これはギターではない
2026年7月20日の午前11時、私――鈴熊嘉洋は昼食の用意をしていた。
コップと箸を2人分、皿は二人分だが1つの席には大皿を置いておく。成長期真っ只中の孫の分だ。
栗江中学校は今日が学期末だ。二コマの定期テストを終えれば夏休みなのだ。
今年の春に東京から私の住む栗江市に、半ば本人の反対を押し切る形で越させたが、彼は直ぐにクラスに馴染めたようだ。
もう家に着いていてもおかしくない時間だが――私の家は栗江中すぐ近くなのだ――今頃は学友と一番点を取れてそうな科目を言い合っているのだろう。
栗江の子ども達は挨拶がとても朗らかだ。
ゲームやスマートフォンやらで人との交流の希薄化が囁かれている――それが科学的根拠に基づいた正しい見解なのかは知らないが――時代の中でも変わらない人間の温かさを感じるのだ。
坂の上にあるこの家の窓からは住宅街を一望できる。そしてその先には海岸線を沿うバイパスが見える。その向こうには海がある。
その海と白砂の様に、人は多いが和やかな街だと思っている。
和やかな街の夏休みの始まりと云うのは、この世で最も平和な時間の一つだと、私は確言できる。
しかし、今年の夏は少し違った。いや、実は"少し"ではなかったのかもしれない。
2026年7月20日の午前11時22分、唐突に響いた銃声は、"今までとは違う夏休み"の合図だったのかもしれない。
しかし、結局私は何がいつもと違うのか判断することはできなかった。
まるで音だけ聞こえる、山の向こうの街の花火だ。何か凄いことが起きているのは分かるが、実際にどんなことが起きたのか、私は知ることができなかった。
それを知ることができたのは、きっと夏休みを一番謳歌できる世代の子ども達だったのだろう。
私が唯一知っているのは、午前11時22分、私の家の近くで発砲する音が聞こえたと云うことだ。
2026年7月20日 午前11時25分
遂に夏休みが始まった。この街に来て初めての夏休みだ。
ゲーセン、楽器店、図書館、映画館など遊べる施設は揃っているし、場所も大体把握できた。
家から駅までが遠いのが玉に瑕だが、この街一つで娯楽は充実している。
高校だって良い所だ。
中学校と隣接している点には驚いたが、それに迷惑したことは一度もない。
中高合同の部活もあって、他学年との距離が近い。
「そして何より、高校の前にコンビニがある。+30点」
静かな公園の赤いベンチで、買ったメロンパンを食べ終わった俺は誰にともなく呟いた。
ギターに溢れたクズを払い、また気の向くまま弦を弾く。
すると、公園に警察官が入ってきた。
しかも真っ直ぐ俺の方に小走りで近付いてくるので――もちろん一切犯罪はしていないが――思わず立って挨拶をしてしまった。
「こんにちは。あの、俺学校を抜け出したわけじゃないんです。今日は定期テストで早帰りなんですよ……」
俺の予感に反して警官は表情を崩し、
「今日から夏休みなのは制服を見れば分かりますよ。長いこと栗江B高校の前の交番に勤めているので。私は君に質問をした後に警告しようと思っているんです。"銃声の様な、爆発する様な音が聞こえなかったか?"と云う質問なんですが……」
「銃声ですか!?特に聞こえなかったすけど……。もしかしてあんまり外を彷徨かない方がいい感じですか?」
心臓が跳ねるのを感じる。
この人柄の良さそうなお巡りさんが腰のピストルを抜いて、「私が撃った音なんですけど……」と言ってきたりしないだろうな。
……まあ、絶対にそんなことは起こらないだろうが。
「ご協力ありがとうございます。そうですね、せっかくの夏休み初日ですが、できるだけ速く家に帰るようにして下さい」
お巡りさんは優しい笑顔のまま会釈し、公園の出口に向かっていく。
間違いない。良い人だ。
長年高校の正門前の交番に勤めていると言っていたが、それは地域の方から信頼されている証だろう。+50点。
更に、今日を夏休み一日目と言っていた。+100点。
俺は今年の四月にこの街に来た。生まれ育った町との空気感の違いには少し驚いたが、安寧に包まれた場所だと云うことが毎日伝わってくる。
銃殺事件とは縁がなさすぎる街なので、きっとボケた爺さんの妄聴だろう。
とはいえ、お巡りさんに心配はかけたくないし、公園に居座る理由もなくなった。今日はもう帰ろう。
俺がベンチから立ったときだった。
「谷さーん、犯人見つかったのかーい?」
別のおじさんが入ってきた。
いや、お爺さんと言うべきかもしれない。
その鼈甲色の縁の眼鏡と垂れ目、誤魔化そうとしている禿頭には見覚えがあった。
確か、引っ越し作業中に新宅の前を通りかかった人だ。
どうもご近所さんらしく――あれから今日まで会うことはなかったのだが――挨拶を交わした覚えがある。
"鈴熊"と云う変わった氏だったはずだ。
「鈴熊さん、だめじゃないですか!このタイミングでの外出が危険だと云うことは、通報者であるあなたが一番に理解していないといけないんですよ!」
なるほど。鈴熊さんが銃声を聞いて通報、谷巡査が現在調査中と云うわけか。
それなら話が早い。
「あのー、すみません。鈴熊さんですよね?引っ越してきたときにお話した白鉄です」
「おー久し振り。アキラ君だっけ?そうか、B高生か。私の孫は栗江中に通っていてな、会ったときには優しくしてやってくれ。それとこの前……」
「鈴熊さん……!世間話をしている場合じゃないんです。栗江市において類のない事態が起こっているんですよ!」
俺は仕舞っていたアコースティックギターをケースから再び取り出した。中二のクリスマスに買ってもらったヤツだ。
「鈴熊さんは銃声を確かに聞いたんですよね?……その音はこんな感じだったんじゃないですか?」
掻き鳴らす。曲は何だっていいのだ。
おおよそ空砲一発と聞き違えるとは思わない程に、自由に。
「ああ、それだ!その音だ!そのギターの音だったのか!」
「え?これを銃声だと思ったんですか?…………いや、きっとそう云うことなのでしょう。アコギの音だったのでしょう」
銃を撃ったのは俺だ。ストレス発散のために久し振りに撃ってみた。
「何はともあれ、真相は分かりました。ご協力感謝します。……白鉄君と言ったかな?」
人を殺めてはいない。近くの銀杏を狙ったのだ。
「はい、白鉄です。紛らわしいことをしてしまって、すみません」
しかし、銃は使っていない。使ったのは"ギター"だ。
「いえいえ、気にすることはありません。私も高校生のときにバンドごっこをしていました。……まともに歌えるメンバーがいなくて即解散でしたけど」
しかし、これはギターではない。
俺が普段ギターケースに入れている物が何なのか、俺自身も分からない。
ギターであり銃である。しかし、ギターでも銃でもないのだ。




