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棟梁と現存在:もしも大工が存在論を学んだら。  作者: もしものべりすと


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第七章『誘惑、あるいは市場』

第七章:誘惑、あるいは市場


千代からの手紙が届いてから、数週間が過ぎた。

神崎工務店の事務所には、あの古い柱時計の音だけが、変わらず響いていた。健は、第六章で得た静かな確信を、一日一日、木材に刻み込むように、黙々と仕事を続けていた。

「モノ」を通して「存在」と向き合う。

その本質を掴んだ今、健の鉋がけは、以前にも増して迷いがなく、木材から立ち上る香りも、一層深く澄んでいるようだった。


澪もまた、千代の家族からの感謝の手紙を、事務所の誰もが見える場所に飾り、その「成果」を静かに誇っていた。SNSでの局地的なバズは落ち着いたが、確かな手応えが二人にはあった。


その静寂を破ったのは、一台の高級車が事務所の前に停まる、ほとんど無音に近いエンジン音だった。

「……まさか」

澪が目を見開く。


ドアが開き、現れたのは、やはり黒川圭吾だった。

今回は、コンペの時のようなあからさまな軽蔑ではない。美術館のキュレーターが、価値の定まらない出土品を吟味するような、冷徹な「値踏み」の目が、健に向けられていた。


「面白いことをしたそうじゃないか、神崎さん」

黒川は、事務所の壁に貼られた千代の家族からの手紙を一瞥し、フッと鼻で笑った。

「『時間を彫る』。……ずいぶんと詩的な表現だ。マーケットは、そういう『物語』を常に欲している」

黒川の纏う高価なコロンの匂いが、事務所に満ちた檜の香りを侵食していく。


「何の御用ですか」

健は、鉋の手を止めずに応じた。その刃先と黒川の視線が、火花を散らす。


「単刀直入に言おう。君に、市民図書館の設計コンペを、私と『共同』でやってもらいたい」

黒川がテーブルに放ったのは、前回とは比較にならないほど分厚い、巨大な公共プロジェクトの仕様書だった。


「……共同?」

思わず声を上げたのは澪だった。

「あの、黒川事務所と、うちが……ですか?」


「そうだ」

黒川は、わざとらしくため息をついた。

「今の建築市場マーケットはね、『効率』と『合理性』だけでは満足しない、厄介な時代なんだ。彼らは『本物』『哲学』『物語』を欲しがる。君のあの『未完成カフェ』や、今回の『死の部屋』は、その需要ニーズに完璧に応えた」


黒川は、健に歩み寄った。

「だが、君のやり・・・・・は、所詮、個人のためのアートだ。閉じた世界でしか通用しない。私には、それを『市場』に乗せるノウハウがある」

彼は、仕様書の表紙を指で弾いた。

「君の『哲学アート』と、私の『合理性ビジネス』。この二つを組み合わせれば、完璧な……いや、『最強』の建築が作れると思わないかね?」


それは、悪魔の誘惑だった。

健は、黒川の言う「完璧」という言葉に、第一章のあの『冷たい階段』の、人を拒絶する冷たさを瞬時に思い出していた。


(この男は、俺の哲学を『利用』するつもりだ)


健は断ろうとした。だが、それよりも早く、隣で澪が目を輝かせ、叫んだ。

「やります! やらせてください!」

「澪!?」


「健さん、これはチャンスです!」

澪は、健の腕を掴み、必死の形相で訴えた。

「黒川事務所と組めれば、私たちは『本物』になれる! あのコンペで見返せる! 健さんの哲学を、千代さんのあの部屋だけで終わらせちゃダメです! もっと、もっと多くの人に……!」


澪の言葉が、健の葛藤を鋭く突いた。

(もっと、多くの人の『存在』を……)

千代の一件で得た確信は、同時に、健の中に新たな「問い」を生み出してもいた。

自分の哲学は、本当に、この小さな工務店の仕事(閉じた世界)だけで完結していいのか?


黒川は、その一瞬の揺らぎを見逃さなかった。

「……そうか。君も、『選ばれた』人間か」

黒川が、初めて健の目をまっすぐに見て、呟いた。

「大工として『モノ』を作ることと、哲学として『存在』を問うこと。その矛盾に、君は気づいてしまった。……いいだろう、その『苦悩』ごと、私のプロジェクトに持ち込むがいい」


健は、黒川の目が、自分と同じ「深淵」を覗き込んでいることに気づき、戦慄した。

だが、この男は、その深淵を「利用」しようとしている。


「……わかった」

健は、重い口を開いた。

「あんたの『市場』とやらで、俺の『本質』がどこまで通用するのか、試させてもらう」


健が握りしめた鉋の刃に、黒川の冷たい笑顔が映り込んでいた。

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