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酒呑童子防衛軍結成のために

 怪我が治るまで安静な場所で休む。元々そういう条件で俺はこの場所にやって来たはずだった。


 なのになんで? なんでこんなことになってるの? 休むどころかまた命の危険に晒されるだなんて聞いてない。


 憧れの三大妖怪の一人である玉藻前。過去に多くの男を弄んだ伝承のある妖艶な妖怪と聞いていたけど、あれは既に弄ぶという次元を超えている。


 弄ぶ=人間的な死。それがあの人にとって弄ぶという本当の意味。次に捕らわれたが最後、俺は肉体も精神もあのどサド悪魔に支配されて人間犬に……。


 そんな悲惨な末路を避けるために、男勢の鬼屋敷に避難して来た俺達は、真っ先に温羅兄の部屋に身を匿ってもらった。


 落ち着いた……と思いきや、ついさっきの出来事が俺の身に恐怖を刻み込んでいたようで、悪寒と共に身体の震えが止まらなくなった。


「雪羅さんや……どうか俺を安心させておくれ……」


 癒しを求めて雪羅に抱き締めてもらうも、ひんやりとした体温が余計に俺の身体を震わせた。


「大丈夫よ弥白。この先どんな罪を犯そうとも、私が必ず守り通してみせるわ」


「じゃあまず冷気を収めて欲しいんだけど……さ、寒いっ」


「ご、ごめんね。今解くから」


 雪羅が肩の力を抜くと、周囲を漂っていた冷気が消えた。雪羅の人肌も暖かくなり、優しい温もりに包まれた俺は恐怖心を打ち消すことに成功した。


「やれやれだぜ全く……テメェが玉さんに余計なこと吹き込んでいたせいだぞ脳筋。少しは言動に気を付けろってんだ」


「私は何も吹き込んでないわよ! あんたが以前に主様の投擲力を暴露していなかったら、主様があんな危険な目に合うはずもなかったのよ!」


「う、うっせぇ! まさかあの人が坊まで巻き込むとは思ってなかったんだっつの! あの人のキチガイな思考回路を理解し切れていなかった俺達の責任だろうが! 俺だけに責任を押し付けてんじゃねぇよ!」


「こんな時まで喧嘩は止めてよ二人共。今は仲間同士で争ってる場合じゃないってば」


「うっ……も、申し訳ありません主様」


 俺が仲裁役として横槍を入れたお陰で、いきり立っていた二人の熱が冷めてくれた。


 でも今度は桜華さんが急に頭を下げて来て、畳の上に頭と二本の角を擦り付けた。


「本当に……本っ当に申し訳ありませんでした主様! それに雪羅さんも申し訳ありません! 私の配慮が至らず、主様を危険な目に晒してしまいました! この罪はどう拭っても拭い切れません!」


「いやいや、なんで桜華さんが謝るのさ? むしろ桜華さんは被害者でしょ。それに俺が危ない目に遭ったのはどう考えても温羅兄のタレコミのせいなんだし、仮に俺が恨むとしたら温羅兄一人だけだよ」


「そうよ。貴方が弥白の情報を流していなかったら、こんなことにはなっていなかったのよ」


 雪羅が温羅兄の頭を片手で鷲掴んで軽々と持ち上げ、アイアンクローで頭蓋骨を軋ませる。


「ぐぉおおお……け、結局俺のせいなのかよ!? つーかテメェ、その華奢な身体の何処にこんな怪力仕込んでんだ!?」


「私は怪力無双のお父さんの血を引いているのよ。貴方の頭蓋を砕き割ることくらい、その気になれば造作もないことよ」


 そう言いながら更に手に力を注ぐ雪羅。


「おい坊! この病み女どうにかしろ! マジで俺の頭割れんぞ!」


「ん~……むしろ一回だけ割っといて、新たな温羅兄に生まれ変わった方が良くない? 一周回って良人になるかもだし」


「あ、それ良いですね。ならいっそのことあのまま割ってもらいましょうか」


「この薄情者共がぁ!! ぐぎゃぁぁぁ……」


 悪役の最後のような悲鳴と共に温羅兄の頭蓋から嫌な音が聞こえてくると、白目を剥いて泡を吹き出しながら気絶した。


 雪羅は無造作に温羅兄を投げ捨てて、俺達の元に戻って来て座った。


「それで、この後どうするの弥白? このままあのどサドを放置しておくの?」


「いえ、それは得策とは言えません雪羅さん。お母さんは一度スイッチが入ってしまうと誰にも手が付けられなくなるんです。恐らくですが、何らかの手を打ってこちらの方に攻め込んで来ると思います」


 でも仮に攻めて来たとしても、向こうの戦力はコン子ちゃんと玉さんの二人だけ。戦闘力は底知れない化け物レベルだけど、こっちの戦力の数さえ揃えることができれば何とかなる可能性が高いかもしれない。


「でも見たところ、どサドの戦力は本人含めたあの二人だけのようだったけど? それでも桜華は危険視するの?」


「……はい。逆に言えば、お母さんはコン子ちゃんとの二人だけで今まで鬼勢と渡り合っていたんです。そんなお母さんが本気になってしまえばどうなるか……恐ろしくて想像したくもありません」


 そう言われればそうだった。数でどうにかなる問題でもなかった。


 もし本当に攻めて来たらどうしよう? こっちには桜華さんや温羅兄、そして一番頼りになる雪羅がいるけれど……正直この三人だけじゃ押し切れると思えない。


「……仕方ありません。こうなったら、お父さんをどうにか説得するしかありません」


「お父さんって、酒呑童子のことだよね。そもそも酒呑童子は今何処で何してるか知ってるの?」


「勿論です。主様にも予想はできていると思いますが、きっと今も部屋に閉じ込もってお酒を飲んでいるかと」


 説得して協力を仰ぐ。口ではいとも容易く言えることだけれど、正直俺は無理だと思う。


 何せ、仕事の一つすら満足にできずにサボって酒を飲んでるような人なんだ。ただでさえ面倒事な上に危険が伴う修羅場なんだし、そんな人がわざわざ出向いてくれるとは到底思えない。


「脳筋……どちらにせよあのクソ親父は戦力にはならねぇよ……」


 すると、息絶えていたはずの温羅兄が瀕死状態になりながらも立ち上がって来た。


「ホント無駄に頑丈よねあんた。というかどういう意味よそれ? あんな酒飲みジジィでも、腕っぷしだけは相当なものじゃない」


「……桜華。テメェ最後に親父と会ったのはいつ頃だ?」


「え……? え~と、確か今年の春頃に一度顔を見たくらいかしら」


「なら知らねぇのも無理は無ぇってことだな。テメェらちょっと俺について来い。親父のところに案内してやる」


「え? 本当?」


 立て続けにもう一人の三大妖怪との顔合わせの機会がやって来るとは思わなんだ。でも玉藻前という前例がアレだったし、正直今は三大妖怪にあまり良い印象が持てなくなっちゃってるよ。


 それに、今の温羅兄の言葉が妙に引っ掛かる。桜華さんの知らないところで酒呑童子に何かがあった、とでも言いたげな感じだった。


 職務放棄、酒への依存症、そして引き籠もり。恐らくこの三つがその謎に関わってると見受けられるけど……はてさて、一体何が起こっているのやら。


 温羅兄の後に続いて部屋を出て行き、長い廊下を歩いて酒呑童子がいるらしい一室へと向かう。


 少しして見えた階段を上がり、また長い廊下を進んで一番奥の間へとやって来る。その襖は如何にもラスボス感が溢れていて、この先に鬼の長がいますよと言い表したような派手なデザインだった。


「入るぞ親父」


 ノックもせずにただそれだけ言うと、温羅兄は襖を開いて中へと入った。


「んなっ!? お、お父さん!?」


 俺達も後に続いて部屋の中に入る。すると、すぐ近くに座っていた酒呑童子を一目見て、思わず桜華さんは口をあんぐりと開いていた。


 俺としての酒呑童子のイメージは、あの熊風に引けを取らない筋肉質な巨体。長らしい立派な角に、噛み砕けないものなどないと言わせるような牙。それら全てを携えた、天下無双の屈強な鬼だと思っていた。


 だけどそれは俺の思い込みに過ぎなかった。実際に目の前にいる酒呑童子は、徹夜し続けた漫画家のように身体と顔が痩せこけていて、角や牙もぐにゃぐにゃにひん曲がって萎びたキノコのようになっている。背丈も桜華さんと大して変わらないし、三大妖怪としての覇気が全く感じられない。


 これがあの酒呑童子? ただの赤い色したニートのおっさんじゃないか。桜華さんが知らない内に何があったんだこの人……。


「桜華か……久し振りだな。取り敢えず酒をくれ……」


「そんなもやしみたいな身体になった人に差し出す酒なんて無いわよ! 何があったらそんなことになるのよ一体!?」


「これか……これはだな……なんか気付いたらこうなってた」


「あんな超巨体だった人が数ヵ月でこれって、絶対何かしらあった証拠でしょ! 言いなさいよ正直に!」


「いや違ぇ、マジなんだ桜華。俺も日に日に縮んでることは薄々感じてたんだけどよ。これはマジで自然現象による結果なんだよ」


「そ、そんなことって……」


 目の前にいる実の父親の変わりようを見て、桜華さんは眉間を摘みながら俯く。


「こいつはあくまで俺の憶測なんだけどよ……親父がこんな感じになっちまったのは、ストレスが一番影響してると思うんだよ」


「いやいや温羅兄、それは流石に無理があるでしょ。ストレスだけでこんなことにならんでしょ普通」


「……坊。親父のストレスの元凶は間違いなく玉さんだ。それでもテメェは無理があると解くのか?」


「……ごめん」


 そう言えばこの人は玉さんに一番振り回されている当事者だった。色々聞きたいことは山ほどあるけど、壮絶な過去を思い出させるようなことは無粋だろう。何より酒呑童子が可哀相だ。


「実は俺もしばらく親父とは顔を合わせてなかったんだが、まさかこんなことになってるたぁ思ってなかった。こりゃ完全に誤算だぜ。しかもタイミングの悪いことに、向こう側はいつ襲って来てもおかしくないくらいに殺気立ってると来たもんだ」


「つまり、この劣勢の中で攻めて来られて敗北することは、火を見るよりも明らかってことね。やっぱりさっきの時に仕留めとくんだったわ……」


 物騒なことを言いながら口を尖らせる雪羅。


 肝心の大将がこれで、しかも部下の鬼達もコン子ちゃんの手によって壊滅状態。この機を逃さずに攻めて来られたら間違いなく終わりだ。


「取り敢えず、今すぐ立ってお父さん。今この場にいるのは危険なのよ。色々あって、いつお母さんが攻めて来てもおかしくないの。今のお父さんじゃ太刀打ちできないでしょ?」


「……いいんだよもう……どうせワシは玉の手の平の中で死ぬんじゃ……今更逃げても無駄だろ」


 身体だけじゃなくて精神面も貧弱になっちゃってるよ。何処となく背景に黒ずんだ負のオーラみたいなものも見えるし、これはもうどうしようもないや。


「悲観的になってないでとにかく立ってよお父さん!」


「知るか……ワシは死ぬんじゃ……もう放っておいてくれ……」


 桜華さんが無理矢理立たせようとするが、酒呑童子はテコでも動こうとしない。この分だとここから避難させるのも無理か。


「どうする弥白? いっそ気絶させて運び出す?」


「いや、それだと雪羅が酒呑童子を討ち取ったことになっちゃうでしょ。それとその物騒な考え方は極力控えるようにね?」


「うっ……ご、ごめんなさい」


 さて、本当にどうしようか。頼みの綱の酒呑童子がこれだと、残された戦力は俺達だけ。できることなら望み薄な実力行使の暴力は避けたかったんだけど……止むを得ないのかなぁ?


「……仕方無ぇ。こうなったら、援軍を頼むしかねぇな」


 思わぬ温羅兄の企みに、俺達は目を丸くして顔を上げた。


「援軍って、そんなアテがあるのあんた?」


「まぁな。可能性は極めて低いが、味方につけることができりゃ相当な戦力だ。それに、交渉を円滑に進めるための秘策も一つだけ考えてある。こうなった以上はもうこれに賭けるしかねぇだろ」


 温羅兄の秘策……ねぇ。


「ぶっちゃけ疑わしいよね。温羅兄の考えることってまずロクなことじゃないでしょ」


「……そう言われるとそうですね。真に受けた私が浅はかでした」


「ゲスに生命線を預ける愚か者なんてここにはいないわ。やるなら貴方一人でやってよ」


「テメェら……そんなに俺が信用ならねぇのか?」


「「「うん」」」


 満場一致だった。


「よしもう分かった、ならもうテメェら女勢には今後一切協力を仰ぐようなことはしねぇ! それにこれは元々、男勢と女勢とで対立して巻き起こった合戦だ! 男の意地ってやつを舐めんなよ薄情女共が!」


 全く期待されていないことに憤りを覚えた温羅兄は、声を荒げながら俺の手を引いて何処かに行こうと早歩きで歩き出した。


「え? 俺もなの? 俺もいつの間にかこの合戦に巻き込まれてるの? 完全に部外者なのに?」


「馬鹿野郎、玉さんに目を付けられた時点でテメェもあの人のターゲットの内だ。ここで平和的に過ごしてぇなら、俺ら男勢に協力しろ。何だかんだでテメェは頼りになるからな、坊」


 それもそっか。この合戦が終わらない以上は俺も身の危険に晒されることになるんだし、だったら温羅兄に協力して早いことこの合戦を終わらせるのが手っ取り早いかもね。


 本当なら玉さん側に付いて終わらせればすぐ済むんだろうけど……そうなったら酒呑童子がどんな目に合うか分からない。平和的にこの面倒事を解決するためにも、今は温羅兄と組んで事に当たろう。


「ちょっと? 弥白を何処に連れて行くつもり?」


 温羅兄に手を引かれたままこの場を去ろうとしたところ、怖い目をした雪羅が一瞬の間に温羅兄の目の前まで距離を詰めて来た。


「これ以上弥白を危険な目に合わせようと言うのなら、私が今ここで貴方の息の根を止めるわよ?」


「うるせぇ引っ込んでろメンヘラ女! 毎度毎度そんな病んでたら、いつか坊に見限られて捨てられんぞ!」


「誰がメンヘラよ! 私はただ弥白が心配で大切なだけなの! 私を救ってくれた弥白のためなら、私は喜んでこの手を真っ赤な血で染め上げるようなことも平気で――」


「だからそういうところがメンヘラだっつってんだよ! そのままだとマジで愛想尽かれんぞテメェ!」


「だからメンヘラじゃないって言って……だ、大丈夫だよね弥白? まさか弥白も私が病んでるだなんて言わないよね?」


 急に不安な顔になって俺を見つめて来る雪羅。


 そんな彼女に対し、俺はニッコリと微笑み掛けた。


「むしろ雪羅ってメンヘラじゃないの? 一緒に小屋で住んでた時からそういう兆しはあったよね」


「…………え゛っ」


 顔色を一気に青白くさせて、床に両手をつく雪羅。全く自覚なかったらしい。


 本当にヤバい人というのは、自分がヤバい人だと思っていないからヤバい人と呼ばれる。それはメンヘラといったような病んだ人も同じだ。


 メンヘラっちゃメンヘラなんだけど、でも雪羅の場合は未完成型のメンヘラだ。今ならまだ“そっち側”に行かずに戻って来れる猶予がある。俺はその猶予がある内に雪羅が普通の女の子になってくれることを祈っておこう。


 ……まぁ、メンヘラだろうとなかろうと、愛想を尽かすなんてことは絶対あり得ないと自負してるんだけどね。だから俺にとってはそんな深刻な問題でもない。


 ただ、雪羅には相当根深い問題だったようで、項垂れた状態のまま一向に起き上がってくる気配が見受けられなかった。ちょっとストレートに言い過ぎたかも。


「良く言った坊、それでこそ男だぜ。テメェの女とはいえ、強く言うときはガツンと言ってやらにゃぁ変わらねぇもんだ」


「強く言ったつもりはないんだけどなぁ……。ごめんね雪羅、あんまり気にしないでね」


「私が……病んでる……つまり……重い女……ハハッ……ハハハッ……」


「し、しっかりしてください雪羅さん! 大丈夫、人も妖怪も時間さえあれば変われます! 例え雪羅さんが極度の病み女だとしても、これから直していけば何も問題はありませんよ!」


 雪羅の胸に見えない槍がぐさりと突き刺さる。桜華さん、それフォローしてるようで追い打ち掛けちゃってるからね……。


 これ以上にないくらい落ち込んでいる雪羅を桜華さんに預けて、俺は温羅兄の後に続いて屋敷の外へと飛び出した。




〜※〜




「それで温羅兄、その援軍って一体誰のことなの?」


「河童だ。この先にある湖を根城にしてんだ」


 やけに足場の悪い草道を突き進んで行く温羅兄。こっちは怪我人なんだから、できればもう少し安全な道を行きたかったなぁ……。


 まぁそれはそれとして、まさか援軍の正体があの有名妖怪の河童だったなんて。本当に実在してたんだなぁ河童。でも妖怪が普通にいる世の中なんだし、河童がいてもおかしくはないよね。


「そういや望みが薄いようなこと言ってたよね。やっぱりあれ? 温羅兄の人柄に難があるから、頼みを引き受けてくれるわけもない的な感じだったりするの?」


「テメェは何度俺をディスれば気が済むんだ坊……。そうじゃなくてだな、あいつらは普通の妖怪とはちょい事情が違うんだよ。気難しいというか、妙なものに毒されてるというか……まぁ会えば全部分かることだ」


 気難しい? 毒されてる? 駄目ださっぱり意味が分からない。意固地で頑固者だから話が通じない、とかかな? なんか面倒臭そうな匂いがまた漂って来たような気が……。乗り掛かった船だから放棄はしないけど。


 更に道じゃない道を抜けて突き進んで行き、やがて全体が見渡せる小さな湖がある場所に出た。


 特にこれといって特徴のない普通の湖だ。田舎だからか、水の色は全く汚染されていなくて、神秘的な雰囲気が醸し出ている綺麗な場所。斧でも投げたら女神様が出て来たりして。


「ここに河童が住んでるの?」


「あぁ。でも今は誰も外に出て来てねぇみたいだな。たまに水面に浮かんでダラけてる奴とか見掛けることがあるんだが、今日はハズレみてぇだ」


「じゃあどうするの? もしかして湖の中に飛び込んで探すつもり?」


「それしかねぇだろうな。何処まで深いのか知らねぇけど、行けるとこまで行くしかねぇだろ」


「やっぱりそうなるよね〜……でもごめん温羅兄。俺って実はカナヅチなんだよね。水面に顔を付けることすら怖くてできない水恐怖症なんだ」


「いや水恐怖症て!」


 その昔、俺がまだ幼稚園児時代の頃。あの扱き使い魔がまだ大人しい時に、一度だけ川に遊びに連れて行ってもらったことがあった。しかし俺は初めての川ではしゃぎ過ぎた結果、急に強くなった川の流れに翻弄されて、危うく溺れ死に掛けたということがあった。


 あれ以来、俺は全く水辺に寄り付かなくなった。幼少期に染み付いたトラウマというのは大人になっても続くもので、今も泳ぎに関しては一切関わりを持っていなかったりする。


「なら顔洗う時とかどうしてんだよ!?」


「いやそれは大丈夫。そういう感じじゃなくて、深めの水限定で駄目なんだよね。プール授業とか大っ嫌いだもん俺。授業ある度に仮病使って休んでたくらいだし」


「そこまでか……ったく、仕方無ぇなぁ。なら俺が一人で見てくっから、テメェはここで待機してろ」


「は〜い」


 温羅兄は着ていた着物を脱ぎ捨てて褌姿になると、最近気温が冷たくなって来たことにも関わらず、冷たい湖の中に飛び込んで行った。


 さて、温羅兄が河童を見つけ出すまで暇な身になってしまった。何か退屈凌ぎになるものはないかなぁ?


 落ちないように気を配りながら湖に沿って歩き、あちらこちらと目ぼしいものはないかと辺りを見渡す。


 しかしこれといって目に付くものが見つからず、元の場所に戻って座り込み、ぼ〜っとしながら湖を見つめる。


 ……おっと、丁度良いところに丸い小石が。仕方無い、久し振りに投擲力を鍛えるために運動でもしようか。


 折れてる左腕のせいで、今の俺に激しい運動は無理。だから今から俺がやるのは水切りだ。


 本来は子供の遊びとして行う遊び。しかし俺のように投擲力を極めたものが水切りを行うと、ただの遊びが一種の兵器に化すことがある。さて、腕は鈍ってないだろうか?


 小石を持って立ち上がり、腰を低く落として右腕を大きく後ろに振り被る。


 ゆらりゆらりと風が吹く中でそっと瞼を閉じ、耳を澄ませながら息を深く吸う。そして風の音が止んだ瞬間、「ていっ!」という掛け声と共に小石を解き放った。


 しかし投げた瞬間、付近に落ちていた大きな落ち葉に足を取られてしまい、バランスを崩したまま明後日の方向に思い切り小石を投げてしまった。


 小石は青空目掛けて飛んで行き、偶然近くを飛んでいた鷹に激突。突然の空襲に鷹は怯んでしまい、目を回しながら真下へ真っ逆さまに落ちていく。


 その真下には偶然にも、湖の水を飲みに来ていた一匹の鹿がいた。鷹はそのまま鹿に向かって落ちて行き、(くちばし)から鹿の頭に落っこちた。


 頭に鷹の嘴が突き刺さった瞬間、予想だにしていなかった痛みに鹿がその場で暴れ回り、凄い勢いで一本の木に向かって走り出した。


 鹿は木に向かって鷹ごと頭突きをかまし、元々斜めっていた木がゆらりと揺らいだ。そしてそのままゆっくりと木が倒れて行き、隣にある木に衝突した。


 木が木に衝突したことによって連鎖が生まれ、次の木、また次の木へと衝突しては、ドミノ倒しのように倒れて行く。


 やがて周囲一帯の木が倒れてしまうと、真正面に見える最後の一本が湖に向かって倒れて行く。俺は唖然としたまま目を丸くして、うつ伏せに転んだ状態のまま黙って木が倒れて行くのを見つめていた。


「お〜い坊。連れて来たぞ河童〜」


 タイミングが良いのか悪いのか、温羅兄が河童らしき人と共に湖の中から顔を出して来た。


「「ん?」」


 水面に映る大きな影に違和感を抱き、二人は同時に後ろに振り向いた。


 瞬間、悲鳴を上げる暇もないまま、二人の脳天に木が直撃。物凄い地響きと水の爆音が鳴り響き、上に跳ね上がった湖の水が雨水となって周囲に降り注いだ。


 お陰で俺も全身びしょ濡れ。しかしそんなことを気にする暇もなく、木の下敷きになった温羅兄達を黙って見つめることしかできなかった。


 それから数分経った頃。頭の上に巨大なたんこぶを作った温羅兄が、青い顔になりながら湖の中から這い上がって来た。


「おい……悪戯ってレベルじゃねぇだろこれオラァ……」


「いや違うんだよ温羅兄。俺ついさっき奇跡の連続を垣間見てさ。恨むなら俺じゃなくて、俺の悪運を恨んでよ。じゃないと俺も納得いかないよ」


「知るかぁ!! こちとらテメェのお遊びで溺死するところだったんだぞ!? 人をおちょくるのも大概にしろ隠れサド野郎!」


「だから違うんだって温羅兄。これはピタゴライズムという偶然の産物によって巻き起こってしまった不慮の事故なんだよ。誰が水切りで投げた小石がこんな惨劇を生むと予想したと思う? 否、これは偶然に偶然が重なった結果なんだよ。だから俺は罪悪感を感じるどころか、むしろ感銘を受けてるよ今」


「開き直ってんじゃねぇよ! それにテメェのせいで余計に事態が悪化しちまったんだよ! どう責任取ってくれんだこの野郎!」


「……身体で払えと? もしかして温羅兄そっちの気が……」


「そういうことじゃねぇよ!!」


 (まく)し立てる温羅兄とのやり取りに興じていると、水面からぷかりと浮き上がってくる人物が見えた。


 緑色の体色。黄色い嘴。苔色の甲羅。そして散り散りに砕け散った頭の汚いお皿。それは何処からどう見ても、遺体と成り果てた河童の姿だった。


「やっべ、ねぇどうするの温羅兄? 物理的に死なないはずなのに死んでるっぽいんだけど? ねぇどうするの? 生命線のお皿割れてるけどどうするの? どうするの温羅兄ねぇねぇねぇ?」


「うっぜぇわ! まるで俺が主犯みたいな感を出してんじゃねぇよ! どう考えても十割テメェのせいだろうが!」


「いや、あのタイミングで出て来た温羅兄も非があると思うんだ。だから今回のこれはwin-winということで手を打とう? 今や俺と温羅兄は一心同体。生きるも死ぬも同じだよブラザー」


「テメェ程都合の良い野郎は見たことねぇよ! いざとなったら慈悲も無しに見捨てるくせによ!」


「そんなことは置いといて、マジでどうしよっか? このままじゃ俺達犯罪者だよ。やだよ俺この歳で刑務所行くのなんて。行くなら温羅兄一人で行けば良いじゃないのよ! 私は無実よ! 夫とはもう何の繋がりもないわ!」


「誰が夫婦漫才始めようっつった!? ボケてる場合じゃねぇんだよ! それと自然に共犯者扱いしてんじゃねぇよ!」


「……そういうことだったんかぃな」


「「……ん?」」


 口論の果てに、湖の方から聞こえて来た声に我に帰る俺達。


 咄嗟に湖の方に振り向くと、びしょびしょになった黒いコートを来たグラサンの河童が這い出て来た。その背後からもぞろぞろとガラの悪そうな河童達が現れ、辺りを囲まれてしまった。


 さながら彼らの姿は極道そのもの。どうやら俺達は、刺激しちゃいけない妖怪達に喧嘩を売ってしまったらしい。

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