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ジャス



「おい、ちょっと! おーい、ちょっとちょっと!」


 わたしはその時、わたしの部屋がある二階へ続く階段の下で、手招きをしながらやや遠慮がちな癖にウザイだけのウケ狙いを含んだ兄の声を、小学校の入学前以来久々に聞いた。



「聞こえてるかー? 聞こえてるだろー? 聞こえてるよねー? 聞こえてるでしょー? 聞こえておられますことですねー? というか聞いてー」


 それから約30分、徐々に低頭になりながらも、就職浪人でどこまでも暇らしい兄はひたすら呼び続けている。ウザイ。だからわたしは、まさに年頃なりの距離感を体現して悠久の時を当然のこととして無視し続ける気でいたのだけれど、


「妹よー、妹君よー。妹様ー聞いて下されーっ。……『なを』さm」 ガタン(机から立つ)、バタン(ドアを開ける)、ドダダダダッ(階段を下りる)……、

「名前を呼ぶなっつってンだろぅがぁあんっ!?」

「あ」

 バシっ(頬ビンタ)

「つい」

 ドスっ(腹フック)

「ごめ」

 メキっ(顎アッパー)

「ぎぶ」


 わたしは、この名前は大嫌いなのだ。



「で、何か用?」


 さらに数分後、わたしは部屋の机に戻って、ドアの向こうに居るだろう満身創痍の兄に聞く。無論、部屋になど入れてやらない。


「あの明日さ、たぶんだけど学校で『あわび天国』あるよね?」

「あわ、んー……。うん、あるけど?」


 唐突に出たかなりハズイ単語。でもわたしの学校で毎年行われているれっきとした恒例行事だったりする。どこの中学校でもだいたいやってる着衣水泳を、脈絡もなく地元の特産品と絡めて海であわびをとるというイベントに仕立ててしまったらしいけど、よりによって何故そこで地元色をアピールしているのか誰も知らないという謎さを持つ。


「そう、それでさ……『ジャージ』着るよね?」

「……『ジャス』? 着るけど?」


 何故か唐突にジャージを着ることを確認する変態確定の兄。ナニコイツマジキモインデスケド、というニュアンスを言葉に全開で込めてわたしは返したのだけど、どうやら言いたいことはそれとは違うらしい。


「『ジャージ』なんだ、もう『ジャス』じゃなくて、『ジャージ』なんだよ」

「はぁ!? 意味わかんないし」


 ジャージをジャスと言う事。いわゆるご当地限定の名称なのだろうけども、物心つくかつかないかぐらいの頃から皆ジャスって言ってるし、大人はジャージって言うけど、友達でジャージなんて言う子は一人もいない。それを何で兄なんかに今更わざわざ説教みたいに指摘されなきゃいけないのか、わたしにはまったくもって理解出来なかった。

 それにこの年頃でそんなことして、グループの中で浮くことがどんなに致命的なことなのか、こんな兄なんかに分かるはずもないのだし。空気が読めるくらいなら、社会のレールから外れて就職浪人、というかニートなんかやってないって。


「いいから、これからは『ジャス』じゃなくて『ジャージ』で」

「だからそんなん知らないし! もうウザイからマジ消えて!!」

 それっきり会話を打ち切って、わたしは兄を二階から追い払った。

これが『事件』の、前夜の顛末である。



 そして今、わたしはこの『あわび天国』の現場で、世にも奇妙な光景を目の当たりにしていた。


「だよねー。マジ何この集団ってカンジ? ちょ、視線が露骨で痛過ぎるんですけど(笑 全員で、……これ着るとかありえなくね」

「まぁ着衣水泳ってことだからさー中が水着じゃなくて体操服ってのは分かるけどさー。上から……これって、目立つし」

「でもさ、重くて動きにくくならないと意味ないんじゃない? 着衣水泳なんだから。 ジャー……これでなきゃダメってことはないと思うけどっ」


 なんか、皆が会話で『ジャス』か『ジャージ』かの単語を意図的に避けていた。しかも一人はかなり苦しい回避だった。


「そんじゃ始めー。女子もジャージ着てれば透けても問題無いからなー遠慮なく飛び込めー」


 そんなアンニュイに微妙な空気の中でもまったく気にせず、しかも何気にセクハラっぽい発言をしている担任のおっさんが無性にムカツク。とか気をそらしていたことが、わたしにとって命取りになるとはまったく考えていなかった。だってそうだろう? なんとか『あわび天国』が終わったものの、もうその頃には空気が緊張感に満ち満ちていて、そしてとうとう最終的に、


「そう言えばさー、言いそびれてたけど、なっちゃんのそれカワイイね! それ! えっと、なんだったっけ!? それそれ!!」


 とわたしのジャージを指差して言う。そんな露骨な強硬手段に出てくるなんて、誰が想像出来たというのだろうか。



「あぁ、それ。それ……これ、ね? えぇっと」


 強硬手段に出た子が合掌して頭下げてる時点で、もう応えなくてもいいんじゃない? とかも正直思ったりしたのだけど。それを許さない空気感というものにわたしは微妙に恐怖すら感じ始めていた。

 とはいえ、さらに怖いのはここで判断をミスってグループで浮いてしまうことであるわけで。そうなったらもう、どう足掻いても挽回は無理と思われる。それだけは何としても避けたいけれど、究極の二択は運以外にどうしようもなかった。


「ち、ちょっと待ってね。ちょっと、うー、ちょっと」


 そんな折にふと甦ったのは昨晩の兄のマジキモイ変態顔。サンドバッグと化す様に一瞬イラっとしたのだけれど、顔を上げたわたしに迷いは無かったのだという。非常に非常に不本意なことだけれども、わたしは大英断を下すことにしたのだった。


「あぁ、このジャ……」










 結論から言ってしまえば、ネットのウィキペディアにわたしの地域では『ジャージ』を『ジャス』ということが載っており、その起源は雑誌社の記事かららしいけれどそんなことはどうでもよく。要はその呼び方は世代に拠らず小学生限定で、中学生のある時期を境に『ジャージ』という呼び方に突如として変わる、という説明がなされているようで。それを兄がどういう経緯か読んだために、あの時わたしを心配して言いに来てくれたということ。

 わたしと似て思い込みが激しく不器用なところもあるけれど、あの日の兄の優しさがあってわたしの中学生の思い出は最後まで楽しいものになっている。あれから十年近く経って、わたしももう学生ではない。介護職なんかに就職して、研修期間での制服代わりの服装が『ジャージ』だったものだから、あんな昔のことなんか思い出してしまった。帰ったら、実家の兄に電話してみようと思う。継いだ家業が右肩上がりになり過ぎて忙しいかもしれないけれど、優しい兄だからきっとついつい話し込んで笑い合ってくれるだろう。そんなわけで、わたしは今からとても楽しみなのだった。




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