呉葉が紅葉となった日
その昔、未だ日本が戦乱の世で多くの人間が争っていた時代。とある村に、子供に恵まれない夫婦がいた。
夫の名は笹丸。妻の名を菊世と言い、どうしても子供が欲しかった仲睦まじい夫婦は、周囲の者達にその悩みを打ち明けた。
「なら第六天魔王にお願いするといい」と教えてもらった二人は、共に『第六天魔王』として世に名を知らしめていた織田信長の元へ参り、子が欲しいと身を清めて祈願した。
後日、その祈りが見事通じたのか、二人の間には美しい玉のような女の子が生誕した。
少女は呉葉と名付けられ、貧しい生活を送るも、優しい母親と父親に大切に育てられた。
呉葉は自分が貧しい環境であることを気にも止めず、ただこの二人の娘として幸せに生きられれば良いと、たったそれだけの欲を抱いて時を過ごした。平凡、普通と周りから言われようとも、その当たり前こそが人の一番の幸せなのだと呉葉は無意識に悟っていた。
呉葉は歳を重ねるに連れて、“立派な人間”になろうという夢を持った。呉葉は必死に勉学に勤しみ、中でも読み書き、和歌、琴に関しては天才的な才能を人々に見せ付けていた。
日に日に呉葉はより優秀で魅力的な女性へと成長し、やがて彼女は村一番の才色兼備の美女と言われるまでの大評判を得た。
当然の如く、呉葉は多くの男性から求婚されることとなった。身分が低い者から高い者まで、その魅力に惹かれた男性達が押し寄せてきた。
しかし呉葉は、その話を全て断っていた。呉葉自身が恋心に興味がないということもあったが、一番の理由は父親である笹丸から許しがでなかったからだった。
ならば親しくしてくれるだけども良いと、中には遜った男性もいた。それくらいなら構わないと呉葉は伝えようとしたが、笹丸はそれすらも認めないと豪語した。誰が相手であろうと、異性の交遊を一切認めることはなかった。
凄まじい親馬鹿ぶりに妻は呆れるも、呉葉は自分を束縛する父親に対し、それだけ自分のことを大切な娘だと思ってくれているのだと思い、喜色満面としていた。
しかしそんな裏、笹丸は一人とある思惑……いや、野望を抱いていた。
子供を大事に育てて幸せな家庭を作りたいと、妻である菊世は呉葉のことを想っていた。しかし、同じことを考えていると思われていた笹丸の頭の中には、既に違う理想が思い描かれていた。
才色兼備の美女と呼ばれる我が娘を連れて都へと上京し、位の高い貴族のお目に掛かるように呉葉の存在を知らしめ、嫁として娘を献上する。そうして娘を利用することで、自分も出世して大金持ちとなる。妻と娘の前では愛情深い一面を見せる中で、笹丸は自身の欲に塗れていたのだ。
その野望を叶えるため、娘を自分の元から離さないため、笹丸は娘に求婚してくる男性達をあらゆる手段を用いて退かせた。
言葉で黙らせられる者が多数だったが、中には執念深く、諦められない者もいた。そういった相手に笹丸は、呉葉に返しの恋文を書かせて遅らせた。裏で取引していた呪術師の力を借りて、内密にその恋文に呪印を刻んで。
呪印付きの恋文を送られた男性は、一人残らず謎の重い病にかかった。呪いであることも知らずに村の人々には不治の病として広まり、後に病にかかった者達の共通点として、呉葉に強く想いを馳せた者ということが特定された。
村の人々は呉葉に対して疑心暗鬼に陥るも、追及することは決してなかった。大評判であり、人が好いことで知られている彼女が、外道のような真似事をするはずがないと信じられていたからだ。
実質、呉葉は無実だった。だがそれでも尚、自分のせいだという可能性があることを知った呉葉は、その男性達の元へと自ら足を運んだ。無い罪を償うため、無事にその病が治ることを祈るために。
しかし、呉葉の祈りが届くことはなかった。呪いという病に掛かった者達は一人残らず亡き者となり、実際にその亡骸を見た呉葉は酷く悲しみに明け暮れた。自分のせいで自分を好いてくれた者達が死んでしまったのだと、底知れない罪悪感に捉われてしまっていたから。
そして、頃合いだと悟った笹丸は、この時期を見計らって菊代と呉葉を連れ、己の野望を果たすために都へと上京した。村の人々からは逃げるように見えていたが、気に止めていたのは呉葉と菊世だけであった。
無事上京を果たした笹丸は、自分を含めた家族全員の名を改名させた。
笹丸は伍助、菊世は花田、そして呉葉は――紅葉へと名を改めた。
伍助は都で店を開き、主に髪道具を売る商いを始めた。花田や紅葉も店の手伝いとして働くようになり、紅葉はその店の看板娘として世に顔を広めることとなった。
しかし紅葉は美しい美貌を売りにするだけではなく、商いの才覚をも発揮した。村にいた頃から磨きをかけていた琴を教える立場にもなり、その成果は大金となって現れ、都でさえも大評判を得て有名人の一角となった。
そしてある日のこと。ついに、その時はやって来た。伍助が経営する店に、貴族が自らが来訪して来たのだ。その目的は、紅葉を女中として迎え入れたいとのことだった。
全ては伍助の筋書き通り。伍助は紅葉にその貴族の女中になることを勧めた。
だが紅葉は、伍助の提案に迷いを抱いた。
ここまで自分を育ててくれた親に恩返しをしたい。その想いは変わらずとも、あれだけ求婚を断っていた父親が急に男性と近く接するような機会を与えてきて、違和感と疑問を抱いたのだ。
迷いに迷った末、紅葉は母親である花田にその選択肢を委ねようとした。
しかし花田は、娘に対してこう言った。「紅葉。それは貴女の未来が左右される話です。親に答えを求めようとせず、自分が正しいと思ったことを選びなさい。それがどういう結果になろうとも、私は母親として貴女のことを愛し続けますよ」と。
娘に対する自分の意思を伝えた花田の表情は、子を想う母親の笑顔そのものであった。紅葉は母親の温かい気持ちに報われたような気がした。
母親の愛情と想いを身に染みる程に感じた紅葉は、それ以降は誰にも頼ることなく、自らの意思を持って迷いに迷った。
それから数日して、ようやく判断を下した。紅葉が選んだのは、父親と母親の安寧のために貴族の女中になる道であった。
そして紅葉は、来訪してきた貴族である源経基の女中となった。
紅葉は経基の女中となった日から、一番の才覚である琴を披露する機会が多くなった。美しい音色を響かせる彼女の技量によって大勢の人々から注目を浴びることとなり、それが縁を得る機会となった紅葉は、経基の大奥の一番女中にまで出世を果たした。
出世を果たした娘の朗報を聞き、伍助は諸手を挙げて喜んだ。
しかしそんな父親に対し、花田は素直に喜べずにいた。しばらく出会えていない娘が今どんな顔をしているのか、母親として娘の身を心配していたからである。
両親がそれぞれ様々な想いを抱く中、紅葉が経基の一番女中となって働くこと数年。ついに経基が妻を迎え入れるという話が噂となって広がり始めていた。
経基が伴侶として選ぶ対象者は、経基に遣える女中の内の誰か一人。つまりその候補の中には、紅葉も当然含まれていた。
長い年月が過ぎ、ようやく念願が叶う時。伍助はこの機会を見逃すわけもなく、絶対に紅葉を経基の妻にしてみせると、確実に紅葉が選ばれるように“とある計画”を企んだ。
妻として選ばれるのは、女中の内の一人だけ。つまり、紅葉以外の女中が少なくなれば少なくなるほど、紅葉が妻として選ばれる可能性が高くなる。いや……紅葉以外の女中がいなくなってしまえば、間違いなく紅葉が選ばれる。
己が欲に飲まれた伍助は、それが人ならざる非情の手段だと分かっていながらも、迷うことなくその計画を進めた。全ては自分が大金持ちとなり、一生裕福に暮らせる日々を手に入れるために。
そして、伍助が企てたその計画とは――例の呪術師の手を借りて、紅葉以外の女中全員を呪い殺すことだった。
娘と妻には露見せぬよう、伍助は密かに呪いの儀を行う準備を進めた。呪いのために必要となる女中の髪の毛をあらゆる手段を用いて手に入れ、ついに伍助は呪い殺す対象者全ての女中の髪の毛を集めるに至った。
誰もが寝静まった深夜に、伍助は呪いの儀を行った。半日掛けて行われた呪いの儀は功を成し、呪いの儀を行った翌日に呪いの効果は発現した。
突如、紅葉以外の女中全員が同時に病に倒れた。当然の異常事態に都は荒れ、明らかに異様な出来事であったことから、経基はこの出来事を事件として調査を行った。
その調査の結果、疑われる羽目になったのは……他の誰でもない、唯一病にかかっていない紅葉であった。
無理もなかった。経基が妻を選ぶ時期を見計らっていたかのように、女中達が病にかかった。あまりにも露骨過ぎたがために、偶然などという言葉で済ませられなかった。
無論、紅葉は自分の潔白を証明するために反発した。自分は何もしていない、自分は何も関係していないと、根拠のない言葉ばかりを口にした。誰の仕業なのか、そもそも誰の仕業でもない可能性から、彼女はそういった言葉しか言えなかったのだ。
だが、紅葉の言葉を信じる者はいなかった。信じるに至らなかったのは無論のこと、女中が病にかかる時期が露骨過ぎたから。
しかし大きな要因となったのは、それだけではなかった。むしろ、もう一つの要因こそが、紅葉が信用に欠ける女性であると物語っていた。
紅葉は、あの第六天“魔王”に祈祷したことによって生まれた存在。世に魔王と恐れられているあの織田信長の加護を得て生まれた存在であることから、いつしか紅葉は都に住む全ての者から、こう呼ばれるようになった。
『妖怪』――と。
紅葉は両親である伍助と花田の二人と共に、都を追われる立場となった。経基の手によって指名手配にされてしまった紅葉達は、もう二度と都に戻れる立場ではなくなってしまった。
億万長者への夢を呆気なく断つことになってしまった伍助は、娘である紅葉を恨んだ。自分が犯した罪を棚に上げ、お前が失敗さえしなければこんなことにはならなかったのだと。
今まで“道具”として紅葉を愛し続けてきた伍助は豹変し、都に追われながらも憎しみの念を込めて紅葉を殺そうとした。だがその前に都の追っ手に追い付かれてしまい、一人逃げ遅れた伍助は都へと連行され――処刑された。
紅葉は愛する父親に見捨てられたことにより、虚無のような存在になり掛けた。ずっと慕い続けてきた父親。自分を愛していると言い続けてくれていた父親。自分にとって全てであると言っても過言ではない存在に、見限られてしまった。その出来事が、紅葉の心を崩壊させてしまっていた。
だが、紅葉はまだ一人ではなかった。偽りの愛情を注いでいた父親だけではなく、今の紅葉のすぐ傍には、本当に心から愛してくれている花田という存在があった。
花田は誓いを立てた。たとえ自分の身に何が起ころうとも、この子だけは必ず守り抜くと。この子だけは幸せの日々に戻してみせると。
都を追われ続けた二人は、元々住んでいたあの村へと訪れた。
紅葉が妖怪であるという噂は、既に国全体に広がっていた。だが村の人々は、その噂を耳にしていながらも紅葉達を村に迎え入れた。
花田は皆へ感謝の意を抱き、再び村で貧しい生活を送り出した。女性一人で家庭を支えるには難しい世であったが、元々要領が良かった花田は比較的平和な日々を紅葉と共に過ごした。
村で暮らし始めた頃、紅葉は廃人と化してしまっていた。だが花田の支えが心の安らぎとなり、次第に紅葉の心は元へ戻りつつあった。
その後、ようやくして紅葉は傷付いた精神を回復させ、花田と共に懸命になって共に働くようになった。新たに抱いた、たった一つの夢を叶えるために。
それは、もう一度都に戻り、自分を救ってくれた母親に裕福な暮らしをしてもらうこと。お金に困らず、幸せだったあの時間を取り戻したいと、紅葉は心に固く誓った。
だが……その貧しくも幸せな時間さえ、長く続くことはなかった。
ある日のことだった。いつものように朝早く起きて外に出た時、数え切れない多くの兵士達が家を取り囲んでいた。
兵士達の正体は、経基に遣える者達だった。経基は長い期間を掛けて紅葉達が逃げ隠れた村を特定し、各地に遣いの使者を出していたのだ。
だが、紅葉達を発見するのに決定打となったのは――紅葉達が住む村の人々による告げ口だった。
村の人々が紅葉達を受け入れたのは、決して良心的な行為ではなかった。指名手配された紅葉達の居場所を特定した者は、経基によって報酬金が手に入る。つまり村人達は、その莫大な報酬金のために紅葉達を騙していたのだ。
村に来てすぐ告げ口をしなかったのは、この村は安全で信用できる場所であると信じ込ませるため。紅葉達は最初から、村の人々の掌の上で踊らされていたのだ。
迫り来る兵士達を見た瞬間、花田は単身で兵士達に飛び掛かっていった。紅葉が逃げる道を作るため、決して叶わないと分かっていながらも、何もせずただ娘が都へ連行されていく姿など見たくなかったから。
そうして花田は愛する娘を守ろうとして――数多の槍が花田の身体を貫き、紅葉の目の前で真っ赤な血に染まった。
「生きて……」と、それが花田の最後の言葉。花田は息を引き取り、重い瞼をそっと閉じた。
「あぁ……ぁぁぁ…………」
紅葉の視界が真っ黒に染まる。
「ぁぁぁ……ぁぁぁぁぁっ……」
母親が、死んだ。無残にも、呆気なく、何もできずに死を迎えた。迎えさせてしまった。
紅葉の頭の中に、たった一つの感情が絡みつくように渦を巻く。
ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。幾度となくその感情は膨張し、大きく膨らんでいく。
そして、紅葉の全てがその感情に支配された時。感情は、爆発した。
「ア゛ァあァアアあ゛ぁああ゛っっっ!!!!!」
憎い、憎い、憎い。紅葉はただそれだけの言葉を、何度も頭の中で念じるように繰り返した。
――此方を道具としか見ていなかった父親が憎い!!
――此方を信じてくれなかった都の連中が憎い!!
――此方を都に売った村の人々が憎い!!
――此方の母親を殺した兵士達が憎い!!
――この世の人間の……全てが憎い!!
凶暴な狂犬の如く、身体中から悲鳴のような奇声が上がる。紅葉の視界は真っ赤に染まり、華奢な身体がメキメキと軋み出す。
口から鋭い牙が生え、頭から強靭な三本の角が生え、見る見る内に身体が膨張して巨体となる。
その姿は紛れもなく、鬼そのもの。紅葉は変わり果てた自分の姿を一瞥し、憎き兵士と村の人々達をギロリと睨み付けた。
もう紅葉を人間として見るものはいない。唯一紅葉を人間として見てくれていた母親はもういない。
一人になったことを自覚した紅葉は、泣き叫ぶように奇声を上げて兵士達に襲い掛かった。
抵抗する兵士達は、刀や槍、火縄銃を駆使して応戦した。しかし紅葉の皮膚に触れた武具は悉く打ち砕かれ、鉄の銃弾は紅葉を貫くことなく跳ね返される。やがて兵士達は一人残らず血祭りにあげられ、次に狙われたのは村の人々だった。
逃げ惑う村の人々は、まるでボロ雑巾のように身体を引き裂かれ、またある者は握り潰され、またある者は食い千切られた。中には許しを請う者もいたが、紅葉は命乞いする者の命さえも奪い去った。
相手が女であろうと子供であろうと容赦せず、たった数刻でその村にいた人々は全て亡骸と化した。骨をも残さず大勢の人々を殺めた紅葉は、都にいる者の全てを殺すため、亡骸となった母親を抱えて村から姿を消したのだった。
その後、紅葉は各地に天変地異を引き起こすも、観音様の加護を受けた一人の将軍によって首を跳ねられ、この世を去ることになった。
母親を殺されたことから始まった最悪で災厄の悪夢。人々は後に、鬼人と化した紅葉という存在をこのように言い残した。
厄災の鬼女――『紅葉狩』と。
〜※〜
その後、人間の手によって討ち取られた紅葉さんは、人間の頃の姿に戻った状態でこの世界に転生した。人間ではなく、妖怪の身となった状態で。
以前、氷麗さんから自分達の過去を打ち明けらえた時、俺はかなりの衝撃に身体を震わせていたことがあった。
でも、今回はその比じゃなかった。想像を遥かに上回り過ぎていて、本当に現実に起こり得る話なのかと耳を疑った。
だが、紅葉さんの話は本当のことだった。確証はないけど、憎しみだけが映し出された紅葉さんの目が、嘘みたいな信じ難い出来事を事実であると断言していた。
手に持っていたガラスコップが抜け落ち、ガラスの破片と化したコップからオレンジ色の液体が小さな水溜まりとなって零れ落ちた。
「す、すまないお客人。やはり不愉快な気分にさせてしまっただろうか? 本当に申し訳ないことを口走ってしまった」
「あわわっ、早く片付けないと! 怪我してないッスかお客様!?」
「大丈夫……です」
いつの間にか声が枯れていて、身体中から力が抜け落ちていた。
紅葉さんが憎んでいる人間の代わりに、俺が代弁して謝る。紅葉さんの話を聞く前に、そんなことを考えていた。
でも、紅葉さんの話を聞いてよく理解した。いや、本当は分かっていた、分かってはいたが、彼女の過去は謝って済むような問題ではなかった。
軽はずみな謝罪は、紅葉さんの憎しみをより増長させることになるだろう。どれだけ心を込めて頭を下げたところで、紅葉さんが人間を許すことはないのだから。
出会いを重ねて多くの人間達と繋がりを結んでいた。きっとその日々は充実していて、優しい両親達と共に幸せな日常を過ごしていたんだろう。その時のことを語る紅葉さんは、本当に良い顔をしていたから。
でも……最後に彼女は裏切られた。仲の良い友達や、自分を慕ってくれていた男性達。村の人々に、都の人々。そして、娘として自分を愛してくれていると思っていた父親にさえも。
信じていた者達全てに裏切られ、無実の罪を着せられ、最後には唯一の希望であった母親を目の前で殺された。
その時の紅葉さんの憎しみの感情は、どれだけ膨らみ切っていたのだろうか。本気で誰かを憎んだことのない俺にはとても分からなかった。
「顔色悪く見えまッスよ? 仮面被ってるから見えないッスけど」
「いえ、本当に大丈夫ですよ。それじゃ、そろそろ僕達は行きますね」
今まで比較的平和な日常しか過ごしてこなかった俺には、彼女の憎しみを取り除いてあげることなんてできない。これ以上彼女の傍にいたら、このやるせなさのせいで頭の中がどうにかなってしまいそうだ。
代金をテーブルに置いて、火だるまになった河童を背中に担ぎ上げて立ち上がる。
「もうお帰り? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「いえ……少し考えたいことがありまして。今日はもう帰ります」
「ほ、本当にすまないお客人。お詫びと言ってはなんだが、ここの代金は此方に肩代わりさせてはくれないだろうか?」
「気にしないでください紅葉さん。僕は本当に何ともないですから」
首を左右に振り、重く感じる足を動かして出口へと向かう。
俺はもう、紅葉さんの顔が見れなくなっていた。何もできない自分の無力さを痛感し、申し訳ない気持ちで身が引き裂かれそうだったから。
「……ん?」
後数歩で店を出るといったところで、また新たに一人の妖怪が暖簾をくぐって来た。
修験者のような恰好をした、真っ赤な身体に長い鼻の男。その姿は紛れもなく、“天狗”そのものだった。
「あら、いらっしゃい」
「…………」
少し頭を下げて解釈をし、何も言わぬ天狗の隣を素通りして店から出ようとする。
そして、天狗とすれ違った瞬間だった。咄嗟に腕を掴まれ、何を思ってか俺を引き止めて来た。
「……あの?」
「何か僕に用でしょうか?」と立て続けに言おうとしたところで、咄嗟に口を閉じた。
「紅葉」
只ならぬ威圧感を放ちながら、天狗は紅葉さんの名を呼んだ。
「おぉ、親方殿か。其方が酒屋に来るとは珍しいな」
どうやら紅葉さんの知り合いだったようで、“親方”と呼ばれる天狗は紅葉さんに目を向けながら、俺の腕を握る手に力を込めて来た。
「怠慢であるぞ、紅葉。私は常日頃から周りに気を張れと伝えていたはずだ」
「……? 何の話をしているのだろうか?」
背筋が凍り、つぅっと額から一雫の汗が滴る。
俺の勘が告げていた。「今すぐここから逃げろ」と。
「この者、人の子であるぞ」
「っ!?」
紅葉さんが立ち上がった瞬間、天狗の手を強引に振り払い、店の外に出て全力で駆け出した。
手を振り払ったと同時に、いつの間にか仮面を剥がされて素顔が曝け出させる。
一瞬だけ尻目に後ろを見やると、眼球を見開いている紅葉さんの姿があった。
初めて熊風と遭遇した時の光景がフラッシュバックし、強大な畏怖の念が俺の何もかもを支配する。
「奴は先程の……貴様ァァァ!!」
悲鳴が上がりそうになるのを堪えると、憎悪が憤怒となったような耳を劈く怒声が周囲に響き渡った。
全力疾走で逃げるものの、今の俺は背中に若頭を担いでいる上に、あの俊足の足から逃げられるはずがない。数秒もしないうちに、すぐ背後まで追い付かれてしまった。
「うあ゛っ……!?」
後ろから足を払われて、身体のバランスが前に崩れる。顔から地面に倒れそうになったところで足首を掴まれ、身体ごと上に振り上げられて背中から地面に思い切り叩き付けられた。
少し目を離した隙にいつの間にか若頭の姿はなく、しかしミシミシと軋む背中の痛みで若頭を確認するどころではなかった。
「何処に消えたのかと思いきや、まさか多くの妖怪が住み着くこの町に潜伏していたとはな。灯台下暗しとはよく言ったものだ」
既に紅葉さんからは、あの優しかった表情が消えていた。今の俺に向けられているのは、初対面で見せていたものよりもより濃くなった、殺意だけが剥き出された憎しみの眼差しだった。
「素早いといっても所詮は人間。その脆い身体では立ち上がる余裕もないだろう。今度こそその首を跳ね飛ばしてやる」
左手に持った鞘から刀を抜き、切っ先を俺の鼻の先に向けて来る。もう、逃げられない。
「待って……待って紅葉さん……俺は――」
「遺言を聞くつもりはない。去ね」
無慈悲に刀が振り上げられ、死の足音に反応して身体が委縮する。
「待て、紅葉」
今度こそ殺されると目を瞑った時だった。またいつの間にか消えていた若頭を脇に抱えた天狗が、刀を振り下ろそうとした紅葉さんを呼び止めた。
「何か? 今は止めないで頂きたいのだが」
「……やはり貴様は良心的な女子であるな、紅葉。首を跳ね飛ばすことで、その人間を楽に殺そうとしているのだからな」
「何が言いたい? はっきり言ってくれ親方」
「貴様が本当に心の底から人間を憎んでいるのなら、その者を楽に死なせるなと言っている」
「そういうことか。生憎だが、此方に拷問の趣味はない。即座に殺し、一刻も早く地獄へ叩き落すのが此方のやり方だ」
「そうか……貴様がそれで良いと言うのであれば、私は貴様の意を尊重しよう。好きにやれ」
「ふんっ、言われるまでもない」
二人の話が終わり、再び紅葉さんの刀は天高く振り上げられる。
「待ちな、そこの嬢ちゃん」
「……今度はなんだ」
またもや俺を殺める行為を止められたことにより、紅葉さんは若干の苛立ちを声にして出す。
紅葉さんを呼び止めたのは、天狗の脇に抱えられたまま具合悪そうにしつつも、葉巻代わりにキュウリを口に咥えた若頭だった。二人が話をしていた間に意識を取り戻していたらしい。
若頭は身じろいで天狗の脇から脱出すると、ふらついた足取りで歩いて紅葉さんの目の前で止まった。
「そいつを殺す前に、まずは俺の話を聞いちゃもらえないか」
「悪いが、それは後にしてくれないだろうか。此方も其方には色々と聞きたいことがあるのだが、今はそれよりもだ」
「フッ……どうしても駄目と言うんだな?」
「すまぬな。だがすぐに終わることだ。少しの間だけ待ってもらえればすぐに済む」
「……なら、仕方無い」
と言うと、若頭は右手を口の中に突っ込んだ。
「おぼろしゃぁ!!」
そして、大量のゲロを紅葉さんの顔面にぶちまけた。
誰もが口を開いて唖然とし、微動だにせずに固まる。そんな中で若頭一人だけは、皆を置き去りにするかのように次の手を打った。
「ダンディに沈みな……尻子玉スモーク!」
甲羅の中に手を突っ込んで汚い色をした小さな玉を取り出すと否や、地面に叩き付けるように投げ捨てた。瞬間、辺り一帯が煙幕に包まれ、同時に異常な腐臭を誇る河童のゲロの匂いが皆の嗅覚を刺激した。
「臭っ……くっ!? 紅葉! 無事か!?」
煙幕の中で天狗が紅葉さんに呼び掛けるが、ゲロ本体をフォー・ユーされた彼女に言葉を返す余裕はなく、その場に立ち尽くしたまま動かなくなってしまっていた。
「世話の掛かる奴だ。逃げるぞ弥白」
「あ、ありがと若頭!」
「フッ……ナイスダンディだろう?」
「いや臭いわ。あんまり顔近付けないで」
動けなくなった俺を肩に担いで逃げ出す若頭。
助けてくれたことには感謝感激だけど……手段が手段なだけに、格好良さだけは決して評価できなかった。




