豆腐の恨みは恐ろしい
人間という生き物は時折、一定の食物を無性に食べたくなる衝動に駆られる時がある。仕事中にカタカタキーボードを打ち込みながら女性が「あっ、やばい、めっさソーセージ(意味深)食いたい」といったように、我慢出来ない時がある。
学校から帰って来る際についでにおかずを調達するため、ド田舎でありながら人盛りが凄い食物の売り場へとやって来た。野菜や果物類は畑怨霊がお世話している畑からいくらでも採取できるので、ここに来た時は決まって魚が肉、調味料等々を買い漁っている。
そしていつものように一通りお目当ての買い物を済ませる……が、個人的に購入しておきたい物をまだ見つけられていなかった。
それは豆腐。俺は今、豆腐が食べたくて食べたくて堪らなくなっていた。
特に好物というわけでもないし、正直そんなに美味しい物とは思っていない。でも何故か今は無性に豆腐が食べたくて仕方無かった。
「…………ない」
こんなタイミングで豆腐ブームでも巻き起こっているのか、豆腐売り場に豆腐が一つも売っていなかった。俺に対する嫌がらせかと思ったが、売っていないのなら仕方無し。無い物ねだりをしたところで豆腐が手に入るわけではないのだから。
諦めて帰路につき、頭の中を豆腐一杯にしながら数十分でボロ屋敷へと帰って来た。
「お兄さん。そこのお兄さん」
「ん? 俺?」
「そうそう、貴方ですよお兄さん」
玄関を開けようとした寸前、背後から声を掛けられて振り向く。そこには、傘帽子を被った小さな男の子が立っていた。
そして何故か、大きな器の上にぽつんと豆腐を乗せていた。
「僕には分かります。えぇ、何も言わずとも僕には全て分かっていますとも。お兄さん、貴方は今無性に豆腐を食べたいと思っていますね? 喉から手を伸ばして化物以外の何者でもない者に変貌を遂げてでも食べたいと思っていますね?」
いくらなんでも大袈裟過ぎる例えだったが、食べたいのは本音なので正直に頷いた。
「そうですよねそうですよね。豆腐食べたいですよねそりゃそうですよね。豆腐はこの世の救世主でもあり、豆腐を一口食べた者は戦争をするのも馬鹿馬鹿しくなり、あの有名な戦である桶狭間の戦いも実は殺めることで終戦したのではなく、大将同士が豆腐を食べたことで終焉したという言い伝えがあるほど。故に貴方のような一般人が食べたいと思うのも当たり前と言えば当たり前のことなんです」
「俗説感ばりばりなんだけど、絶対でまかせだよねそれ?」
「でまかせではありません。豆腐を食す全ての者は救われるんです。一口食べれば水虫が治り、二口食べれば枝毛が治り、三口食べれば目脂が失せる。ほら、聞いてるだけでも救われた気持ちになるでしょう?」
「ごめん、正直全然」
「そうでしょうそうでしょう。今すぐにでも食べたいと思ってしまうでしょう? 分かります、その気持ちは身に染みるほど分かります。アレな本を読んでる最中にアレが染みてくるくらい分かります」
うん、全くこっちの話聞いてくれないや。なんていうか、豆腐へ依存し過ぎてただの危ない男の子にしか見えなくなって来た。これじゃまるで麻薬宗教者だ。
「そんな貴方にはこの絹豆腐をお譲り致しましょう。これはただの豆腐とは違い、中指一本分飛び抜けたくらい上質な豆腐となっています。市販で売っている物と比べれば、他の豆腐なぞ紙粘土に等しいです」
繁盛している豆腐屋に謝るべきコメントを頂いた。世界中の豆腐屋に八つ裂きにされてもおかしくないなこの子供。
さて、どうしようか。確かに豆腐は食べたいし、この子が渡して来ようとしている豆腐も見てくれは普通の豆腐っぽい。でも問題はその中身だし、信じるべきか拒むべきか……。
「よぉ〜坊。この俺が遊びに来てやったぜ〜」
玄関に立ち尽くしながら問答していると、呑気な顔してあくびを漏らした温羅兄が手を振りながらやって来た。
「あっ、いらっしゃい温羅兄」
「おう。で、玄関前で何やってんだテメェ? つーかそのガキは誰だよ?」
見下した目で豆腐の子供を見下ろす温羅兄。この態度からして子供はあまり好ましく思っていないと見た。流石は下衆、子供にも優しくない酷い鬼よ。
「ガキではありません、私は流浪の豆腐屋です。豆腐を食す者は全て救われ、豆腐の存在を崇め続けるようになります。貴方もお一つどうですか?」
俺と同じく宗教勧誘の手口で、器の上の豆腐を差し出す子供。しかしそれを差し出すには相手が悪かった。
げしっ
どさっ
ベチャッ
「いらねぇよ、んな紙粘土の塊。ガキは黙って自由研究の工作に勤しんでりゃ良いんだよ」
これぞ正しく鬼の所業。相手が子供であろうと容赦せずに足元を蹴って転ばせ、大事に持っていた器から豆腐が地面に落下した。相当脆い豆腐だったのか、落ちただけで崩れて原型が無くなった。」
「温羅兄……鬼だね」
「あん? 何当たり前の事言ってんだ」
そうだった、この人仮にも伝説の鬼だった。悪逆非道の鬼と呼ばれていた鬼畜外道の下衆だった。桜華さんはそんなことしたことないって言っていたけど、温羅兄は逆にそういうことしかして来なかったんだろうなぁ……。
「おら、押し売りはとっとと失せろ。それより坊、ちょっと川に釣りに行かねぇか? 今なんか無性に魚に塩掛けて食いてぇ気分でよ。金もねーし釣り上げようぜ」
「…………許すまじ」
温羅兄がけらけら笑いながら釣りのお誘いをして来た中、子供がぼそりと呟く。そして静かに立ち上がってくると、その表情が子供とは思えないものになっていた。
鬼のように鋭い牙を生やし、充血した目をギンギンに見開き、こめかみ辺りにハッキリと血管を浮き出している。生き物が本当にこんな顔できるの初めて知った。
「許すまじ許すまじ許すまじ……私の救いの豆腐をこうも無下に……殺してやる、貴様は殺してやる、豆腐の呪いの前に殺してや――」
「うるせぇ」
憎しみを露わにさせた子供がうにょうにょした黒いオーラを発して徐々に温羅兄に近付こうとしたところ、温羅兄が朽ちた豆腐の塊を取って顔面に投げ付けた。鬼畜外道にも程がある。
「行こうぜ坊。釣竿と餌はもう現地に用意してあるからよ」
「えっと……その前に温羅兄はこの子に頭を下げるべきだと思うんだけど」
「ばっかテメェ、まさか気付いてねーのか? そいつはただのガキじゃなくて豆腐小僧だぞ」
「豆腐小僧?」
豆腐小僧……一応妖怪ではあるけれど、別段特殊な能力は持ち合わせておらず、ただ他所に豆腐や酒といった物を届ける小間使いされていた妖怪。俗説では特に悪さをするわけでもなく、人間にも相手にされない軟弱妖怪と言われているけど……今目の前にいるこの子はとても軟弱には思えない。目を離した隙に筋肉もりもりになってるし。
「そいつが用意した豆腐の味は上質な物らしいが、食った翌日にゃ身体中にカビが生えるっつー汚ねぇ特質があんだよ。豆腐を食えば救われるだ何だ言ってたが、そりゃ相手をカビ塗れにしたいがための建前だ。そのくらい知っとけよ霊感坊主よぉ」
「へぇ〜、見掛けによらず博識なんだね温羅兄。絶対単細胞だと思ってたのに」
「一言余計なんだよテメェは! 悪意ねぇからよりタチ悪ぃしよ!」
何にせよ、貰わなくて正解だったようだ。身体中カビ塗れになんてなったら、キサナや猫さんからドン引きされ兼ねないし。それは流石の俺でも心に傷付くものがある。
立ち尽くす豆腐小僧を背に、川がある山の方へ歩く温羅兄の後に続く。
「奴はあぁでもしない限り、どんな手を使ってでも豆腐を食わせて来ようとしやがるからな。あれくらいしておかねぇと諦めねぇカビ野郎なんだよ」
「なるほどねぇ、思わず見た目に騙されちゃうところだったよ。ありがと温羅兄」
「ま、次からは気を付けるこったな。もっとタチの悪ぃ奴は、勝手に家に上がり込んで然りげ無く置いていくからな。時期によっちゃ頻繁に出没するから、今後豆腐に関しちゃ注意しとけ」
「分かった、キサナにも伝えておくよ」
ふと後ろを振り返ると、子供サイズだった豆腐小僧の身体が巨大化して、最早豆腐小僧とは言えないゴリラのような化物に変貌を遂げていた。しかし温羅兄に襲い掛かってくるようなことはなく、ただただ温羅兄……と、多分俺も含めて憎しみが込められし眼で睨み続けて来ていた。
〜※〜
翌日。俺は自室にて、猫さんとキサナの三人でお茶を啜っていた。
「ふぅ〜、もう少しで季節も夏じゃの。ここはまだ比較的涼しい場所じゃから安心するの」
「川が近くにあるから気軽に水浴びもできるしね。私も夏ににゃったらよくあそこに行って日向ぼっこしてるわ」
「ほほほっ、ニート生活乙じゃの」
「貴女に言われたくにゃいんだけど!?」
今日も今日とて平和な日常。二人の痴話喧嘩を肴に暖かいお茶を啜る。今はこの時が最も至福の時間だ。
「そう言えばシロ君。キサから聞いたんだけど、昨日豆腐小僧に絡まれたんだってね」
「あぁうん、そうなんだよ。もしかしてあの豆腐小僧って有名だったりするの?」
「有名というか何というか……。実は私も一度あの豆腐を食べることを勧められたことがあったの。それに私だけじゃにゃくて、この辺りに住んでる妖怪達の大半は同にゃじ目に合ってるんだって。中には押し売りに負けて食べちゃった人もいるって」
「へぇ、そうだったんだ……」
あの豆腐小僧、実は結構悪質な売り込み師だったらしい。俗説じゃ可愛らしくて愛嬌のある妖怪だと言われていたのに、張本人のせいでイメージがだだ崩れだ。でも一度だけで良いから、カビ塗れになった人の姿を見てみたいという欲求もあったりなかったり……。
「あ、主様ぁ〜!」
「ん? この声って……」
三人仲良く団らんしていると、部屋近くの縁側の方から桜華さんの声が聞こえてきた。その声からして何かあった感がするけど……まさかねぇ?
部屋の襖を開けて外に出て、続いてキサナと猫さんも付いてきた。
「……桜華さん?」
外に出ると、思っていた通り桜華さんが泣きっ面で立っていた。しかしその姿は、女の子としては最悪の姿に変わり果てていた。
前に着ていた薄い赤色の着物と白の割烹着を手に持っていて、大胆にも全裸になっている。しかし見ちゃいけない部分はしっかり隠れていた。全身を満遍なく覆う深緑色のカビによって。
「汚エロい……新ジャンルかの?」
「にゃわけにゃいでしょ! 普通に考えて豆腐小僧の仕業に決まってるじゃにゃい!」
どうやら何かしらの手段によって豆腐小僧の豆腐を食べてしまったようだ。さっき一度だけ見てみたいと思っていたけど、これは見るべきものじゃなかった。あまりにもカビの量がエグ過ぎる。一週間風呂に入らずシャツとトランクス姿でいるニートの不潔さの方がまだマシなくらい、今の桜華さんは凄まじい量のカビで充満していた。
「うぅ……朝起きたらこんなことになっていまして、私を見た皆は問答無用で私を追い出して来まして。他に頼れる人が主様しかいなかったんです……」
追い出した主犯はきっと温羅兄に違いない。俺に対しては親切にしてくれるのに、従兄妹に対しては本当容赦ないなぁあの下衆鬼。
「とにかくお風呂に連れて行ってあげないと。俺に付いて来て桜華さん」
「ば、馬鹿! 付いて来てじゃにゃいわよ!」
そう言って桜華さんの手を引こうとした寸前、慌てた猫さんによって遮られた。
「こらこら、邪魔しちゃ駄目だよ猫さん。早くこのカビ取り払ってあげないと可哀想でしょ?」
「それはそうだけど、シロ君がそれやったらこの子の裸を見ることににゃるじゃにゃい! カビ取りは私とキサでやるから、シロ君は部屋で待機してにゃさい!」
「そ、そんな!? 猫さんは俺のラッキースケベの計画を見抜いていたと!? そこは見て見ぬフリするのが道理じゃないか!」
「何が道理よこの変態! セクハラにも限度っていうものがあるのよ! そもそもセクハラ自体が既に最低だから!」
「そんなこと言って猫よ。実際のところお主は、シロに他の女の裸を見て欲しくないからそういう事を言ってるんじゃろ? 所謂『女の子の裸を見るのは私を初めてにして!』という独占欲じゃろ?」
「ば、ばば、バッカじゃにゃいの!? いつ私がそんなやらしい女ににゃったのよ! 馬鹿言ってにゃいでキサも手伝う!」
「ほぃほぃ。すまんのシロ、今度にでも我のナイスバディー見せてやるからそれで我慢せい」
「マジですか。なら俺もお返しに全裸待機を――」
「自重しにゃさいエロの俗物共!」
キサナと共に頭を叩かれ、猫さんとキサナは桜華さんと共に風呂場へと消えた。
さて……身内の妖怪に被害が及んでしまった以上、もう俺も見て見ぬフリはできなくなってしまった。このまま何もしなければ、豆腐小僧による第二第三の犠牲者が出兼ねない。ここは霊感少年たるこの俺がなんとかしなくては。
かと言って、今あの豆腐小僧が何処にいるのかなんて検討もつかない。こういう時は、“そういう事”に手慣れた妖怪に手を貸してもらった方が得策だろう。
……と意味深な事を考えてみるが、そんな都合の良い妖怪の知り合いなんていないし、出会った事すらない。やっぱりここは大人しく家に来るのを待ち構えていた方が良いのかもしれない。
それか、例のあの下衆鬼を家に呼ぶべきだろうか。昨日の温羅兄の仕打ちは、明らかに豆腐小僧の逆鱗に触れていた。だからこそ奴は何らかの方法で温羅兄に復讐するだろうと思っていたけど、まさか身内の桜華さんが被害に遭うとは思わなんだ。
……いや、待てよ? 温羅兄のことだから、もしかして桜華さんのあれってまさか……。
「お兄さん。そこのお兄さん」
「あっ……」
また一人で問答を繰り返していると、願っても無い豆腐小僧との出会いがまた再び訪れた。姿形は子供に戻っていて、顔も元の子供の容姿に戻っていた。
「前日は失礼しましたお兄さん。豆腐の素晴らしき価値感も分からないゴミ鬼のせいで、とんだ醜態を晒してしまいまして」
「うん、それは別に良いんだけどさ。君さ、もしかしてあの後ずっと温羅兄の後を付けて、鬼の住処に勝手に入り込んだりしたかな?」
「……はて、何のことでしょうか。私には分かり兼ねます」
あくまでシラを切り通すつもりらしい。にゃろう、そうは問屋が卸しませんよってね。
「ついさっき俺の友人がコケ塗れになってやって来たんだよね。あれってどう考えても君の仕業なんじゃないかな? 全身コケ塗れだなんて、君が配り歩いている豆腐を食べた後の現象でしかありえないもん」
「きっとそれは巨大な水槽か何かに落っこちて、コケに似た藻がこべり付いていたんでしょう。それに私の豆腐は全身にコケを生やすなどという摩訶不思議な現象は起こり得ません。この豆腐はコケを生やすのではなく、救いの心を手に入れる事ができる至極の一品なのですから」
言い逃れにしては無理がある。しかも豆腐小僧としてのポリシーを偽ってまで悪戯したいのか。とんだ妖怪宗教の教徒様だ。
「前日は絹豆腐をお持ち致しましたが、昨日のアレで在庫を切らしてしまいまして。なので本日はより質の良い木綿豆腐を用意させてもらいました。さぁ、どうぞお召し上がりください」
そう言いながら器の上に置いてある豆腐を差し出してくる。無論、受け取るわけにはいかないし、かと言って乱暴に突き放したら今度は俺一人が憎しみの眼を向けられる。昨日の時点で既に俺まで睨まれていたというのに、これ以上面倒な事になるのは避けたい。
こういう時は……上手い具合に知恵を働かせてやるに限る。力を貸して下さい一休さん。
「あのさ。俺ってこう見えて疑り深い性格なんだよね。だからその豆腐が本当に救いの心を手に入れさせてくれるのか、君自身で実際に立証してくれないかな?」
「……と言いますと?」
「それ、君が先に食べてみてよ」
ピクッと豆腐小僧の目元が吊り上がったのを見逃さなかった。
「本当にその豆腐を食べても身体に異常が出ないのなら、豆腐小僧である君が食べても大丈夫なはずだよね? だから君が今それを食べて、明日の朝になるまでここにいてくれないかな? それで何も起きなかったら俺も大人しく食べるからさ」
「ぐっ……」
勿論、豆腐小僧は俺の言う通りに豆腐を食べようとはしなかった。それは即ち、その豆腐に何らかの仕掛けがあることを認めている事に等しい。策士策に溺れるとはこのことよ。
「食べられないの? おかしいなぁ? 君はさっき自分で摩訶不思議な現象は起こり得ませんって言っていたのに、これじゃ辻褄が合わないよね?」
「…………フッ」
何を思ってか、豆腐小僧は鼻で笑って項垂れた。そして――
「御託は良いから黙って食えぇぇぇ!!」
本性を表に大公開し、豆腐を片手に掴み掛かって来た。どれだけ豆腐を食べさせる事に必死なんだこいつは。
襲い掛かって来た寸前のところで、俺は対処しようと身構える。だがその最中、横入りするかのように一人の影が颯爽と現れた。
「フフフッ……私の大事な大事な主様に何をしようとしたんですか貴方?」
薄い赤色の着物の上から真っ白い割烹着を着た伝説の鬼。キサナと猫さんの手により、全身のコケを洗い落として復活を成し遂げた。
相当怒っているようで、その胸の高鳴りが豆腐小僧の頭蓋を軋ませる音となって聞こえてきた。豆腐小僧は激痛余りに阿鼻叫喚するが、その奇声を聞いた桜華さんは更に手の力を強めていく。
「元々おかしいとは思ったんですよ。あの下衆鬼がおかずの一品を作っておいたと言って来たんですから。本当はシカトしてやろうと思いましたけど、食べ物を粗末にするのはいけないと思って仕方無く絹豆腐を食べて……そしたら朝起きたらあんなことになってて……。あれって貴方の仕業なんですよね豆腐小僧さん?」
「ぎょわぁぁぁ……ち、違っ……それは私ではなくて、昨日当番だった絹豆腐兄さんが……」
「に、兄さん?」
絹豆腐兄さんって……まさか豆腐小僧って一人じゃなかったと? でも確かにこの子は前日とは違う木綿豆腐を持って来てるし、ということは一人二役で豆腐小僧という存在を保ち続けていたのか。
前日は失礼しましたと言っていたけど……恐らくそれは、その絹豆腐兄さんとやらに話を聞いたんだろう。だからこの子は昨日出会った素振りを見せ付けて接触を図ってきたというわけだ。器用なんだか不器用なんだか分からない妖怪だなぁ。
「お、お願いです許してください! この豆腐差し上げますから!」
パキパキと音を立てて更に力が注ぎ込まれる。
「あばばばば……ど、どうかお慈悲を……」
妖怪は物理的に死ぬことはまずない。だが死ぬ程痛い目に合っても死なないということは、激痛に耐え続けなければならないエンドレス生き地獄があるということ。豆腐小僧は正しくそんな状態だった。
既に桜華さんの握力によって頭蓋骨にヒビが入り、顔色が文字通り真っ青になって瀕死状態。豆腐を売るとか悠長なことを言う余裕も無くなってしまっていた。
「桜華さん、もう良いから。流石にその辺で許してあげて」
「……主様がそう言うなら仕方無いです。主様の慈悲深い心に感謝しなさいカビ野郎」
ようやく豆腐小僧が解放されると、立つ気力もないままどさりと崩れ倒れた。手に持っていた器も地面に落ちて、木綿豆腐は器の下敷きになってぐちゃぐちゃになった。
「ぐぐっ……許すまじ……豆腐を砕くどころか私の頭蓋まで砕くだなんて……これだから脳筋ばかりの鬼は嫌――」
桜華さんが止めの一発にぐしゃりと右足で踏み付けた。豆腐小僧の首から上にモザイクが掛かり、R指定が入るであろうえげつない姿に変わり果てた。
桜華さんを脳筋呼ばわりするからそうなる。いずれ再生するだろうし、この子はもうこのまま放置しておこう。これだけ痛い目に合ったんだし、少なくとももうここに豆腐を売りに来るような真似はできないはず。桜華さんというトラウマを植え付けられたことにだけ同情しておこう。
「もう……酷い目に合いましたよ。豆腐小僧といい、あのチンカス鬼といい、なんで私ってこうもトラブルばかりに巻き込まれてしまうんでしょうか……」
「あ〜……そ、それだけ注目を集めているってことは、きっと桜華さんは人気者ってことなんだよ。前向きに考えていこう」
「それは流石に無理ありますよ主様。善処はしてみますけど、でもあのチンカス鬼だけは絶対許すつもりはありません」
それは俺が口を挟む事情でもないので触れずにおこう。鬼同士の喧嘩に巻き込まれたら命がいくつあっても足りないし。
「そう言えば他の二人は? 姿が見えないけど」
「キサナ様と猫又さんはそのまま二人で水浴びしています。お風呂場から出て行く際に猫又さんが何か叫んでいましたけど……楽しそうだったのでスルーしてこっちに来ました」
キサナめ……もしや裸体の猫さんを独り占めする気だな? なんて羨ましいポジションなんだ。俺も猫姿になった猫さんにブラッシングとかしてあげたいなぁ。
「取り敢えずこの後どうする桜華さん? 特に忙しくないならゆっくりお茶でも飲んでいきなよ」
「良いんですか? でも私のカビの余韻が主様の機嫌を損ねるようなことがあったら、私はもう立ち直れません……」
「カビの余韻て……綺麗に洗ったから大丈夫でしょ。少なくとも俺は追い出すなんてことはしないから、気を楽にして良いからね」
「はぅ……やっぱり主様はお優しい……」
ポッと頬を赤らめて女の子らしい恥じらいを見せる桜華さん。仲間達の前でも普段からこうだったら良いのに、一体何が彼女を嫌われ者の役目を担わさせているんだろうか。本当は健気で可愛い女の子だというのに。
「まず部屋に戻ろっか。そこでのんびり話でもしようよ」
「あ、あああ主様!? わわ、私の手を取ってくれるだなんて……はぅあぅあぅ……」
恥じらいで顔を真っ赤にさせた桜華さんの手を引いて、ボロ屋敷の方へと戻って行く。
そして縁側の方からボロ屋敷に上がる途中、不意に後頭部に何かがぶつかった。
……いや、正しくはぶつけられたと言った方が正しいだろう。
「一体何……うわっ、なんだこれ?」
頭の後ろに手を回して直に触れてみると、ねっちょりとした白い物体がへばり付いていた。というかこれ、もしかして豆腐か?
まさかと思い後ろを振り向く。そこには、全く予想していない光景があった。
「許すまじ……あの人間を許すまじ……」
「裁きを下せ……あの人間に裁きを下せ……全ては豆腐神がために……」
ぞろぞろと現れた他四人の豆腐小僧達。傘帽子に何本ものロウソウを付けていて、如何にも宗教人らしい怪しげな衣装を身に纏っていた。器の上にはお手頃サイズの豆腐がいくつも乗っていて、きっとあれの一つを投げ付けられたんだろう。
「木綿豆腐小僧の無念、私達が晴らさせてもらおう。私の名は絹豆腐小僧。豆腐小僧一家の長男なり」
「私の名はソフト豆腐小僧。同じく三男」
「私の名はおぼろ豆腐小僧。同じく四男」
「私の名は杏仁豆腐小僧。同じく五男」
一人だけデザート感溢れる豆腐が入っちゃってるけど、彼らの威厳のためにスルーしておこう。
「よ、よくも主様の後頭部に豆腐を……一人残らずぶち殺してやります」
「桜華さん? 温羅兄以外の人に殺意は湧かないのでは?」
「……今まではそうでした。しかし主様と出会えた今、主様を害する者は全て敵です。故に奴らは私が根絶やしにします。骨も残さずこの世の肥やしにしてやります」
温羅兄と瓜二つの鋭い目付きで豆腐小僧達を睨み付け、バキボキと両手の指の骨を鳴らす。背後に見える阿修羅のようなオーラは、もしかしたら茨木童子の真の姿なのかもしれない。
本気で殺す気のつもりで豆腐小僧達へ歩み寄って行く。逃げないと本当に肥やしにされかねないよ豆腐小僧ブラザーズ。
「総員、構え」
しかし豆腐小僧達は逃げる姿勢を見せるどころか、器を置いて左手で右手首を掴み、右の手の平を桜華さんに向けるように構えた。
「殺す……主様の敵は全て殺す……主様のためなら私は悪魔にも魂を売りましょう……」
帰って来て桜華さん。貴女はそっち側に行っちゃいけませんよ。
「許すまじ人間の敵……許すまじ妖怪の鬼……豆腐神の元に朽ち果てよ……」
何なのこの雰囲気。いつからこの物語はギャグからバトル物になってしまったんだろう。誰かこの人達を止めてあげて。
「総員、発射ぁ!!」
長男の掛け声と共に、手のひらから白い謎の液体が発射される。桜華さんは避ける視線も見せず、モロにその液体をぶちまけられた。
「エロスの気配を感知して颯爽と我登場! 何処じゃ? エロスなイベントは何処じゃ?」
屋敷の方から風のように現れたキサナ。同時に俺は桜華さんの元に駆け付けた。
「だ、大丈夫桜華さん? 今度は衣服ごと汚されちゃってるけど」
「焼く擦る捻る潰す削る刻む消す折る抉るぶっ殺す……」
ついにまともな会話すらできる余裕も無くなっていた。
「ふむ……豆乳じゃのこれ。やれやれ、奴らも分かっていないのぅ。こういう白い液体というのは、絶妙な匙加減で首から上を狙うものじゃ。さすれば忽ちその姿はアレなものにしか見えない発情的光景に……」
その例えを猫さんに見立てて想像する。
……ごくりと無意識に固唾を飲んだ。
って、そうじゃない。それより手の平から豆乳って……最早豆腐のプライドもあったものじゃない。そこは豆腐を貫き通すところだろうに。
「その豆乳は特別製でな……なんと、ボディソープを使っても一週間は匂いが取れない病み付きものなのだ!」
傍迷惑な能力だ。能力がないから親しまれていた豆腐小僧だったのに、もう俺の中の豆腐小僧はただの宗教集団というイメージに変わり果ててしまった。少しショックだ。
「しかしこの程度で私達の恨みが晴らされると思うな……。憎しみの業火はいつまでも私達の心でメラメラと燃え滾っておるぞ! さぁ皆、もっともっと憎しみの焔を灯せ!」
「「「「うぉおおおおお!!!」」」」
豆腐小僧達の憎しみの想いが、本当に業火となって具現化した。
「「「「ぎゃぁぁぁ!?」」」」
で、その業火が豆腐小僧達自身を燃やした。
馬鹿だ。この子達本物の馬鹿だ。
「た、助けてくれぇ……」
その場に崩れ倒れて燃え尽きようとしている中、豆腐小僧の一人が桜華さんに向かって手を伸ばす。
「うるさい」
桜華さんはその手を取ることなく、その辺に落ちている豆腐を拾ってそいつの顔に思い切り投げ付けた。流石は従兄妹同士、やること言うこと全て同じだ。
「……これがホントの焼き豆腐……か」
ぐしゃっ!
最後の最後まで救いも何もあったもんじゃなかった。
その後、豆腐小僧を見た者は誰一人として現れなかったという……。