みっつめ 善人判定法
前回、父方の祖母について少し書いたので、今回は母方の祖母について書こうかと思います。
母方の祖母とは同居しているのでよく知っているつもりです。
どういう人か簡単に言いますと、訪問販売にはいはいと応じていらないもの買っちゃう人です。
この説明でだいたい分かったのではないでしょうか?
祖母が一度買ったせいか、うちにはよくセールスの電話があります。きっとカモリストにでものったのでしょう。間違いありません、自分から鍋に飛び込む系のカモです。
そんな祖母はアパートを経営しています。そのアパートには水道がついていて、誰でも使えてはいけないので蛇口に鍵がついています。鍵を掛けていなかったら、公園の水道みたくなってしまい、その水道代は祖母が払うことになってしまうのですが………
祖母は常時鍵を掛けず、鍵をその水道にひっかけています。
私は、「は?」って思いましたよ。だって皆に使われちゃうじゃないですか。ただでさえ電気は盗まれてるのに……(アパートの外壁についたコンセントから知らない人が電気を使っているのです)
祖母曰く、アパートの皆が使いたい時に使えるようにしたい、と。
しばらくして蛇口にひっかけてあった鍵が盗まれました。蛇口に鍵が掛けられたまま。
そういうわけで、皆どころか祖母も水道を使えないのです。
でも、祖母は何も言いません。一般には、お人好しというのかもしれませんが、……お人好し、なのか私は常々疑問に思っています。結局考え足らずなだけなのではないかと思うのです。
最近判明したのですが、私の生命保険を祖母がかけていました。
おかしいと思うのですが……。もしかして普通だったりします?
私はまだ十八才で死ぬ予定は当分ありません。
そもそも生命保険というのは一家の稼ぎ頭にかけておき、もしその人が亡くなってもすぐに困ることがないように……といった意図だったとおもいます。
一銭も稼いでないのですがね……。
祖母はすぐに可哀想だといいます。
牛を食べては同情し、鳥を食べては同情し、地球の反対側にいると聞き及んでいる満足に食べれない人に同情しています。
ある時、焼き肉中、祖母が育てられ食べられる牛が可哀想だと言いました。
それを聞いた私は言いようもなく不快でした。
そんな言い方はないだろう。と言ってやろうと思ったのですが、何で自分がそんなふうに思うのかはっきり分からず、その場は黙っていました。
その後改めて考えてみて……
祖母は牛を食べているのです。可哀想だと思うのならベジタリアンになれとも思います。
それに、食べられる牛が気の毒であるなら、私たちが食べるために、牛を育て、殺し、運び、売る、それらに関わる人が可哀想な事をした人になってしまいます。
買って食べている身であるのだから、単純に、牛を含む全てに感謝して美味しく食べればいいのだと思います。
そんなふうに祖母に苛立つこともありますが、救われる瞬間もあります。
小さい頃、両親に叱られて泣いていた時。いえ、叱られている最中も私を慰めてくれます。
怒られているのは、私が何か怒られるようなことをしたからで、自業自得なのですが、いつも庇ってくれるのです。
散々に叱られて悲しい気持ちの時、そういう祖母の態度に、祖母は何も分かっていないんだろうと呆れながらも、なんだかとても嬉しくなったのです。祖母だけは、何をしたって無条件に私の味方だったのです。
祖母はお人好しというより、考えなしなのです。
祖母は私のためを思い私がやろうとすることを先回りしてやってしまいます。祖母はそれが私のためで私が喜ぶことで、そこに自分の存在を感じているのです。
しかし、それにより、私は成長の機会を逃します。そこにまで考えが及んでいないのです。
それは優しさではなく、自己満足じみた甘さではないかと、一面しか見れない鈍さではないかと思います。
ただ、それが悪いことであるとかは、全く思いません。
スタインベックの言葉に
善人だと人に言われる人間には、思慮分別なんてない。利口者に善人なんているわけがない。
という言葉があります。(ごめんなさい。内容だいたいこんな感じだったと思いますが、自信ないです。気になったら調べてみてください。確か、二十日鼠と人間の言葉だったと思います)
自分の頭が鋭いとは思えませんが、祖母の頭が鈍いとは思います。
祖母は私にとって一種の憧れです。すごく自分が汚いように思えてきて、これが本当の善人ってやつなのかなぁ、なんて思います。