第六章『時間を彫る』
第六章:時間を彫る
健が再び上田千代の屋敷を訪れた時、娘たちが彼を待ち構えていた。
「神崎さん、母は一体何を考えているんでしょう」
長女は、高価な介護ベッドのパンフレットを握りしめ、健の作業着をいぶかしげに見ていた。
「最新の医療設備こそが、母の『生』を支えるものでしょう? あなたのような大工さんが来て、何ができるというんですか」
その言葉には、健が第一章で施主から向けられた「完璧なモノこそが善である」という、黒川とも通じる価値観が滲んでいた。
だが、今の健はもう揺らがなかった。
彼の最大の「弱さ」であった「作れないモノ(死)への恐怖」は、祖父の言葉によって「今を彫り出す」という決意に変わっていた。
健は、娘たちに深く頭を下げた。
「俺にできるのは、『生かす』ことじゃありません。ただ、千代さんが『今、ここに在る』ためのお手伝いをするだけです」
健は道具箱を開け、娘たちの前で、一枚の檜の板に鉋を当てた。
シュルルル……。
空気が震えるような、低く、澄んだ音。次の瞬間、アルコールでも撒いたかのように、清冽で鮮やかな木の香りが、淀んだ屋敷の空気を切り裂いた。
それは、消毒液の匂いとは対極にある、力強い「生」の香りだった。
娘たちは、その匂いに圧倒され、言葉を失った。
健の仕事は、「加える」ことではなかった。むしろ、徹底的に「削ぎ落とす」ことだった。
彼は、部屋を塞いでいた分厚い遮光カーテンを外した。
「でも、これでは陽が……」
「はい。陽が入ります」
健は、ベッドを置く位置をミリ単位で調整し、窓枠を、ある特定の角度で削り直した。
彼は、防音性の高かったドアを外し、一枚の簡素な障子に入れ替えた。
「これでは、廊下の音が……」
「はい。音が聞こえます」
彼は、壁紙を一枚剥がし、ベッドの脇の壁に、先ほど削った檜の無垢板を一枚だけ、打ち付けた。
「これは……?」
「手触りです」
あえて完璧には磨き上げず、木目が指先にわずかに引っかかるように仕上げてある。
娘たちは、そのリフォームとは呼べないほどの「簡素」な作業に、最後まで戸惑っていた。
「……母が望んだことですから。でも、私たちには理解できません」
全ての作業を終えた部屋は、がらんどう、と呼んでもよかった。
そこにあるのは、介護ベッドと、古い柱時計、そして、一枚の檜の板だけ。
快適な「モノ」は、全て消え去っていた。
千代は、その部屋にベッドごと移されると、満足そうに息をついた。
「……ありがとう。これでいい。みんな、少しだけ、私を一人にしておくれ」
娘たちと健が障子を閉める。
部屋に残った千代は、ゆっくりと目を開けた。
「……ああ」
彼女は、まず「音」を聞いた。
障子一枚を隔てた向こうで、娘たちがひそひそと話す声。台所で水が流れる音。遠くで、車の通る音。そして、部屋の柱時計が刻む、「カチ、コチ」という音。
無菌室の静寂(無)ではない。無数の「生」の音が、彼女の存在を縁取っていた。
次に、彼女は「光」を見た。
健が削った窓枠を通して、午後の西日が、一本の鋭い光の矢となって畳の上に突き刺さっていた。
それは、テレビの光とは違う、熱を持った光だった。
光の中では、無数の埃が、まるで銀河のようにゆっくりと舞っている。
彼女は、その光の矢が、一分、一秒ごとに、柱時計の音に合わせて、畳の目を横切っていくのを、ただじっと見つめた。
それは、紛れもない「時間」そのものの姿だった。
彼女は、痩せた手を伸ばし、壁の檜板に触れた。
指先が、かすかな木目に触れる。ひんやりとしているが、無機質なプラスチックとは違う、生命の「質感」。
彼女は、深く息を吸い込んだ。
消毒液の匂いは消え、代わりに、胸を満たすのは、あの鮮烈な檜の香りだった。
「……そうか。私は、まだ、ここにいる」
彼女は、もはや「患者」ではなかった。
音を、光を、匂いを、手触りを、五感のすべてで感じ取る、一個の「現存在」だった。
「死」という絶対的な「無」を前にして、彼女の「今」は、研ぎ澄まされた刃のように、激しく輝いていた。
ひと月後。
神崎工務店に、千代の長女から一通の手紙が届いた。
そこには、丁寧な文字で、感謝の言葉が綴られていた。
『……母は、最期まで、あの部屋で穏やかに過ごしました。
私たちが、見舞いに行くと、母はいつも窓から差し込む光の筋を指差して、こう言うのです。
「ごらん、もうすぐ三時のお茶の時間だね」と。
母は、最期の瞬間、テレビの画面ではなく、畳の上をゆっくりと進む光の終わりを見届けるようにして、静かに息を引き取りました。
あなたが作ってくれたのは、部屋ではなく、「母が母であるための時間」でした。本当に、ありがとうございました』
澪は、その手紙を読み終え、泣き笑いのような顔で健を見た。
「……やりましたね、健さん」
健は、事務所の窓から、西日に染まる街を眺めていた。
彼は、何も答えなかった。
ただ、祖父の工房から持ってきた古い柱時計が、事務所の壁で「カチ、コチ」と、変わらない音を刻み続けていた。
健は、自分の節くれだった手を見つめる。
あの「冷たい階段」を作った手。
作家の「書く」という行為を支えた手。
そして、千代の「終わりゆく時間」を彫り出した手。
彼の「矛盾」は、消えていなかった。
大工として「モノ」を作ることと、哲学として「存在」を問うこと。
だが、それはもはや彼を苛む「弱さ」ではなかった。
「モノ」を通して、「存在」と向き合うこと。それこそが、神崎健という大工の、ただ一つの「本質」なのだと、彼は静かに確信していた。




