千年後
昔々、ここらがまだ芹江と云う名の村だった頃の話です。
栗子という青年が浜辺の家に一人で住んでいました。
とても泳ぎが上手な漁師で、日の出から日の入りまで海に潜り、魚や貝を捕まえていました。
そのため、栗子の家は昼の間は誰もいませんでした。
村の人たちは彼のことを、空家の栗子と呼ぶようになり、彼が海に出ている間に、山や畑で採れた食材を家の前に置くというのが習慣でした。
栗子はそのお返しとして、海で捕れた魚を、夜に村民を集めて分けるのでした。
ある日の未明、栗子がいつものように海に出る準備をしていると、遠洋で何かが光るのが見えました。
栗子はどうしてもそれが気になり、暗い海を泳いでいきました。
海の冷たさは針に刺されているかの様で、水面下を掻く自分の体が全く見えないと云うのは、とても恐ろしいことでした。
しかし、夜明けを待てないほどに、その光は栗子の興味を引いたのでした。
一時間ほど泳いで、その光っている物の元へ辿り着き、よく観てみると、それは小柄な鯨でした。
一頭の鯨が腹を上にして、光りながら漂っていたのでした。
どうして光っているのだろうか、と気になった栗子は黒い海に潜り、鯨の全容を確認しようとしました。
しかし、海の中から鯨を見るとそれは、黒くて長い髪を持ち、五色の着物を纏った姫君になっていたのです。
驚いた栗子は泳ぎ方を忘れ、そのまま海の底へと沈んでしまいました。
栗子が目を覚ますと、周りは花畑でした。
彼は自分が溺れてしまったことを少しずつ思い出し、「ここはあの世か、あの世なのだろう」と思いました。
体を起こすと、溺れる間際に見た姫君が驚いた顔で、こちらに駆け寄ってきました。
「ああ、やっとお目覚めになったのですね。もう千年も眠っていらしたのですよ」
「千年だって?!」
栗子は飛び起きました。
そして、自分の体を隅々まで見ましたが、年老いているようには見えませんでした。
「千年も寝ていたというのなら、ここはやはりあの世か」
と、栗子が観念したように言うと、
「いいえ、ここはあの世ではございません。海の中にある『界嶺山』という国でございます」
確かに、よく見ると花だと思っていたそれらは、色とりどりの海藻や珊瑚でした。
「すると私はまだ死んでいないのか?」
栗子が尋ねると、姫君は「ええ」と頷きました。
「それなら、私を元の世界に帰していただけませんか? 芹江の空家に帰りたいのです!」
それを聞いた姫君は驚いて口をあんぐりとさせましたが、すぐに栗子の方に向き直って言いました。
「私は本当に感動しています。私と会った殿方は皆、私の名を尋ねるのです。それは純粋な質問ではなく、卑しい心を持って尋ねてくるのです。それなのにあなた様は故郷のことを第一に案じていらっしゃるのです」
姫君は栗子の郷愁の念に敬服し、彼の帰郷を約束しました。
姫君は沢山の泡を操って自分の姿を隠すと、次の瞬間には鯨になっていました。
そして栗子を乗せて、浜辺に送り届けたのでした。
栗子がいなくなってから千年経った浜辺には、彼の家はありませんでした。
しかし、家があった場所には神社が立っていました。
彼は通りかかった青年に、その神社のことを尋ねました。
すると、
「あれは昔、栗子という漁師が行方不明になってから百年が経ったときにできたものだそうです。村の人が世代を越えて空家を管理して、いつでも栗子が帰ってこられるようにしていたのですが、ある日家が急に神社になってしまったそうです」
と、言いました。
「誰がそんなことをしたんだ?」
と、尋ねると、
「当時の人達も誰の仕業か分からなくて、気味悪く感じたそうです。そして、神社をどうするか考えていたとき、境内に栗の木が生えていることに気付いたのです。実を食べてみると大変美味しかったので、この神社はここに残されたそうです」
と、答えました。
栗子がその後、どのように暮らしたのかは分かっていません。
しかし、栗子と栗の木にあやかって、この街の名は栗江となり、この街で育てられた栗は、「空栗」と呼ばれるようになったのです。
◆◇◆
「これが一般に言う『からくり物語』の元ネタの現代語訳版だ。2000年度に市が発行したものだ。俺は千津市に住んでるから持ってなかったけど、この学校の図書館には十冊くらいあった」
そう言って潮戸先輩は背表紙を軽く叩いた。
「知ってる話と少し違ったなー」
俺は少し当惑していた。
浜に打ち上げられた鯨を助けたらそのお礼として海の底の国へ連れて行ってくれた。
鯨の正体は美しいお姫様で、主人公は二人で楽しく海の底の国で暮らした、と云うのが世間一般にも聞き馴染みのあるものだろう。
ちなみに『からくり物語』の舞台が栗江市だと云うことは、引っ越しが決まった際にリサーチしていたので、一応知っていた。
とはいえ、そのとき初めて知ったのだ。
『桃太郎』の舞台が岡山だと云うことと同じくらい全国に知られていてもいいと思う。
「白鉄は最近ここに越してきたんだろ?栗江の人間に『からくり物語』がどんな話か訊いたら、皆こっちの方を答えるぜ」
潮戸先輩は誇らしげに言ったが、俺は今年ここに越してきたことを伝えた覚えはない。
悪趣味なことに、俺が鈴熊さんと話しているときには既にストーキング、盗聴をしていたのだろう。
「原典は鎌倉中期に編纂された『拾話草木』の中の『空栗子伝説』。御伽噺として書かれているが、西暦1026年、藤原頼通が都で幅を利かせていた時代のこの街で、実際に起きたことだと民俗誌に書かれている」
「え?実際の出来事って云うのはつまり……栗子は実在したってこと?」
潮戸先輩は頷き、掠れた指パッチンをした。
「そうなんだよ。当時の戸籍も残っている。1026年8月9日の、まだ太陽が昇らない時刻に何か光る物が海に浮いていたって云うことや、栗子が海を泳いでいたって云う目撃情報も記録されている。その後行方をくらませたってこともね。鯨とかからのくだりは想像で書かれたフィクションの部分だ」
潮戸先輩は本をラックに戻した。
「千年後に、栗子が栗江に帰ってきたときの記録はないの?」
俺はずっと気になっていたことを質問した。
ロマンはあるが、平安時代の証言なんて信じられないし、戸籍をまとめるシステムだって堅牢ではないだろう。
当時からノンフィクションっぽいフィクションはあったはずだ。現に俺は、つい最近『源氏物語』がフィクションだと知った。
帰ってきたときの記録があるのなら、千年前の記録より信憑性が高いはずだ。
…………千年前?
「……もしかして、栗子が帰ってくるのって……2026年8月9日?!」
「せいかーい! で、ここからが本題」
そう云えば、この部の活動内容がそもそもの話題だった。
「俺達は栗子を捕まえて売り払う。そして、金持ちになる!」
倫理観!と云う叫びが一番速く心に興った。
俺は本当にやばい団体の勧誘を快諾してしまったらしい……。




