第十一章『(エピローグ)世界内存在』
第十一章:(エピローグ)世界内存在
コンペの結果は、健たちの「負け」だった。
選ばれたのは、黒川のプランを、市の予算に合わせて「合理的」に修正した、当たり障りのない設計事務所の案だった。
黒川の「完璧な」AI案ですら、「高コスト」と判断されたのだ。
健と澪の『継手』案は、「ポエム」「前衛的すぎる」と評され、議論の対象にすらならなかった。
「……まあ、こんなもんですよね」
神崎工務店の事務所。
澪は、コンペの結果通知書をゴミ箱に放り込み、わざと明るい声で言った。
「違いますよ、健さん。私たちが『負けた』んじゃない。彼らが『選べなかった』だけです」
彼女は、熱いコーヒーを二つ、健の作業台に置いた。
事務所には、あのプレゼン以来、少しだけ気まずく、しかし以前よりも確かな「信頼」の空気が流れていた。
「……そうだな」
健は、コーヒーを一口すすった。
熱い液体が、喉を焼く。
彼は、作業台に広げた新しい図面から、目を離さずに言った。
「『市場』に負けたのは確かだ。だが、俺は、俺の『本質』には負けなかった」
彼の鉛筆は、もう迷っていなかった。
「次の、仕事ですか?」
澪が、その図面を覗き込む。
それは、図書館のような巨大な建築物ではなかった。
住宅街の一角に建つ、小さな、本当に小さな「本棚」の設計図だった。
「近所のガキどもがさ、雨の日に遊ぶ場所がねえって、うちの前で騒いでてな」
健は、照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。
「だから、タダで、街角に『図書館』を作ってやろうと思って」
「……『まちかど図書館』?」
「ああ。誰でも本を借りられて、誰でも本を寄付できる。屋根もつけて、ガキどもが雨宿りしながら本を読めるようにする」
その設計図には、あの「未完成カフェ」や「継手」の哲学が、小さな空間に凝縮されていた。
固定されていない棚板。子供の背丈に合わせて変えられる腰掛け。
「モノ」としての完成度ではなく、「使う」という「行為」によって意味が生まれる空間。
「……最高じゃないですか」
澪は、心の底から笑った。
「でも、健さん。これ、完全に『赤字』ですよ。どうやって『市場』で戦うんですか?」
「戦わねえよ」
健は、鉋を手に取った。
「黒川は『市場』で戦えばいい。俺は、ここで『作る』。ただ、それだけだ」
シュルルル……。
空気が震える、あの澄んだ音。
コーヒーの湯気の中に、清冽な檜の香りが、力強く立ち上った。
それは、黒川のコロンの匂いにも、高層ビルの排気ガスの匂いにも決して負けない、確かな「存在」の香りだった。
澪は、その匂いを胸いっぱいに吸い込む。
彼女はもう、SNSの「いいね」の数や、市場の「評価」に怯えていない。
彼女の「世界」は、今、この作業場の、木の匂いと、鉋の音と、コーヒーの湯気の中に、確かに「在る」。
「……健さん」
「ん?」
「私も、手伝います。その『赤字』の図書館、私が最高の『物語』にして、街中に発信してやりますから」
健は、手を止めずに、ニヤリと笑った。
「……お手並み拝見、だな」
事務所の壁で、祖父の古い柱時計が、「カチ、コチ」と、変わらない音を刻み始めた。
それは、もう「死」へと向かうカウントダウンではない。
非合理で、面倒で、しかし愛おしい「人間」たちの「今」を、一つ一つ、確かに彫り込んでいく、力強い棟梁の槌音だった。




