘は、確かに異能の力を受け継いでいた。だれよりも未来に近く、それゆえに惑わされやすい立場にいた。
父親として、心配しなかったと言えば嘘になる。ただ、娘の未来を疑うことだけはしなかった。名とは体を表すものである。であれば、娘に幸福が訪れるのは必定だった。
あのときに抱いた想いとは、なんだったのか。
愚かなり高臥重国、と彼は自分を罵倒した。いつから忘れていた。おまえは娘の将来を案じるあまり、娘の幸福を考えていなかった。彼が選択した未来よりも、きっと娘が選んだ未来のほうが正しいはずなのに。未来とは他人が与えるものではなく、おのれで選ぶものなのに。
「……萩原夕貴、か」
正直に言わせてもらえば、まだまだ認められない。女性に見紛う顔立ちに、しっかりと鍛えてはいるようだが大柄とは言えない身体は、娘を任せるにはいささか頼りない。学業成績は優秀でも、頭の回転は速くても、女のことになると頑固に早代わりするのも頂けない。まさか土下座までするとは思わなかった。
それでも、その青臭さは、かつての自分とよく似ている。
なにより少年は、父親としての責務に駆られた重国に在りし日の想いを取り戻させてくれた。
「見る目がないのは俺か、菖蒲か。……難儀なものだな。もし俺に未来が視えれば、こんなふうに頭を悩ませないで済むのに」
その自嘲気味な吐露は運転手の耳に入ることなく、静かな走行音に紛れて消えた。窓に映る彼の顔には、いつかの病室で娘を初めて抱き上げたときのような笑顔が浮かんでいた。