0-10 神か、悪魔か
夜の河川敷は、とにかく薄暗くて人気がない。
そのくせ無駄に敷地が広いものだから、とてつもない孤独感に襲われる。照明が一切設置されていない河川敷は、下手をすれば犯罪の温床になりそうな雰囲気を醸し出していた。
踏み鳴らす足音は、地面いっぱいに植えられた芝生に吸収される。
川沿いに立ってみると、数百メートルほど向こうに対面の河川敷が見えた。ふと顔を上げてみれば、片側三車線の大きな橋や、電車橋、水道橋などが架かっている。合計三本の橋が、闇夜にまっすぐ伸びていた。
この河川敷は、俺の家からさほど遠くない位置にある。だから子供のころは、よく学校の友達と遊びに来たものだった。だだっ広くて、川があって、芝生が植えられていて、子供の遊び場所にはぴったりだったのだ。
でも感傷に浸る時間はない。目を細めて、暗がりの奥に浮かび上がった人影を注視する。まあ、そんなことをしなくても相手が誰なのかは分かっているんだけど。
「夕貴くんって、本当に鬼ごっこが好きなんだね」
楽しそうな声。血に濡れた包丁を握り締め、口元に冷笑を貼り付けて、櫻井彩が姿を見せた。俺たちは十メートルほどの距離を保ったまま、対峙する形になった。
「……まあな。俺は男らしいやつだからな。走るのも隠れるのも大好きだ」
「そうなの? 夕貴くんって女の子みたいに可愛い顔してるから、てっきりインドア派かなぁって思ってたのに。偏見かもしれないけど、絶対に料理とか得意そうだよね」
「ああ、それは偏見だ……とめちゃくちゃ言いたいけど、残念ながら料理は得意なほうだ」
「やっぱり。でも料理が出来る男の子って、とってもポイントが高いと思うよ」
くすくす、と彩は、どこか嬉しそうに笑う。その手に包丁が握られていなければ、ただの雑談にしか見えないと思う。
「なあ彩。一つだけ聞いてもいいか?」
「どうぞ。なんでも教えてあげるよ」
こういうのを冥土の土産って言うのかな。彩は両手で包丁を弄びながら、そんな言葉を続けた。思わず反論したくなったが、俺が聞かなくちゃいけないことは別にある。
「……おまえ、なんで俺を殺そうとしてんだ?」
結局のところ、疑問はこれに尽きた。
俺には誰かに殺意を向けられるような覚えはないし、もっと言えば恨まれるようなことをした覚えもない。まあ後者のほうは、知らず知らずのうちに誰かの怨恨を買っていた、という場合もあるだろうが、殺人に繋がるような愚挙を犯した記憶はなかった。
それに彩は、人間とは思えない身体能力を見せていた。もしかすると、それも殺人衝動の一端を担う原因なのかもしれない。
「……なんでだろうね。私にも分かんないや」
「分からない? 自分のことだろ?」
「そうだね。でも本当に分からないの。ただ心臓――ううん、心かな、とにかく胸が疼いて仕方ないの。夕貴くんを殺せって、夕貴くんを殺してしまえって、そう訴えかけてくるの。その声に逆らうと、心臓が握りつぶされるように痛んで、本当に死んじゃいそうになるの。だから夕貴くんを殺さなくちゃいけないんだ」
彩の話は、あまりにも意味が分からなかった。
心が痛む?
俺を殺せって訴えかけてくる?
その声に逆らうと、死んでしまいそうになる?
……分からない。
少なくとも俺は、殺人衝動を伴う心臓病なんて知らない。まだ彩のジョークと言われたほうが信用できる。
「夕貴くん。なんだか恐い顔してるね」
くすくす、と彼女は笑う。
「ああ。絶対におまえを止めてやる。そんでもって、俺を”可愛い”だの”女の子みたい”だの言ったことを後悔させてやるからな」
「根に持つ男性は嫌われるんじゃないかなぁ。それに夕貴くんって、本当に綺麗な顔してるんだよ? 女の子の私よりも、きっと夕貴くんのほうが可愛いんじゃないかな?」
その一言に悪気はなかったんだろうけど、俺には挑発されたように感じた。
「……よく分かった。おまえは初めから俺の敵だったんだな。もう絶対に許さねえ」
「あれ、不快にさせちゃった? じゃあ謝るね。ごめんね、夕貴ちゃん」
「てめえ謝る気ねえだろっ!」
しまった、思わず突っ込んでしまった。
「とにかくだ。おまえが俺を殺したいって言うのなら好きにすればいいさ」
「へえ、諦めがいいね。言っとくけど、私は本当に夕貴くんを殺すよ? いまだって心が疼いて疼いて仕方ないんだから」
「我慢するなよ。身体に悪いぞ」
「そっか。夕貴くんがそう言うなら、もういいかな」
彩の口元に冷笑が浮かぶ。
それと同時、空気が明らかに変質した。圧倒的な人の殺意というものは、ここまで露骨に場を支配できるものなのか。
額には脂汗が滲み、足は微かに震え、意志が折れそうになった。
でも俺には闘わなければならない理由がある。
――私もお母さんのことが大好きだよ。
そう言ったときの彩の笑顔が忘れられない。
母親を大事にする人間に、悪いやつはいないんだ。母親を大事にする人間が、俺はどうしようもなく大好きなんだ。
だから逃げない。絶対に、目の前のバカ娘を止めてやる。
そんな決意を胸に秘めて、俺は走り出した。
彩は無防備に突っ立っているだけ。構えを知らないのか、構える気がないのか。まあ両方だろう。
間合いを詰めた俺は、躊躇いもなく右足を跳ね上げた。腰を大きく捻り、重心を左足に移行させて、彩の左側頭部目掛けて回し蹴りを叩き込む……!
「凄いなぁ! 夕貴くんって、喧嘩も強いんだね!」
俺の全力も、彩にしてみれば楽しくおしゃべりしながらかわせるものらしい。
間もなく、視界から彩の姿が消える。萩原夕貴という人間の動体視力では捉えられない、櫻井彩の超人的な脚力。俺と彩では、元々のスペックが違いすぎる。それは自転車と大型バイクを競争させるようなものだ。
だが手がないわけじゃない。
チャンスは、ここにある。
ほとんど闇雲に、けれど確信を持って体を半回転させた俺は、真後ろに向けて裏拳を放った。
公園で二度、彩が見せた動き。
彼女は攻撃を回避したあとは、必ず敵の背後を取ろうとする。だったら、それを利用しない手はない。
いくら身体能力が向上したと言っても、彩は武道の経験がない素人だ。ならば動きが単調になってしまうのは当然だし、暴力に慣れていなくても仕方ない。
スピードでは大型バイクに勝てなくても、趣味でずっとサイクリングを続けてきたのだから、免許取立てのペーパードライバーが相手なら、なんとか一矢報いることもできる。
「きゃあっ!」
腕に重たい衝撃が伝わってくる。どこか場違いな可愛らしい悲鳴。見れば、彩は芝生のうえに尻餅をついたまま肩を押さえていた。彼女の手からは包丁が消えている。それは俺にとって最高の幸運だろう。
どうやら彩は痛みに慣れていないみたいだ。予想外の反撃を食らって、いい具合に混乱してくれている。
この隙に彼女を抑えることができれば……!
「……死ねばいいのに」
風に乗って、微かな呟きが聞こえてきた。
ゆらりと立ち上がった彩は、上半身を脱力させたまま顔を俯けている。長い前髪が陰を落として、その表情は伺えない。
「……おまえ……彩、か?」
思わず、目を細めて、そんなことを口にしていた。
何かが違う。
俺の目の前にいるのは、本当に櫻井彩なのか?
彩の足はふらついているのに、身体は頼りなく揺れているのに、手には武器を持っていないのに、視線は敵であるはずの俺から逸れているのに。
それでも、ひたすらに不気味だ。
一切の感情を削ぎ落としたかのような様相は、精巧に作られた殺人マシーンを連想させる。
萩原夕貴を殺すと豪語していた彩のほうが、まだ遥かに人間味があった。少し前までの彩は、どこか善悪の区別がつかない子供みたいな趣さえ感じられたのに。
粘ついたアメーバのような禍々しい気配が、夜の河川敷を侵食していく。それは視覚化して見えるほどの膨大な負の感情。
夜の帳に広がっていく濃密な殺気のせいで、胃の中のものがこみ上げてきた。殺される。そんな言葉が、脳裏をよぎる。
「あれは……?」
初めは目の錯覚かと思った。
櫻井彩の背後に『何か』が浮かびがっている。それは陽炎のように実体がない。人間の邪気そのものを集めて一つにしたら”アレ”になるかもしれない。
漠然とだが、理解した。
あの『何か』が、彩を狂わせた原因だと。
お母さんを好きだって、そう笑顔で言った女の子を惑わした原因だと……!
「……悪魔が」
奥歯を噛み締める。
あんな可愛らしい女の子を狂わせた存在なんて、どう考えても悪魔としか思えない。
「てめえが彩を苦しめてんのかよっ!」
叫んだ。
彩の手が上がる。きっと今の彼女ならば、数秒にも満たない間に俺を殺せるだろう。
「もしもそうだってんなら、俺がおまえをぶっ飛ばしてやる!」
彩が一直線に駆けてきた。なんて驚異的な速力。真っ直ぐに向かってくるものだから目では追えるが、反応は間に合いそうにない。
やっぱり、俺は死ぬのかな。
どうも力が及ばなかったみたいだ。
ごめんな、彩。
おまえを助けてやれなかった。
どれだけ足掻いても、俺みたいなちっぽけな人間では君を救うことはできないらしい。
だから、せめて祈ろう。無力な自分を棚に上げて、真摯に想いを捧げよう。
誰でもいい。頼むよ。願うよ。どうか、お母さんが大好きなこの子を、助けてやってくれ。
果たして、その祈りを聞き届けたのは、神だったのか。
妙に脳裏に響く、甲高い耳鳴り。どこかから溢れ出す冷たくも美しい波動。夜の河川敷が強烈な冷気に包まれる。芝生に霜が張り、儚い雪の結晶が宙を舞い、冷気が白い霧となって逆巻く。
世界が凍っていく。恐ろしいまでの絶対零度が、白銀に彩られた幻想的な景観を生み出した。
ヒュン、と鋭い音が、幾重にも重なって聞こえた。上空から巨大な氷の槍が、目で数えられるだけで十数本ほど降り注いできた。それは彩が立っていた地点に命中し、小さな氷山を作る。彩は、大きく後方に跳躍し、辛くも難を逃れた。
もしかして、俺みたいなガキの祈りを神様が聞き届けてくれたのだろうか?
そんなバカみたいなことを本気で考え、ゆっくりと空を見上げた俺は、そこに見慣れたシルエットを見つけた。
「真名すら持たない低級悪魔が、よくもここまで暴れたものね」
馴染みのある、少女の声。
「でも、ちょっとやり過ぎよ。好き勝手に人を殺しちゃったら、《悪魔祓い》や《法王庁》の連中がやってくるわよ。もっとも、あいつらはこの極東の地で起こった事件に関してだけは対応が遅いけどね」
無骨な鉄鋼で出来た水道橋の上に、悠然とたたずむ影があった。
風になびく長髪は、月明かりに映える銀髪。俺たちを見下ろす目は、どこか冷めた銀眼。
またたく間にこの場を支配し、絶対零度の世界を作り上げて。
ソロモン72柱が一柱にして、序列第二十四位の大悪魔ナベリウスがそこにいた。