後編
前編 中編あわせてお読みいただけるとよりわかりやすいかと思いますが、約10000文字ですので、そんなのめんどくさいよ!という方のためにあらすじをおいておきます。
[あらすじ]
貴族の気娘リリィと貧民のアレンが出会い、外を熱望したリリィにそそのかされて屋敷を脱出する。(前編)
アレンはひとまずスラムに入ろうと提案するが、貴族のリリィが貧民街で受け入れられるはずがなく…。行く宛てを失ったアレンはうずくまって涙をこぼしはじめた。(中編)
死街。雪にうもれる貧しい街。街角の屋敷の壁に背を預け、雪に沈む少年と少女ふたり。すでに雪でかすみ消えかけた灯火。
「ここ、屋敷からほとんど離れてないのね」
リリィは背を預けている石壁を眺めていた。それは屋敷の窓から見たものとまったく同じで、リリィに無力さを突きつけるようにそびえている。外は自由なのだと思っていた。少なくとも貴族世界のなかよりかは。
自由とは、なんだったのだろうか。リリィは思案した。自分のいる場所が、あの屋敷の窓辺なのか あの屋敷から見た石壁なのか。それを選ぶことだったのだろうか。ここで凍えることを選んだことが、自分がリリィという個人として生きることに繋がるのか。
そしてやがて、考えるのをやめた。いくら考えていても、答えがでないであろうと見当をつけて。もし自由の定義がはっきりとしていて、リリィが今 自由かどうか誰かが答えてくれるのならば、それはきっとすでに世界の真理として広く知られているはずなのだから。
ふいに、アレンが口を開いた。
「ピーターにまた 悪いことしたなあ」
ぼんやりと、思いついたから言ったという顔で。リリィは申し訳なさそうに、アレンのつぶやきを聞いていた。謝罪を口にしたが、アレンはそんなことにまったく頓着せずに、呆けて明後日の方向に視線を漂わせた。
「アレン、こんなこと聞くのは悪いことだと知ってはいるのだけど、どうしても聞きたいの。なぜ私をスラムに引き入れようとしたの?私はあなたが、装飾品を売るために私を引き入れたのだとは思えない」
アレンは隣に座るリリィに体を預けた。こうしてみると、ふたりの身長は同じくらいなのだった。貴族と貧民で 生まれには雲泥の差があるのに、やはり同じ人間であることに変わりはない。
「装飾品を売るためじゃないってのは、正解。本当は…本物の貴族だったら、ピーターはどうするんだろうと思ったからだ。だからスラムにつれて行きたかった。身分不相応なことをする人は、追放されてもしょうがないのかもしれない。でも、正当な貴族だったならいいのかもしれない。ピーターは貴族が嫌いなのか、貴族かぶれが嫌いなのか…知りたかった。ピーターには結局、嫌われちゃったけど」
リリィにも、アレンにも、お互いの知らない過去があるのだった。所詮は他人なのだから。アレンの声は弱々しかった。
「いいよ。俺が勝手にやって勝手に傷ついてるだけなんだから。あんたが気に病む理由はない。それにもう疲れたし、寒い。ピーターも俺のこと嫌いなら、おまえを連れ出したところでどうでもよかったんだ。さあ 暗い話はもうやめて、なにか気が紛れることをしようよ。そうだな、昔話とか」
「アレンの話をしてくれるの」
「リリィの話から聞きたいな。寒さが紛れるくらい、心踊る話をしてくれよ」
「わかった。じゃあ、私の昔話がおわったらアレンもはなして頂戴ね」
リリィは微笑を浮かべた。もう足も腕もあるのかないのかわからない。銀世界と黒い建物が並ぶ街で、いったいなんの話をしようかと考えていた。
「心は踊らないかもしれないけれど、昔話ならできるわ。…昔々、あるところに貴族の少女がいました」
静かな語りだしから始まる物語は、淀むところなく流れはじめる。
「彼女はいじわるな主様がいるエカテリーナの屋敷に連れていかれ、毎日を寂しく生きていました。屋敷にはすでに7人の姉がいて、それぞれに従者がついていました。誰の子がいちばん貴族の令嬢としてふさわしい淑女になれるか、争うためです。お勉強やダンス、お歌にマナー。必要なことはなんでも叩き込まれます。見て呉れの良い令嬢ほど好かれる傾向にありましたから、食事制限や体を清めたりすることには特に余念がありませんでした。何日も食事をとらせてもらえないことは日常で、そこからさらに気を失うまで沐浴室(❆サウナのようなもの)にいれられたりしました。反抗すればドレスに隠れて見えないところに折檻されました。何人かの姉上は、その厳しい生活のなかで消えてしまいました。彼女の右の部屋も、気がつくと空になっていました」
果てしなく死んだ街のなかで、かつて小鳥のさえずりと評された声だけが、儚く響いていた。雪はいつしか、小雪になっている。
「そんな厳しい屋敷でも唯一よかったことは、窓があったことです。彼女は毎日 窓から外を見ていました。外は雪の吹き荒れる厳しい場所でしたが、屋敷と違ってなにもかもが絶望していたわけではありませんでした。たまに、屋敷の前の道に子供たちが通ることがありました。彼らはいつも街角のマンホールに潜るので、地下スラムの少年少女だったのでしょう。ボロ布をまとって凍えながら歩いていました。毎日その子たちを視線で追いかけて、いつしか自分を重ねはじめて。彼女が空腹に悶えているとき、彼らも同じように震えていました。彼女はスラムに共感していました。外を見ているときだけが、かすかに生きる喜びでした。外は厳しいだけでなく自由でした」
アレンはリリィの顔をじっと見た。
「ある日。彼女は暖炉のわきで苔を育てて食べているところを、従者に見つかってしまいました。従者は怒り狂って、彼女を屋敷の庭に放り出しました。外へ、出ることができました。監獄から夢見ていた外へ。めでたし めでたし」
話が終わっても、アレンは暫しの間 口を閉ざしたままだった。やがて慎重に言葉を選んで、リリィにひとつの問を投げる。
「…その女の子、幸せだったろうか」
「物語は めでたし めでたしの常套句をもって結ばれたのだから、きっと幸せなのよ」
その言葉を聞いて、ようやくアレンも笑顔になった。
「よし今度は俺の番だね。リリィみたいに上手く話せないかもしれないな、教養ないし。あんまり期待しないでくれよ。えーと…昔々あるところに、貧民街の少年がいました」
アレンはところどころ つっかえながらも、必死に物語を紡いだ。わかりにくいところはリリィが助けたりもしながら。まとめると、以下のような話であった。
「少年には妹がいました。それは彼と血のつながった ただひとりの兄弟でした。べサニーという名前の妹は、最貧層の少女ながらに、いつも貴族を夢見ていました。少年はもちろんそんな少女のことを愛していましたが、スラムでは当然のように嫌われていました。少女の希望を失わない瞳は、スラムでは明るすぎたからです。少女が15になったとき、義兄弟から春を売ることを勧められました。少女は言いました」
私は売女(❆ばいた)ではないわ。貴族よ。そんなこと絶対にしてやるもんか。
「それはスラムにおいて有り得ない発言でした。花は貴重な収入源でした。女は力もありませんので、体ができればすぐにでも売るのが、貧しいスラムの定石でした。それをしない少女はスラムを追放されました。人が寄りあい競い合って生きるスラムで、妹が生きるのは限界でした。あのままスラムに貴族かぶれの少女がいたら、スラムの秩序が乱れてしまうからです。スラムの王は少年と妹の幼なじみでしたが、容赦はできませんでした。スラムの王も自分の命が大切なのです。少年は、追放された妹の後を追ってスラムを飛び出しました」
べサニー、夢なんて捨ててスラムに戻ろう。
嫌よ、絶対に嫌。私とあの屋敷の人にどんな差があるのかしら。同じ人間なのに!私は貴族として死ぬわ。
「少女は強情でした。街はずれまで歩く妹を、少年は必死で追いかけましたが、所詮は貧しい体の上。やがては体力もつき、ついには妹をおいてスラムに帰る道を歩きはじめました。エカチェリーナ家の前を、惨めな気持ちで歩きました」
アレンの紡ぐ物語はまだ終わらない。
「マフラーを引っ張られて、貴族の少女に出会いました。なにかを望む綺羅の瞳。彼女は妹と不思議なほどによく似ていました。ひとつ違ったことをあげるとすならば、妹べサニーは貧民で、エカチェリーナ家の少女は貴族だったことです。胸にこびりついた罪悪感が、燃える炎のように少年を焼きました。妹をおいていったことを死ぬより恥じていましたが、ちょうど贖罪の権利を神様はくれたようです。少年は誓いました」
今度は いっしょに死んでやろう。
「…めでたし めでたし」
アレンの物語も、リリィと同じ常套句で締めくくられた。ふたりは身をよせあって、なけなしの体温を共有していた。しばらくそうして、どちらもなにも喋らなかった。
リリィの視界は真っ白に染まっていた。実際のところ街は街灯や屋敷の色で完全に白くはなかったのだが、すでに雪に壊された頭は色の認識をこばんでいた。
「妹のこと愛してるのね」
アレンは不思議に思った。どうして妹を捨ててスラムに逃げ帰った話を聞いて、リリィはそんなことを言えるのだろうか。なによりアレン自身が、自分は妹を殺したのだという自負をもち、妹を愛しているのかよくわからなくなっているのだった。愛していたのは間違いない。しかし、今 愛しているのかと問われれば、すぐに是と答えられない。
「愛してるのかな、そう答えてもいいのかな。俺にはその資格があるんだろうか。妹をおいていった俺が」
「いいのよ。アレンがはなしてるの聞いてればわかるわ。それに、アレンのこと悪くいう人はここにいないもの」
「リリィ、おまえが俺の妹だったらよかったのに」
リリィは思い出したように言った。
「私を屋敷から逃してくれたとき、報酬があるって言ったの覚えてるかしら。あの報酬、本当はこのイヤリングにしようかと思っていたのだけど、変えましょう。私を好きにしていいわ。アレンの望む私にして」
アレンの体が強ばった。それは躊躇ゆえだった。
「そんなことを、許してくれるのか」
それはリリィという存在を否定することを指す。もし許すのであれば、自分が生きているという、言うなればもっとも重要なことを アレンに下げ渡しても良いということだ。
リリィは構わない、とうなずいた。
「私はもう、自分がなぜ生きているのかわからない。私が存在している意味がわからない。それにねアレン。この世の中に飢えず暖かい場所で暮らし、自由な上に 生きてる意味もあるなんて、そんな人ほとんどいないわ。私たちのように、何かが欠けてて苦しい人ばかりよ。そんななかで、ただ目の前にいる人の願いを叶えられるかもしれない。必要とされているのかもしれない。私は幸福だと思うの」
リリィは貧しい場所で育った。金や富の話ではなく、人の温もりの話である。リリィが人生で自分の言葉を交わしたことのある人は、自身の従者と、アレン、ピーターだけだった。命じられて話したことこそあれど、自分で考えて話したことはない。彼女がここまでするのは、アレンに尽くしたい以上に、隣にいて欲しい 離れないでほしい という切迫した心があるからなのだ。独りになりたくなかった。飢えて乾ききった少女の心は脆く、容易に自身を下げ渡す。もちろん本人にその自覚はなたが。
アレンの視線が据わった。
「べサニー…」
「妹の名前?」
「ちがう、おまえの名前」
「アレンお兄様?」
「べサニーはそんな呼び方をしない。べサニーは貴族ごっこが好きだったから、俺のことも貴族風の名前で呼んだ。マフラーの刺繍にはアレンと入れてあるから、多くの人は俺のことをアレンと呼ぶ。でもべサニーだけは俺のことをアイザックと呼んだ。アイザックが本当の名前なんだ。アイザックだけが俺の名前だ」
リリィはうなずいた。自分が初めてアレンという名前を知ったのは、アレンが名乗ったのではなく、マフラーの刺繍を勝手に読んで知ったものだということを思い出した。
「アイザック」
「べサニー、ごめんな。ずっとおまえに謝りたかった。置いていってごめんな。俺にはついて行く勇気がなかった。ピーターがべサニーのことをなじるのを、見て見ぬふりしてごめんな」
アイザックは最後に囁くような声で言った。それは正しく、妹にむける兄弟愛に溢れた言葉だった。
「愛してる」
リリィは涙を耐えることができなかった。自分に向けられたことのない愛が、これほどまでに暖かい声で囁かれるなど知らなかった。胸が痛い。苦しい。
「アイザックの妹になれてよかった…」
流れる涙は雪に沈む前に凍りつく。
冷たい街、どうしたってリリィとべサニーは相容れない。どうしようもできない。
最期の息が潰えるとき、ふたりがどんな顔をしていたのか、知ることもできない。
おわり
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。このお話の最後の解説などをつらつら書き連ねて参りますので、少々お付き合いいただければ幸いです。
■きっかけ
この小説はまるで自分が零から考えて書いたように見えますが、実は少し違います。これは著者が図書館でみつけたメモから発展させて書きました。
私のみつけたメモは、この小説のように地の文はなく、アレンとリリィのだけが つらつらと書かれたものです。英文を直訳したような硬い日本語で、とても読みずらいものでした。(会話メモが元ですから本文はセリフだけ読んでも大方の意味が通じると思います)
しかしメモの最後に「この会話は本当にあったもの」という後書きが残っていたのを読んで、無視できなくなってしまいました。
■固有名詞
本文に登場する固有名詞は、生々しくなりすぎないようにわざと直接的な表現を避けています。東の島国 とか あえて異国のカタカナでタラカーンと表記したりしたのが例です。ゴキブリを投げつけて内蔵がブシャーってなりました。キモかったです。とは書けないからです。
名前についても同様です。
メモには名前がひとつもありませんでしたから、どの名前も著者の完全創作となっています。このお話の場所では明らかに使われていない名前も使っています。リリィ、アレン、ピーター。これらは主に英語圏で使われる名前ですので、本来であればあのメモの少年少女の名前としては不適切です。
また、リリィ、べサニー、アイザックの名前には意味がかけてあります。
リリィ
白百合、百合の花、純潔な人(貴族の名前にもよく使われる)
べサニー
貧しい家の(べサニーという名前の貴族はいない)
アイザック
イサクから変化してできた名前、「彼は笑う」という意味をもつ
長い話になってしまいましたが、どこかで真にあった話の結末を、最後までご覧くださってありがとうございます。
Спасибо!!