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棟梁と現存在:もしも大工が存在論を学んだら。  作者: もしものべりすと


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第九章『継手』

第九章:継手つぎて


黒川のオフィスビルを出た健は、自分がどうやって事務所まで戻ったのか、よく覚えていなかった。

高層ビルを拭き清めるビル風が、作業着に染み付いた汗の匂いではなく、無機質な排気ガスの匂いを運んでくる。


事務所には、澪の姿はなかった。

彼女のデスクは、まるで主の心情を映すかのように、きれいに片付けられていた。

健は、自分の作業場に立ち尽くす。

数時間前まで、自分の手の延長だったはずの道具(道具存在)が、今はただの重い鉄と木の塊(事物存在)として、作業台の上に転がっていた。


(……負けたのか)


黒川の「合理的」な数値に。

澪が求めた「市場」に。

何より、自分の哲学を「高コストなポエム」だと断罪された、圧倒的な現実に。


健は、壁に貼られた千代の家族からの手紙を見た。

『母が母であるための時間でした』

その文字が、今は虚しく見えた。

(あれは、所詮『閉じた世界』のアートだったんだ)

黒川の言葉が、棘のように突き刺さる。


健は、事務所を飛び出した。

軽トラックのエンジンをかけ、あてもなく走らせる。

彼が気づいた時、トラックは市街地を抜け、祖父が工房を構えていた山間の集落へと向かう、薄暗い林道に入っていた。


雨が降り始めていた。

アスファルトを叩く雨音。ワイパーの単調なリズム。

そのどれもが、健の無になった心には響かなかった。


埃にまみれた工房の鍵を開ける。

ツン、と鼻をつくのは、もう何年も使われていない道具の油と、乾いた木屑、そしてカビの匂いだった。

そこは、時間を止められた、道具たちの墓場だった。


健は、祖父が使っていた作業台に、力なく手をついた。

その埃だらけの台の上に、ぽつんと、何か硬いものが残されていることに気づく。

それは、祖父が作りかけで放置した、複雑な「継手」だった。

二つの木材を、釘や金物を使わずに組み合わせる、伝統的な木工技術。


だが、その継手は、健がこれまで学んできたどんな形とも違っていた。

過剰なほどに入り組んだ、非合理的なまでの造形。

まるで、二つの木材が、互いの本質をえぐり合うように、複雑に絡み合っていた。


「……なんだ、これ」

健は、その片割れを手に取った。

指先に、研ぎ澄まされた刃物で彫り込まれた、硬い木の「質感」が伝わる。

台の上にあったもう片方の部材を手に取り、健は、それを組み合わせてみようとした。


入らない。

どう角度を変えても、この二つの木材は、互いを拒絶しているようにしか見えない。

(じいさん……あんた、何を)


健が、諦めてそれを投げ出そうとした、その時。

彼は、二つの部材が、ただ押し込むだけでは「ない」ことに気づいた。

一方を、わずかに回転させながら、もう一方を、ある特定の手順で滑り込ませる。

それは、パズルというよりも、儀式に近い、厳格な「手順プロセス」だった。


カチリ、と、乾いた音がした。


健は、息を飲んだ。

二つの木材は、吸い込まれるように、一つの「全体」になった。

それは、単なる「接続」ではなかった。

二つの異なる「存在」が、互いの弱さを補い、互いの強さを際立たせ、もはや二度と分離できない、一つの強固な「本質」へと変貌していた。


健は、祖父の言葉を雷に打たれたように思い出していた。

『健、継手はな、ただ木を繋ぐんじゃねえ。いえの「在り方」を繋ぐんだ』


(……そうか)

健の震える指が、その滑らかな継ぎ目をなぞる。


(黒川は、世界を「モノ」として見ている。合理的で、効率的で、交換可能な「部品」の集まりだ)

(だから、人間すら「管理」しようとする)


(だが、じいさんは違った)

(じいさんは、世界を「存在」として見ていた。一つ一つが固有で、交換不可能で、互いに「関わり合う」ことでしか存在し得ない、複雑な「関係性」そのものとして)


この継手は、祖父の哲学そのものだった。

「モノ」としての合理性を突き詰めた先にある、「存在」としての、より深く、強固な「論理」。


健が敗れたのは、黒川の「合理性」ではなかった。

自分の哲学を、黒川と同じ「モノ」の土俵で語ろうとした、自分の「弱さ」に負けたのだ。


(俺の図書館は、間違ってなかった)

(あの「未完成」な空間こそが、利用者と、本と、図書館という「存在」を繋ぐ、この「継手」そのものだったんだ)


黒川の「完璧な」AI図書館は、人間を「消費者」という「モノ」として扱う。

だが、健の図書館は、人間を「読み手」という「現存在」として扱う。

本を探し、迷い、他者と出会うという「行為プロセス」そのものが、図書館という空間を「完成」させる。


健の「矛盾」は、この瞬間、完全に昇華された。

大工として「モノ」を作ること。

哲学として「存在」を問うこと。

それは、対立するものではなかった。


「モノ」とは、「存在」が、この世界に「現れる」ための、唯一の「器」なのだ。

健の仕事は、「モノ」を作ることではなく、その「器」を通して、「存在」そのものを彫り出すこと。


健は、工房の壁に、祖父が最後に書き残した走り書きを見つけた。

『存在と時間』の、あの「死への存在」の言葉が引用され、その横に、こう書き加えられていた。


「タケシ、迷うな。ワシらの仕事は、継手だ」


健は、その二つの木材が一つになった「継手」を、強く握りしめた。

それは、黒川のAIが弾き出すどんな「数値」よりも、重く、硬く、そして「真実」だった。


雨は、いつの間にか上がっていた。

工房の濡れた窓ガラスに、雲間から差し込んだ、力強い西日が映っていた。

健は、床に落ちていた自分の鉛筆を拾い上げた。

第八章で、会議室の床に落とした、あの鉛筆と同じ重さ。

だが今、その手触りは、絶望ではなく、確かな「道具」としての感覚を取り戻していた。


「……戻るぞ」

健は、その「継手」を懐にしまい、工房を後にした。

黒川の城へ。

本当の「本質」を、見せつけるために。

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