それではごきげんよう、と淑女は最後に微笑んだ。
初めて彼女を見た瞬間、この世に女神はいるのだと思った。
それは王都で催された春の夜会。
燭台の灯りが磨き抜かれた大理石を照らし、色とりどりのドレスが花のように揺れる中、彼女のまわりだけがまるで月明かりをまとっているように思えた。
流れるような銀髪。宝石より深い紫の瞳。白磁のような肌。ほっそりとした首筋は匂い立つよう。
笑顔になると目尻が少しだけ下がる。
その優しげな微笑みに、私は一瞬で心を奪われた。
ついぼんやりしていた私に、気安い調子でバティストとギャスパールがグラスを手に話しかけてきた。
「アドリアン、久しぶりじゃないか」
「爵位の継承は終わったのか」
「あ、ああ、その届けもあって王都に来たんだ」
「前伯爵も急な病だったからな。今はお前がモンフォール伯爵か」
確認するようにバティストが言うのに、被せるようにギャスパールも続ける。
「しかしこれで正式に伯爵家当主様か。22歳での若当主なら、あちこちから秋波を送られること間違いなしだな」
「しかもまだ婚約者もなしだぜ、こいつ」
横で幼馴染のエティが笑った。
「はははっ、俺らはこれからお前を呼ぶたびにモンフォール卿と敬称をつけるべき?」
「そんなわけあるか」
苦笑して返せば、どっと笑いが起こる。
エティ。エティエンヌはモンフォール伯爵家領地における騎士爵家の長男だ。昔から話しやすくて気のいい男ではある。バティストは伯爵家次男、ギャスパールは子爵家嫡男。いずれも王立学園で仲良くなった近い家格の仲間だ。
久しぶりの夜会で、知らず少々硬くなっていた気持ちが徐々にほどけていく。
「羨ましいぜ。長身で見栄えがする上に、金髪に青い目だしな。これからはひっきりなしに釣書が届くんじゃないか?」
「お前こそ先日結婚したのではなかったか?喪が明けていなかったから出席は出来なかったが」
軽口を叩くギャスパールに私も言い返し、通り過ぎる給仕からグラスを取った。
興味津々と言う様子でエティが口を挟む。
「結婚式で見たが、ギャスパールの奥方、小柄で可愛らしかったな。男爵家の令嬢だったか?」
「いやいや、結婚なんて人生の墓場さ!なかなかに自由がなくなるぞ?まあ、妻は確かに可愛らしいが」
わずかに頬を染めてそうごちるギャスパールに思わず言い返す。
「惚気か?おいおい、俺たちはまだ独り身なんだぞ」
私の言葉に追従するように、エティも続ける。
「妻なんぞ最初の躾が肝心なんだよ。びしっと言ってやれば、あとは大人しくなるもんだろ?」
「そうそう。手綱を握らなけりゃ駄目だ」
一頻り、夫婦とは、と語り出すエティとバティスト。
「その点アドリアンは選び放題だ。全く羨ましい」
ギャスパールがニヤニヤしながらグラスを煽って言った。
「今期の社交界の花だってお前に靡くかもしれん」
「今期の社交界の花?」私はグラスをゆっくり傾けながら聞き返した。
「ああ。あの楽団の近くにあるテーブル、あのそばに数人のご令嬢がいるだろう?」
ギャスパールはグラスを空けて、給仕の銀盆から新しいグラスへと変えつつ、目線をそちらに向ける。
「昨年デビュタントしてから社交界の話題さ。クローディーヌ・ド・ヴァルロワ子爵令嬢」
どうやら母君が侯爵家の出で、幼い頃から王都一流の礼儀作法を叩き込まれていたらしい。
どの貴婦人より姿勢が美しく、どの令嬢より歩き方が優雅。指先一つ動かすにも品がある。
社交界では「花」と呼ばれているようだ。
もちろん引く手数多、噂によると釣書は途切れることなく届くとか。
なるほど、と私は思った。
先ほど思わず見惚れた令嬢。あれほど美しい花なら、誰だって欲しがる。
ならば誰より先に摘み取るだけだ。
私は伯爵家の当主で身分は申し分ないし、財もある上に領地も広い。負ける理由などない。
グラスを空けながら、どうすればあれが手に入るのか、考えを巡らせる。
まずはしばらく王都邸への滞在予定を伸ばさなければ。
夜会が終わる頃には伝手を辿って紹介状を書かせ、翌日には花束を届けた。
返事が来れば、その日のうちに返す。
面倒ではあるがここが肝要。丁寧に丁寧に、時候の挨拶と洒落た詩を添えて。
私はこういったことが苦手なので、詩人に依頼し毎回書かせた。なかなかな出費だが、こればかりはいたしかたがない。
それから季節の菓子、ちょっとした花。
流行の布で織ったリボンや髪飾り、珍しい茶葉、新しい詩集。
どれもこれも家令や侍従に走り回らせて手に入れた。我ながら大変な努力だ。
彼女だけでなく、子爵にも贈り物を欠かさなかった。こういった細かい心配りが、社交では重要であることを私は知っている。
もちろん釣書も正式な手順で送った。当然だが節度は守る。焦ってはいけない。
三ヶ月もの間、毎週のように訪ね、手紙を書き続けた。私はそうやって信頼を築き上げ、やがて彼女は私との婚約を承諾した。
あの日ほど誇らしかった日はない。とうとう美しい花が私の手に入る!あまりの嬉しさに悪友どもを誘い、私は酒場で小さな祝宴を開いた。
開口一番、ギャスパールが叫んだ。
「なんと!まさかお前が射止めるとはな」
祝いの酒をグラスに注ぎながらエティもニヤニヤして言う。
「知っていたか?彼女のことを社交界中の男が本気で狙っていたこと」
バティストも続ける。
「そうそう。ここだけの話、リンド伯爵家令息も狙っていたという話だが、王宮の昇進で地盤固めをしてからと、申し込みを躊躇していたそうだ」
カウンターに肘を預けてグラスを傾けながら、皮肉げに笑うバティスト。
「そういえば、ラフォール家令息が泣いていたと先日聞き及んだが、もしかするとあれもそうか?」
「本当によくあの子爵が首を縦に振った。」
「彼女は学園での成績や周りからの評価も高かったと聞く。さぞ素晴らしい伯爵夫人になるだろうな」
機嫌良く私は笑った。
「正しく、誠意というものは伝わるものさ」
本当は少し違う。
誰より先に動き、誰より多く通い、誰より多く贈った。
金も使ったし人も使った。これを努力と言わず何と言う。
そして私は競争に勝ったのだ。その高揚感が何より心地良く、誇らしかった。
◇
結婚生活は順風満帆だった。
最初の数ヶ月は。
ふたりで顔を合わせて午前の食事を摂り、それぞれの予定をすり合わせ、夜会での彼女は誰より美しく微笑みを湛え、私の腕に手を添える。私たちは皆の羨望を集めた。
私は満足していた。だが暫くすると、少しずつ違和感を覚え始めた。
ある日ふと、家令からの報告を聞いていたクローディーヌが口にした。
「今年の狩猟会ですが、少し回数を減らしてはいかがでしょう」
「なぜだ?」
狩猟会は紳士の社交であり、男性らしさを目に見えて誇示できる場でもある。私は狩猟を好んでいる。それは彼女も知っているはずだ。
報告書を見ながらクローディーヌは続ける。
「馬も犬も維持費がかかります。近年は獲物も減っていますし」
なぜ金の話になる。狩猟会に参加しないなど、まるで私が吝嗇家のように思われるではないか。
だんだんと苛立ってくる。
「旦那様、家令からの報告書はお読みになりましたか」
ムッとした私は、もう彼女の意見など聴く気にはなれなかった。
「あとで見る」
「招待状のお返事もございますので、せめて今月中に判断しませんと」
「まだ言うか!」
書類や金の話にはうんざりする。男には男の付き合いがあるし、貴族同士の酒席も狩猟も必要経費だ。
それなのにクローディーヌは細かい話ばかりしだすようになった。
ある夜などは
「領内南部の橋ですが」なんと寝室にまで報告書を持ってきた。
これにはさすがに私も閉口した。
「それは今でないといけないのか」
「明日ですと忘れてしまわれます」
「忘れはしない」
これはひょっとして馬鹿にされているのか?苛立つ。
すかさずクローディーヌが言う。
「では今お決めください。雨が続くと流されてしまうほど弱くなっていると報告が来ております」
「長雨など降ってはいないではないか!」
やれやれ。
結婚前はこんな女ではなかった。
もっと静かで、可憐で、上品に微笑んでいるだけの女性だったはずだ。
そう思っていた。
◇
やがて彼女は身籠った。当然、最初は嬉しかった。跡継ぎが生まれる!これで伯爵家は安泰だ。
だが月日が経つにつれ、彼女は別人のようになっていった。
腰は丸くなり、腹は膨らみ、青白い顔で吐いてばかりいる。髪も以前ほど艶がない。肌も荒れ、夜会にも出なくなった。
あの誰もが振り返る美貌は、今や見る影もない。
私は思わずため息をついた。こんなはずではなかった。
結婚したら、ずっとあの美しい姿でいてくれるものだと思っていたのに。心底落胆した。
子が生まれても変わらなかった。
いや、さらに悪くなった。
赤子は夜中じゅう泣き続ける。彼女は子を抱きながら家令からの報告書を読む。
赤子など乳母に預けていればいいものを。
直接乳などをやるからさらに体型が崩れるのだ。そのくらいは友人たちから聞いて知っている。しかしそれを伝えても決して自分の手から離さない。こんなに言うことを聞かない女だったとは。
朝食の席でお茶を置いたままクローディーヌが話し出す。
「旦那様、昨年の雨で小麦の収量が減りました。納める税のことも心配ですが、念のため今年は使用人を二人減らしてはいかがでしょうか」
私は茶をゆっくり楽しむ気持ちがなくなった。ため息をつく。
「またそんな話か」
「このままでは国に収める税収が足りなくなるかもしれません」
「大袈裟だ」鼻で笑って答えたが、どこまでも口うるさい。
「では別荘を手放すか、狩猟犬の半分を売却。または馬を」
「駄目だ。必要経費だとなぜ分からん。いい加減にしろ!」
思わず机を叩く。茶器が揺れて小さく音を立てた。壁際では侍女と従僕が息を潜めるように黙って立っている。
「旦那様」彼女は静かにこちらを見ていた。
その目が気に入らないのだ。
諭すような、憐れむような。まるで私が子供であるかのような。そんな目だった。
◇
夫婦の諍いは次第に増えた。
彼女は何時も同じようなことを言う。
「伯爵家は領民によって支えられております。どうか災害に備えるお金を残してくださいませ」
またこんな話か。
「だから何だ。今年は豊作だ」
「来年もとは限りませんし、もし長雨や嵐が来たら」
何を言っても悲観的だ。そもそもこちらを諭すような言い方が気に入らない。
ある日、私は酒を飲んで帰宅した。それはいつもの友人たちとの宴だった。私にとっては、疲れた男同士の気晴らし。そして噂話の収集という大切な意味のある会合でもある。
程よく酔いが回り、気分良く部屋へ入ると彼女は子供を寝かしつけていた。
クローディーヌはこちらを振り向きもせず言った。
「またお酒ですか。今月だけで六度目です」
「紳士の大事な付き合いだ」
いちいち数えているのが腹立たしい。こういう細かいことを言い募ってくるのが気に食わない。
寝台近くから立ち上がってこちらを見るクローディーヌ。
「少しは摂生してくださいませ。何よりこの子の先々を」
また金、報告書、そして説教か!不意に我慢の糸が切れた。
「お前はいつから私に命令する立場になった!」
頬を打つ音が部屋に響いた。
彼女はよろめいたが、倒れなかった。頬を押さえ、しばらく黙っていた。
そして静かに言った。
「旦那様…」
泣きもしない。怒鳴りもしない。ただその目だけが、初めて私を他人を見るように見つめていた。
その日から、屋敷の空気は変わった。
彼女は以前と同じように家政を取り仕切り、領地の報告書に目を通し、静かに子を育てた。だが、私には必要最低限しか話しかけなくなった。
礼は尽くす。頭も下げる。笑みも浮かべる。それなのに、どこかひやりと冷たかった。それはまるで社交界で他家の当主と接するような、距離のある礼儀だった。
それが癪に障った。私は夫だ、他人ではない。なのに彼女は壁を作った。美しさをこんなにも損なってきているくせに!
そんなある日、また口論になった。
「今年も狩猟会を開かれるのですか」
帰宅した私のコートを受け取り、従僕に渡しながらクローディーヌが声をかけてきた。腕には赤子を抱えているが、今日は珍しく泣いていないようだ。久しぶりに近くで聞く彼女の声に、私は機嫌良く答えた。
「そうだ。隣領で減った回数分、こちらで穴埋めをすると請け負った」
「領地に干ばつの兆しがあります。井戸の水位が下がったと報告が」
「占い師か、お前は」こんな根拠ともいえないものに振り回されているのか?なんと哀れな女だ、物を知らない。
居間に移動して長椅子に腰掛ける。従僕に茶の準備を申し付けてタイを緩めた。そのまま私を追ってきたクローディーヌが、縋るような目をして言葉を続けた。
「お願いします。領民のためにも備蓄を優先してくださいませ」
まだ言うのか。
「いい加減にしろ!」私は立ち上がり、彼女を突き飛ばした。
クローディーヌがよろめき、抱いていた娘が泣き出す。彼女は自分の身体より先に、すぐに子を抱き直した。その姿に、なぜか私は無性に腹が立った。
「出て行け!」
彼女は何も言わなかった。
「聞こえなかったのか。もう我慢の限界だ!離縁する。出て行けと言ったんだ」
少し間を置いて、彼女は静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
翌朝、彼女は玄関に立っていた。
荷物は驚くほど少なかった。自分の衣服、本、娘のもの。馬車一台分に収まる程度。
宝石や嫁入り道具は知らぬうちに無くなっていた。そして最後に彼女は振り返って言った。
「娘は、わたくしが育てます」
「好きにしろ」あんなうるさいだけの赤子など不要だ。
扉が閉まった。
泣き叫ぶこともなく、縋ることもなく。クローディーヌは静かに去っていった。
◇
半年ほどして、男爵家の次女が行儀見習いとして屋敷へ来た。さほど美しくはないが、若くて愛想が良い。
きっかけは従僕と一緒に、私の休息にと茶を入れてくれていた時だ。
「あら、旦那様、お顔の色が優れませんがお疲れでしょうか」
本来使用人はこちらから声をかけない限り勝手に発言してはならない。
しかし彼女は心底心配そうに言ってくれたのだ。そして少し話してみると、私の話を笑顔で聞いてくれた。
「旦那様は本当にお忙しいのですね」
「まあ、そんなに働いておられるなんて」
「きっと奥様は少し厳しすぎたのでしょう」
口うるさい小言は言わない。いつでもこちらの話を聞いてくれる。
ようやく分かってくれる女性に出会えた。そう思ったから、再婚は早かった。
彼女は私に一切口答えしなかった。
狩猟へ行けば笑顔で送り出す。酒を飲んでも何も言わない。贈り物をねだることはあったが、それくらい可愛いものだ。美しさはさほどではないが、何より若く、クローディーヌより、よほど女らしい。
そう信じていた。
だが二年ほど経った頃。
普段あまり顔を見せない代官が訪問してきた。代官には領地を任せている。その代官が、家令と揃って執務室に訪れると、帳簿を手に家令が青ざめた顔で申し出てきた。
「旦那様」
「何だ、珍しいな。揃ってどうした」
まるで決死の覚悟、とでもいうように家令が帳簿と報告書を差し出した。
「このままでは三年もちません」
驚いて久しぶりに報告書と帳簿を見た。家令と代官に任せきりにしていたものだ。二年分。
領地は赤字。借金まではしていないが、請求通りに支払いをするならば、足りないどころか国に収める税分まで食い込む状態。別荘は増え、馬車は新調され、宝飾品は山ほど買われ、使用人まで増えていた。
「以前の奥様が、お手持ちの宝石や嫁入りの道具を売ってくださったお金でしばらくは持ちましたが、それももう尽きました」
家令が言った。そんなこと私は知らない。
「奥様のお買い物だけではございません」
代官も言った。
「狩猟会も宴も以前より増えております」
そこでようやく私は気付いた。浪費していたのは私もだ。妻だけではなかった。
口うるさく言われることを嫌う私を、家令も代官も知っていた。知っていたからこそ、今まで黙っていたのだろう。やっとそれが分かった。
だが、もう遅かった。
後妻とは離縁した。慰謝料を払って実家に帰した。
残念なことに、この二年では後継者たる子供はできなかった。
私は家令と代官に頭を下げ、狩猟をやめ、酒席も断り、別荘を売り、馬を減らし、犬も手放した。そして橋を修復し、用水路を整え。
仲がいいと思っていた友人たちは、実は嫉妬をしていたことや、私が開く酒宴目当てだったということも、きちんと情報を集め出した途端に、理解した。
騎士爵のエティは騎士で身を立てることができず平民になり、バティストは結婚したが間も無く離縁されたと聞いた。円満な夫婦関係を保っているのは惚気ていたギャスパールだけだった。つまりは結局、あいつらの言うことなどその程度のことだったのだ。若き日に見ていた未来は、こうではなかったのに。
それから十年以上。私はひたすら働いた。
そしてようやく伯爵家は立ち直った。
……皮肉なことに。昔、クローディーヌが言っていたことを、私は一つ残らず実行していた。
◇
身体の異変に気付いたのは、その頃だった。
疲れが抜けない、咳が止まらない。
医師は静かに首を振った。
「残念ながら、もう長くは…」
まだ私は五十にもなっていないのに。神は残酷だ。しかも直系の後継もいない。
医師からは、流行病ではなく腹の中に悪い物が出来ていて、それが大きくなると状態が悪化するのだと聞いた。
今のところ、少し無理をすれば普通に振る舞える程度の病状だ。分家から誰かを養子に迎えるべきか。
そう考えた私は、久しぶりに社交に出て情報収集を行うことにした。
そしてある日、社交界で思わぬ話を聞いた。
「子爵家のお嬢様をご存じですか」
「セレスティーヌ様でしょう?母君によく似て大層な美人で」
「亡きお祖父様の跡を継いで子爵家のご当主になられるそうですよ」
セレスティーヌ。なんとそれは私の娘だった。
あの子が、生きていた。十八歳になっていた。母親にそっくりだという。
夜会の片隅でひとり静かにグラスを握りながら、私は胸が熱くなるのを感じていた。
今なら。今ならやり直せる。伯爵家は娘に継がせよう。そうだ、それがいい。きっと喜んでくれる。
なにしろ血を分けた実の親子なのだから。
◇
いまさら子爵家に手紙を出すのには多少躊躇したが、なに、そこは伯爵家の家格の方がやはり高い。後々の娘のためでもあるのだと思い切って手紙を書いた。
娘はきちんと手紙の返事をくれた。そして我が屋敷を訪れてくれた。
侍従に案内されて玄関から入ってきた女性。私は彼女を一目見て息を呑んだ。まるで妻だった。
いや、違う、娘だ。だが銀髪も紫の瞳も、その微笑みも。その歩き方も、指先の動きまで、若き日の妻そのものだった。
「本日はお招きいただきありがとうございます、モンフォール伯爵」
美しい角度で礼をとる彼女。
お父様、ではないのか。少し寂しい気がしたが、初の顔合わせでもある。仕方がない。私は鷹揚に笑って迎えた。
そうして、彼女に伯爵家を継いで欲しいこと、今ある財産の分与、私が亡き後の整理について相談をした。
セレスティーヌは静かに微笑みながら、私の話をよく聞いてくれた。
だんだんと、私は寝付く日が増えていく。
セレスティーヌは毎回、見舞いだと美しい花を持参してくれた。
ある日は釣鐘型の紫の花、ある日は青紫色の兜のような形をした花。またある日は白い小さな花が可憐に集まっていてレースのような葉の花。
紫はクローディーヌの瞳の色、そして白い花はまるで彼女の立ち姿。こんなところまで気遣ってくれる、優しい女性に育っていたとは。
そしてセレスティーヌはいつも羊皮紙、インク、羽根ペンも持参していた。
これもおそらく、こちらの使用人をいちいち呼び出さずに済むよう、気遣ってくれているのだろう。そのうえ役所へ出す書類を整え代書をして役人との交渉まで引き受けてくれた。
そうして半年ほど過ぎた。
セレスティーヌは欠かさず屋敷に通ってきてくれた。
彼女は実に優秀だ。美しいだけではなく、このように賢いとは。さすが私の娘だ。なんと誇らしい。
この頃はもう日常のほとんどを寝室で過ごすようになっていた。常に腹がじわりじわりと痛むし咳も出る。
寝台の横の小卓から水を入れたグラスを、セレスティーヌが差し出した。
それを受け取り唇を湿らせて、ゆっくり喋る。
気持ちを言葉にするのは大切なことだと私は学んだのだ。心からの感謝を込めて伝えた。
「本当に助かるよ」
ゆっくり微笑んで慎ましやかに娘は答える。
「大変光栄ですわ。伯爵、こちらにもご署名ください」
「ああ、任せる」
起き上がることが難しくなってきた私に、サインだけで済むよう、支板に乗せた書類とペンを差し出してくれる。
セレスティーヌはお茶を勧めても飲まない。菓子にも手を付けない。律儀な子だ。母親譲りなのだろう。
自分でもはっきりと自覚ができるくらいには、日に日に私の容体は悪化していた。しかしその中でも毎日のように訪問してくれる美しい娘が、いつのまにか私の安らぎになっていた。
私は幸せを噛み締める。人生最後に、ようやく親子の時間を、心の安寧を取り戻せたのだから。
◇
そして今日。
小さな花が集まって咲いているような、紫色で鈴なりに咲く華やかな花と白百合を見舞いに持参して、セレスティーヌは静かに言った。
「本日、すべての手続きが完了いたしました」
「そうか」私は安堵した。「ありがとう。とても助かった」
彼女はいつものように優雅に一礼した。
花瓶に白百合を生け、小卓に紫色の花の鉢をそっと置くと、窓辺から風が入り、銀髪が揺れた。
まるで若き日の妻がそこに立っているようだった。
「疲れただろう。お茶を持って来させよう」
「いえ。お気遣いなく」
やはり断られたか。どこまでも慎ましいことだと私は少し笑った。
「遠慮しなくてもいいんだよ」
娘は静かに首を横へ振った。
「いいえ。遠慮ではございませんわ」
そう言って、書類を机へ置いた。
「モンフォール伯爵」
その呼び方に、胸が少しだけ痛む。
「ありがとうございます」
一拍置いて、彼女は続けた。
「ありがとうございました、伯爵」
不意に違和感を覚えた。過去形?
「手続きは全て終わりました。わたくし、貴方から銅貨一枚たりとも受け取りたくありませんでしたので、全ての遺産は養護施設と神殿に寄進されるよう手続きいたしました。もちろん爵位もいりませんわ。わたくしの祖父と母から継ぐ子爵位だけで十分です」
思考が止まった。いったいセレスティーヌは何を言っているのだ。
「ですので、爵位はあなたが亡くなり次第、国に返上となります」
私は身体を起こそうとしたが、すっかり弱ってしまった体には、もう力が入らない。
それを軽く手をあげることで押し留める仕草をし、彼女はいつものように礼儀正しく淑女の笑みを浮かべた。
部屋は静かで、百合の花の香りだけがわずかに届く。
娘は、ただ静かにこちらを見下ろしていた。
「では、ごきげんよう伯爵」
美しく、微笑んで。娘は部屋を去っていく。
扉が静かに閉まる音だけが響いた。
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※裏テーマは「美しい花」です。




