食へのこだわり
秋の歴史の企画への投稿予定が、何となくエッセイになってしまいました。
まぁ、いいや……
古今東西、人は「食」に強いこだわりを持つものである。
人間は食べなければ生きてはいけない存在であり、また、知能も高いものだから「より美味いもの」を求める生物である。
正確に言えば「飢えない」ために知恵を出して、本来では食べられないものを調理して食べられるようにしたり、長期間保存出来るよう加工したりして、それらを文化と呼ばれるまでに昇華してきたというのが正解だろう。
いずれにせよ人間の持つ三大欲求の一つである、「食」に強いこだわりを持つことは不思議ではないし、ある意味で当たり前のことなのだ。
「食」は和食や中華、フランスやスペイン、インドなど国柄で食材は大きく異なるし、同じ国でも地方で味付けも調理法も異なったりする。
その違いに誇りを持ち、その地方の料理、文化を知らない者に「どうだ!美味いだろう!」と胸を張って勧められるほどに「食に対するこだわり」を持つことは、やはり素晴らしい事だと思う。
この強い「食へのこだわり」は日本においても非常に高い部類に入ると思う。
美味しいとか健康的だとか技巧に優れているなどと言ったものだけではなく、「食」に対して「感謝」の念を抱くまでに昇華した事がそう思わせる理由の一つと言える。
だがその一方で、江戸時代ではフグ料理を鉄砲などと呼び、ロシアンルーレットのような命懸けの度胸試し感覚で食べていたことから、高尚などとはほど遠い「食い意地」のはった文化であるとも言えるのが残念っぽくも面白いところだ。
「食」
その文化に誇りを持ち、真剣に料理に携わる人もいれば、同じクッキーとチョコレートの組み合わせなのにキノコかタケノコかの形の違いだけで、不毛な言い争いをするぐらいに人間は大なり小なり食には強いこだわりがあったりする。
普段の生活の中でも、「目玉焼きにかけるべきは醤油かソースか」、「きゅうりを丸ごと食べる時は塩で食べるべきかマヨネーズ一択か、いやドレッシングがないのはおかしい」など、一見くだらなく見えても結構真剣にこだわっているものだ。
この「食へのこだわり」は非常に大事な事だと思っている。
ところが昨今、この「食へのこだわり」は薄れているのではないだろうか?
日本は結構以前から「飽食の時代」など言われていたりするが、これが原因で「食べれて当たり前」という意識が蔓延する事になったと思っている。
今や「飽食の時代」は終わっている。
貧困の子どもたちの話題や、そんな彼らを救おうとする(どこか怪しげな)団体の広告が目立つようになっているからというのもある。
また、そのような事以外にも日本の実質の自給率はかなり低い事があげられる。
作物を作るための種や肥料などが、もし、戦争など何らかの理由で輸入されなくなったら、たちまち飢餓状態に陥いる可能性が高いからだ。
輸入が完全にストップした場合、全国に食料を供給するその備蓄量が1ヶ月半程度しか確保していないという大学教授の指摘もある。
1ヶ月半で出来る作物があるだろうか?
「食へのこだわり」は「食べること」だけではなく「食料を得ること」にもこだわるべきではないかと思っている。
「食へのこだわり」が希薄になりすぎて安全保障上の問題にまで発展しつつあるのに、そのことにあまりに世間が無頓着になっているように感じるがいかがだろうか?
中国では国立公園を田畑に変えてまで食料を確保する動きを見せている。
この「食」に関して、その他にも外国では認可されていない防腐剤や除草剤などの農薬を使用している作物や、発がん性が指摘されている成長ホルモン剤等を使用した肉類の輸入など、細かく調べれば私たちの食生活は色々と問題が含まれている事が挙げられる。
私たちはあらゆる方面で「食へのこだわり」を、今一度、こだわっていくべきではないだろうか。
「病気になろうが自分が美味いものを食べて幸せな気分になる」と言うのが「絶対的に間違いだ」と言うつもりは無い。
だが、やはり病気になりかねないものを「美味しいから」と気軽に人に勧めるわけにもいかず、子供や孫に食べさせようとはしないはずだ。
そして「知らなかった」では済まないとも思っている。
そのような「食」に「感謝」はあり得ない。
はるか昔、縄文時代の狩猟を始めとして、それ以降の稲作などを通じてみても、私たち人間は社会的な生活を営んできた。
仲間や家族、あるいは恋人と一緒に食事をとることで幸せを感じてきたはずなのだ。
大事な人と一緒に食事をして、共に命を繋ぐことに幸せを感じることは自然な事だろう。
これは日本も外国も関係ない、人類共通の認識だと思う。
「神」か「自然」かあるいは「食材」か「お百姓さん」なのか、その「感謝」の対象は色々あるとは思うが、生きる上で絶対に必要な「食」に対しての「感謝」は必ず含まれ存在するだろう。
「食」を蔑ろにし「こだわり」を捨てたのならば、そこに「感謝」は生まれず「幸せ」は遠のくのではないだろうか?
手を合わせ「いただきます」という姿を私たちは失いつつあるのではないかという想いに、どこか寂しさと後ろめたさを感じながら、焼き芋を頬張る「食の秋」である。
焼き芋は好きだが、蒸したサツマイモほど美味いものはない。
異論は認める。