俺には決して救えなくとも
「子供……だと? それは虚言だ! 其方は妖怪でその男は紛れもない人間のはずであろう!」
「そうですね。確かに私達はこの子と血が繋がっていません」
「そうだろう! やはり其方の言っていることは――」
「ですが、虚言ではありません。家族の繋がりは決して血筋だけではないのです。たとえ血など繋がっていなくとも、この子は私達の子も同然です」
「何を馬鹿なことを……其方は分かっていないだけだ! その人間がどれだけ愚劣で劣悪な存在であるのかということを!」
今の紅葉さんの発言に、氷麗さんが目付きを鋭くさせた。普段から笑顔しか浮かべていなかったあの氷麗さんが、初めて俺の目の前で怒りを露わにしていた。
「私が言おう、我が愛妻よ。お前が怒る顔はあまり見たくはない」
「……ありがとうございます、大雪さん」
氷麗さんの気持ちを引き継ぎ、我らが大黒柱である大雪が俺達の一歩前に出る。
「問おう、武士娘よ。君が我が愛息子と初めて出会った日はいつだ?」
「昨日のことだが、それがどうした」
「ふむ……つまり、君はまだ我が愛息子と出会って間も無いというわけだな?」
「だからそれがどうしたと聞いている」
「ならば問おう、武士娘よ。我が愛息子と出会ってからまだ日の浅い君が、我が愛息子の本質を語っているのは何故だ? 何も知らず、理解せず、そもそも知ろうとすることから目を背けている君だ。その言葉が真実であるという確証は限りなく薄いことくらい、君自身が分かっているはずだろう」
「決まっている。全ての人間は皆同じだからだ。誰も彼もが己のことを第一に優先し、他者にはいざとなれば情も掛けずに切り捨てる。それが人間の本質だ」
「それは、妖怪のために自分の命を投げ打とうとした人間を含めて言っていることか?」
「何……?」
腕を組む大雪さんは、尻目に俺を見つめながらふと口元を緩めて笑った。
「三年前のことだ。私達の愛する一人娘が、一人の人間と暴走していた妖怪に襲われた出来事があった」
「人間に襲われただと? 今の時代にもそのような者がいるのだな。やはり全ての人間は皆邪悪だ」
「それは君の偏見だ。何故なら、その二つの害悪より我が愛娘を命懸けで守り抜いてくれた人間がいる。それこそが、ここにいる我が愛息子だ」
大雪さんは目を瞑り、過去の出来事を思い浮かべるように語る。
「我が愛娘はその昔、我が愛妻と共に人間の手によって深く心に傷を負った。我が愛妻は後遺症として右目の視力を失い、我が愛娘は人間に多大な憎しみの感情を抱くようになった。今の君のようにだ」
「…………」
口を閉ざす紅葉さん。大雪さんは話を続ける。
「それからしばらくして、勇敢なる少年……我が愛息子は唐突に現れた。雪崩によって重傷を負い、傷が完治するまで我が愛妻と愛娘と共に生活をすることになった。そしてその日から、二人は変わり始めた」
「…………」
「人間を恐れていた我が愛妻は、我が愛息子の優しき心と触れ合うことで心の傷を癒していった。しかし我が愛娘は何分頑固でな。時間が掛かりはしたが、やがて我が愛息子と心を通わせるようになっていった。そしてまたしばらくして突如訪れたのが……先程言っていた人間と暴走化した妖怪の襲来だ」
忘れもしないあの日の出来事。俺は今でも昨日のことのように覚えているけど、それは大雪さんと氷麗さんも同じことのようだ。
「襲われたのは我が愛娘。だがそんな時、我が愛娘の窮地に我が愛息子が駆け付けた。人間を追い払う際に我が愛娘へ救いの言葉を投げ掛け――雪羅は救われた」
「救いの……言葉……」
紅葉さんの表情に影が差し込む。その目は、初めて紅葉さんと出会った時のものと同一だった。
「しかしその後、暴走化した妖怪が襲来し、二人を容赦無く襲った。その最中、我が愛息子は迷わず己の身を犠牲にしてまで、我が愛娘を守り抜いたのだ。腕や背中を大爪によって引き裂かれ、暴走化した妖怪の手によって倒された大樹で両脚を砕かれ、満身創痍になろうとも最後の最後まで我が愛娘のことだけを想ってくれていたのだ」
昨日のことのように覚えているとはいえ、今となっては何もかもが懐かしい。あの時は本当に死ぬかと思った。二人があの時に助けに来てくれていなかったらと思うと、今でもじんわりと冷や汗が流れ出てくる。
「そうして我が愛娘は我が愛息子に心を開き、以前のように笑顔を浮かべるようになった。この勇敢なる少年はそういう人間だ。君が言っているような人間でないことは、共に生活を送っていた私はよく知っている」
たった三ヶ月だったけど、それだけの期間で俺はこの人達の子になることができた。正真正銘の家庭というものに囲まれて、どれだけ幸せな時だったか。生涯忘れることはないだろう。
「それでも尚、我が愛息子を否定するのであれば、更に私は我が愛息子のことを語ろう。君が納得するまでな」
「何を言われようとも納得するつもりはない。そこを退け。此方が相対するのはその人間一人で十分だ」
今一度刀を構えて大雪さんと相対してくる。
不思議だ。さっきまであの刀が危なっかしくて仕方ないと思っていたのに、大雪さんを見た後に見ているせいか、真剣がただの棒切れのように見える。
「……我が愛息子は料理が得意だ」
急に俺の惚気話を呟いたと思いきや、自身に向けられている刀に臆することなく一歩を踏み出し、ゆっくりと紅葉さんの方へと歩み寄っていく。
「はぁぁ!!」
迷わず紅葉さんは跳躍し、大雪さんの胴体に斬り掛かった。
「一番美味と感じたのは味噌汁だった。芋と大根のダシが絶妙でな。また食べさせてもらいたいものだ」
「なっ!?」
惚気話は喋り続けたままで、素手で紅葉さんの剣戟を受け止めた。しかし掌には切り傷一つついておらず、お菓子感覚で刀をポッキリと折ってしまった。
折れた刀を手にしたまま引き下がる紅葉さん。「こいつ化け物か……」といったような顔をしている。そりゃこんな簡単に刀折られたらそうもなるよね。
「料理だけでなく、家事全般も得意でな。私達が元々住んでいた小屋を皆で大掃除したことがあったが、最終的に我が息子一人で小屋を新築同然のものに変えてしまっていたことがあった。怪我がまだ完全に癒えていなかったというのに、その逞しさも我が愛息子の良いところの一つだ」
……あの、そろそろ恥ずかしくなってきたんだけど。この惚気話いつまで続くの?
「親孝行として全身にマッサージをしてもらったこともあった。絶妙な力の匙加減で圧を掛けてくるその指は、正しく黄金の指。十分間という時間内の間に昇天し掛けて笑ったものだ」
「懐かしいですねぇ。今度またマッサージしてくださいね弥白君」
「う、うん、それはいいんだけど、ちょっと話逸れてきてない? 惚気話はもうお腹いっぱいだから。十分愛されてることは分かったから」
「いやしかし、武士娘はまだ納得していないようなのだが……」
「ひたすら惚気話聞かされても心に響いてくるのは俺一人だけだから! 他人にとっては『知らんがな』って話だから!」
「ふむ……残念だ」
おかしいな、この人こんな天然だったっけ? 前一緒に住んでいた時はもっと真面目キャラだったような気がするんだけど……。もしかしたら氷麗さんのが移ったのかもしれないなぁ。
「とにかく、これ以上の争いは無意味だ。我が愛息子に向けている牙を納めてくれ、武士娘よ」
「断る。その者の首を狩るまで此方が諦めることはない」
紅葉さんは折れた刀を捨てて、再び大雪さんの元へと立ち向かっていく。
「あまり手荒なことはしたくないが……仕方ない」
流石に紅葉さんを殴り飛ばすつもりはないようで、大きく両手を広げて構えを取った。無理矢理捕まえて拘束するつもりだ。
「……油断したな」
紅葉さんはニヤリと笑ったと思うと、踏み込みに多大な力を注いで急加速した。
「くっ、不覚!」
素通りされることは想定していなかったのか、紅葉さんとすれ違った瞬間に大雪さんが後ろに振り返る。一瞬の判断だったが、大雪さんが間に合うことはない。
氷麗さんも決して油断していたわけではなかったが、まさか一目散に俺が狙われるとは思っていなかったようで、一瞬遅れて氷柱を出現させようとした。だが紅葉さんの速度は、氷柱の出現速度よりも上回っていた。
俺の首をへし折ろうとする手が、すぐ目の前まで伸ばされる。
「ぐぁ!?」
だがそれよりも早く、紅葉さんの真横から飛んできた謎の物体が彼女を襲い、間一髪のところで紅葉さんが遠くへ吹き飛ばされた。
「あっぶねぇ、紙一重だったな今。悪い弥白、遅くなっちまった!」
「姉御!」
紅葉さんが吹き飛ばされたことで周りの妖怪達がパニックに陥り、それぞれ霧散するようにここから逃げていく。その群れの中から全身血塗れになった変身状態のままの姉御が出て来て、すぐに近付いて来た。
「だ、大丈夫ですか貴女? 随分と身体中が傷付いていますが……」
「ん? あぁこれか? 返り血だから問題ねぇよ」
「返り血て……戦場帰りじゃないんだからさ……」
「今は戦場みたいなもんだろ。見たところ、どうやらお前さんも痛い目に遭ってたようだしな」
瀕死状態になった俺を一目見てからからと笑う姉御。笑い事で済むような傷じゃないんだけどなぁ……。
「弥白君、一体この方は?」
「この人は山姫。この世界に来たばかりの時に色々とお世話になったんだ」
「まぁ、そうだったのですね。初めまして山姫さん。私はつらら女の氷麗と申します」
「カカカッ、これまたべっぴんさんだな。で、お前さん方は弥白の何なんだ? 紅葉みたいな奴らだってんなら今すぐぶっ飛ばしてやってもいいが?」
「洒落になってないから止めて姉御。俺の親だから二人共」
「あぁ、そういうことか。通りで安心した顔してるわけだな」
やっぱり顔に出ちゃってたか。でも久し振りに会ったんだし無理もないよね。それにこんな状況の時に助けてくれたんだし。
「そもそもどうして二人が妖界にいるの? 外の世界で旅をしてたはずなのに」
「うむ、実はその旅を一旦一区切りにしていてな。しばらくはここで休むことにしていたのだ」
「たまには夫婦水入らずでゆっくりしたいですねって私が言ったんです。それで長い間この世界でのんびり暮らしていたのですが、人間が侵入してきたという話を聞いて駆け付けて来たんです。そしたら弥白君が窮地に陥っているところを見つけて、無我夢中になってこうして助けに入ったというわけです」
そういうことだったわけか。でもたまには休みたい時ってあるよね。俺は年中のんびりしていたい派だけど。
「ふむ……にしても、我が愛妻があのような顔をするとは思ってもいなかった」
「へ? あのような顔って?」
「一言で言い表すと……修羅であった」
「す、すみませんでした大雪さん、驚かせてしまいまして。でももう大丈夫ですから。ほら、この通り元気いっぱいですよ」
流石は雪羅のお母さんだ。キレると怖いのは母親譲りだったらしい。でも氷麗さんのそういう顔って全然想像できないや。心なしか大雪さんの表情が引きつってるし、相当怖くはあったんだろうなぁ。
「とにかくここからは離れた方がいい。あの境界門を通り抜ければ、人間界へ帰ることができるはずだ」
「いや、生憎だがね大男さん。弥白はまだ帰るわけにはいかねぇんだ。まだやることやってねぇからな」
「何?」
そう言うと姉御は、氷麗さんに抱かれている俺の手を引いてくれると、肩を貸して立ち上がらせてくれた。
「ほら、しっかりしろ弥白。男ならここぞって時の根性見せてみろ」
「いててっ……ありがと姉御」
「ちょ、ちょっと待ってください! 今の弥白君は満足歩ける身体じゃないんです! 安静にしていないと危険です!」
姉御と一緒に紅葉さんのところへ向かおうとしたところ、取り乱した氷麗さんが前に出て来て行く先を阻んできた。
「ごめんね氷麗さん。助けてくれたのは嬉しいけど、姉御の言う通りなんだ。俺はまだ皆のところに帰るわけにはいかないんだよね」
「で、でも……もしそれ以上弥白君に何かがあったら私達は……」
心配して泣きそうな顔になる氷麗さん。罪悪感で胸が痛むけど、それでも自分の意思を捻じ曲げる気はなかった。
「大丈夫だよ、今の俺には姉御がついてるから。だから紅葉さんのところに行かせて氷麗さん」
「……氷麗」
俺の言葉に迷いをみせていると、ふと大雪さんが氷麗さんの名を呼んで肩に手を置いた。
「我が愛息子のことだ、何か大切な使命があるのだろう。ならば私達は、親として子を見守るべきではないか? それでもし危険だと分かった時は、先程のようにすぐに助けに入れば良い」
「……分かりました。でも絶対にそれ以上は無理をしてはいけませんよ。約束してください弥白君」
俺は無言で力強く頷いた。大丈夫、これ以上無理をすることはない……というかできる身じゃない。それに何かあった時のために姉御がついてくれてるんだし、氷麗さんも大雪さんも一緒にいてくれるなら何も問題はない。
姉御の肩を借りたまま紅葉さんの元へと近付いていく。紅葉さんは謎の物体――いや、気絶した赤頭を投げ付けられて吹き飛ばされたことで足を負傷したようで、立ち膝になった状態で歯を食いしばって片目を瞑っていた。
すぐ傍までやって来ると、また敵対心を向けられてギロリと睨まれた。
「貴様ら……ここまでしておいて只で済むと思うな……例えここで命を散らすことになったとしても、貴様だけは殺してやる人間!」
「紅葉さん。俺の話を聞いて欲しいんだ」
「黙れ! 何度も言ったはずだ! 貴様の言葉に耳を貸すつもりはない!」
取り付く島もなく、やっぱり紅葉さんは俺の話に耳を傾けてくれようとはしない。
「くそっ……何故なんだ……何故皆は此方の言葉を信じてくれない……人間だけではなく、今度は妖怪までもが私を見限るというのか……」
すると、突如紅葉さんの様子に異変が起きた。
禍々しい黒いオーラのようなものが発生し、紅葉さんの身体を取り巻いた。そのまま紅葉さんは頭を抱えて縮こまり、全員がオーラによって覆われていく。
「おいおいヤバいんじゃねぇのかこれ。もういいから無理矢理にでも話しちまえって弥白」
「……これってまさか」
もし俺の予想が的中していたとしたら……やばい。このままだと紅葉さんが……っ!
「大雪さん! 今すぐ紅葉さんを取り押さえて! 早く!」
「承知した!」
咄嗟の判断で頼み込み、大雪さんが紅葉さんの身体を地面に押さえ付けて拘束した。
「グググッ……グガァアアア!!」
「くっ!?」
でも、その判断は一足遅かった。当たってほしくなかった予感が的中し、紅葉さんの身体が急激に膨張した。
身体中からメキメキと骨の軋む音が鳴り続け、爪や歯が強靭な牙へと変化していく。人間だった姿が原型を無くし、鬼と獣が混ざったような二足歩行の化け物に変貌を遂げた。
紅葉さんを取り押さえていた大雪さんが吹き飛ばされて、耳鳴りがするような奇声が町中に響き渡る。既に紅葉さんの意識はなく、それこそまるで熊風のように我を忘れて暴走してしまっていた。
「うぉ!? 危ねぇ!」
姉御は振り下ろされてきた大爪を間一髪のところで躱し、俺と氷麗さんを抱えて逃げ出した。
「マジで洒落になってねぇぞ! どうしたってんだあいつ!?」
「きっと呑まれたんだ……昔みたいに」
「呑まれたって、まさか怒りにか?」
「それもあるかもしれないけど……そうじゃない。もっと別の何かだよ」
紅葉さんが変身する前に言っていた言葉から想像するに、妖怪達が自分の言葉を信じてくれなかったことで、過去の忌まわしき記憶が再び呼び覚まされてしまったのかもしれない。
唯一紅葉さんの心にブレーキを掛けていたのは恐らく、この世界にいる妖怪達だ。そのタガが外れたことで、一気に憎しみが膨れ上がった。それ以外に紅葉さんが暴走してしまった理由は考えられない。
だとしたら、その要因を作ったのは……俺だ。なんでこう何もかもが上手くいかないんだよ! くそっ!
「どうすんだ弥白!? このままじゃジリ貧だぞ!」
上手いこと逃げ回れてはいるが、姉御の体力も赤頭との戦いで消耗してるのが著しくなっている。こう何度もピンチに陥ってたら世話ないや。
「氷麗さん! 紅葉さんの足元だけでいいから凍らせられない!?」
「凍らせるのは無理ですけど、氷柱でバランスを崩すことでしたら――」
「無駄だ。その程度でどうにかなる相手ではない」
逃げ回る最中、上空の方から声が聞こえて来た。上を向くと、天狗の親分が宙を舞っている姿があった。
「ぬんっ!」
「グガァァァ!?」
天狗の親分が両手の掌を開いて手を伸ばすと、紅葉さんの動きがピタリと止まった。
「ほぉ、流石は親分ってか。やるじゃねぇかお前さん」
「くっ……長くは持たぬ。人間よ、話をするならこれが最後のチャンスであるぞ」
念力のような妖術なのか天狗の手は震えていて、今にも紅葉さんを縛る念が解けそうな雰囲気だ。
「協力してくれるの?」
「勘違いをするな。私は紅葉を救うためにやってるだけだ」
「……それで良いよ。氷麗さん、今なら凍らせられるよね!?」
「お任せください! 山姫さん、下ろして頂いても宜しいですか?」
姉御の脇から解放してもらうと、氷麗さんは動けなくなっている紅葉さんの足に触れて、そこから首の下以外の部分を瞬く間に凍結させた。
「ぬぅぅん!」
さっき吹き飛ばされていた大雪さんも戻って来て、凍り付いた状態の紅葉さんを押さえ付けた。これでしばらくは動けないはずだ。
「紅葉さん! 俺の声が聞こえる!?」
「グガァアアア!!」
「いや聞こえてるわけなくね? どう見ても意識はねぇだろあいつ」
「そうかもしれないけど……もう一か八かこれに賭けるしかないよ」
地面に倒れ込んでいる紅葉さんのすぐ顔の前までやって来る。姉御に介抱してもらってその場に座り込み、眼球が赤く染まっている目を一心に見つめた。
「紅葉さん! これは俺の勝手な想像だけど、君はもしかして人間を憎むよりも後悔していることがあるんじゃないのか!?」
「グガァアアア!!」
俺の声を遮るような咆哮。だがそれでも俺は喋ることを止めない。
「君は昔その姿になり、多くの人間を殺したって言ってたけど、人間に対する憎しみはそれでもうとっくの昔に緩和されていたんじゃないのか!? でも一番後悔していることから目を背けるために、無理矢理人間に憎悪を抱き続けているんじゃないのか!?」
ミシミシと氷に亀裂が入る音が鳴る。天狗も限界が近いのか、段々と腕が下に下がってきているのが見えた。
「きっと君が一番悔やんでいるのは、自分の一番身近にいてくれた人を失ってしまったことなんじゃないのか!? もしそれが本当だとしたら……その気持ちだけはよく分かる。俺も昔に同じ経験をしたことがあるから……」
「……弥白君?」
何もできないまま目の前でかけがえのないもの失う辛さ。その痛みの重圧感は他の誰にも計り知れない。唯一知っているのは、その体験をしたことがある者だけ。
全ての人間を殺してしまいたいと思った紅葉さんと……死んで消えてしまいたいと願った俺だけだ。
「もっと違う選択肢を選んでいれば、失わずに済んだのかもしれない。もっと自分に力があれば、身が引き裂かれるような思いをせずに済んだかもしれない。でも今はもう、全部過ぎてしまったことなんだよ。たらればの話をしても、二度と帰って来ることはないんだ。どれだけ憎んでも、何度も打ち拉がれても、自分が望んでいた過去の行く先は変えられない。それは君だって身に染みるくらい分かっているよね」
泣き叫ぶような悲鳴の遠吠えが耳を劈き、大きな目から大粒の涙が零れた。本当は彼女も分かっていたんだ。自分がしていることが全て無意味な行為であるということを。どう足掻いても母親は帰って来ることはないと。
「でもだからこそ、君は人間を憎み続けていた。もし人間に対する憎しみさえ失ってしまえば、君を守って死んでしまった母親の死んだ意味無くなってしまうと思ったから。全ては母親のために、君は今の君になってしまったんだと俺は思う」
天狗の霊力が限界に達し、ずっと固まっていた紅葉さんが動き出す。
俺はポケットに手を入れて、たった一本だけの線香を取り出した。
「歯痒いことだけど、無力な俺じゃ君の苦しみを取り払ってあげることはできない。でも、君を救うことができない俺だとしても、何もしないまま指を咥えてただ見ていることなんてできるわけがない。だから俺は――」
もう一方のポケットからライターを取り出し――線香の先を着火した。
「君が救われるためのキッカケを差し出す! これがそのキッカケだ!」
線香の先から微量の煙が吹き出すと、次第に煙が膨張して大きくなっていく。
「ま、まずいです! もう氷が持たない!」
「くっ……すまない我が愛息子!」
ついに氷の拘束も決壊し、取り押さえていた大雪さんもまた遠くへ吹き飛ばされてしまう。
「グガァアアアッ!!」
立ち上がった紅葉さんが俺の身を引き裂こうと、右腕を後ろに大きく振り被る。
「ちっ、ここはアタシが!」
俺の前に出て対抗しようとする姉御だったが、その前に姉御に掌を突き付けて引き止めた。
「お、おい弥白!?」
「大丈夫。俺を信じて姉御」
線香の煙が目の前で徐々に形を成していく。何も心配することはない。無理はしないと氷麗さんと約束したばかりなのだから。
背を向けずに紅葉さんの顔を真正面から見つめる。
何度目か分からない遠吠えと共に、振るわれる強靭な大爪。俺の首元目掛けて飛んでくる。
最中――ピタリと紅葉さんの動きが再び止まった。
「…………っ!?」
理性を失っていても尚、紅葉さんはその姿を見て大きな身体を震わせていた。
もう大分前のことだ。俺がまだキサナのボロ屋敷に住んでいた頃、手持無沙汰になる度に掘り出し物が詰め込まれるだけ詰め込まれた物置蔵に顔を出して、掃除のついでに色々と漁っていたことがあった。
その中には“囀り石”のように、妖怪関連に携わった秘蔵の宝物が眠っていることを知っていた俺は、主にそういった種類の物を主体として探し回っていた。純粋に興味があり、妖怪好きの俺としては心惹かれる物だったから。
結果としてはそう簡単に見つかることはなく、何度も途方に暮れて諦めていた。ただ、ある日のことだった。いつものように蔵の中で宝物探しをしていた時に、ついに俺が望んでいた目ぼしい一品を見つけることができた。
キサナに確認を取ってみると、案の定それは妖怪関連に携わった不思議道具の一つだった。でもその効能故に、結局それを使うことができなかった。いや……“しなかった”と言うべきだろうか。
これを使うのは少なくとも今じゃないと思い至り、その時が訪れるまで俺はそれを持ち歩くようになった。そして今日という日まで年月が過ぎ――その時が訪れた。
その物の正体――その名は“反魂香”。俗説ではお香として扱われていて、一時的に死者を召喚することができるという死者蘇生道具の一種だった。
だから俺は反魂香を使った。紅葉さんを唯一救える存在を召喚するために。彼女のかけがえのない大切な存在に、彼女を救ってもらうために。
「……ハハ……サマ」
「……紅葉」
紅葉さんの母親、花田さんはぽつりと娘の名を呼ぶと、紅葉さんの巨体が蒸発し始めた。
吹き上げる熱気と共に見る見るうちに身体が縮んでいき、やがて元の人間の姿へと戻った。
「母様……母様なのですか? 本当に……貴女様なのですか?」
立って歩けるようになったばかりの赤子のように、覚束無い足取りで花田さんの元へと歩み寄る。そしてすぐ目の前まで来たところで、花田さんが紅葉さんの手を取った。
「辛い思いを……させてしまったようですね。本当に……本当にごめんなさい……紅葉」
優しく花田さんの腕の中に抱かれると、紅葉さんは目を見開いたまま大粒の涙をまた零した。何度も、何度も、ずっと溜まっていたであろう邪念が涙となり、彼女の中から浄化されていく。
「違うのです母様! 母様は何一つ悪くない! 貴女様は死ぬ最後の時まで此方を想ってくれていたじゃありませんか! なのに何故母様が私に謝るのですか!」
「……私が先に死んでしまったが故に、貴女は憎しみに溺れて多くの者を殺めてしまった。貴女を一人残してしまったが故に、あのような惨劇を生み、今の貴女を作ってしまった。死んで尚も私は、ずっとそのことを悔やみ続けていたのです」
「そのようなことは! それは此方が弱かったからで――」
「私は貴女の母親です。子が一番辛い思いをしている時についていてあげるのが、母親である私の役目だった。しかしその務めを果たせることなく、私は死んでしまったのです。決して許されることはありません。たとえ貴女に許されようとも、私自身が許すことは一生賭けてもありません」
すると花田さんは、俺の方に振り向いて来て目を合わせてくると、少し頭を下げて薄っすらと笑った。
「ですが……ですがこうして今は、貴女と言葉を交わす時を与えてくれた方がいます。その恩に報いるためにも、私は今までずっと言いたかったことをここで伝えます。聞いてくれますか、紅葉?」
「……はい」
花田さんは「ありがとう」と呟くと、胸に紅葉さんを抱いてあやしつけるように語り出した。
「紅葉。人間から妖怪として生まれ変わってしまった貴女ですが、たとえ貴女がこの先どうなろうとも私は貴女を愛しています。もう過去の記憶には捉われず、貴女自身が思うように生きてください。すぐには難しいかもしれません。でも焦らず、ゆっくりで良いのです。自分の歩幅で進んでいけば、きっと貴女は変われるはずです。何と言っても、私の子なのですから」
「母様は此方を買い被り過ぎです! 此方は母様のように強くない! 己の殻の中に閉じ籠り、誰も近寄らないように刀を振るうことしかできない臆病者なのです! そんな此方が……変われるわけないではありませんか……」
「そうですね。今までの貴女ならば不可能なことでしょう。ですが、今の貴女なら何も問題はありません」
「無責任なことを言わないでください! 一体何を根拠にそのようなことを申しているのですか!?」
「紅葉、その目でよく見てください。答えは貴女の周りにありますよ」
「え……?」
言われて紅葉さんはようやく気付いた。ついさっき逃げていったはずの妖怪達が、各々武装して戻って来ていたことに。
「すいません紅葉さん! ちょっと家に箒取りに帰ってました!」
「なんで箒なんだよ! そこは木刀とか、もっと実用性のある武器を取って来いよ!」
「フライパン持ってきてる奴に言われたくねーよ! それで相手を料理するってか? 全然上手くねーよ阿呆が!」
「…………」
くだらない喧嘩に勤しみながらも自分の身を心配して来てくれた妖怪達を見て、紅葉さんは呆気に取られたように表情を緩めた。
「見えるでしょう? 今の貴女には、こんなにも頼ることのできる方々がいるのですよ。一人で無理に変わろうとしなくても良いのです。もし何かに躓いたその時は、身近な存在に助けを求めれば良い。たったそれだけのことで良いのです」
俺は紅葉さんに向けて手を伸ばす。俺もその内の一人であることを、今度こそ理解してもらうために。
しかし紅葉さんは、花田さんの胸の中に蹲りながら身体を震わせて目を背け、同じように手を伸ばそうとはしなかった。
「……此方は其方を殺そうとした妖怪だ。やはり人と妖怪は――」
「分かり合えるさ。絶対にね」
俺は笑う。絶対的な確信を持っているから。
「花田さんの……お母さんの言葉を信じてあげて紅葉さん。昔と違って今の君は、こんなにも周りに恵まれているんだからさ」
「全くだ。つーかいつまでもヒヨってんじゃねーよ。普段から強気なお前さんらしくもねぇ」
姉御も俺の横から拳を突き出してきて、紅葉さんの方から来てくれるのをジッと待つ。
「……母様。一つだけ教えて欲しいことがあるのです」
それは恐らく、彼女がずっと抱えていたたった一つの疑問。母親に言ってもらうことでしか確証を得られない、簡単な問いだった。
「此方は……生まれてきても良かったのでしょうか……」
「それは愚問というものですよ、紅葉」
花田さんはニッコリと笑い、自分の額を紅葉さんの額と重ね合わせた。
「私の子として生まれてきてくれて……ありがとう」
「…………あぁ」
「そうか」と、紅葉さんは呟く。ようやく知ることのできた答えに、やっと彼女は頬笑みを浮かべた。
線香の煙が小さくなっていく。この線香が消えた瞬間、もう二度とこの世でこの二人が出会えることはないだろう。
でも紅葉さんは泣かなかった。最後は笑顔で母親を送るため、今まで見せたことのない満面を笑みを浮かべていた。
「あの世で見ていてください母様。これから此方がどう生きるのか……ゆっくりと己の歩幅で見定めていきたいと思います」
消えゆく最後の花田さんは、泣きながらも笑っていた。これできっと彼女も報われたことだろう。
「「紅葉!」」
姉御と一緒にニタリと笑ってその名を呼ぶ。
「物好きなお人好しだな……其方らは」
紅葉さんは呆れた顔をするも、両手を伸ばして俺達の手をギュッと握り締めていた。
その手には、もう二度とこの繋がりを無下にはしないと、そんな意味が込められているような気がした。




