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棟梁と現存在:もしも大工が存在論を学んだら。  作者: もしものべりすと


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第五章『終わりゆく人のための部屋』

第五章:終わりゆく人のための部屋


健と澪が訪れたのは、古い武家屋敷が並ぶ、時が止まったかのような一角だった。

門をくぐると、手入れはされているものの、どこか生命感の薄れた庭が広がっている。ツン、と鼻をつくのは、古い畳と埃の匂い。それに混じって、消毒液のかすかで鋭い匂いがした。


「……神崎さん、ですね」


通された六畳間の襖が静かに開く。そこにいたのは、上田千代うえだちよと名乗る老婦人だった。

介護ベッドの上に半身を起こしているが、その身体は驚くほど痩せている。だが、その窪んだ目だけが、研ぎ澄まされた刃物のように、鋭い光を放っていた。


「来ていただいて、ありがとう。……ゲホッ、ゴホッ」

乾いた咳が、静まり返った部屋に響く。部屋の音は、それと、柱時計が刻む「カチ、コチ」という音だけだった。


「ご依頼、というのは……」

澪が、リフォームの資料を広げようとすると、千代はそれを手で制した。


「いいえ。そういうものでは、ないんです」

千代は、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「私は、もう長くありません。この部屋で、最期を迎えることになります」


健は、無言で老婦人を見つめていた。

職人として、彼はこれまで何十という「生」のための空間を作ってきた。だが、「死」を目前にした人間と、仕事として向き合うのは初めてだった。


「娘たちはね、この部屋を無菌室みたいに改装しよう、と言うんです。快適なベッド、自動で動くカーテン、壁一面のテレビ……。あの子たちは、私を『楽』にさせようと必死です」

千代は、窓の外の、葉を落としたケヤキの木を眺めた。

「でもね、神崎さん。私は、そんな『モノ』に囲まれて、ただの『患者』として終わりたくない」


彼女の視線が、健をまっすぐに捉えた。

「あなたの噂を、聞きました。『存在』をデザインする大工さんだと」

「……」

「私に、部屋をください。死ぬための部屋、ではありません。最期の瞬間まで……私が『私』として『存在する』ための部屋が、欲しいんです」


依頼は、健の理解を、そして彼の技術の範疇を、完全に超えていた。


事務所に戻った健は、珍しく荒れていた。

スケッチブックは開かれたまま、一本の線も引かれていない。


「……無理だ」

健は、節くれだった自分の両手を、まるで汚いものでも見るかのように見つめた。

(この手は、木を削り、モノを作るための手だ。『生かす』ための手だ)

(『死』を、『無』を、どうデザインしろって言うんだ?)


彼の「Want(望み)」は、常に「完璧な道具(道具存在)」を作り上げ、人の「生」を肯定することだった。

だが、今突きつけられた「Need(必要なこと)」は、彼の技術が全く通用しない「死」という領域を理解すること。

健の最大の「矛盾」であり「弱さ」。彼は、自分の手で「作れない」もの、「直せない」ものを、心の底から恐れていた。


「健さん……」

澪が、恐る恐る声をかける。

「例えば、すごく景色のいい天窓を作るとか? 音楽が静かに流れるとか……」


「違う!」

健が、怒鳴ったともつかない声で遮った。

「それはただの飾りだ! 黒川がやったことと同じ、『客観的』な『モノ』の押し付けだ! それは、千代さんの『解』じゃねえ!」


健は、衝動的に『存在と時間』を掴み、乱暴にページをめくった。

『道具存在』『世界内存在』『他者』……これまで彼を導いてきた言葉たちが、今はただ、空疎なインクの染みにしか見えない。

「死」の前では、どんな「道具」も意味をなさない。


健は、本を壁に投げつけようとして、寸前で思いとどまった。

その時、彼がこれまで読み飛ばしていた、最後の章の近くに、祖父の小さな書き込みがあるのに気づいた。


『死への存在(Sein zum Tode)』


その難解な見出しの横に、祖父の震えるような、しかし力強い筆跡があった。


「タケシ、終わりがあるから、今が光るんだ」

「ワシらの仕事は、その『今』を彫り出すことだ」


健は、息を飲んだ。

(……終わりがあるから、今が光る?)


彼は、千代のあの鋭い目を思い出していた。

彼女は「死」を恐れているのではない。「死」によって、「生」が希薄になることを恐れているのだ。

快適な無菌室モノに囲まれ、自分が「生きている」という手触りを失っていくこと。


(そうか。「死」をデザインするんじゃない)

健の頭の中で、バラバラだった概念が、一つの形を結び始めた。


(あの人は、「時間」を感じたいんだ)


「死」とは、未来が「無」になること。

だからこそ、その直前にある「今」という「時間性(Temporality)」が、耐えられないほど強烈に立ち上がってくる。

千代さんが求めているのは、その「今、ここに在る」という感覚を、五感すべてで感じ取れる空間だ。


健は、床に落ちたスケッチブックを拾い上げた。

その目には、もう迷いはなかった。スランプを脱した時よりも、黒川と対峙した時よりも、深く、静かな覚悟が宿っていた。


「……わかった」


彼は、研ぎ澄まされた鉛筆を握りしめた。

「澪、図面を引くぞ」

「えっ……?」

「あの人のための、『時間』を作る」

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