0-9 過ぎ去りし日々
櫻井彩は、取り立てて目立つような少女ではなかった。
成績は平均の域を出なかったし、運動も不得手、対人関係では人見知りの気が災いして交友の幅もあまり広いとは言いがたかった。その分、彼女は人目を惹く愛らしい容姿をしていたが、それも絶世というわけではなく、やはり優れたアドバンテージにはならなかった。
幼いころから、実の両親に愛情を注がれ続けてきた彩は、周囲の期待を裏切らない心優しい少女に育った。
いま思えば、その幼少期こそが、彩にとって最も幸せだった時期なのかもしれない。
贅沢を許された家庭ではなかったし、毎日のようにご馳走がテーブルに並ぶ家庭でもなかった。それでも彩が欲しいとねだったものは大抵買ってもらえたし、週末には家族揃って遠出するだけの余裕はあった。
特別なものは一つもない、どこにでもある平凡な家族。
家の取り決めでも見合いでもなく、ただ偶然に出会って愛し合い、その果てに結婚した両親。そして彼らの愛の結晶こそが、他でもない彩だった。
全てが偽りのない愛によって出来ているのだから、彼らが幸せになるのは当然であり、必然でもあった。
だがこの世に永遠などという洒落たものは存在しない。その証拠に、ありもしない永遠を神の前に誓った一組の男女は、時の流れがもたらす感情の風化に勝てず、契った愛を無に帰した。
当時、小学生になったばかりの彩に小難しい話は分からなかった。それでも大好きな父と離れ離れになるということだけは理解できた。もちろん彩は離婚に反対したが、両親の決意は固く、どれだけ泣き喚いても結末は変わらなかった。
紆余曲折はあったものの、彩は母と二人で暮らすことになる。父のいない生活に戸惑いはあったものの、それも時間が解決してくれた。
誰よりも母のことが大好きだった彩は、女手一つで私を育ててくれるお母さんに負担をかけてはいけないと、以前よりも心優しく、礼儀正しい少女に育っていくことになる。家では率先して家事を手伝い、あまり好きじゃなかった勉強や運動も精一杯にやった。
母と二人で不器用ながらも暮らす生活は、実を言うと嫌いじゃなかった。むしろ家族が一体となって努力しているような感覚もあって、好ましかったぐらいだ。
いつの日か、私がお母さんを護ってあげたい。
それが彩の望みであり、人生における目標だった。
どれほど仕事が忙しくても、家事に時間を圧迫されても、彩の母親は、娘と過ごす時間をかならず作った。そんな二人の努力が、気付かぬうちに実を結んだのか。ある日、彩は母から改まって話を聞かされた。
お母さんに、もう一度だけチャンスをくれないかな?
申し訳なさそうな、それでいて幸せそうな顔で、母は告げた。
それは再婚の話だった。
母が、以前から密かに逢瀬を繰り返していた男性。つい最近、とうとう先方がプロポーズの言葉を口にしたらしく、それを待ち望んでいた母は「彩が許してくれるなら」という条件付きで、再婚を受け入れたのだった。
正直な話、いつかこんな日が来るかもしれない、とは彩も覚悟していた。贔屓目に見ても、母は美しい容姿をしていたし、出産を経験したとは思えない若々しいプロポーションを保っていたからである。
もちろん心から賛成は出来なかった。父親と離れ離れになった悲しみの残滓が、まだ心のどこかで燻っていたからだ。
しかし結局、彩は反対するどころか笑顔で祝福しさえした。
当然だろう。
大好きな母親が、いままで女手一つで彩を育ててくれた母が、自分の幸せを掴み取ろうとしているのだ。その邪魔をするのは、とてもではないが無理だった。
お母さんにとっての旦那様は、私にとってはお父さんだね。
そう明るく言った彩を、母は涙を流しながら抱きしめた。
それから半年もしない間に、先方との顔合わせ、新居の購入、婚姻届の提出などを済ませた。新しい家族が出来るのは、思っていたよりもあっけないものだった。
彩の新しい父となった男性は、母よりも二歳年上の会社員である。見るからに温厚で、そして誠実そうな容姿の彼は、血の繋がらない義理の娘である彩を大層可愛がった。彼には息子がいて、彩は父親と同時に兄も持つこととなった。
当時、中学一年生だった彩と比べて、高校一年生の兄――つまり三歳年上の彼は、ずっと気恥ずかしそうな態度を崩さなかったものの、妹が出来ること自体は歓迎だったらしく、不器用ながらも愛のある接し方をしてくれた。
あの、お兄ちゃんって……呼んでもいいですか?
そう彩が勇気を出して聞いたときの、兄の真っ赤に染まった顔が忘れられない。
義理の繋がりではあったが、それは仲睦まじい兄妹だったと思う。兄は、国立の大学を目指すほど頭がよかった。あまり褒められた成績ではなかった彩にとって、兄は頼りになる家庭教師の一面も持っていた。
大好きな母、誠実で裏表のない父、照れ屋だが頭のいい兄――新しく始まった『家族』は、この上なく順調だった。
しかし。
――幸せって、長く続かないのが世の摂理なんだよね。
新しい父と兄を得た代償は――大好きな母の死という、なんとも最悪なものだった。
もちろん彩は泣いた。何日も学校を休んで泣き続けた。涙は枯れることもあるらしいが、少なくとも彩の瞳から涙が止まることはなかった。
部屋に篭って悲嘆にくれる彩を、もちろん父と兄は気遣った。それこそ彼らも会社や学校を休んで、日に日に衰弱していく彩を心から心配した。
そんな日々が一ヶ月も続けば、さすがの彩も冷静さを取り戻す。
悲しいのは私だけじゃない。お父さんも、お兄ちゃんも、きっと泣きたいはずなんだ。なのに私は、一人で子供みたいに泣くだけ。これではお母さんの娘として胸を脹れない。
決意すると、立ち直るのは早かった。
元気を取り戻した彩を見て、父と兄は涙さえ浮かべて喜んでくれた。
それから一年が経つころには、彩は以前と同じように笑顔を浮かべることが出来るようになっていた。当然だろう。母は天国にいるのだ。きっと彩を見守ってくれているのだ。ならば、彩が上を向いていなくては、母も安心して眠ることができない。
そう自分を騙すことができていればよかったのに。
初めは三人だった家族が、二人になり。
二人だった家族が、四人なり。
最後はまた、三人に戻った。
でもそこに本当に大切だった人はもういなくて、まるで世界は全てが色褪せてしまったようで。
もう生きている意味なんてないように思えた。
最愛の母親がいない。その事実がこんなにも重くのしかかる。
周囲の人間が笑っている中で、自分一人だけが堕ちていくような錯覚。
どう足掻いても逃げ出せない永劫の檻。その中で、誰にも聞き届けてもらえないのを知っているのに叫ぶ少女がいた。
それこそが、櫻井彩にとっての、ハウリングだった。