ずっとって言ったじゃない……
今日、私は父の死刑執行書に署名する。
机の中央に置かれた一枚の書類を、もう何度読み返したか分からない。
罪状も、判決も、執行の手順も、すべて頭に入っている。
今さら読み返す必要などなかった。
それでも、最後の一行まで目を通しては最初へ戻り、同じ文字を追っている。
父が王位を退き、私がその座を継いだ日から、父は罪人となり、私はこの国の女王となった。
机の端に置いていたペンを手に取る。
指先が触れたところで、ふと昔のことを思い出した。
まだ文字を覚え始めたばかりの頃、私はよく父の執務室へ忍び込んだ。
忍び込んでいるつもりだったのは私だけで、扉の前に立つ侍従には毎回見つかっていたのだけれど。
「お父様、何してるの?」
「仕事だ」
机いっぱいに書類を広げていた父は、顔も上げずに答えた。
「いつ終わる?」
「あと少しだ」
「さっきもそう言ってたよ」
そこでようやく父が顔を上げた。
「そうだったか?」
「そうだったよ」
「では、本当にあと少しだ」
絶対に嘘だと思った。
だから私は父の机の横へ椅子を運んでもらい、そこで待つことにした。
何もしないで待っているのは退屈だったので、父から紙を一枚もらって絵を描いた。
父の顔を描いたつもりだった。
出来上がったものを見せると、父はしばらく絵とにらめっこしていた。
「……これは私か?」
「そうよ」
「そうか」
「似てるでしょう?」
「…………そうだな」
あの沈黙の意味が分かったのは、もう少し大きくなってからだった。
思わず口元が緩みそうになり、私は目の前の書類へ視線を戻した。
今日、父は死ぬ。
それを執行するための書類が、私の前にある。
裁きはすでに終わり、父自身も罪を認め、判決を受け入れている。
あとは現国王である私が刑の執行を承認するだけだった。
かつて国外から持ち込まれ、多くの民の命を奪った毒物があった。扱いを誤れば人を死に至らせる一方、正しく用いれば薬にもなる。
父はその毒物の国内への持ち込みを全面的に禁じ、用途や量、理由を問わず、禁を破った者は極刑に処すと定めた。
その法を、父自身が破った。
私を生かすために。
数年前、私は一度、生死の境をさまよった。
国内で手に入る薬は効かず、医師たちは日に日に言葉を失っていったという。
私自身は、ほとんど覚えていない。
高い熱に浮かされていたこと。
目を開けると母がいたこと。
時折、父が枕元に座っていたこと。
覚えているのは、それくらいだった。
後になって知った。
私を救える可能性が残されていたのが、父自身が国内への持ち込みを禁じた毒物から作られる薬だったことを。
父は法律を変えなかった。
王女を救うためだけに、一度定めた法を曲げることはしなかった。
その代わり、一人の父親として法を破った。
商人に命じ、必要なものを国外から密かに持ち込ませた。
私は助かった。
けれど、その密輸の途中で商人が起こした行為によって、何の関係もない民が命を落とした。
そこから調査が始まり、やがて依頼主である父へと辿り着いた。
父は何一つ否定しなかった。
娘を救うためだったとも、必要だったとも、仕方がなかったとも言わず、法を破った事実を認め、判決を受け入れた。
私はペンを握り直した。
父が私を助けなければ、この書類は存在しなかった。
そして父が私を助けなければ、今ここに座っている私も存在しない。
それでも。
私は書類の末尾へ自分の名を書いた。
これで父は今日、死ぬ。
◇
最後の面会を求めたのは私だった。
父が収容されている部屋へ入ると、父は窓辺の椅子に腰掛けていた。
地下牢ではない。
逃亡のおそれもなく、判決にも従っている前国王には、王城の一室が与えられていた。
父が私に気付き、こちらへ顔を向ける。
私は一瞬だけ迷ってから、その前まで歩き、向かいに置かれた椅子へ腰を下ろした。
「よく眠れたか」
最初に父が口にしたのは、そんな言葉だった。
「……眠れるわけがないでしょう」
「そうか」
「お父様は?」
「よく眠った」
思わず父の顔を見た。
「こんな日にも?」
「こんな日だからといって、眠らずにいれば何か変わるのか?」
「変わりませんけれど……」
昔からそうだった。
大雨の日も、雷の夜も、父はよく眠った。
幼い頃、大きな雷の音で目を覚ました私は、侍女の制止も聞かず父の寝室へ駆け込んだことがある。
扉を開け、眠っている父の腕を何度も揺らした。
「お父様! お父様!」
「……なんだ」
「雷!」
「聞こえている」
「怖い!」
ようやく目を開けた父は、しばらく私を見たあと、大きな雷が落ちた音にも眉一つ動かさなかった。
「雷よりお前の声の方が大きい」
「だって怖いんだもの」
「分かったから、もう少し小さな声で怖がってくれ」
結局、その夜は父の隣で眠った。
翌朝、父は寝不足だと言いながら朝食を取っていた。
今でも覚えている。
どうして、こんなことばかり思い出すのだろう。
もっと大切なことがあったはずなのに。
父から教わったこと。
初めて公務へ連れていってもらった日のこと。
王族として叱られた日のこと。
なのに浮かんでくるのは、どうでもいいことばかりだった。
「署名したのか」
父の声で、現在へ引き戻された。
「……はい」
「そうか」
それだけだった。
「お父様」
「なんだ」
「私を助けなければよかったと思ったことはありませんか」
父はすぐには答えなかった。
「そうすれば、お父様は今も王でいられた。今日、死ぬこともなかった」
「そうだな」
「だったら――」
「だが、法を破ったのは私だ」
言葉を遮られた。
「商人へ命じたのも私だ。あれを国内へ持ち込ませたのも私だ。お前ではない」
「でも、私のためでしょう」
父は答えなかった。
「お父様なら、法律を変えることもできたでしょう」
「できた」
「では、どうして」
「娘を救うために法を変える王にはなりたくなかった」
「それなのに、法を破ったのですか」
「ああ」
あまりにもあっさり認めるので、言葉が続かなかった。
父は少しだけ目を伏せた。
「王としては、見捨てるべきだったのだろうな」
胸の奥が痛んだ。
「だが、できなかった」
それ以上、父は何も言わなかった。
私も何も言えなかった。
しばらくして、父が私の頭へ視線を向けた。
そこには、即位の日から私が身につけるようになった王冠がある。
「王冠は重いか」
「……ええ。とても」
「そうだろう。だから以前、お前にはまだ早いと言ったんだ」
その言葉で、また昔の光景が蘇った。
父の執務机の上に置かれていた王冠を見つけ、どうしても被ってみたいとねだった日のこと。
「私も被る!」
「まだ早い」
「被りたい!」
「重いぞ」
「大丈夫!」
両手で持ち上げようとして、本当に重くて驚いた。
「おもい!」
父は声を上げて笑った。
「だから言っただろう。お前にはまだ早い」
あの頃は、ただ王冠そのものが重いのだと思っていた。
「……今なら、分かります」
「そうか」
父はそれだけ言った。
やがて扉の向こうから、時間を知らせる声が聞こえた。
私は立ち上がった。
言いたいことは、たくさんあったはずだった。
ありがとう。
大好きでした。
行かないで。
死なないで。
どれも口にはできなかった。
ここにいる私は娘である前に、この国の女王だった。
「では」
ようやく出たのは、それだけだった。
父も立ち上がった。
「ああ」
私は扉へ向かった。
あと数歩で父の顔が見えなくなる。
それでも振り返らなかった。
振り返れば、女王ではいられなくなる気がした。
◇
午後になって、刑が執行された。
報告を受けたのは、執務中だった。
「前国王陛下の刑が、先ほど執行されました」
手にしていた書類から目を上げる。
「……分かりました」
報告に来た者が一礼して退出する。
扉が閉じた。
私は次の書類へ手を伸ばした。
今日中に確認しなければならないものが、まだ残っている。
一枚読み、署名する。
次の一枚を読む。
外が暗くなるまで、それを繰り返した。
◇
夜になってから、私は一人で父の執務室へ向かった。
父が王位を退いてから、ほとんど使われていない部屋だった。
扉を開ける。
机がある。
椅子がある。
書棚も、窓も、幼い頃から何一つ変わっていないように見えた。
私は机へ近づいた。
昔、父の仕事が終わるのを待ちながら、ここで何枚も絵を描いた。
父の横顔。
庭の花。
飼っていた犬。
何を描いたのか分からない線だけの紙もあった。
ある日も、私は父の隣で絵を描いていた。
「お父様」
「なんだ」
「明日もいる?」
父は書類から目を離さずに答えた。
「ああ」
「明後日も?」
「いるよ」
「その次も?」
「いるとも」
私は少し考えた。
子どもの私には、三日より先がひどく遠い未来に思えた。
「ずっと?」
そこで父が手を止めた。
私を見て、笑った。
「ずっとだ」
それを聞いて安心した私は、また絵を描き始めた。
疑いもしなかった。
お父様は明日もいる。
明後日もいる。
その次の日もいる。
ずっといるのだと。
私は空になった椅子へ手を伸ばした。
触れても、当然そこには誰もいない。
今日まで、泣かなかった。
父が犯した罪を知っているから。
その罪によって命を失った民がいることも知っているから。
女王である自分が、父の死を嘆いてはいけないと思っていた。
けれど今、この部屋には誰もいない。
女王として見ている者もいない。
空っぽになった父の椅子を前にしているのは、ただの娘だった。
視界が滲んだ。
椅子の背に置いた手へ、涙が一滴落ちた。
「……ずっとって言ったじゃない」
返事はなかった。
私は、もう一度だけ呼んだ。
「……お父様」
けれど、今度はどれだけ待っても、父が返事をすることはなかった。




