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旧『ハウリング』 改定前  作者: ハイたん
零の章 【消えない想い】
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0-11 アブソリュートゼロ

 冷気が、白い霧となって逆巻く。

 身体は手足の末端までが震え、急冷された空気を取り込んだ肺は痛み、吐き出す吐息は凍てついたかのように白かった。木々も、芝生も、コンクリートも、ゴミ箱も、公共用のトイレも、果ては水道橋までが、完膚なきまでに凍っていた。夜の河川敷は、あっという間に絶対零度の世界へと変貌していた。


 ――だってわたし、悪魔だし。


 いつかの彼女の言葉が脳裏をよぎった。


「よくも夕貴を虐めてくれたわね。そこの女の子」


 水道橋のうえに佇立し、俺と彩を見下ろしながらナベリウスは言う。彼女の唇は緩やかに弧を描いているけれど、その月光を思わせるような銀眼は笑っていなかった。


「な、ナベリウス……?」


 その姿が、俺の知っている彼女と重ならなくて、思わず訝しげな声が出た。


「あぁ、質問ならあとにしてくれる? いまは外敵を排除するほうが先決でしょ」


 外敵。それは櫻井彩のことか。俺にとっての助けるべき対象は、ナベリウスにとって排斥する対象でしかないのか反論しようと思った。しかし、


「我が主を脅かした代償は高くつくぞ。その矮小な命で購い切れると思うな、小娘」


 その厳然たるナベリウスの宣言があまりにも威圧的すぎて、二の句を継ぐことが出来なかった。

 彩が放ったプレッシャーとは比ぶべくもないほど鮮烈な殺意。俺よりも小さなナベリウスの身体が、なぜか氷山よりも大きく見えた。

 ただの人間に過ぎない俺が止める間などあるはずもなく、次の瞬間にはふたりの少女による殺し合いが幕を開けていた。



****


 

 それは果たして戦闘と呼べるものだったのか。少なくとも実力が拮抗していなかったことだけは確かだった。

 人の目では――萩原夕貴の目では決して追えない速度で、彩は氷に閉ざされた世界を縦横無尽に駆ける。対するナベリウスは、水道橋に腰掛けたまま移動する気配を見せない。ただ風になびかないようにと銀髪を指で押さえているだけ。

 夜の河川敷を支配した氷は、細かな欠片に至るまでがナベリウスの異能によるもの。ただ念じるだけで、地面からは氷塊が吹き上がり、空中からは氷槍が降り注いだ。彩が満身創意になりながら、やっとの思いでナベリウスに接近しても、薄氷で形成された盾があらゆる脅威からナベリウスを守護した。


 圧倒的なチカラは、彼女だからこそ持ち得るもの。ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位に数えられる、この世に現存する、本物の《悪魔》。とある宗教が母体となった悪魔祓いや、ローマ教皇庁の裏の顔でありバチカンに総本山を持つ法王庁は、古来から悪魔の存在に気付き、水面下で殺し合いを続けてきた。

 ただし、一般に浸透している悪魔像――人に憑依して奇抜な行動を起こすといった悪魔憑き――は大きな間違い。これを悪魔を研究する機関たちは総じて”オド”と呼ぶ。オドは悪魔の階級にすら入らない最下位の悪魔とされている。その実態は、悪魔というよりは死者の怨念の集合体に近く、日本では悪霊と認識されている場合が多い。


 このオドに取り憑かれた人間の末路が、他でもない櫻井彩。


 だがこの世には正真正銘の《悪魔》も存在する。かつてソロモン王が使役したとされる72体の大悪魔。通称、ソロモン72柱。

 《悪魔》が脅威だと認識されている最大の要因は、《ハウリング》と呼ばれる固有の異能にある。彼らは体内で、マイクロ波の中でも特殊な波長域にある波動――俗に『Devilment Microwave』、日本語に直訳してDマイクロ波と呼称される――を生成する。

 このDマイクロ波は、特定の分子系に対して影響を及ぼし、人間の手では起こしえない超常的な現象を発生させる。その不可思議な現象こそが、悪魔の持つ《ハウリング》という異能の正体。

 ハウリングが使用された際、周囲の人間は揃って耳鳴りがしたと訴えることがある。これはDマイクロ波が、人体の大小の筋肉に軽微の痙攣をもたらすことが原因である。

 ナベリウスが持つハウリングに名はないが――それを言うなら《ハウリング》という名称さえも人間が便宜上つけたものだが――古くから敵対してきた法王庁は、あらゆるものを凍結させる彼女の異能を、こう呼ぶ。


 《絶対零度アブソリュートゼロ》。


 空間そのものを制圧する異能は、悪魔の中でも桁外れに強力だ。人間一人を跡形もなく凍てつかせることなど造作もない。

 気付いた頃には、全身を血に濡らした彩が瀕死の状態で倒れ伏し、それをナベリウスがどこか冷めた眼で見下ろすという構図が出来上がっていた。

 ナベリウスがほんの少し戯れただけで、夕貴を脅かしていた”外敵”は無力化された。身じろぎすら至難となった彩をどうでもよさそうに見つめながら、ナベリウスは地面に降り立った。そのの背後に、人間ひとりを殺すにはじゅうぶん過ぎるほどの氷槍が出現する。


「……もういいだろ。まさか、彩を殺すつもりじゃねえよな」


 いつの間にか。ナベリウスの背後には、夕貴が歩み寄って来ていた。


「もちろん殺すつもりだけど? むしろ殺さない理由なんてないでしょうに」

「なっ……」

「勘違いしないように言っておくわ。わたしはね、夕貴の味方よ。これは不変の事実。わたしは、夕貴のことを息子のように思ってるし、弟のようにも思ってるし、恋人のようにも思ってる。それだけあなたが大事で、愛しくて、守ってあげたいのよ。でもわたしが守るのは――夕貴や、夕貴の身内だけ。それ以外はどうなってもいいし、どうしてあげる気もない。だから、この人間の小娘が死のうとわたしの知ったことじゃない。私情を交えて言わせてもらうなら、殺したくて仕方ないぐらいよ」


 正直な話、ナベリウスは腹を立てていた。

 彩が夕貴を襲ったこともそうだが、ここ最近、街を賑わせていた殺人事件に悪魔が介入していると察したナベリウスは、夜な夜な夕貴の目を盗んで、諸悪の根源を捜していた。そうした手間をかけさせられたことも、彼女の怒りに繋がっている。

 だからナベリウスは、櫻井彩を殺す。それに一度でも悪魔に魅入られた人間は、もう助からない。悪魔に憑依された段階ではまだ助かる見込みもある。だが殺人を犯して死者の魂を食らった者の心は、悪魔との結びつきが強くなり、切り離すことが難しくなる。唯一、彩に憑依した悪魔を殺す方法があるとすれば――それは宿主である彩もろとも悪魔を殺すという、なんとも乱暴な手段だけ。

 ある意味、これはナベリウスの優しさでもあるのだ。


「ねえ夕貴」

「……なんだよ、ナベリウス」

「実はね、わたしって悪魔なのよ。知ってた?」

「…………」

「夕貴と初めて会ったとき、ちゃんと言っておいたでしょ? わたしはソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウス。そして夕貴と主従の契約を結んだ女よ。わたしが言えるのは、これぐらいかな」


 言って。

 ナベリウスの殺意と同調するように――周囲の気温が数度下がった。


「ナベリウスっ!」


 これまで聞いたこともないほど必死な、夕貴の声。

 最後に、ナベリウスは振り向いて、笑った。


「もう、わたしからはなにも言わないわよ」


 それはどこか、だらしのない弟を叱りつける姉のような顔だった。

 ナベリウスの背後に待機していた氷槍が動き出す。

 氷の槍が、櫻井彩を貫くまで――それは本来ならば数秒にも満たない間だったはずだが、ナベリウスはその刹那に思考していた。

 もうヒントはあげた。

 だから、あとは夕貴次第。

 なぜなら。

 ナベリウスが動くのは、自衛のためか、夕貴のためか、身内のためか、もしくは――


「止めろぉ! 彩を殺すなぁぁぁぁっ!」

 

 ――彼女が主と認めた者からの、命令だけなのだから。

 つまり夕貴は、初めから命令していればよかったのだ。きちんと口に出して、止めろ、と言ってくれれば、ナベリウスは喜んで引き下がったのに。

 一従者として、主に害を与えた曲者を放っておくことはできない。だからナベリウスが殺意を手放すには、その害を与えられた主からの許しが必要だった。

 ナベリウスと彩のあいだに割り込んだ夕貴は、大きく両手を広げて彩を庇うようにした。

 その目は――どこまでも真っ直ぐで、これっぽっちも怯えていない。

 ナベリウスは、その瞳に覚えがあった。まったくもって、夕貴はあの人に似ている。


「りょーかい。これでいいんでしょ」


 どこか気取ったようにそう言って、ナベリウスは瞳を閉じた。すると氷槍は静かに霧散し、河川敷を覆っていた氷はまたたく間に消失。

 絶対零度の世界は、ここに終わりを告げて。

 今宵の戦闘は、彩ではなくナベリウスの――いや、萩原夕貴という少年の勝利に終わったのだった。



****



 河川敷は元通りになっていた。

 数秒前までは凍死するんじゃないか、と思うほど肌寒かったはずなのに、氷が無くなった途端、俺の体は現金にも寒気から来る震えをなくしていた。

 ナベリウスから殺意が消えたことを確認すると、俺は一目散に彩へ駆け寄った。


「おいっ! しっかりしろっ!」


 全身を血に濡らす姿は、どこからどう見ても瀕死に見えた。うつ伏せに倒れていた彩を抱きかかえて、腕の中で仰向けの状態にする。


「……ゆう、き……くん……?」


 ガキみたいに大声で呼びかけたことが功を奏したのか、彩は薄っすらと瞳を開けた。しかし、見るからに瞼が重そうだ。まるで、少しでも気を抜くと、眠ってしまいそうな。


「……私ね。世紀の……っ、大発見……したんだぁ……」

「そんなのどうでもいいんだよっ! だから――」

「こ、んな……私、でもね。……男の人を、好きに、なれるんだなぁ……って。……えへへ、これって、大発見でしょう……?」


 止めろ。

 頼むから止めてくれ。

 そんな話、いつでも出来るだろ。

 なのに、どうして今するんだよ。

 だから。

 ……だからっ!

 これだけは伝えておかなきゃって、思い残すことはありませんようにって、そんな必死そうな顔すんなよ――!

 俺の気のせいだと思いたかったが、現実から目を逸らしちゃいけない。彩の身体は、一秒ごとに冷たくなっているようだった。

 出血が多すぎたのか、氷を身に浴びすぎたのか――恐らく両方だろう。

 でも悪いことばかりじゃない。ナベリウスの氷を全身に浴びたことが、彩の命をかろうじて繋いでいる。身体を急激に冷やされるということは、体内の血管が収縮して出血が収まるということでもあるから。

 しかし、それは時間稼ぎにもならないだろう。

 どちらにしろ彩の命は、間もなく燃え尽きようとしていた。


「……なあ。ナベリウス」


 呼びかけると、背後から返答があった。


「なに? まさか、その子を助けてくれ、だなんて子供みたいな命令はしないわよね?」

「…………」

「あのね、夕貴。それは命令じゃなくて、お願いよ。奇跡を願うのなら、その相手はわたしじゃなくて、神様に言ったほうがいいわよ」


 奇跡――つまり彩は、そんな神様頼みの事象が起きないかぎり助からないとでも言うのか。


「……彩は、一体どうなってんだ? どうして俺を殺そうとしてきた? どうして人を殺した? どうして、あんな化物みたいな身体能力を持ってたんだ?」

「そうね。簡単に言うと、その子は悪魔に魅入られたのよ。真っ当な人間なら悪魔に憑依されるようなことはないんだけど――きっと、その子は心に大きな傷があったんでしょうね。自己を保てなくなるほど深い心の傷が。もうどうなってもいい、と自暴自棄になってる人間は、それだけ悪魔みたいな邪悪なものを引き寄せやすいのよ」


 正直に言えば――ナベリウスの話は、荒唐無稽すぎて理解に苦しんだ。

 でも必死に受け止めた。

 こんな状況下で嘘をつくほど、ナベリウスは性根の曲がった女じゃない。

 それに彩を助けるためならば、俺は何だってする。母親を大事にする人間に、悪いやつは絶対いないんだから。


「低級悪魔――まあ一般にはオドって呼ぶんだけどね。このオドは実体を持たず、自分一人じゃ何もできない。だからこそ人を操り人形にして、他者を殺し、心を食らって己の力とする。だから、その子――彩ちゃんだっけ? とにかく彩ちゃんが殺人事件を引き起こしたのは、彩ちゃんの意思じゃなくて、オドに強制されていただけってことになる。まあ結論から言えば、彼女の身体能力が向上したのも、彼女が人を殺したのも、彼女が夕貴を狙ったのも、すべてオドが原因ってことよ」

「なるほど――いや待て。それっておかしくねえか? おまえの説明だけじゃ彩が俺を狙った理由が分からない」

「そりゃあ分からないように話したからね。こればっかりは、あとで落ち着いて話したほうが分かりやすいと思うし」

「……なんだか気に食わねえが、まあいい。今は彩を助けるほうが先決だ」

「だから無理だってば。彩ちゃんは人間を殺しちゃってるでしょう? とすると、すでに彼女とオドの結びつきは、外部からの切り離しが効かないほど強固になってると見て間違いないわ。つまり――」


 オドを殺すということは、彩ちゃんを殺すということよ。そうナベリウスは続けた。

 信じたくはない、そんなの信じてたまるか、と現実逃避することは楽だし、容易い。

 でも、それで事態が収束することはない。

 しかし俺に出来ることがないのも、また事実である。


「……おい、彩」

「な、に……?」

「こんなところで寝てる場合じゃないだろ。おまえ、お母さんのことが好きなんだよな?」

「……うん。……だ、いすき……だよ」


 なら。

 自信を持って母親を大事だと言えるのなら。


「生きろよ。無様でもいい、人殺しでもいい、奇跡が必要だったら奇跡を起こせばいい。だから生きろ……生きてくれよ」


 それが。


「……どんなに醜くても、精一杯生きてやるのが……俺たちに出来る、最高の親孝行だろうが……!」


 瞳からは涙がしとどに溢れた。

 なんだ、どうりで視界が霞んでやがるなぁ、と思ったわけだ。

 頬を伝った透明色の雫は、俺の顎から彩の瞳に落ちる。それは一筋の涙のようになって、まるで彩も泣いているように見えた。


「……そう……だね……う、ん……夕貴くんの、言うとおり、だと……思う、よ」


 彩の瞳からも、涙が溢れた。決壊したダムのように、とめどなく涙が溢れた。


「あぁ……こんな、話をしてると、お母さんに……会いたく、なっちゃうね……ううん、会いに行っちゃおうかなぁ……」


 それは繁華街の飲食店で。


 彩が言った言葉と同じ、だった。


 あのときは母親離れできない少女の台詞に聞こえたのに、どうして今は、こんなにも悲しい一言に聞こえるのか。


「な、んだか……眠たく、なって……きちゃったなぁ……」


 力なく笑って、彩は瞳を閉じた。瞼が閉ざされたせいで溢れた涙が、より一層の筋となって頬を伝う。


「おい……なに寝ようとしてんだよ」


 彩の身体が弛緩していく。少しずつ力が抜けていく。

 それが嫌で、俺は彩を抱きしめた。


「……あの、ね……夕貴くん。……もうちょっと、だけ……顔、近づけて、くれないかな」

「あ、あぁ、これでいいか?」

「……だめ。もっと」

「えっと、このぐらいか?」

「ううん……もっと」


 意味が分からなかったが、とにかく彩の願いを叶えてあげたかった俺は、言われるがままにした。

 ほとんど目と鼻の先にある彩の顔は、血の気を失っているのにも関わらず綺麗で――可愛らしかった。

 やがて俺は、これ以上近づけることはできないという距離まで顔を接近させた。


「じゃあ、これぐらいで――」


 そう言いかけた瞬間――ふと唇に感触。

 驚きに目を見開く俺を満足そうに見つめて、彩は悪戯っ子のように笑った。


「……えへへ。……初めて、好きな男の子と、キス……しちゃった」


 ほんのりと頬を赤くして、彩は舌を出した。

 もう身体を動かすだけの力は残っていないはずなのに――俺とキスする力があるのなら、それを少しでも生命力に回せよと怒鳴りたい気持ちだった。


「……バカ野郎ぉ。俺なんて、いまのがファーストキスだよ」

「そう、なんだ。……夕貴くん、とっても素敵、だから……もう経験済みなのかと、思ってたのになぁ」


 一体キスにどれほどの価値があるのかは分からないが。

 それでも彩は、この上なく幸せそうに微笑んだ。


「……あのね、夕貴くん」

「なんだ?」

「……好き、です。……私、夕貴くんのことが、好きです……」


 か細い声で、囁くようにして彩は言った。こんなときなのに、とも思ったが、もしかしたらこんなときだからこそなのかもしれない。

 突然の告白を受けた俺は、混乱するしかなかった。そもそも女の子から告白されたことは、これまであまりなかったんだ。

 なんて答えればいい?

 どう返すのが正解なんだ?

 そんな取り留めのない思考が無数に駆け巡った。


「……彩、俺は――っ?」


 そこで初めて気付く。

 もう彩の身体は氷のように冷たくなっていて、呼吸は気付かないほど小さくなっていることに。


「……おい、嘘だろ? なに寝てんだよ、彩」


 身体を揺さぶりながら問いかけるも、反応はない。

 彩は、ただ満足そうな笑顔を浮かべたまま、沈黙しているだけだった。

 最悪の予感が、脳裏を掠めた。

 振り返ってナベリウスを一瞥すると、彼女は力なく首を横に振った。それが、どうしようもなく死刑宣告のように見えて、俺は目の前が真っ暗になった気がした。

 ……ふざけんな、なんだよこれ。

 こんな結末ありかよ。

 どうして彩が死ななくちゃいけないんだよ。

 いや、まだ彩は生きてる。風前の灯に似た命であったとしても、まだ生きてるはずなんだ。

 でも俺は、やっぱり無力だ。

 何も出来ない。

 何もしてやれない。

 どうすることもできない。

 彩を、助けてやれない。

 ほとんど自棄になった俺は、彩の身体を強く抱きしめた。冷たくなっても彩の身体は柔らかく、血に濡れているはずなのに甘い匂いがした。

 胸の中に彩を感じながら、必死に祈る。

 頼むから、この子を助けてくれ。

 こいつはお母さんが好きだって言ってんだ。

 そんな女の子が、こんな可哀想な最期を迎えていいはずがない。

 だから。

 だから……!

 ナベリウスが氷を操ったときと同じように、かすかな耳鳴りがした。


「……これは、まさか」


 俺の背後で、ナベリウスが驚いたように声を漏らす。

 でも、そんなのは関係ない。

 今は彩を助けたい、としか頭にはないから――



 どう足掻いても打破できないような堅固な壁。

 それを前にして、誰にも助けてもらえないことを知っているのに、叫ぶ少年がいた。

 それこそが、萩原夕貴にとっての、ハウリングだった。


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