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棟梁と現存在:もしも大工が存在論を学んだら。  作者: もしものべりすと


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第二章『書けない作家のための机』

第二章:書けない作家のための机


「健さん、正気ですか?」


神崎工務店の狭い事務所で、佐倉澪さくらみおはCADソフトが映るモニターから顔を上げ、心底呆れたという表情で健を見た。


「クライアントの尾行なんて、普通に犯罪ですよ。それも三日も」

「……観察だ」


健は、スケッチブックから目を離さずに短く答えた。その目には、スランプだった頃の淀みはなく、獲物を狙う鷹のような鋭さが戻っていた。


きっかけは、澪が持ってきた「奇妙な依頼」だった。

依頼主は、中堅のミステリー作家。半年以上スランプが続き、一行も書けないのだという。


「とにかく、『書かざるを得ない』机が欲しいんですって」

澪は、まるで他人事のように笑いながら言った。

「そんな魔法みたいな机、あるわけないじゃないですか。適当にお洒落な造作家具でも提案しておきます?」


健は、その依頼書を黙って受け取った。

『存在と時間』を読んで以来、彼の頭は「道具存在」と「事物存在」という二つの言葉に占拠されていた。


(書けない作家。つまり、机も、ペンも、原稿用紙も、すべてが「事物存在」として目の前に立ちはだかっている状態だ)


作家が「書く」という行為と一体化できていない。道具が、手の延長になっていない。

健は、祖父の本にあった別の書き込みを思い出していた。


『世界内存在(Being-in-the-world)。人間は、ただ「在る」んじゃない。必ず「〜の中に」在るんだ』


「……その作家に会う」

健のその一言から、澪の受難は始まった。


健は、作家の自宅での打ち合わせ(という名目の観察)を要求した。そして、書斎に通されるやいなや、設計図も広げず、ただじっと、作家の「行為」を観察し始めたのだ。


作家が、どう椅子に座り、どうペンを握り、どう視線を動かし、どう溜息をつくか。

書斎の本棚、コーヒーカップの持ち方、窓の外を眺める時の肘の角度。

まるで獲物の動きを分析するハンターのように、健は作家の「書けない」という行為が繰り広げられる「世界」そのものを、五感すべてでインプットしていた。


そして三日後。健は事務所にこもり、スケッチブックに猛烈な勢いで鉛筆を走らせ始めた。澪が、その常軌を逸した「観察」を咎めたのが、今の場面だった。


「観察、ですか。で、何が分かったんです?」

「……あの人は、右利きだが、思考が行き詰まると左手でこめかみを掻く癖がある」

「はあ」

「窓の外を見ているようで、焦点は合っていない。光が眩しいんじゃなく、集中を『モノ』に遮られたがっている」

「……」

「そして、一番の問題は、あの机だ」


健が指さしたのは、作家の書斎にあった、北欧デザインの立派なデスクの写真だった。


「この机は、デザインが良すぎる。完璧な『事物存在』だ。だから、作家は原稿用紙に向かうたび、『さあ、これから仕事(書く)だ』と机に意識させられる。だから書けない」


澪は、もう反論する気も失せていた。この三代目棟梁は、スランプを脱したかと思ったら、今度は難解なオカルトに目覚めてしまったらしい。


一週間後、健は「解」としての書斎を完成させた。

それは、澪の目から見ても奇妙な空間だった。


机は、部屋に対して斜めに配置されている。天板は無垢材だが、作家の右肘が当たる部分は滑らかに削り込まれ、左手のこめかみに合わせた位置の壁には、手触りの良いシナ材が貼られていた。

窓には障子がはめられ、外の景色は見えない。ただ、柔らかな光だけが、作家の手元を照らす。


「なにこれ……デザイン、めちゃくちゃじゃないですか」

「デザイン(事物存在)じゃない。行為(道具存在)のための設計だ」


健は、椅子を作家の前に置いた。

「座ってみてください」


作家は、恐る恐るその椅子に座った。

その瞬間、作家の表情が変わった。


「……あれ?」


作家の右腕は、自然に机の窪みに収まった。視線は、吸い寄せられるように正面の壁(原稿用紙)に向かう。左手を上げると、指先は自然に壁のシナ材に触れた。


机も、椅子も、窓も、意識から「消えた」。

作家の身体と書斎が、まるで長年連れ添ったかのように一体化する。


作家は、無意識にペンを握った。

そして、何かに憑かれたように、原稿用紙に文字を書き始めた。

カリカリ、というペン先が紙を引っ掻く音だけが、部屋に響く。


澪は、その光景に息を飲んだ。健が口にした「道具存在」という言葉が、現実の力を持って目の前に現れた。


二ヶ月後。その作家は、圧巻の傑作ミステリーを書き上げ、文壇にカムバックした。

神崎工務店には、高額な設計料が振り込まれた。


だが、澪は健に、後日談として聞かされた作家の言葉を報告するかどうか迷っていた。


「澪さん、あの部屋はすごいです。本当に、書くこと以外のすべてが消えてなくなる」

作家は、電話口で興奮しながらも、どこか怯えた声でこう続けたという。


「……ただ、少し怖いんです。あの部屋にいると、書いている『私』という存在までが消えていくようで」


澪は、健の横顔を盗み見た。彼は、次の依頼に備え、鑿を研ぐ手を休めない。

(健さん、あなたは一体、何を作ってしまったの……?)

健の建築が、ただの「モノ」ではなく、人の「存在」そのものに影響を与え始めている。その事実に、澪は言い知れぬ興味と、わずかな恐怖を感じていた。

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