不穏の影の中に潜む呪い
ちまちま書いて続いているこの小説の終わりが見えて来たということで、そろそろスポットライトを主人公に当てます。要は過去に迫ります。
少し先に霧がかかっていて、その中に薄っすらと一匹の生き物が見える。
真っ白な景色に佇む小さな存在。右に左にと尻尾を揺らめかせながら、ジッとこちらを見つめて来ている。
あの目の形を覚えている。あの耳の形を覚えている。あの毛並みと色を覚えている。あの生き物の名前を覚えている。
いつ如何なる時もこの目に焼き付いて離れない。忘れようとも忘れることはできない。犯してしまった罪からは逃れられないように、あの生き物の姿が脳裏に刻み込まれている。
こんなに近い距離にいるはずなのに、どれだけ近付いて手を伸ばそうとも、一定の間隔が開いたままこの手が届くことはない。
どうして今になって俺の目の前に現れるのか。俺の顔など見たくないと思っているであるはずなのに、何故こうして何度も何度もその姿を見せ続けるのか。
手が届かないことがもどかしく、やがて俺はその生き物から目を逸らし、背中を向けようとする。
――またそうやって現実逃避をするのか。
直接脳内に伝わってくるその声は、俺の動きをピタリと止めた。
語り掛けてきているのはその生き物ではない。俺の中に根付いている“俺自身”だ。
――どれだけお前が幸せになろうとも忘れさせやしない。
あの災厄の日から一体どれだけの年月が経ったのか。そしてどれだけの幸福という名の出会いを繰り返してきたのか。
きっと数え切れない幸せを体感してきた……が、その幸せの全てを搔き消すかのように、黒い靄が俺の頭の中を侵食していく。
――あいつの憎悪は一生お前から離れやしない。
皆の姿が思い描かれる中、遠くに見える一匹だけの小さな存在。
ずっと俺を見つめていたが、踵を返して何処かに去って行こうとする。
「ま……待って!」
何としてでも追い付こうと、慌てて皆の中を掻き分けて追い掛ける。
しかしどうしても追い付くことができない。近付いていくにつれて身体が鉛のように重くなり、後もう少しというところで動けなくなってしまう。
あの日と同じだ。見えているのに届かない。それは無力な自分が齎らした結果だ。
――死ぬまで繰り返させてやる。それがお前の罪だ。何度償おうとも許されることのないお前の罪だ。
白い景色に暗闇が落ちる。小さな存在の姿は次第に見えなくなっていく。
そして、小さな存在はパタリと倒れ、血溜まりの中でそっと息絶えた。
〜※〜
「あぁ……。向こうの屋敷も過ごし易くあるが、やはり我が家が一番であることは揺るぎないの……」
コタツの中でお茶を啜りながら、キサナは部屋を見渡しながら朗らかに微笑む。
「でもなんで今回はこんなに早く修理作業が終わったのかな?」
「温羅が言うには、ローテーションでほぼ毎日徹夜しながら作業をしていたと言っていたの。その気になれば一月もせずに終わらせられるとほざいておったわ」
火事騒動によって再び消滅してしまったキサナのお屋敷。この前は半年近く時間が掛かっていたのに、今回はほぼ一月という短い期間で屋敷を完成させていた。
低評価で周りから認知されている鬼組だけど、建築に関する技術は本物のようだ。
だったら最初からやる気出して欲しいんだけど、性格の悪い連中の集まりだから仕方ないと割り切るしかない。
キサナの屋敷に戻る際、またもや玉藻前さんと一騒動あったりしたのだけれど、今となっては日常の一部と化してしまっているので、長々と語る必要も無い。
私も人のことは言えないけれど、弥白に対するあの人の依存性は病的なものを感じる。
多分あの人がああなっているのは、酒呑童子さんという夫に素っ気無い態度ばかり取られて、優しさというものに焦がれているからなのかも。弥白は優しさの化身みたいな人だし、そう考えると納得してしまう。
……まぁ、だからといって譲って上げる気にはならないけど。
まずは自分の性格を見つめ直すところから始めるべきなのだろうけど、そこに気付いてくれるのは何時になることやら。桜華達の頑張り次第で少しは早まって欲しいとは思うけど……。
何はともあれ、こっちの屋敷に帰って来てからは、静かで平和な日々が続いている。毎日騒がしかった日々がまるで嘘だったように。
「のんびりできることに越したことはないけど、この前のようにダラけ過ぎないように心掛けないと駄目だよキサナ。いくら弥白が優しいとは言え、また同じ過ちを繰り返しているところを見られたらどうなることか……」
「普段は温厚じゃからの。そういう者ほど怒ると怖いと聞くし、流石の我も反省しておるわ」
「反省してるならいいんだけど……」
私も偉そうなことを言ってるけど、さっきからお互いに居間のコタツに居座り続けてしまっている。
まずはこの生活スタイルを改変すべきなんだろうけど、いざコタツを見てしまうと中に入ってしまう癖がついてしまっている。
人が夜中の眠気に逆らえないように、私もキサナもコタツという温もりに抗えない身体になってしまっているのかもしれない。情けない話というか、だらし無い話というか、自分のことながら呆れてしまう。
「ねぇキサナ。ここは一つ思い切って、一度コタツを撤去してみない?」
「……ほほほっ、何を言い出すのじゃ雪羅よ」
コタツ廃止の話を持ち掛けると、キサナの目から光が失せて乾いた笑いが溢れた。
「この季節にコタツをしまうということは、我という妖怪を殺すに等しい非道の所業じゃ。雪羅は我を殺めたいと申すのかの? ん? ん?」
これは……想像以上にコタツ欲が侵食してしまっていたようだ。冷静さを欠いていない私はまだマシだったんだね……。
「その危なげな依存性から救ってあげたいから言ってるんだよ。駄目妖怪になりそうな要素は少しでも取り払わないと思わない?」
「いや全く。我は駄目な部分を受け入れてるからの。良き我と悪き我が集って、我という妖怪が出来上がっているのじゃ。人間と同じで、妖怪も少し駄目なくらいが丁度良いのじゃよ」
「真面目なことに越したことはないと思うんだけど……」
「常時真面目堅物キャラになるのは肩が重くなるじゃろうて」
「別にそこまでなれと言ってるわけじゃ……」
「とにかく、今の我は駄目な我じゃ。故にコタツは我の重要な生きる糧と言えよう。これ以上に勝るものなど無いの」
屁理屈を立て並べることで断固拒否してくる。頑なにコタツから離れたくないらしい。
でも今の発言で付け入る隙を見つけた。「これ以上に勝るものなんて無い」だなんて、余程コタツに誘惑されているからこそ言える台詞だ。
「なるほど……。つまり今のキサナにとって、コタツは何よりも大切な生きる糧であると」
「うむ、その通りじゃ」
「そっかそっか……。とどのつまりキサナにとって、コタツは弥白よりも大切ってことなんだね」
「………………」
一瞬ピクリと肩を震わせて静止するキサナ。攻め込むべきは今だと、私は更に追撃を仕掛ける。
「そこまで言うならしょうがないね。私は今日からコタツを控えるようにするけど、キサナはこれからも一人コタツに酔い痴れているといいよ」
そう言って私は立ち上がり、居間から出て行こうとする。
「……ま、待て。何処に行くつもりじゃ雪羅よ」
「何処って、勿論弥白のところだよ。私はコタツより弥白の方が大事だと思っているから、大事な方に身を温めてもらおうかなぁと」
「くっ……! 雪羅お主……お主っ……」
キサナはコタツから抜け出すように立ち上がり、つかつか歩み寄ってきて私の胸ぐらを掴んで来た。
「シロに身を温めてもらうじゃと? そこは◯◯◯◯しに行くとはっきり言わんかぁ!」
「怒るとこそこ!?」
しかも全然違う意味で捉えられてるし!
「許せぬ! 許せぬぞ! この場に我がいる限り、二人だけでホットな朝を迎えさせるわけにはいかぬ! 撮影許可を出してくれぬ限り絶対認めぬ!」
「深く考え過ぎだから! 文字通りの意味で言っただけだからね!? そもそも撮影許可って何!?」
「それは勿論、我オリジナルのAVビデオを作る許可を――」
「許すわけないでしょ! とにかく私は行くから、キサナはコタツに愛されてればいいよ!」
「独占する気か! いやらしい女子め、恥を知れ!」
「いやらしい煩悩の塊みたいな人に言われたくないから!」
カサカサとゴキブリのように私の身体上で動き回り、意地でも弥白の元に行かせないように邪魔をしてくる。
結果的にコタツから引き離すことはできたけど、一難去ってまた一難だ。正直さっきと鬱陶しさの質が桁違いだ。
「普段は隠しているようじゃが、この着物の中に潜む艶かしいボディを我は認知しておるのじゃ! どうせこの身体で誘惑するところから始めるのじゃろうな! この変態め、慎みというものを知らぬのか!」
「その台詞そのままそっくり返すから! それとさりげなくセクハラしないでよ!」
「目の前に山があれば登る登山家がいるように、そこにおっぱいがあれば揉みに行くのが淑女というものじゃろうて」
「一度淑女の意味を調べて赤線引いて来なさい!」
ゴキブリ妖怪を何とか振り払い、一目散に弥白の元へと逃げ出す。
しかし当然キサナも後を追って来る。眼球を血走らせて四足歩行で移動する姿は、さながら血に飢えた獣のようだ。
「抜け駆けさせぬ! シロに朝這いを仕掛けるのは我の役目じゃ!」
「だから違うって言ってるでしょうが!」
異様な速さで追い付かれてしまうも、弥白の部屋の前までやって来たと同時に襖を開いた。
「そろそろ起きて弥白! この暴走する淫獣をどうにか止め――」
「ウ゛ぁアァああ゛ァあっ!!」
「…………え?」
襖を開いた向こう側には、今までずっと静かに眠りこけていたはずの弥白がいた。
耳が劈くような悲鳴を上げながら頭を抱え、胸を抱えながら大口を開いて嗚咽を漏らし、まるで何かに取り憑かれているかのように激しくもがき苦しんでいた。
「や……弥白!? 一体どうし――」
「雪羅、お主ちょっと下がっとれ」
「キサナ?」
さっきまで暴走していたはずのキサナが無表情になり、弥白に近寄ろうとした私を腕で遮った。
キサナは単身弥白の元に歩み寄ると、幼子をあやすように優しく背中を撫でながら、弥白をそっとその身に抱き寄せた。
「よーしよし、大丈夫じゃぞシロよ〜。ゆっくり深呼吸して落ち着くのじゃ」
しばらく弥白は悲鳴を上げ続けていた。それでもキサナはずっとそうして弥白を宥め続け、やがて悲鳴が鳴り止むと、弥白は再びそっと眠りについた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
キサナは弥白を布団の上に寝かせると、弥白は目の端から涙を零しながらその言葉を呟き続ける。
「ふぅむ……」
キサナは一度息を吐くと、顎に手を当てて訝しみながら弥白の様子を伺っていた。
私は呆然と立ち尽くしたまま動かなくなっていたが、事態が終息したところでようやく我に返った。
「キ、キサナ……今のって……」
「むっ、そうか、雪羅は初めてじゃったかの」
「初めてって……」
その言葉が示す意味は理解できた。きっと過去にも同じようなことが何度かあったということに他ならない。
「病気……っていう感じじゃなかったよね」
「そうじゃの、これは病気や障害といったものではないことは確かじゃ」
「その口振りからして、キサナは今の症状のことを知ってるの?」
「具体的には我にも分からぬの。……しかしまぁ、やはりお主には伝えておいた方がいいのかもしれぬの。シロ本人からは口止めされているのじゃが」
キサナは気が重いため息を吐き捨てると、いつになく真面目な顔付きになって話し始めた。
「我がこの症状を初めて見たのは、シロが我の屋敷に来てから一ヶ月ほど経った頃じゃの。つい先程のと全く同じ症状で悲鳴を上げ、もがき苦しんでおった」
やっぱり……。過去にも同じことがあったんだ。
「最初は我も気が動転してパニックになりかけたが、取り敢えずシロを落ち着かせるためにこうして宥めたのじゃ。それで何とか大人しくなったから安心はしたが、見て見ぬフリができぬものを見てしまったのは事実。その後、しばらくして目覚めたシロに覚えがないか問い詰めてみたのじゃ」
「そうだったんだ……。それで、弥白はなんて?」
「まず、シロ自身は自分の症状のことを知っているような素振りじゃったの。しかしその正体を詳しく教えてくれることはなく、ただ一言でこの症状を表現しておった」
「……それって?」
「呪い、じゃよ」
その一言に自然と身が竦み、微かに肩が震えた。
いつもふざけてばかりで冗談を言うキサナだけれど、今回に限っては冗談を言っているわけじゃない。
それに、さっきの弥白を見た後にそう聞かされると、しっくりと来てしまうことが否めない。
何せ弥白は、人間でありながら強い霊体質を持っている。だからそういう得体の知れない“何か”に脅かされてもおかしいとは思えない。
「何の呪いかは知らぬが、只事ではないからの。解呪するためにも粘り強く問い詰めたのじゃが、シロが口を割ってくれることはなかったのじゃよ」
「そんなことがあっただなんて……」
知らなかった。いつも能天気で朗らかな弥白ばかりを見ていたけど、裏にこんな事情を隠し持っていただなんて思わなかった。
今思えば、私は弥白の過去を殆ど知らない。私が知っているのはせいぜい、極度の妖怪好きであるということと、人柄の良さくらいなもの。
誰よりも一番近しい存在になれていたと思っていたけど、とんだ思い上がりだった。何も知らずに弥白の隣にいた自分が情けなくて仕方ない。
弥白からは色んなものを貰ってばかりなのに、私からは何一つ返してあげられていない。弥白はそれでも構わないと笑ってくれるのだろうけど、それで私が納得するわけがない。
「……弥白が起きたら、今度は私が直接聞いてみるよ。もしかしたら話してくれるかもしれないし」
「聞くのはお主の自由じゃが、果たしてシロが口を割るのか……。色々と事情があるようじゃし、こう見えて頑固な一面があるからの」
「だとしても聞かずにはいられないよ。キサナだって見て見ぬフリできなかったって言ってたじゃない」
「それもそうじゃの。それじゃ、シロのことは一旦任せるとしようかの」
「うん、分かった」
話が終わったところでキサナは立ち上がり、私達を残して居間の方へと戻って行った。
〜※〜
暗くなっていた視界にぼんやりと微かな光が差し込む。
少しずつ光の強さは増して行き、やがて目が覚めたことを自覚すると、ゆっくりと重い瞼を開いた。
「あっ……」
視界の先には、見覚えのある天井ではなく、俺の手をそっと握り締めている雪羅の顔が。その表情は何処か不安そうに俺を見つめている。
「大丈夫弥白? 気分はどう?」
「…………だ――」
返事を返そうとした刹那、久しく見た夢の光景がフラッシュバックする。
悟られるわけにはいかない。そう思って平常心を保とうとしたが、“あれ”を見て堪えるだなんて到底無理な話。
途端に強い吐き気に襲われて、咄嗟に手で口を塞いだ。
「っ!」
俺の様子を見て悟った雪羅は、部屋の隅に置いてあるゴミ箱を持って俺の前に差し出し、優しく背中を摩ってきた。
多少なりとも安心感を得たせいか、いつもならもう少し耐えていたはずだったが、抑えられなくなって堪らず嘔吐した。
一日経っても消化されていない物が体内から全て吐き出されて、体調と精神的な苦痛という二重の苦しみに襲われる。
しばらく嗚咽を漏らし続け、多少具合が回復して一息をついた。
ずっと隠し通せていたと思っていたが、ついに雪羅に見られてしまった。さっきの表情からして恐らく、最初の“アレ”も見られてしまっているはずだ。
……上手く誤魔化せるといいけど。
「ふぅ……。ありがと雪羅、もう大丈夫だよ」
「……うん」
不安と焦燥が伝わって来る。「どういうことなの?」と、その目は俺に告げていた。
俺は平然と笑顔を浮かべると、重い身体に鞭打って不自然さを醸し出すことなく立ち上がる。
「吐いたらお腹の中空っぽになっちゃったよ。雪羅はもう先にご飯食べちゃった?」
「……大まかな話はキサナから全部聞いたよ」
「何か残り物残ってたかなぁ……。確か卵は残ってたような――」
「誤魔化さないでよ!!」
大気を破るような声がビリッと静電気のように俺の鼓膜を刺激した。
それでも俺は笑顔を崩さず、内情を見せることなく雪羅と面を合わせる。
「まぁまぁ落ち着いてよ雪羅。そもそも誤魔化すって何を?」
「惚けないでよ! 今さっきのを私に見せておいて、何も無かったことにできるだなんて思わないで!」
「久し振りに嫌な夢を見たせいだよ。深く考え過ぎだって」
「ただ嫌な夢を見たくらいであんなことになるわけない! 呪いって何? 何か隠していることがあったら私に――」
「無いよ」
「っ……」
十中八九キサナが雪羅にバラしたんだろう。こうなると分かっていたから口止めしていたのに。
でも無理もない話だ。一部始終を見られたせいで口を閉ざすことができない状況だったんだろうから。キサナも最初は渋ったんだろうけど、雪羅が粘って問い掛けていたのが大体想像が付く。
しかし、たとえ相手が雪羅であろうと、話すことは何も無い。何度も問い掛けられようと、こちらから出す答えは変わらない。
でも雪羅も馬鹿じゃない。俺が頑なに自分を曲げていないことは気付かれているだろうし、何かしらの事情を抱えていることもとっくに気付かれている。
俺を心配してくれているのは明白だ。その心遣いは本当に嬉しい。その優しさが俺の一番の救いであると言ってもいいくらいに。
だがこれは俺自身の問題だ。キサナも雪羅も関与する必要のない、俺だけの問題だ。
「ほら、早くリビング行こ。折角の休日だし、こんな天気の良い日はのんびりしたいねぇ」
そう言いながら雪羅の横を通り過ぎて廊下に出ようとすると、即座に二の腕を掴まれて止められた。
雪羅は何も言わず、僅かに震えながらジッと俺の瞳の奥を見つめてくる。話すまで離すつもりはないといったところか。
「だから何も無いってば。変なところで頑固だなぁ」
「……貴方に言われたくない」
「そうかなぁ? むしろ俺は折れる頻度が結構高いと思うけど」
「普段はそうかもしれないけど、今は違う。これ以上私に隠し事ができると思わないで」
「やれやれ参ったなぁ……」
まさかここまでしつこいとは、我が彼女ながら極度の頑固体質だ。はてさてどうやって切り抜けたものか……。
どうにかしようと試行錯誤を繰り返していると、廊下の方からとたとたと誰かが歩いて来る音が聞こえて来た。
キサナが痺れを切らしでもしたか。だとしたら好都合だ。キサナとの会話で有耶無耶にしてしまえば、一旦ここを切り抜けられる。
……と、自分に都合の良い展開を想像し、余裕を持って入られたのはここまでだった。
「おはよう二人共……って、何してるの? 何処と無く空気が重いようだけど……」
「猫……さん……?」
襖からひょっこり顔を出して来たのは、今遊びに来たであろう猫さんだった。
その顔を見た途端、平然としていた心臓の鼓動が警告音を鳴らすように、早鐘のリズムで鳴り始めた。
再びフラッシュバックする“あの姿”。それは猫さんの姿と重なり、その瞬間俺の脳内に“あの声”が響き渡る。
――その目に焼き付けろ。目の前にいるそれは、お前の罪の証だ。
「っ゛……」
「弥白!?」
呼吸困難に陥り、まともに立っていられなくなると、胸元に手を当てながらがくんと膝から崩れ落ちた。
理性を保つために歯を食い縛り、一度息を整えようと深呼吸を試みる。
――目を逸らすな、前を見ろ。お前の罪を受け入れろ。
「ゔぅゔっ……!」
立て続けに響く声が脳内を掻き回し、激しい頭痛を訴える。息遣いに気を使うなど不可能で、何度も頭を床に打ち付けて痛みを振り払おうと踠く。
「にゃ、何事!? どうしたのシロ君!?」
「弥白! しっかりして弥白!」
すぐ目の前で叫ばれているはずなのに、その声がやけに遠くから聞こえるように感じる。
雪羅と「 」との距離感も遠く離れていき、やがて目の前が真っ暗に包まれる。
――証明の時は来た。罰を受けよ、罪人よ。
テレビの線が抜かれるように、プツリと俺の中で何が切れた。
もう誰の声も聞こえない。
もう周りには誰もいない。
もう光を拝めることはない。
俺はただ一人、底の無い暗闇の中に沈んでいく。
それは死にも似た光景。「 」が味わったであろう孤独という絶望。
抗ってはならない。受け入れなくてはならない。これが「 」が望んでいることだと言うのなら、俺はこの身を捧げよう。
それで少しでも罰になるというのなら、少しは報われるというものだ。
そうして俺は、闇という殻の中に一人閉じ籠った。




