第三章『繋がらない家族のためのリビング』
第三章:繋がらない家族のためのリビング
「健さん、今度はタワマンです」
澪が差し出した資料には、湾岸エリアにそびえ立つ高層マンションの一室が写っていた。依頼主は、IT企業の役員を務めるエリートビジネスマンだ。
「悩みは、『最新鋭のスマートホームなのに、家族がリビングに集まらない』。全員がそれぞれの部屋に籠って、孤立してるんですって」
「……」
「奥様は『リビングを家族が繋がる場所にリフォームしてほしい』と。まあ、よくある悩みですよね。収納を増やすとか、アイランドキッチンにするとか、そういう提案でいいですか?」
健は、資料に目を通しながら、小さく首を振った。
「その家、モノはどこにある?」
「モノ、ですか? 最新家電は全部揃ってますよ。照明も空調も、全部声で操作できるそうです」
「そうじゃない」
健は立ち上がり、事務所の小さな窓から外を見た。
「便利すぎるんだ」
作家の書斎の一件以来、健は『存在と時間』を読み進めようとしていたが、相変わらず難解な文章に悪戦苦闘していた。だが、ひとつだけ、妙に腑に落ちた言葉があった。
『実存は本質に先立つ』
祖父の書き込みにはこうあった。
「人間は、まず『在る』。何者であるか(本質)は、その後の『行為』によって決まる」
健は、タワマンのリビングを想像した。
声ひとつで全てが完結する、完璧に快適な空間。そこでは、誰も「行為」を必要としない。
「全員が『個物』として快適すぎる。だから、『他者』を必要としないんだ」
健は澪に向き直った。
「家族の『本質』は、家族としての『行為』によって作られる。飯を食う、話す、手伝う。その家には、その『行為』が生まれる『きっかけ』がない」
澪は、また健の哲学問答が始まった、と少し身構えた。
「じゃあ、どうするんです? 無理やり集めても……」
「行為をデザインする」
健はスケッチブックを広げた。
「このリビングを、あえて『不便』にする」
完成したリビングを見て、依頼主の家族は絶句した。
ピカピカだった大理石調の床は、温かみのある無垢材のフローリングに変わっていた。それはいい。だが、問題は家具の配置だった。
「あの、神崎さん……このソファ、小さすぎませんか?」
奥様が戸惑うのも無理はなかった。以前は五人掛けの巨大なL字ソファが鎮座していた場所に、今はどう見ても二人半しか座れない、コンパクトなソファが置いてあるだけだ。
「はい。奥様と旦那様が並んで座れば、自然とお子さんが床に座るか、別の椅子を持ってくるしかありません」
「照明のスイッチは……どこです?」
今度は旦那が尋ねた。以前は「電気をつけて」の一言で済んでいたのだ。
「そこの壁です」
健が指さしたのは、リビングの入り口から一番遠い、キッチンの脇の壁だった。
「不便だ!」
旦那は声を荒げた。「リビングに入ってから、わざわざ部屋を横切って電気をつけろと? なんて非効率な!」
「旦M様。その『非効率』が狙いです」
健は静かに言った。
「もし、ソファに座っている奥様が『暗いわね』と言ったら、旦那様、どうしますか?」
「どうするって……俺がつけに行くだろ」
「それが『行為』です」
健の言葉に、家族全員がはっとした顔をした。
「このリビングでは、快適さ(本質)は最初から与えられません。快適であるために、誰かが『行為』しなければならない。それが『実存』です。家族は、その行為の積み重ねでしか、家族になれない」
健が設計したのは、「関わり合わわざるを得ない」空間だった。
ダイニングテーブルは、わざとキッチンから離し、配膳に家族の手伝いが必要になるようにした。テレビは壁掛けをやめ、小さな可動式のものに変え、見たい番組がある時だけ「よいしょ」と引っ張り出すようにした。
数週間後。
澪が恐る恐るアフターフォローの電話をかけると、奥様から弾むような声が返ってきた。
「最初は、なんて意地悪な設計かと思いましたわ」
奥様は楽しそうに笑った。
「でも、不思議なの。あの日から、夫が『コーヒー淹れるついでだ』って、私の分まで淹れてくれるようになったり、娘が『そこのリモコン取って』って、息子に頼み事をするようになったり……」
不便さが生んだ小さな「行為」の連鎖が、孤立していた家族の間に、ぎこちないながらも確かな「繋がり」を生み出し始めていた。
事務所でその報告を受けた健は、ただ黙って頷いた。
澪は、健が読んでいる哲学書の、別のページに新たな書き込みがされているのを見つけた。
「『他者』とは、俺にとっての『不便』そのものだ。だが、その『不便』こそが、俺を『俺』にする」
澪は、この棟梁が、もはやただの「家」ではなく、「人の心」そのものをデザインし始めていることに、改めて気づかされた。そして、その力が次に何を生み出すのか、期待と不安が入り混じった複雑な気持ちで、次の依頼書に目を落とした。




