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愛情の猫又

 私には名前が無い。


 気付くと私はそこにいた。


 誰かに育てられた記憶も無く、物心がついた瞬間から私という存在は初めて生まれた。


 一番最初に見えた景色は、辺り一帯緑に包まれた森の中。心地良い風が頬を撫で、布団のような茂みの上で仰向けに倒れていた。


 何故私はこんな場所にいるのか。今の今まで何処でどうやって過ごしていたのか。過去の記憶は一切残っていない。


 近くにあった川がふと視界に入り、川を覗き込んで自分の顔を確認する。


 真っ白な髪の中から生えた二本の猫耳。見た後に触れることで、飾りの耳ではないと理解した。


 私は人間じゃない。だとしたら私は何なのか。疑問が新たな疑問を生み出し、得体の知れない存在である私自身を不気味に思い始めた。


 とにかく人を探そうと思い至り、町や村の方角も分からないまま歩き出す。


 しばらく歩いていると拓けた場所に出て、そこそこ大きなボロボロの屋敷が建っているのが見えた。


 明らかに人が住んでいるような場所じゃない。そして、ここが人里から離れた場所であることを示していた。


「あ〜……退屈じゃ。何処かにやらしい書物でも落ちていないかの」


 とても人が住めるような屋敷じゃないはずの場所から、白装束の着物を着た小さめの女の子が出てきた。


 どうしてあんな女の子がこんな寂れた場所にいるのか。何はともあれ、他人に出会うことができたのは良かった。


 私はすぐにその女の子の元に駆け寄った。


「あ、あの、すみません」


「ぬ……? ぬぉぉ!? な、なんと見事なおみ足! そして絶妙に丈の短いミニスカートなる着物! ぐふっ、ぐふふ……辛抱たまらん!」


「……すいません、人違いでした」


 可愛らしい見た目に反したやばい人。それがキサと初めて出会った時の第一印象だった。




〜※〜




 キサと出会い、しばらくキサの元でお世話になりながら、私に関して色んなことを教えてもらった。


 私は人間ではなく、況してや猫でもない。人の想いから生まれた妖怪という類稀なる生き物であると、それは非現実的な解答だった。


 でも自分の見た目からして信憑性が高く、私自身も納得せざるを得なかった。


 妖怪として生まれてしまったからには、人里で住み続けるのは難しい。せめて自分の住処が見つかるまではここにいて良いと、キサは私に優しくしてくれた。


 と言っても、私がキサのボロ屋敷に住んでいたのは僅かな期間だけだった。


 私の足に対する執着心が半端なく、ウザ絡みされることに私の我慢の限度が超えてしまったからだ。


 幸いにも雨風を凌げる洞穴を見つけたし、食事の方もキサから分け与えてもらえるので、暮らしに何ら不自由はなかった。


 ただ、そんな当たり前の日常を過ごしていて、妙な違和感を覚えることが多々あった。


 本当に私はあの瞬間に生まれたのか。今までずっと誰かの側にいたのではないか。そんな錯覚にも似たようなものが頭の中にずっと引っ掛かり、一向に離れなかった。


 思い出そうとしても思い出せない。そもそもこの引っ掛かりは本当に錯覚というだけで、元々存在しない記憶である可能性もある。


 そのはずなのに、私はこの引っ掛かりに対して“とある想い”を抱くようになった。


『何かとても大切なことを忘れている気がする』


 それが何なのかは分からない。でも私にとってその記憶は、自分の命すらも厭わない程に大切なもの。


 何かが……誰かが……私を待っている。時が経つにつれて錯覚は錯覚ではなくなり、これは失われてしまった記憶であると確信を得た。


 更に時が経てば、この記憶はいつか目覚めてくれるのだろうか。その時が訪れてくれることを乞い願い、私は何をするでもなく平凡な日々を過ごし続けた。


 そして、思わぬ人物との邂逅により、私は再び自分の失われた過去から目を背ける――もとい忘れることになった。


 なんてことはない、いつも通りの日常。外の道でキサの姿を見つけ、いつものように話し掛けようと近付こうとした。


 でも途中で踏み止まり、キサの隣に立っている見知らぬ人物にいち早く気付くと、猫の姿に変身して一旦木の上に隠れて様子を伺うことにした。


 そしてその数十秒後、ミサイルのような石ころが飛来してきて、私の足場が呆気なく崩れ落ちた。


 高いところから落ちるという恐怖体験をした後、その人物は呑気な顔で私の元に現れた。


「あの〜、大丈夫ですか?」


「これが大丈夫に見えるかしら? 本気で死ぬかと思ったじゃにゃい!」


 現代兵器のような腕力を持った化け物人間かつ、キサと同類のやばい人。それがシロ君の第一印象だった。


 そしてこの出会いを境に、私の中で引っ掛かっていた“何か”はいつの間にか消失し、失われているであろう記憶を追い求めていた自分という存在を忘れてしまった。


 一日だって忘れたことがなかったのに、どうしてまた忘れてしまったのか。その理由はなんとなく分かる気がする。


 シロ君と共に過ごす日常の中に潜む安らぎ。決していいことばかりじゃなかったけど、そこが本来の私の居場所だと思ってしまうくらいに居心地が良かった。


 出会ってまだ間もないはずなのに、気付けば私はシロ君に心を開き、当たり前のように側にいた。


 不思議だった。シロ君といると、一人でいる時よりもずっと安心している自分がいた。


 違和感なんてない。自分の居場所はここなのだと、私の本能が告げていた。


「どうして……」


 頭の中にある引っ掛かりが再び蘇り、失われていたはずの記憶の蓋が少しだけ開く。


「どうして忘れていたの……」


 そうだ、そうだった。元々私はシロ君の側にいた存在だった。なのにどうしてそんな大切なことを忘れていたんだろう。


「フハハハハッ! そうか! そういうことか! なんという運命だろうか! 罪人よ、お前は本当に悪運に恵まれているらしい!」


 徐々に蘇っていく記憶に頭痛を感じていると、私を見ている犬神が爽快に笑い出す。


「しかし良かったではないか! 当初には願いが叶わなかったが、結果的にお前の望みは叶えられていた! そしてお前の後始末の手間は省けてくれるようだ!」


 何がおかしくて笑っているのか。その笑い声が不愉快で仕方ない。


「……シロ君。一つ貴方(あにゃた)に聞きたいことがあるの」


 もし彼が記憶の片隅にでも私のことを覚えていてくれているのなら、その答えを知っているはず。


 私自身がどんな存在だったのか。私はシロ君の何だったのか。私とシロ君の間にある繋がりの正体は何なのか。


 思い出さなければならない。その後にどんな結末が待っていようとも、目を背けてはいけない。


 私の問い掛けに反応して、虚ろだった瞳に僅かな光が灯る。


 途端に唇が震え出し、やがて震えは全身へと巡る。


 恐怖に塗れ、私と目を合わせようとしない。まるで現実から目を背けるように、何処かに逃げ出そうとしている。


「お願いシロ君。私と距離を置かにゃいで。私に(はにゃし)をさせて」


 目には見えなくとも、私とシロ君との間に距離感が生まれているのが伝わって来る。


「都合の良い男だ。ならば私がその逃げ道を絶ってやろう」


 シロ君と犬神を包み込んでいた禍々しいものが消え去った。犬神が意図的に消したんだ。


「さぁ、猫又よ。存分に話をするといい。奥底に潜む記憶を呼び覚まし、この罪人に抱いているであろう憎悪を全て解き放つのだ!」


 ふわりと宙を漂ったままシロ君の元に近寄り、目の前で立ち止まる。


「シロ君」


 名前を呼び、小さく見える彼の右手を両手でぎゅっと握り締める。


「大丈夫。貴方(あにゃた)や犬神が思っているようにゃことにはにゃらにゃいから。だから、恐れにゃいで。私に全部思い出させて」


「…………」


「教えてシロ君。(にゃ)くしてしまっていた、私の名前(にゃまえ)を」


「…………君、の」


 少しだけ開いていた記憶の蓋が動き始める。


「君の……名前……名前は……」


 長年縛り付けられていた封印が解かれ、蓋の中から白い光が漏れ出す。


「“(まな)”」


 愛。それが私の名前。


「……あぁ」


 私の家族であるこの人が付けてくれた大事な名前。


「そう……だった……」


 愛情深い優しい猫として生きて欲しいという願いを込めて付けてくれた、私にとって唯一無二の繋がりの象徴。


 失ってしまっていた繋がりが再び蘇り、私達を強く結び付ける。


 一緒にひぃさんの元で育ち、厠お姉さんと狸君と出会い、皆と笑い合っていた幸福に満ちた日々の記憶。


 あの台風の日に私が死に絶え、強く結ばれていたはずの繋がりが断ち切れてしまった悲しい記憶。


 私の全てを思い出した刹那、青白い光が私の身を包み込み、真っ白だった髪に若干の青みが帯びた。


「うぁっ……うぅっ……ぁぁ……」


 本来の私に戻った瞬間、彼の恐怖の色が一気に真っ黒に染まり切り、片耳を塞いで目を瞑った。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」


 謝罪の言葉を紡ぎ続け、また自分だけの殻の中に閉じ籠ろうとする。


「見捨ててごめんなさい、見殺しにしてごめんなさい、臆病者でごめんなさい、偽善者でごめんなさい……」


 酷く自分を責め続け、罪悪感という闇が彼を飲み込もうとする。


「もう二度と君の前には現れません。君を殺した罪を背負って、俺は地獄の底に消えます。そしてどうか、二度と俺のことを思い出さずに幸せになってください……」


 唯一繋ぎ止めていた雪羅ちゃんとの繋がりの糸が切れ、彼はドス黒く淀んだ沼の底へと一人落ちていく。


「駄目ぇ!!」


 咄嗟に雪羅ちゃんが手を伸ばそうとするも、その手が彼に届くことはない。


 死に向かう彼の姿。それはあの日と立場を逆にした光景。


 あの時はお互いに手が届かなかった。そのせいで絆を失い、悲劇を生んだ。


 もう二度と後悔しない。何も失わせはしない。ようやく取り戻した繋がりを、誰にも断ち切らせはしない。




 ――今の貴女なら届かせられる――




「行かせて……たまるかぁぁぁ!!」


 頭の中に響く誰かの声。その声が私に力を与え、黄金色の光が私の手から解き放たれる。


 暗い世界を眩しく照らし、黒を白で塗り潰していく。


「ば、馬鹿な!? 何だこの霊力は!? 神である私の力を遥かに凌駕するだと!?」


 予想外の事態に犬神が動揺する。


 光の影響なのか、犬神の姿は明らかに縮小していた。


「な、なんですかこれ!? 何がどうなってるんですか!? これもまた雪羅さんの力だったりするんですか!?」


「ううん、私じゃない。これはきっと……」


 私の霊力だと思われているようだけど、これは私の霊力でもない。


 誰かが私に力を貸してくれている。そしてそれが誰なのか、私には想像がついていた。


 あの日届かなかった手が届き、二度と離さないようにその右手をぎゅっと握り締める。


「なんで……なんで助けるんだよ。俺は君を見殺しにした人間だぞ!」


「“お兄ちゃん”」


 世界が光に包み込まれていても、お兄ちゃんの中にある闇は未だ剥がれ落ちていない。




 ――後は貴女の役目よ――




 声の主に感謝しながら、私は自分の役目を果たす。過去を乗り越え、全てをやり直すために。


「ごめんね、お兄ちゃん。私のせいでずっと辛い思いをさせちゃったね」


「……違う……違う違う違う!」


 私が謝ることを否定するように首を振り、より一層自分の闇を増長させる。


「俺の弱さが! 俺の偽善が君を殺した! 兄だなんて呼ばないでくれ! こんな薄情者を家族として見ないでくれ!」


「本当にお兄ちゃんが薄情者だったのなら、今こうして私のことで踠き苦しんでなんかいないわ。お兄ちゃんは優しいから……優し過ぎる故に、何もかも一人で抱え込んでしまった。それは他でもない、私の罪なの」


 そう、これは私の罪だ。私の考え無しの無謀な行動によって生んでしまった悲劇だ。


「皮肉な話よね。お互いを強く想い合っていたからこそ、あんな事態を招いてしまったんだもの」


「……昔はそうだったかもしれない。でも今君が俺に抱いている想いの正体は、俺に対する憎悪だろう……?」


「フハッ、ハハハッ! そうだ、その通りだ! そいつはお前を見殺しにした張本人! お前にとって死んで当然の存在なのだ猫又よ!」


 二人が想像している私の感情は頑なに変わらない。私がお兄ちゃんを恨み続けていると、信じて疑っていない。


「その根拠もあるぞ! 何故なら猫又、お前がこの世に生まれるための条件は、一番身近にいた人間に向ける負の感情の大きさで決まるものだからだ! つまり、お前はこの罪人に抱いている憎悪によって生誕したのだ!」


「……本当に馬鹿な人ね。それが俗説であることは目に見えているのに」


「な、何だと?」


 私が直接話さずとも、雪羅ちゃんはもうその答えに辿り着いていた。


 私がお兄ちゃんに抱いている感情が憎悪? その憎悪によって私が猫又として生まれた?


「そんなわけないでしょうが、この思い込み馬鹿っ!!」


 爪を立てて手加減無用でお兄ちゃんの顔を思い切り引っ掻く。


「いっだぁっ!?」


 久し振りに聞いたような間抜けな声。色濃くなっていた闇が文字通り剥がれ落ち、元のお兄ちゃんへと戻って行く。


「なんで私がお兄ちゃんを恨まないといけないのよ! そもそも根本的な話をすれば、あの出来事は運の悪い事故じゃない! 誰が悪いとか、誰に責任があるだとか、そういう考え方からまず間違ってるのよ!」


「で、でも俺があの日に登校しようとしなかったらあんなことには……」


「洒落臭い!!」


「あばぁっ!?」


 うだうだ言う辛気臭い顔にもう一発。空中で右往左往と転がり回る姿がシュールに見える。


「あんな台風の日だったんだから、普通は休校の連絡が来るはずでしょ。でもその連絡が来なくて、お兄ちゃんは無理して登校した。つまり、一番悪いのは学校側にあるのよ。お兄ちゃんは何一つ悪くないの。これでもまだ自分が悪いと言い張るつもりかしら?」


「…………」


 下に俯いて黙り込む。まだ納得がいっていないといった様子だ。


「引っ掛かってることがあるなら話して。まだ残っている後悔は何?」


「……最後の最後で君を裏切ったことだよ。この後悔だけはどうしても拭えないんだ」


「あの時のお兄ちゃんはまだ子供だったもの。川で溺れそうになって怖がるのは人として当然の反応よ」


「そんなの苦し紛れの言い訳だ! 今も昔も何にも変わっちゃいない! 綺麗事を言うだけ言って、自分が死にそうになったら他の誰かを犠牲にしてでも生き残ろうとする! そんな性根の腐った人間なんだよ俺は!」


「その発言は矛盾してるよ、弥白」


 呆れたように笑う雪羅ちゃん。わざとらしく息を吐き捨てて、自分の胸に手を当てる。


「確かに昔の弥白は臆病者だったのかもしれない。でも、私と出会った頃にはもう臆病者を卒業していた。だって私は貴方の勇気に救われたんだから」


「それにね」と、雪羅ちゃんは言葉を紡ぐ。


「弥白に救われたのは私だけじゃない。他にも大勢の妖怪達が貴方という存在に救われている。妖怪の私達にとって、貴方は希望の光なのよ」


「俺はそんな大層な人間じゃないよ。ただ妖怪が好きなだけのちっぽけな存在だ」


「だからだよ。妖怪を好きと言ってくれる貴方だからこそ、私達は弥白の元に集った。無いと思っていた自分の居場所を見つけることができたんだよ」


 私だってそうだし、雪羅ちゃんだってそう。お兄ちゃんがここにいなければ、今の私達は存在しない。


 お兄ちゃんがいてくれたから、私達はこの場所に生きている。


 面白いことで笑い合った。些細なことで喧嘩もした。傷付いて泣くこともあった。そんな当たり前の日常を与えてくれたお兄ちゃんに抱く感情は憎悪ではない。


 愛情。それがお兄ちゃんに抱く想いであり、私を猫又として生まれ変わらせてくれた力の源だ。


「シロちゃん。過去は何度振り返っても変わることはありません。だからこそ、生きとし生ける者達は過去を乗り越え、前を向いて歩いて行くんです。一人ではなく、皆で」


 孤独の檻の中にいる最愛の人に、私達は一緒に手を差し伸べる。


「帰ろう、お兄ちゃん。私達が望んでいるあの日常に」




〜※〜




 皆は俺を希望の光だと言っていた。


 でもそれは違う。本当の希望の光は俺ではなく、皆の方だ。


 俺を孤独から救い出してくれて、大勢の妖怪達の繋がりを与えてくれた。


 皆がいてくれたから、今の俺がいる。皆が手を差し伸べてくれるから、積もり積もっていた不安と後悔が消えて行く。


 諦めなければいけないと思っていたこの命。空っぽだと思っていた自分の価値。皆に否定されたことで、新たな自分が思い描かれていく。


 希望の光だなんて大層な存在になるつもりはない。かと言って、何の価値もない存在に戻るつもりもない。


 それ以外ならどんな存在であろうと構わない。俺はあの当たり前の日常に戻りたい。




 皆がいるあの世界へ――帰りたい。




 皆から差し伸べられた手を掴み取る。


 “何者”かが俺の背中を押して、俺達の居場所であるあの世界へと引き上げられる。


「……ありがとう」


 皆から感じる安らぎにも似た温もり。


 涙が頬を滴り、心地良い黄金の光が俺達を覆った。




〜※〜




「どうやら上手くいったようじゃの。気分はどうじゃ、ソウルフレンドよ」


 目を覚ますと、額の上に厠姉さんの手が置いてあり、目の前にキサナの顔がどアップで映り込んでいた。


「……愛で尽くしたい綺麗なお顔を見れて、身も心もぽかぽかしてるよ」


「ほほほ、そうかそうか。ならば存分に(わら)を愛で――」


「お兄ちゃん!!」

「弥白!!」

「シロちゃん!!」


 俺の精神世界にいた皆も目を覚まし、俺の身体のありとあらゆる部分を触って来た。


「意識ははっきりしてますか!? 五感は!? 五感もちゃんと機能していますか!?」


「心拍数は正常だね。呼吸のリズムも落ち着いてる。脈の方も問題無し」


「お兄ちゃん、自分の名前は分かる? や・し・ろ。貴方の名前はや・し・ろ」


「本気で心配してるの? それとも馬鹿にしてるの? 分かり難いリアクションやめて欲しいんだけど」


「すぐにツッコミを返してくる辺り、特に後遺症もないみたいだね。あぁ良かった……」


 ほっと胸を撫で下ろす三人。さっきまで滅茶苦茶感謝していたのに、今となっては過ぎた話になってしまいそうだ。


「各々話したいことは色々あるでしょうが、一つだけ確認しておきたいことがあります。シロちゃん、自分の呪いの具合がどうなっているか分かりますか?」


「……うん」


 中で蠢いている奴の存在。愛の光が奴の闇を覆った影響か、苦痛の感覚が少しだけ伝わって来る。


「今、出てくる」


 既に俺の呪いは取り払われた。つまり、俺の中に奴の居場所は何処にもない。


 刹那、全身がぞわぞわした妙な感覚に包まれ、身が竦んで自然と身体が丸まる。


 全身から夥しく禍々しい霊力が溢れ出て、犬神が俺の中から這い出て来た。


「こんな……こんなことが……」


 猫のように小さくなった犬神は下に落ちて、宙に浮く力すらも失っていた。


 最早犬神に呪いの力は残されていない。今はただの小さな犬妖怪でしかない。


「何故だ猫又よ……。その男はお前を見限った人間であると何故理解しない……?」


「何回言わせるのよ。そもそも見限られてなんかいないの。貴方のそれは単なる勘違いよ」


「ぐっ……」


「私とお兄ちゃんの絆を見くびったのが貴方の敗因よ。分かったらとっとと消え失せなさい。貴方の顔はもう二度と見たくないわ」


「くそっ……くそっくそっくそっ! あの霊力さえ無ければこんなことにはならなかったのだ! この私の霊力を上回ることなどあるはずがないのだ! 神妖怪の私を越える力などあるはずが――」


「いたた……完全に部外者扱いか(わら)は? 放置プレイに適性は無いというに……」


 皆に突き飛ばされていたキサナがむくりと身体を起こし、寂しそうにぶつくさと呟いている。


「なっ……!? お、お前は!? 何故だ!? 何故お前がこんな偏狭の地にいるのだ!?」


 キサナの顔を見た犬神が恐れ戦き、信じられないものを見たかのように腰を抜かしていた。


「そうか、そういうことだったのだな! お前が私の霊力を――」


「ていっ」


 犬神が何かを言う前にキサナはぴょいんと飛び跳ねて、小さな犬神を踏み付けた。


「ぐっ……。この屈辱は忘れぬぞ! 時間は掛かるが必ず霊力を蓄えた後、更に強力な呪いでお前達を葬ってくれる!」


「……残念だけど」


 キサナの足の下で動けなくなっている犬神の前で屈むと、雪羅はそっと手を翳す。


 目に見える冷気が犬神を包み込み、徐々に全身が凍り付いていく。


「貴方に二度目を与えるつもりはない」


 それは熊風に与えた罰と同様、物理的に死ぬことがない妖怪に与えられる生き地獄。犬神もまた、溶けることのない氷の中で永遠に生き続けるのだろう。


 雪羅にとって犬神はそれだけのことをした。触れてはいけない逆鱗に触れてしまったのだ。


「たかが氷妖怪の分際でこの私に罰を下すか! いずれ見捨てられる運命にあるつらら女が! その人間を選ぶその選択に後悔する日はそう遠くない内に訪れるだろう! 人間と共存を望む限り、必ずその時が!」


「来ないよ、そんな日は」


 一度破ってしまいそうになってしまった約束。もう二度と違わないために、後悔しない道を選ぶために、俺は言葉を紡ぐ。


「いつかまた迷惑を掛けることはあるよ。挫折し掛けるようなことは必ず訪れる。でも、もう何があろうとこの繋がりは断ち切らせない。何があろうと俺は最後の時まで雪羅(かのじょ)と生き続けるよ」


 最後の最後まで繋いでいてくれた愛情という繋がりの糸。今一度強く身に結ぶように、雪羅の傍らに寄り添ってその手を握り締める。


「…………綺麗事を」


 全身が凍り付き、粉々に砕け散って風と共に散る。


 散りゆく最後、犬神は羨むように雪羅を見つめていた。

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