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棟梁と現存在:もしも大工が存在論を学んだら。  作者: もしものべりすと


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第四章『黒川の挑戦』

第四章:黒川の挑戦


神崎工務店の事務所で、澪のスマートフォンが通知音を鳴らす頻度が上がっていた。

「……まただ」

澪はうんざりしたように画面をタップし、健に見せた。

「『#哲学工務店』『#エモすぎる家』。健さん、なんか局地的にバズってますよ、うち」


SNS上では、「不便なリビングにされたらキレる」「いや、逆に住んでみたい」「ただのオカルト建築」と、賛否両論の嵐が巻き起こっていた。作家の書斎とタワマンの一件が、クライアント経由でじわじわと広まり始めたのだ。


健は、無骨な指でスマホの画面をなぞり、眉間に深いシワを寄せた。

「……オカルト、か」

彼は、自分の技術と祖父の哲学が、安っぽい消費の対象にされていることに、明らかな不快感を示した。彼にとって、それは「ウケ狙い」ではない。「実存」を賭けた真剣勝負なのだ。


「まあまあ。注目されるのは良いことですって」

澪が軽く笑った、その時だった。事務所のドアが、ノックもなしに開いた。


現れた男を見て、澪は息を飲んだ。

雑誌で何度も見た顔。黒川圭吾くろかわけいごだった。

非の打ち所がないイタリア製のスーツ、鋭いフレームの眼鏡、そして、すべてを見透かすような冷たい目。彼は、若手スター建築家としてメディアを席巻している、まさに「時代の寵児」だった。


「ここが、噂の『哲学工務店』か。ずいぶん古びた『現存在』だね」


黒川は、埃っぽい事務所を値踏みするように見回し、健の作業着姿を見て、あからさまに軽蔑の笑みを浮かべた。その革靴は、チリ一つついていない。


「……何の御用ですか」

健は、手に持ったのみを離さず、低い声で応じた。作業場に漂う、汗と木屑の匂いが、黒川の纏う高価なコロンの香りとぶつかり合い、奇妙な緊張感を生み出す。


「神崎健さん。あなたの『オカルト』が、どこまで通用するのか見に来たんだ」

黒川は、一枚のパンフレットをテーブルに放った。

「地域の再開発コンペだ。お題は『誰もが立ち寄れるコミュニティ・カフェ』。私も参加する。あなたも、その『哲学』とやらで参加してみたらどうかな?」


それは、挑戦状だった。

澪は「うちみたいな小さな工務店が、黒川事務所とコンペなんて……」と怯んだが、健は黒川をまっすぐに見据えていた。


(この男の匂いは、あの『冷たい階段』と同じだ)


健は直感した。この男が作る建築は、完璧で、美しく、そして冷たい「事物存在」そのものだ、と。


「……やります」

健の即答に、黒川は面白そうに口角を上げた。

「いいだろう。クライアントの承認欲求を満たすのが我々の仕事だ。君の自己満足オカルトが、市場でどう評価されるか、楽しみにしてるよ」


公開コンペの日。会場は、黒川のプレゼンを一目見ようというメディアと聴衆で埋まっていた。


先に登壇したのは黒川だった。

スクリーンに映し出されたのは、息をのむほど美しい、ガラス張りのカフェだった。まるで宝石箱だ。

「コンセプトは『透明な繋がり』です」

黒川は、流暢なプレゼンを始める。

「人々は、この『客観的』に美しい空間を背景に、洗練された『自己』を演出し、SNSで共有する。それこそが現代のコミュニティです」

審査員たちは、その完璧な「作品」に魅了され、しきりに頷いている。


次に、健の番が来た。

健は、プレゼン資料も使わず、一枚のスケッチブックだけを持って演台に立った。

「……神崎工務店の、神崎です」

ざわつく会場。黒川の洗練されたプレゼンの後では、健の無骨な作業着姿はあまりにも場違いだった。


「俺が作るのは、『未完成』なカフェです」

「未完成?」審査員の一人が怪訝な声を上げた。


「はい」

健は、祖父の哲学書の『偶有性』という言葉が書き込まれたページを思い出していた。

(そうであっても、そうならなくてもよい。その「余地」こそが、人の『行為』を引き出すんだ)


「壁の一部は、あえて下地のまま残します。地域の人が、DIYでペンキを塗ってもいい。棚も、作り付けません。その日来た人が、自由に動かせるテーブルと椅子だけを置きます」


黒川が、鼻で笑う音がマイクに拾われた。

「要するに、ただの手抜き、低コストということじゃないかね?」


「違います」

健は、黒川を睨みつけた。

「あなたのカフェは、美しすぎる。宝石箱は、外から眺める『モノ(事物存在)』だ。誰も中に入って、汚そうとはしない」

「……何?」

「俺が作るのは、道具どうぐです。そこに来た人が、『ここに居て、何かをしてもいい』と感じる『道具存在』としてのカフェです。コーヒーを飲むための場所じゃない。人が、人として『在る』ための場所です」


結果は、火を見るより明らかだった。

コンペは、黒川圭吾の圧勝に終わった。

審査員たちは「革新的で美しいデザイン」と黒川を絶賛し、健のプランは「コンセプトが不明瞭」「単なる未完成品」と一蹴された。


事務所に戻る道すがら、澪は落ち込んでいた。

「……やっぱり、健さんの哲学は、一般ウケしないんですよ」

「……」

「あの黒川って人、ムカつくけど、彼が『市場』なんです。私たちも、もう少し……」


「澪」

健が、足を止めた。

「コンペには負けた。だが、勝負は終わってねえ」


数ヶ月後。

湾岸エリアに、二つのカフェがオープンした。

黒川の設計したガラス張りのカフェは、オープン当初こそSNSを賑わせたが、やがて客足は途絶えた。「写真映え」はするが、誰もがガラス越しに見られているようで落ち着かず、誰も長居しなかったのだ。


一方、健の工務店が、コンペのプランを縮小して作った、街角の小さな「未完成」カフェ。

そこには、いつの間にか地元の老人たちが手作りの椅子を持ち込み、学生たちがDIYの壁に落書きをし、近所の主婦が持ち寄った古本で、勝手に小さな図書館が作られていた。


そこは、完璧な「作品」ではなかった。

だが、人々が自然と集い、何かを「行為」する、温かい「居場所(道具存在)」になっていた。


健は、そのカフェの片隅で、客が勝手に淹れ始めたコーヒーをすすりながら、鑿の手入れをしていた。

市場コンペには負けた。だが、俺は『存在』で勝った)


その時、健のスマートフォンが震えた。

非通知の番号。

出ると、息も絶え絶えな、しわがれた老婦人の声が聞こえた。


「……もしもし。あなたが、あの『哲学工務店』の、神崎さん……ですか? ……最期に、一つだけ、お願いしたいことが、あるんです」


それは、健の「哲学」が、初めて「死」という名の「無」と対峙する瞬間の幕開けだった。

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