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短編

一日だけの花嫁

作者: 桜 詩

 夫が、戦争から帰って来た。


隣国との開戦により徴兵されることになり、同じ村に住んでいたコウと、ナナは村のしきたりにより結婚をすることになった。


徴兵される時、妻がいれば無事に帰れると信じられていて、その日出兵する独身の男性たちは村の独身の娘の名前がかかれた紙を引き、その相手を選ぶ。

そうしてその日に結婚をした若者はコウとナナ以外にももちろん居た。


 たったの一日だけナナはコウと夫婦として過ごした。


大きくない村、近所しか交流のないナナとコウはその日はじめて顔を合わせて結婚の儀式は厳かに執り行われ、お祝いなのに裏には哀しみがあった。


―――生きては帰ってこれないかも知れない、そんな相手との会話は名前を伝えあうたったそれだけで……。


なぜ……戦いがあるのか、彼がそこに行かなくてはならないのかそんな事も分からずに、ただそんな現実だけが若い二人の人生を決めてしまった。


ナナはその夜、肌を合わせて、夫となった人の顔も脳裏に焼き付けられないそんなうちに、翌朝見送らなくてはならなかった。


まだ若いコウは、働き者の体をしていて無口で、そしてとても緊張していて表情は硬く動きはぎこちなくて。ナナは無理矢理戦わされるコウが気の毒だったし、コウはきっとこんな形で花嫁となったナナを気の毒に思っていたに違いない。

音となる言葉を聞かなくても、コウのそぶりからそう伝わってきていた。



 そして、その数ヵ月後ナナはコウの子供を身籠っていることを知って戸惑ったし、ナナの親も戸惑った。

たった一夜。コウの花嫁だったのはそれだけしかなかったから。

だれもが口にすることを憚るけれど、帰らないかも知れない人の子を授かった事を、ナナの両親は心から慶べなかったに違いない。


 そして、無事に月は満ちてナナは男の子をこの世へと送り出した。


ナナは、まだ名前のついていない乳飲み子を腕に抱きながら、ふいに訪れたコウの帰宅の時を迎えたのだった。


  コウは確かに生きていた……。


 けれど、戦争で受けた傷は働き者の足を不自由にしてしまっていて、自由に歩く事を命と引き換えに喪った彼は、台車に乗せられての帰郷であった。


健康な青年だった彼は、以前は静かな足どりながら自分で出兵していった家を、今は兵士たちに脇を支えられ左足を引きずりながら二人の小さな家へと帰って来た。


ナナはこの人が自分の夫だったかと、顔からそして体から全てをまじまじと見つめて、おもむろにこういう場合はそうだ……

「お帰りなさい」

こう言うのだという言葉を発した。


コウへこの言葉をかけるのははじめての事だった。


「………こんな体なら、死んだ方がましだった」


ぼそりと告げられたその言葉は、ナナの胸に突き刺さり、まるで巧妙に隠していた自覚していなかった思いを見透かされた気持ちになった。それには答える言葉を持たず、


「あなたの、息子です」

ナナは腕の中のまだ産まれて間もない息子をコウの目に写させる。

「俺の……息子」

「はい」


戸惑うのは無理もない事、二人が過ごしたのはたった一夜。まさか子供を授かっているとは思いもしなかっただろう。

ナナは彼の常を知らない。だから、ただ

「名前をつけてください」

ナナは静かにそう言った。


「お前が……付ければいい」

「……私が、産んだのですから……せめて名は、父であるあなたが」

コウは、深くため息をついて

「リュウ」

と一言告げた。

男の子につけるには、強く逞しくていい名前だ。

「リュウ……いい名前です」

ナナは腕の中の乳飲み子をコウの腕にそっと置いた。

「この子はあなたに、似ています」


ナナがそう言うと、コウははじめて真っ直ぐにナナを見つめてきて、その瞳は暗い色で、傷ついて見えた。


 コウの旅で汚れた体を固く絞った布で拭くと、左足の太ももに大きな傷痕があった。たった一日、それももう1年近くも前に会ったばかりの異性の体を隅々まで拭くのは、ナナとしても平静を装うのが精一杯だった。

何度も布を洗って絞ると、彼が過ごしてきた戦いの後が水を汚していって、ナナはまた水を新しくしてはそれが澄むまで繰り返した。


その夜の夕食を一緒に食べるが、その食卓には会話がない。

しん、とした中で、ひっそりと食事をする。


歩くには、ナナが肩を貸すがコウの体は大きくて重くて大変だった。


 コウが帰って来たと知って、コウの両親が家を訪ねてきた。

「ああ、コウ!」

両親は無事の帰郷を喜んでいたが、コウの顔は晴れなかった。


「生きていてくれて、良かった」

そう父が言うが、

「何が良い。こんな体で……俺は役立たずだ」

吐き捨てるように言ったその言葉にナナは体をひきつらせた。


この村は田舎で、裕福でない暮らしで、ここで暮らして行くには不自由な体というのは確かにそのように感じてしまってもおかしな話ではなくむしろ、そうである。


「コウ……」

「迷惑な、だけだ」


ナナは、哀しみに囚われた両親を見送ると

「ナナ、出来るだけの事はするわ。コウをお願いね」

「……はい……」

そうは言われても、まだ若いナナにはそれでなくても乳飲み子のリュウがいて、その上コウの事を頼まれていても戸惑うばかりで、どうしたものかわからない。

幸い事情を知ったナナの両親もそれから村の人達も、食べるものを持ってきてくれた。


「ナナちゃん、大変ねぇ」

これは、顔を合わせればみんながそう口にして、よかったらこれを食べて、と食べ物をくれたり、家の不要な服を持ってきてくれたりする。それに、ナナは

「ありがとうございます」

と、ただお礼の言葉を口にするばかりだ。


それを耳にしたり、目にしたりするコウの事を思えばなんと返事をするべきか……。だからナナはただ、微笑んでお礼を伝え続ける。


家の周りの畑には、小さな家で食べられる分だけの食物は植えていたけれど、コウの戦争手当て金は無尽蔵ではなく先行きは明るいとは言えなかった。


「だんなさま、少しリュウを抱いていて下さい」

「ああ」


コウは、家の外のベンチに座り、ぎこちなくリュウを抱き揺らした。

それを横目にナナは畑の世話をして少しだけ、微笑んだ。

畑の世話を終えて、コウの隣に座るとリュウはその腕の中でぐっすりと眠っていた。

「お父さんの腕は安心するのでしょうね、すっぽりとくるまれるから」

「そうか?」

「はい、大きくなってきたので、私の腕だとはみ出てしまうのです」

「そうか……」

ほんのわずかに、瞳が和んだ気がしてナナも微笑んだ。

リュウを抱いた腕は、しっかりとした骨に働き者の証の筋肉がしっかりとしていてナナの細い腕とは違うものだった。そこにそっと触れて、

「この腕は……働き者の腕ですね」


「……ナナ」

「はい」

名前を呼ばれたのははじめての事かもしれなかった。


「深や森の池に、連れていって欲しい」


村の外れにあるそこは、コウ一人では今は難しいだろう。

しかし、いまそこに水遊びに行きたいという意味ではない。ナナはそれをきっと正確に理解したと思う。


「だんなさまの、お気持ちはナナは分かります。ですが、それはリュウがこの腕を欲しなくなってから……お連れさせてください」

「腕だって?」

「だんなさまのこの腕が無いと、ナナはリュウを背負って畑をしなくてはなりませんし、洗濯もしなくてはなりません。買い物に行くのにもずっと。荷物もリュウも抱えるのはとても大変です」

「そうか…」

「リュウは、この腕でよく眠ってくれています。それがとても嬉しいのです」

「そうだな、腕は前と変わらない……」

「はい」


ナナは立ち上がると

「でも、そろそろお疲れでしょう。籠に寝かせてきますね」

リュウを抱き上げ家の中の小さな綿入れを敷いた籠に寝かせる。安心したかのようによく眠っているのでそっと離れても起きる気配は無かった。


「だんなさま、お願いが」

「俺に、願い?」

ナナは太めの大きな枝を差し出した。

「杖を、作ってください。ナナはだんなさまよりも小さいので、支えるのはとても大変なので杖があれば助かると思うのです」

小刀と枝、それに革紐と縄を置いた。

「杖、か」

コウはそう言うと、黙って枝を削りはじめた。


リュウは眠り、コウは杖を作る。

その間にナナはもらった野菜と家の野菜とで夕食の支度を始めた。


ナナの使う、包丁の音。

木を削る心地いい音。

乳飲み子の、健やかな寝息。

竈の火のはぜる音。ことことと煮える水の音。


すべての音が、静かに命の炎を灯している。


夕食が出来上がる頃には、コウの手には杖らしきものが出来上がっていて、ナナはすごい、と呟いた。


側で支えながら、はじめての杖の使い心地を確かめるのをじっと見つめる。

ざっくりと作ったそれは、単なる木の枝であったけれど、新たな命を再び灯されてコウの体を支えてくれる。

「……また、枝を拾ってきます。何本でも。どんな長さがいいとか、太さが良いとかおっしゃってください。そうでないと、たくさん杖を作る事になってしまいます」


「………」

「長さがもう少し長いものを拾ってきてみますね」

「……頼む」

「はい」


小さな机には、湯気の立つ料理が並んでいる。

二人の間に、また言葉はなくリュウの寝息が一番大きな音だった。


「よく寝ている」

「ナナ一人だと、いつも家事をしながらになるので、だんなさまが落ち着いて寝かしつけて下さったからリュウは安心して眠れたのでしょう」


食事を終えたところで、リュウが泣き出した。ナナは籠から抱き上げて、おむつを代えてそれから授乳をする。


たくさん飲んで眠る赤ん坊の成長は日々感じられ、ずっしりと重くなっていく。満腹で口を離したリュウをげっぷをさせて再び、見るともなしに側にいたコウへと託す。


「洗ってきますから、少しだけ抱いてやっててください」

「ああ」


すると、リュウは腕に抱かれた瞬間にニコッと笑ったのだ。

「あ、リュウ。はじめて笑いました」

ナナは二人に笑いかけて、机の器を持ち洗う。


二人分の洗い物は少なくて、それほど手間取らずに終わるけれど、振り向けばリュウはあやされて軽く声をあげて笑っている。それを腕にしているコウもまたほのかに微笑んでいた。

その事がナナはとても嬉しかった。


もしかするとリュウが、コウに生きる力を与えてくれるかも知れないと……。


***


そんな和やかな日々は瞬く間に過ぎて、リュウははいはいをし出した。

「リュウはずいぶん、大きくなった」

「ですが、まだまだだんなさまが見ていて下さらないと、危ないものを口にしたり触ったりしてしまいます」


「ナナ……」

「そろそろリュウもおもちゃが要りますね。だんなさまは小さい頃どんな物で遊ばれてたのでしょう?作ってくださると助かります」


そうして

コウはリュウのために、木を削り積み木を作った。リュウはすくすくと大きくなって、積み木も上手に積めるようになったし喃語も話すようになって、よちよちと歩くようにもなった。

そして、その側には必ずコウの目があったのだ。


「ナナ、リュウはもう乳飲み子ではなくなってきた」

「リュウがやんちゃをするのはきっとこれからです。だんなさまがきちんと叱ってくださらないと……。だんなさまの声が必要です」


コウの杖はいつしか何本も拵えられて、そうするうちにナナの支えなく杖だけで歩けるようになっていた。

けれど、昔は自由に駆け回っていた人が、不自由な体を憎く思うのは仕方がないことだろう。


「ナナには……だんなさまが、居てくださらないと。その腕が……目も耳も口も必要なのです。だんなさまが居ないととても大変なのです。だからまだ……池にはお連れ出来ないのです。これはナナの我儘です」

杖の持っていない方の腕で、コウはナナを軽く抱き寄せる。


「みんな、お前が可哀想だという。俺も……そう思う。生きて帰らなければ……。寡婦金を受け取って、再婚出来たはずなのに」


「人から見たら、可哀想だと思えても、本人は可哀想だとは思いません。リュウはだんなさまに見てもらえましたし、腕に抱いてあやしてもらって大きくなりましたし、寝返りもはいはいも、歩きだしたのも見てもらえました。だんなさまは働き者で、優しくて、そして何よりも………」

ナナは体に腕を回した。


「温かいです……こうしていると、鼓動も聞こえます……。これはどんな音楽より素敵な音で……安心します。

―――――ナナがだんなさまの花嫁だったのは、たったの一日で後はリュウの母でした。だから……だんなさま、ナナをもう一度だんなさまの花嫁にしてください」

ナナは……。

この世に引き留めたかった。

離れていた1年と、それから側にあってずっと繋ぎ止めようとした1年。彼に生きていて欲しいと、心から願っている事を知って欲しかった。


「俺は、ナナに苦労ばかり……かけている」


「そんなの、みんな苦労ばかりしてます。健康なのに働かないだんなさまや、あちこちで遊んでたり、怒鳴りちらしてるだんなさま。ナナは……今、とても満ち足りて幸せです」


「だぁっ」

とリュウがコウの足に抱きついた。

「リュウもお父さんの事が大好きよね?」

「あいっ!」


杖を上手に支えにして、コウはリュウを抱上げた。

「そうか……」

「あいっ!」


元気よく声をあげて、返事をする。


「リュウにはそろそろ一緒に遊べる兄弟が必要ですし、そうしたらまただんなさまの腕が必要ですから……。池に行くのはまだまだ先になってしまいます」

「先、か」

コウは天を仰いだ。

「はい。いつか、いい時が来たら一緒に行きましょう」

いつか来るその時は、水遊びをするために。


ナナはこうして、一日だけの花嫁ではなくなったのでした。


――fin――

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― 新着の感想 ―
[一言] 私がナナだったら。こんな風に出来るだろうかと考えてしまいました。 夫が池に連れて行ってと言ったのはそこで死ぬからって事なのでしょうし、帰ってこなければ寡婦金を貰えたのにとか。夫はきっと本心か…
[一言] とても素敵なお話でした。 大切な何かを思い出させてくれるフンワリ温かい内容ですが、 芯はどっしりとした力強さで、生きることに必要な事って実はシンプル なんだと考えさせられました。 ありがとう…
[一言] 最近なろうに登録したので、ブクマしました。 このお話が好きで何度も読みました。 素敵な物語、有り難う御座います!
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