第3話 迷宮へ至る道
セイラムの街から北へ延びる街道を進むと、遙か先に、黒々とした森が見える。
森の中は光がほとんど入らず、真夜中のように暗い。周りに民家はなく、地面の色もどこか赤茶けたものへ変わっている。近づくたびに、空気の澱みと、獣臭のようなものが顔面を打ちはじめる。
誰しもが今すぐ引き返したいという欲求に駆られる。背筋が冷たくなり、この奥に進んではダメだと感じる。それを無視して、探索者たちは中へと分け入っていく。命を差し出し、釣り合うか分からない見返りを求めて。
松明程度では暗い森を照らすには足りず、コンパスもまともに働かない。
そのかわりに、木の幹に、無数の切り傷がついている。先人たちがこの場所を通ったという目印だ。傷のたくさんついているものを選び、苔むした森を進んでいくと、徐々に霧が濃くなってくる。
足元を大きく素早い虫が這って、霧の奥に消えていく。魔物ではないが、迷宮の瘴気に当てられてて巨大化しているのだ。
我慢をして進み続けると、やがて、水の音が聞こえてくる。
頭を押し付けるように繁っていた枝葉が途絶え、湖のほとりに突き当たる。濃い霧のせいで、暗さは大して変わらない。
湖の辺りにはいくつかの小舟が浮かべられていて、その脇に、肩がボコリと盛り上がった背の低い影が船と同じ数だけ立っている。『フナモリ』と呼ばれ、銅貨と引き換えに、湖の中央にある迷宮まで送り届けてくれる連中だ。彼らは身長が1メートルほどしかなく、必要最低限の言葉しか発せず、この森の中で暮らしている。
「じゃあ、頼むよ」
「……ン」
ジェイが3人分の銅貨を渡すと、フナモリは表と裏を確かめた後、舟に乗るように促した。今日は特に霧が濃く、舳先さえ霞んで見える。
ジェイ、ナタリー、マルロの順番で乗り込むと、船尾にフナモリが立って、
ギッシ……と軋む音を立てながら、湖面へと滑り出た。
「で、どうすんのよ」
背後の森が霧の向こうに霞んだところで、ナタリーが、ずっと言うのを我慢していたという風に切り出した。
「なにが」
ジェイが白々しく答えると、ナタリーは「なにがじゃないでしょ」と肩を叩いた。もちろんわかっている。
ピティ・トルチュールをパーティに招き入れるかどうかだ。
その件について相談をしようと集まったら、マルロと一緒に本人が現れたのが、つい昨晩のことだ。半ば思いつきで、こちらの素性を伏せつつ、食事の席をともにすることになった。
――いや、食事だけではない。酒まで飲んだ。
たらふく飲んだ。
ジェイはまだ頭の奥に、アルコールの気配を感じている。
二日酔いとまでは言わないが、帰りが遅くなったせいで、今日は危うく寝坊するところだった。
「恥ずかしい話、よく覚えてないんだよな。すっかり話し込んでしまったのは確かなんだが」
「当初の目的も忘れて飲みすぎなのよ。情けない」
「ナタリーの方が出来上がってたじゃないか」
「私は、あれよ。相手を油断させて、本性を暴き出すための作戦。リーダーともあろう者が、目的も忘れて飲み潰れていいのかって言ってんの」
「こう言う時ばっかりリーダー扱いするんだもんなあ」
ジェイはため息をつき、しかし、確かに暢気に飲み過ぎたと反省する。
結論から言えば、ピティはとても話しやすく、気立てもいい子だった。はじめは遠慮がちに受け答えをしていた彼女だが、この街のギルドがどういう気風かというところから徐々に会話に加わり始め、彼女自身のことも話し始め、人見知りという事前情報がまったく嘘のように、あっという間に3人と打ち解けていった。
思ったよりもよく飲み、よく食べるというのも、小柄な見た目とギャップがあってチャーミングだった。
ナタリーもピティのことはいたく気に入ったらしい。女性探索者が日頃不満に思っている話題で盛り上がり、勧められる前から酒を飲みはじめ、しまいにはピティの肩を抱いて歌っていた。ジェイのこと責めるのは、自分のはっちゃけ具合を誤魔化したいからだろう。
ジェイは船尾の方を振り返り、マルロへ尋ねる。
「マルロはどう思った。お前は酒を飲まなかったから、ちゃんとした評価が下せるんじゃないか」
マルロは大きな体に見合わず、超がつくほどの下戸なので、昨晩の席でも、リンゴジュースを片手に静かに座っていた。しかし、
「そういうのは、先に言ってもらわないと困る」
マルロは無表情のまま言った。
そうだ、マルロは遅れてやってきたので、ギルドからの打診の内容について言わなかったのだ。お開きになった後にジェイが事情を明かすと、そんな偶然があるのかと目を丸くしていた。
「でも、人となりは見て取れただろ」
「ううむ」
マルロは短く唸って、昨晩のことを思い出すように黙る。
櫂が水を掻き分ける音だけが耳に響き、少しずつ迷宮の匂いが濃くなっていることに気づく。相変わらず、濃い霧の向こうには何も見えないが、なんとなく肌がぴりぴりする。
「正直、あの場だけで人間性を断じるのは難しい」
マルロらしい答えだと、ジェイは思った。こういうところが信頼できる部分でもあるのだが。マルロは少し間をあけて「ただ」と続ける。
「腕は立つ」
「腕?」
「治癒魔法」
「――ああ」
ジェイはすっかり忘れていたという風に、声をもらした。
記憶の上だと一晩以上前のような気がするが、マルロは頭に怪我を負って、ピティに治してもらっている。そもそも、それがきっかけで彼女はあの酒場に連れてこられたのだ。魔導師学校を卒業したのだと、彼女自身も言っていた。
「そうか、実際に見たのか。ピティの白魔導は優秀だったわけだ」
「魔法のようだった」
「魔法なんだよ」
ジェイがつっこむと、マルロは冗談ともつかない風に肩をすくめた。
「――魔導士学校を出てるなんていけすかないって、初めは思ってたんだけど」
間に挟まれていたナタリーがボソリと言う。
「結構苦労してて驚いた。生まれはいいそうだけど、それはそれで、ストレスやプレッシャーが半端じゃないでしょうし。……襟の裏に金のバッジをつけてた。上から3番目以内の成績で卒業したっていう証よ。お金を積んで取れるものじゃない」
地方のギルドに在籍している魔導士というのは、大抵、個人に師事したか独学だ。一方、魔導士学校というのは、基本的に国営の高度な教育機関で、入学だけでも途方もない金額が必要になる。ゆえに、魔導士学校を卒業したというだけで、探索者としては極めて大きなアドバンテージになる。もちろん、金で卒業証書を買い取って、実力が伴っていないような輩もいるらしいが、王宮に仕えることが目的なので現場に降りてくることはほぼない。ピティがそういった例に当たらないことは明らかだった。
「じゃあ――」
ジェイが2人の顔を見比べるようにしてから、そう言った時――、乗っていた舟が大きく揺れた。
思わず船縁を掴む。
湖の中央に浮かぶ島に乗り上げたのだ。
振り返ると、すぐ背後に、浜に打ち捨てられた立方体の岩石ブロックがあった。1辺が3メートルほどもある巨大で無機質な岩石には、細かい緻密な模様が刻まれている。島の奥へ視線を向けると、同じ大きさのブロックが積み重なり、小山になった歪なシルエットが形成されていた。その上にはぐねぐねとした木の根が岩に絡み、土が積もり、密林風の屋根を作っている。密林の中からは奇怪な鳥の鳴き声が響き、小動物たちの気配が感じられる。
しかし、迷宮が伸びているのは地下――。
岩と岩の間の隙間が入口となり、漆黒の闇を覗かせ、形容し難い臭気を発していた。
ジェイは立ち上がり、足元を確認しながら、島へ降りる。
そこで誰かの声がした。
「――――!」「――――」
霧の向こうに目を凝らしていると、無数にあるうちの出口の一つから、松明を持った人影がいくつか出てきた。数人の男たちが肩を抱き合うようにして、早足でこちらへやってくる。
ジェイたちはすぐに事情を察して、立ち位置を空けた。
「大丈夫だ、アドルフ。大丈夫だからな」
「今すぐ診療所に連れて行ってやる」
「傷口を押さえてるんだぞ、それ以上血を流すなよ」
男たちの中央で項垂れながらぶら下がる1人――、アドルフと呼ばれた若い青年の肩口には、ひどく深い傷が刻まれているらしく、あてられた布越しにもドバドバと血が溢れ出ている。顔面は蒼白で、呼びかけに対して応答もない。
見かけたことのないパーティだ。きっと新人だろうと思った。
「止血用の布、足りてるか」
ジェイが荷物から新しい布の束を渡すと、彼らは震えるように頷きながらそれを受け取って、「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。
果たして街まで持つだろうか、もし今ここにピティがいたなら、と想像した。
「ン……」
緊急性をどこまで認識しているのか、さっきジェイたちを送り届けたばかりのフナモリが、無表情で手のひらを差し出している。
ただただ船賃をねだるその様子に、若い探索者たちは叩きつけるように銅貨を払う。
フナモリは銅貨の表と裏を確認して、焦ったくなるような動作で、舟を漕ぎ出して行った。
先が気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークと評価をよろしくお願いいたします!