ただ、ネジを巻いてくれるだけでよかったのに…
ルティリア王妃は、今日もファード国王に背を向ける。
「今朝もよろしくお願いしますわ。」
「ああ。解っている。」
王妃の背にある丸い大きなボタンをぎゅっぎゅっぎゅっと3回、右に回す。
それはファード国王のここ5年の毎日の日課である。
黒髪碧眼の凛々しい若き国王ファードが治めるアルティア王国は、女神と契約をしている王国であった。
他国は魔物に侵略され、被害が多大だと言うのに、アルティア王国は結界に守られていて被害が一つも出ない。気候は温暖で農作物の良く育ち、商業が栄え、周辺国と比べて最も栄えている大国であった。
女神レティナは、アルティア王国に今回、一つの授け物をした。
前回授けたファード国王の義理の母に当たる前王妃が亡くなった為である。
授けた女性。それが王妃ルティリアであった。金髪で白い肌の美しきルティリアは前王妃と同様、聖女のような力があり、国に結界を張り魔物の侵入を防ぎ、気候を温暖にし、作物の豊作をもたらす力を持っているのだ。
当時、ファード国王は、公爵令嬢と婚約していたが、女神レティナが授けたルティリアという女性を王妃にせざる得なくなった。
それが女神レティナの神託だったからである。
泣く泣く愛し合う公爵令嬢と別れ、ルティリアと結婚したファード。
若くして王位を継いだファードはルティリアの政務における優秀さにも助けられて、国は更に発展したのだけれども。
ルティリアは人間ではない。
夜の褥は共に出来るが、子が出来ないのだ。
国王ファードによって毎朝、背のネジを巻いて貰わなければならない。
それが女神レティナがルティリアを授ける時に、国王ファードにした約束である。
前王妃には無かった作業。毎朝、王妃ルティリアの背中のネジを三回右に回して巻く事。
ネジを巻く位簡単だと、国王ファードは承知したのであるが。
ルティリアは幸せだった。
自分が何者か解らない。だが、見目麗しいファード国王の妃になれて、
国を守る聖なる力を使う他にも王妃という仕事はやりがいがあり、本当に幸せだったのだ。
褥でファードに抱かれている時も、こんなに幸せでいいものか…
ルティリアはファードに縋ってそう思っていたのだけれども。
とある日、ファード国王は言ったのだ。
「私は、別れた元婚約者が忘れられない。側妃に迎える事を許して貰えないだろうか。」
「え…?」
「君は人間ではないのだろう。私とて子供が欲しい。カロリーヌなら、私の子を産む事が出来る。」
「解りましたわ。」
悲しかった。他の女性を愛しているだなんて。
わたくしは人ではないけれども、ファード様の妃になれて、本当に幸せだったのよ。
ファードはすまなそうに、
「それから、毎朝のネジ巻きだが、他の人にやって貰う訳にはいかないだろうか?
私とてカロリーヌの褥で目覚めたい時もある。それとも毎日やらねばならぬものなのか?
一日位さぼってもいいのではないのか?」
「お心のままに。」
それから、ファードはカロリーヌと言う女性を側妃に迎え、ルティリアをないがしろにするようになった。
連日カロリーヌの部屋で過ごすファード。
背のネジを巻いて貰えなくなったルティリア。
「ああ…力が出ないわ。結界を張り続ける力も、この国に与えていた豊穣をつかさどる力も…もう…」
ルティリアは褥に臥せる事が多くなった。
それでも、ファードはカロリーヌに夢中で、ルティリアを見舞う事は無かった。
徐々に結界を破って魔物が王国内に侵入するようになって。
長雨が降って、農作物が育たなくなり、だんだんと異常が報告されるようになってきた。
最近のファードはカロリーヌと褥でイチャイチャしていて、政務もやらずに部屋に引きこもっていた。
ドンドンドンと扉を叩く音がする。
ファードはめんどくさいとばかり、カロリーヌを抱き締めて布団に潜りこんだ。
自分の部屋で寝たきりになったルティリア。
王国の終わりを予感していた。
魔物が大挙して、王国内に侵入する日もそんなに遠くはない。
わたくしの力はもう…
後は死ぬのを待つだけだわ。
ファード様が背のネジを巻いてくれるだけでよかったのに。
涙がこぼれる。
「王妃様。大型の魔物がこの王宮に向かっているとの事。私と一緒に逃げましょう。」
この国の騎士団長エリクスが声をかけてくれた。
「他の人達は?皆…どうしたのですか?」
「皆、逃げ出しています。我ら騎士団でもあの大型の魔物は防ぎきれませんから。」
「では、命令です。わたくしの事はほっておいて、貴方は逃げて下さい。わたくしはここで死にます。」
「いえ。王妃様はわれら騎士達にもよくしてくださいました。この国の為に懸命に働いて下さいました。見捨てる訳にはいきません。」
そう言うと、エリクスはルティリアを背に背負った。
「わたくしは、もう…お願い。置いていって。」
「そうはいきませんから。」
ぼんやりと、思い出す。
エリクス騎士団長を始め、騎士団の皆は、良くファード国王や自分を警護してくれた。
忠実に仕えていてくれたのだ。どんなに心強かったのか。
心細かったルティリアにとって、エリクスの背は本当に温かった。
生きたい…ルティリアはその背の温もりを感じながら、霞む意識でそう思ったのであった。
王宮に大型の魔物が舞い降りた。
王宮には皆、逃げてしまい、ファード国王と側妃カロリーヌしか残っていなかった。
天井が破られて、二人が褥で驚いて見上げた時には、大型の魔物が二人を見てニヤリと笑い、
そのまま二人に向かって、足を振り下ろした。
王国中は魔物で溢れて、人々は逃げ惑い、惨憺たる有様になった。
ただ…ネジを巻いてくれるだけでよかったのに…
例え、ファード様に愛して貰わなくなったとしても。わたくしは…
ファード様を愛しておりました。
いえ、わたくしは、本当はファード様の愛が欲しかったのだわ。
たまらなく眠い…誰かが呼ぶ声がする。
ルティリアは霞む意識を手放したのであった。
アルティア王国は魔物に蹂躙されて、多大な被害を受け、王宮は破壊されて、政治も何も立ち行かなくなり、滅びてしまった。
ここはどこだろう?
明るい日の光が差し込むベッドで目覚めれば、騎士団長だったエリクスが心配そうにルティリアを見つめていた。
一人の輝くような美しい女性が男の背後から近づいてくる。
「ルティリア。よく頑張りましたね。わたくしは女神レティナ。貴方達を助けて、わたくしの神殿に連れて来たのよ。」
「女神レティナ様…」
そうだった。自分は女神レティナに人間の世界に遣わされた作られた人形…
エリクスがルティリアに跪いて。
「王妃様。ここなら安全です。どうか…ゆっくりとお身体を休めて下さい。私は人間の世界に帰ります。」
「エリクス。貴方がわたくしを背負って助けてくれたのですね。有難う。行ってしまうのですか?」
「私は例え滅びた王国でも、最後まで人々を助けたい。
王妃様には本当に我ら騎士団は良くして下さいました。ですから、王妃様が幸せにこれから暮らせるならば、私としてはこれほど、安心できる事はありません。」
「有難う。エリクス。」
女神レティナは微笑んで、
「エリクスとやら、ルティリアの事、愛しているのかしら?」
「とんでもございません。王妃様をそのような対象と見た事はありません。あくまでも忠誠です。」
そう言うエリクスの顔は真っ赤だった。
女神レティナはエリクスに、
「背のネジを巻いてあげて。ルティリアに新たなる生を…」
「私がですか?」
「ルティリアは貴方の物になるわ。さぁ…」
エリクスは首を振って、
「私は王妃様が幸せならばよいのです。どうか、お元気で…私は私の生き方を貫かねばなりません。」
エリクスは立ち上がる。
ルティリアは思わず声をかけた。
「いかないで…どうかわたくしの背のネジを巻いて。」
エリクスは首を振って、
「どうか、お元気で。王妃様。」
そう言うと、神殿を出て行ってしまった。
何だろう。酷く心が傷ついた…何だろう。
わたくしはネジを巻かれないと生きていけない王妃。いえ、もう王妃ではないわね。
けれども…
ルティリアは女神レティナに向かって宣言する。
「わたくしは、あの男を追いかけたい。追いかけてネジを巻いて貰いたいですわ。どうか、それまでわたくしに力を授けて下さい。あの男を追いかける力を。」
「まぁ、ルティリアも恋に生きる女になったのね。」
女神レティナはルティリアに力を授けてくれたのだった。
エリクスを追いかける力を。
その頃、エリクスは仲間の騎士達と魔物の大軍と戦っていた。
いかに滅びた国とはいえども、逃げ遅れた人々が沢山いるのだ。
騎士として最後まで戦いたい。
そう強く思ったから。
大型の魔物がエリクスを、騎士達を踏みつぶそうと足を上げる。
わらわらと逃げる民衆。
もう、逃げ場もないと思った時、
ルティリアがエリクスの前に降り立って、聖なる力を自らの身体から放った。
それは円を描き、ルティリアを中心にどんどんと広がって行く。
魔物達は悲鳴を上げて逃げ出した。
エリクスはルティリアに向かって跪いて。
「助かりました。王妃様。」
「感謝するならばわたくしの背のネジを巻きなさい。」
「私などでは、とても王妃様の人生を背負いきれません。怪我人を見ないとならないので。」
逃げられてしまった。
元王妃で、人間ではない自分の愛を欲しいとエリクスは思わないのだろう。
それでもわたくしは…
「ネジを巻いて欲しい。わたくしはエリクスにネジを巻いて欲しいのに。」
涙がこぼれる。
その時、ボロボロの格好をした、見覚えのある男が近づいて来た。
元国王ファードだ。
ルティリアの前に行くと、座り込んで。
「カロリーヌは死んでしまった。私は女神様の加護があるから生き延びる事が出来た。
ルティリア。もう一度、私と共に…背のネジは私が巻こう。だから…」
あんなに愛して欲しいと願ったファード国王。
彼の生死をまるで気にしていなかった自分にルティリアは驚いた。
「わたくしの役目は終わりました。貴方を支えて王国を守って行く役目は…わたくしはわたくしの人生を生きたいと思いますわ。もう、国は滅びたのですから。」
ファードはルティリアに縋りつく。
「どうか私を見捨てないでくれ。」
「ただ、ネジを巻いてくれるだけでよかったのに…それがわたくしへの貴方からの愛の証だったのよ。さようなら。ファード様。」
もう国は滅びたのだ。ただのルティリアとして、エリクスの傍にいたい。
ドレスをたくし上げ、脇で縛って、動きやすい恰好をする。
王妃では無くなったとしても、この滅びた国でエリクスがやっているように、
自分も出来る事があるはずだ。
遠くで怪我人を見ているエリクスの後を追うように、ルティリアは走り出す。
新たに愛する人から背のネジを巻いて貰う日を夢見ながら。
ルティリアの二度目の恋は始まったばかり。
そんな彼女を祝福するように、明るい日差しが辺りを照らしていた。