第八章『バベルの図書館』
第八章:バベルの図書館
黒川圭吾の建築事務所は、健の想像を絶する「事物存在」の城だった。
湾岸エリアの超高層ビルの最上階。分厚いガラスに遮られ、風の音も、街の喧騒も、何も聞こえない。聞こえるのは、高性能な空調が吐き出す、低く均一なノイズだけ。
作業場に満ちていた木屑と汗の匂いとは無縁の、無機質な空間。誰もが静かに、高速でキーボードを叩いている。紙のスケッチブックを使っているのは、健だけだった。
「……では、神崎さんのコンセプトを伺いましょう」
巨大な会議室。黒川以下、十数人のエリート建築家たちが、健を取り囲む。
健は、この静圧的な空気に一瞬飲まれそうになるのを、深く息を吸って堪えた。
(俺は『棟梁』だ)
彼は、持参したスケッチブックを開いた。そこには、鉛筆で描かれた、力強い線のプランがあった。
「俺が提案するのは、『使う人によって完成する』図書館です」
健は、コンペで敗れたあの「未完成カフェ」のアイデアを、この巨大な空間で昇華させようとしていた。
「床の一部を、あえて固定しない。本棚も、固定しない。図書館員や、時には利用者自身が、レイアウトを自由に変更できる。『ここに児童書コーナーを作ろう』『ここで朗読会をやろう』と、彼らが『行為』することで、初めて完成する空間です」
健は、ハイデガーの『世界内存在』という言葉を思い浮かべていた。
(利用者が、ただ『本を借りる』だけの客体じゃない。彼ら自身が、その場所の『意味』を構成する主体になるんだ)
「……なるほど」
健が熱弁を振るい終えると、黒川の隣にいたチーフディレクターが、冷ややかにタブレットを操作した。
「神崎さんの『ポエム』は理解しました。では、現実的な話をしましょう」
スクリーンに、瞬時にグラフが表示される。
「ご提案の『可動式フロア』ですが、公共建築の耐荷重基準を満たすには、コストが現行案の3.8倍になります」
「『可動式本棚』は、利用者のリテラシーに依存します。必ず『元の場所に戻せない』『レイアウトが崩壊する』というクレームが殺到し、結果、図書館員の業務は4.2倍に膨れ上がります」
「そもそも、公共建築とは、市民の税金で賄われる『共有財産』です。一部の利用者の『行為』によって、他の利用者の『平等な利用』が妨げられるデザインは、公共建築として、根本的に『欠陥』です」
健の哲学は、冷徹な「数値」と「合理性」によって、一瞬で解体された。
「……違う!」
健は、机を叩いた。
「それは、『管理』側の論理だ! 『平等』っていうのは、全員を『同じモノ』に押し込めることじゃねえ! そこにいる人間が、どう『在る』かを……」
「健さん!」
健の言葉を遮ったのは、意外にも、彼の隣に座っていた澪だった。
彼女は、この数週間、黒川の事務所に通ううちに、すっかりその華やかさと「合理的」な仕事ぶりに魅了されていた。
「健さん、チーフの言う通りかもしれません……」
澪は、健の目を真っ直ぐに見ようとせず、テーブルの上の仕様書に視線を落としたまま言った。
「まずは、『市場』に……コンペに勝たないと。健さんの哲学も、勝たなければ、誰にも届きません」
その瞬間、健は、自分の足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。
澪。誰よりも、祖父の哲学を、健の「本質」を、信じてくれていたはずの相棒が、今、自分を「非合理的」な障害物として制止している。
彼女の目は、もう健を見ていなかった。彼女が見ているのは、黒川の背後にある、「成功」という名の眩い光だった。
「……そうか」
黒川が、この残酷な劇の演出家のように、静かに口を開いた。
「君の哲学は、どうやら『高コスト』らしい。では、こちらから代替案を」
黒川が合図すると、スクリーンに、完璧なCGパースが映し出された。
そこには、AIが全利用者の閲覧履歴と好みを分析し、最適な本を自動で推薦し、ロボットがそれを運んでくる、という「完璧な」図書館が描かれていた。
「これなら、利用者は『迷う』というコストを支払う必要がない」
黒川は、満足そうに言った。
「完璧な『機能(事物存在)』こそが、現代の公共建築だ。そうだろ、神崎さん?」
健は、反論できなかった。
声が出なかった。
この無菌室のような会議室で、自らの相棒に「本質」を否定された彼は、もはや「棟梁」ではなかった。
ただの、高コストで、非合理的な、「アイデアを出す部品」に成り下がっていた。
健は、自分が握りしめていた鉛筆が、カラン、と音を立てて床に落ちるのを、ただ呆然と見つめていた。




