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君のために賭けたいと思った命 後編

 最初は冗談半分のつもりだった。


 いつものように仕事帰りにコンビニに寄り、弁当を買って家に帰る。そんな当たり前の日常の中で、男は氷麗さんと出会った。


「何処かに住める場所はないでしょうか」と、氷麗さんは言った。初対面で顔も知らぬその男に。


 元々人柄が良くて評判だったらしいこの男は、一日だけのつもりで氷麗さんと雪羅さんを家に連れ帰って泊めてあげた。


 だがその後日、氷麗さんは「しばらく貴方の元で居候させてもらえないでしょうか」と申し入れた。


 男は正直焦った。まさか騙されているのではないかと、氷麗さんの良心を疑った。しかしその男は氷麗さんの美貌の前に根負けしてしまい、その申しを受け入れてしまった。


 半信半疑に思いながらも、男は氷麗さん達としばらく日常を共にした。


 あっという間に時は流れ、その時間の中で男は次第に心を開いていった。当然だ。そもそも氷麗さんに騙すつもりなどなく、むしろ人間と交友を深めるために訪れていたのだから。


 男の日常は素朴なものから一変した。氷麗さんを姉のように慕い、雪羅さんを妹のように慕った。元々一人っ子だった男は兄弟や姉妹が欲しい願望があったらしく、三人は本当の家族のように接していた。


 そしていつしか男は、氷麗さんという女性に惹かれていった。


 しかし、その想いは抱いてはいけない想いだった。実は男には、遠距離恋愛中の恋人がいたからだ。


 でも氷麗さん達と日常を共にし始めた頃には、その彼女とはあまり連絡を取っていなかった。だからこそ、男に一つの想いが脳裏を()ぎった。


「バレなければ大丈夫だろう」と。


 男は気を熟して、彼女の存在を伏せたまま氷麗さんに告白しようとした。


 雪羅さんが遊びに行っている間に氷麗さんを呼びつけて、二人きりの状況を作った。そこで一思いに告白しようとしたところ、その前に氷麗さんから話したいことがあると言われて、先に氷麗さんの話を聞くことにした。


 そして……男は知った。知ってしまった。氷麗さん達の正体を。つらら女という妖怪が、今まで自分の元にいたという現実を。


 浮気がバレれば氷柱に貫かれて殺される。つらら女の伝承を否定する氷麗さんの話を耳にしつつも、氷麗さんの言葉を信じずに鵜呑みにしてしまった男は、浮気がバレれば氷柱に貫かれて殺されると恐れを抱いた。


 氷麗さんは人間ではなく、妖怪という異形の存在。それだけで男は氷麗さんに対する信憑性を失わせた。全ては自業自得の結果が、男に大きな誤解を生ませてしまった。


 男は思ってしまった。「殺されるのなら、いっそその前に向こうを殺してしまえば良い」と。


 そもそも氷麗さん達があの時自分に声を掛けて来なかったら、こんなことにはならなかった。自分を魅了した氷麗が悪い。自分には何の罪はない。悪いのは全部妖怪という化け物だ。男は氷麗さん達を逆恨みして、周りの人間の協力を得て氷麗さん達を町から追い出した。


 氷麗さん達がいなくなってから、男の日常は素朴なものに戻った。ようやく平和が訪れたと、男は安堵した。


 しかし、氷麗さん達がいなくなった日から、男は毎晩のように同じ夢――悪夢を見るようになった。自分が氷麗さんと雪羅さんに襲われ、氷柱によって刺し殺される悪夢を。


 無論、氷麗さん達に呪う力などない。それは男が妖怪を気にし過ぎた結果によるもの。だが男はその悪夢を見る原因すら、氷麗さん達に押し付けた。


 それから今までずっと氷麗さん達を探し回り続けた。あの二人を殺せばこの呪いが解けるだろうと、都合の良い憶測を勝手に決め付けて。


 そしてついに男は、今この瞬間に氷麗さんの娘である雪羅さんを見つけた。だから殺そうとした。それだけの話だった。


「あの女をすぐには殺さない! まずはあの女の娘であるそいつを殺してやるんだ! そしたらあの女は俺と同じくらいの苦痛を味わうことになる! そうして絶望に叩き落とされたところを、僕が殺してやるんだ! 僕が今までどれだけ苦しんでいたのか、その身に分からせてやるんだ!」


「…………」


 言葉も出なかった。俺は何も喋ることなく、男が話し続けるにつれて咽び泣き出す雪羅さんの悲しい声を聞いていた。


「酷い……酷いよ……お母さんはただ……兄さんと仲良くしていたいだけだったのに……それなのにっ!」


「黙れ化け物! そうやって嘘泣きしても僕はお前らを許さない! 殺してやる! 今すぐに殺してやる!」


 この涙すらあいつは嘘と言うのか。妹のような存在だった彼女を信じずに、妖怪を悪と言うのか。


 何かがブチ切れる音が聞こえた瞬間、俺は男に向かって駆け出していた。


 俺の突然の行動に反応して、男はボウガンの引き金を引いた。動揺して撃ったにも関わらず、矢は俺の胸辺りに向かって飛んで来た。


 俺はそれを当たる直前のところで右手で掴み取り、投げ捨てて思い切り右腕を後ろに振り被った。


「んなっ!? 素手で掴んで――」


 男の目の前まで踏み込んで懐に入って飛び上がり、胸糞悪い顔面を思い切り殴り飛ばした。


 男の手元からボウガンが落ちて仰向けに倒れる。俺は男の上に乗っかって、ひたすらクソ野郎の顔面を殴り続けた。


 しばらくそのまま殴り続けて、男の顔全体が腫れ上がったところで手を止めて立ち上がった。


「妖怪が悪しき存在だって誰が言った? 氷麗さんがアンタを殺そうとしていると誰が言った? 雪羅さんがアンタを騙していたと誰が言った? 妖怪の俗説や伝承が嘘偽りない本当のことだと誰が言った!? 言ってみろよ!」


「…………人間」


 雪羅さんは咽び泣きながら徐に立ち上がり、後ろからゆっくりと近付いて来た。


「全部あんたのせいだ! あんたがどうしようもない馬鹿げた勘違いをしたせいで、氷麗さんも雪羅さんも一生モノの傷を負ったんだぞ!? ずっとずっとあんたに化け物呼ばわりされたことを気にしながらも、人間の良心を信じ続けていたんだぞ!?」


 後から後から出てくる想いの丈を全て吐き出すように、声に乗せて叫び続ける。


「なんで俗説や伝承を信じてんだよ!? なんで目の前にいた氷麗さんと雪羅さんを信じてやらなかったんだよ!? 二人がどれだけ暖かくて優しい心を持っているのか、長く一緒に暮らしていたあんたも分かってたことなんじゃないのかよ!?」


 声に出すとより二人の辛い気持ちが伝わってくるようで、知らぬ内に涙が溢れ出てきていた。


「二人はただ人間と仲良くしたくてあんたの元に訪れたんだ! でも最初は不安がいっぱいで、本当に仲良くできるのかなって思いながらあんたに声を掛けたんだ! そしたらあんたは二人を迎え入れてくれたんだ! その時の二人がどれだけ嬉しかったのか、俺には想像できないよ! それだけ二人はあんたという存在を信じて感謝していたんだ!」


「だけど」と、俺は続ける。


「あんたは二人の想いを踏み(にじ)った! つらら女だから殺される! 妖怪だから信じられない! そんな勝手な決め付けを優先して、二人の良心を信じないであんたは人として最低の行為をしたんだ! 何が信じていたのにだよ!? 信じていなかったのはあんたの方じゃないか!」


 ここに来て、俺も二人の暖かみに触れ合った。だからこそ俺は知っている。つらら女がどれだけ愛情深い妖怪なのかということを。


「氷麗さんは重症で死に掛けてた俺を無償で治療してくれて、その後もずっとずっと我が子のように接してくれた! 俺の都合を聞こうともしないで、只々優しくして微笑んでくれていたんだ! 本当は人間が憎くて憎くて仕方ないはずなのに、あの人は今でもずっとあんたの良心を信じ続けているんだよ!」


 治らない右目の傷を今も負い、一番信じていた人に裏切られた精神的な傷も負い、それでも尚、氷麗さんは愛する娘のために笑って生き続けている。俺はあの人ほど善良で懐が広過ぎる存在を知らない。


「ここにいる雪羅さんだってそうだ! 氷麗さんと同じで人間を憎んでいるはずなのに、雪崩に巻き込まれて倒れていた人間の俺を拾って氷麗さんの元まで運んでくれたんだ! 本当は俺が怖いはずなのに、一緒の家に居続けさせてくれたんだ!」


 他にも知らないフリをしていただけで、本当は知っていた。夜に俺が寝ている最中に左腕の包帯を取り替えてくれていたこと。動いて傷が悪化するといけないからわざとキツい言い方をして俺を家に戻そうとしていたこと。俺が見ていないと思っていたところで、密かに雪羅さんも俺に優しくしてくれていた。それがどれだけ嬉しかったことか。きっと一生記憶に残る思い出だ。


「それにあんたは気付いていないだろうけど、雪羅さんもあんたのことを今でも信じているんだ! “兄さん”とあんたのことを呼んでいるのがその証拠だ! ここまで酷いことをされてるのに、まだあんたのことを兄として慕っているんだよ!」


 近付いて来ていた雪羅さんが俺の側までやって来る。俺は泣き(じゃく)る彼女の手を取り、ぎゅっと握り締めた。


「俗説や伝承なんかじゃなくて、今あんたが目にしている人を見ろよ! あんたの目には彼女が人を殺すような化け物に見えているのか!? 氷麗さんが人を騙すような目をしていたのか!? 信憑性のない周りに流されてないで、自分の目で見て判断しろよ!」


 最後に俺は大きく息を吸って、一番伝えたいことを周囲に響き渡る大音量で叫び上げた。


「人間も妖怪も関係ない!! あんたと俺が日常を共にした二人は、誰よりも純粋で綺麗な愛情深いただの女の子だ!!」


 雪羅さんが膝から崩れ落ちて倒れ、口を両手で抑えながら大粒の涙を流した。ずっと彼女を縛り付けていた業が絞り出されていくかのように、何度も何度も涙を零し続けた。


 男も俺も何も言わず、黙り込んだまま雪空を見上げた。空までもが泣いているように雪を降らし出し、辺り一面が雪によって全て覆われた。


「……もう二度と二人の前に現れないでくれ。あんたが近くにいると、ずっと二人が悲しい想いをし続けることになるからさ」


 二人との間には何も無かった。そういうことに欲しいと頭を下げて頼み、俺は氷麗さんが待っている家に引き返すために雪羅さんの手を取って立ち上がり、踵を返して男の元から立ち去って行った。


 雪羅さんは泣き止み、何も言わずに下に俯きながら、俺のされるがままに手を引かれて歩いている。


「余計なお世話……だったかな?」


 沈黙が続く中、俺がそう言った瞬間に雪羅さんが足を止めた。


「……いつかはこうなるって思ってたから……別に気にしてない」


「……そっか」


「…………うん」


 雪羅さんは俺の手を優しく振り払うと、近くに生えている木の根元を背にして座り込み、顔を伏せた。


 俺もすぐ隣に座り込み、雪羅さんが動き出すまで周囲を覆う雪をジッと見つめた。


 この分だと間も無く吹雪になるかもしれない。だけど今は雪羅さんをそっとしてあげたかった。今さっきの出来事のせいで、心の整理がまだついていないだろうから。


 俺は雪羅さんを待ち続けた。肌寒くなって来て手を擦り合わせながら、その顔を上げていつもの雪羅さんに戻ってくれることを信じていた。




 ――そして、その声は突如として聞こえて来た。




「ギャァァァ!!」


「っ!?」


 底知れない苦痛を味わうかのような断末魔の叫び声。それは、さっきまで俺達がいた一本松がある雪原の方から聞こえて来ていた。


 他の誰でもないあの男の声だ。俺は不審に思いながら、木の陰に隠れながらこっそり顔を覗かせた。


「…………」


 “それ”を視界に捉えた瞬間、俺は開いた口が塞がらなくなるも声が出なくなった。


 遠目に見える明らかに異様な光景。全長何メートルもある巨大な……熊? のような生き物が、あの男の上半身を食らっているのが見えた。


 男の下半身は微動だにせず、足をぶらりとさせたまま動かなくなっている。


 あれってまさか……死んでる、のか?


 気分が悪くなって突如吐き気に襲われる。口を塞ぎながら目に焼き付くような光景を見つめ続けていると、男は下半身も噛み砕かれてそのまま奴の胃の中に姿を消した。


 不意に、熊の化け物がこっちを見たような気がした。


「っ!! 雪羅さん立って!」


 尋常じゃない悪寒が身体中を巡り、俺は咄嗟に雪羅さんの手を取って無理矢理立ち上がらせた。


「な、何よ急に……私のことは放って――」


「走って! 早く逃げるんだ!」


「だから何を慌てて……っ!?」


 やはり化け物熊は俺達の存在に気付いていた。男を食い終えた後、凄い勢いで俺達の方に駆けて来るのが見えた。


 あの異形の存在に気付いた雪羅さんは目を見開き、ようやく今俺達が置かれている事態を呑み込んだ。俺が雪羅さんの手を引くと、雪羅さんも並んで走り出した。


「なんだあれ!? この辺に熊が出たとしても然程驚かないけど、流石に大き過ぎない!?」


「……“熊風”」


「えっ!?」


 聞き覚えのある妖怪の名を耳にした途端、俺は愛読書の妖怪図鑑に目を通していた時のことを思い出していた。


 熊風。完全な妖怪になり損ねた異形の化け物。大きな頭と袈裟懸けの白い斑点が特徴で、その昔多くの人間を食い殺した残虐非道の熊だったという。


 そんな化け物が今、俺達の方へ向かって来ている。どんな絶叫系マシーンよりも、おどろおどろしいお化け屋敷よりも、背後から迫り来る恐怖の塊に恐れを抱いた。


「冗談キツいなぁ……」


 俺も雪羅さんも全力で走るものの、身体が熊な上に巨体である奴の足から逃げ切れるわけもない。


 あっという間に距離を詰められてしまい、妖しく光る腕の鉤爪を横振りに振って襲い掛かって来た。


「ごめん雪羅さん!」


「きゃぁ!?」


 飛んでも回避し切れそうにない。瞬時に悟った俺は、雪羅さんを思い切り前に突き飛ばした。


 直後、鋭い鉤爪が俺の背中の皮を切り裂いた。


「っ〜〜〜!!」


 焼印を押し付けられたかのような激痛が背中から迸り、口を開いて悲鳴すら上がらないままうつ伏せに倒れた。


「弥白!」


 熊風が異常に大きい口を開いて顔を近付いて来る。しかし俺を喰らおうとした寸前、雪羅さんが奴の右目に氷柱を投げ当てた。


 熊風は悲鳴のような雄叫びを上げて後ろに仰け反る。その隙に雪羅さんが俺を担ぎ上げて移動し、少しだけ離れた場所に生えている木の陰に身を潜めた。


 ふと雪羅さんが俺の背中に触れる。その手は血で真っ赤に染まっていた。


「弥白! しっかりして弥白!」


「あはは……やっと名前で呼んでくれたね」


「冗談言ってる場合じゃないわよ!」


 雪羅さんは一喝した後に俺の身を木に凭れ掛けて、奴に見つからないようにこっそりと木の陰から覗き込む。


 俺も尻目で覗き込むと、右目の痛みで頭に血が登ったのか、熊風は誰もいないその場所で身振り手振り動かしながら暴れていた。


 あんな状態の奴に次襲われたら、きっと即死は免れない。でもこんな重傷を負っているのに、不思議と今はもう恐怖心を感じてはいなかった。


 恐怖心に怯えるよりも、今の俺には最優先しなくてはならない人がいる。そう思った瞬間から、怯えという感情を投げ捨てることができた。全ては雪羅さんのお陰だ。


「雪羅さん。俺はもういいから、君はこのまま氷麗さんのところに逃げて」


「な、何言ってるのよ!? 常日頃から何度も言ってるでしょ!? 冗談は休み休みに言いなさいって!」


「冗談じゃないよ。俺は本気だからね」


 正直なところ、俺はもう助かる気がしない。この絶望的な状況下にいて、今まで流したこともない量の血が背中の傷から流れ出ているのが感じられたから。


「俺がなんとか囮になってみるからさ。出来るだけ時間は稼ぐから、君に危険が及ぶ前に早く逃げて。大丈夫、こう見えて結構余裕だからさ俺」


 大嘘だ。本当は滅茶苦茶痛くて今にも泣き叫びたい苦痛を味わってる。それでも雪羅さんのことを思うと平常心を保つことができた。


「……なんで私が人間の言うことを聞かなくちゃいけないのよ。丁重にお断りさせてもらうわ」


 しかし雪羅さんは立ち上がると、俺を担ぎ上げて気配を感付かれないようにゆっくり歩き出した。


「だ、駄目だって雪羅さん。こんなことじゃいずれあいつに気付かれるってば」


「うるさい黙れ」


 どれだけ説得しようと応じても、雪羅さんは聞く耳を持ってくれなかった。


「……ははっ」


 こんなことをさせては駄目だと分かっているのに、俺は無意識の内に笑ってしまっていた。


「なんでそんな状態で笑っていられるのよ……」


「なんでだろうねぇ……いや、きっと嬉しいからかなぁ……」


「嬉しい……? ついに頭イカれたの?」


「そうじゃなくてさ。今まで俺は君に死んで欲しいって思われてたのに、今は死に掛けてる俺を助けてくれようとしてくれてる。それが嬉しくてたまらないんだよ。雪崩で死に掛けてた俺を助けてくれていたことも含めてね」


 雪羅さんはきゅっと唇を噛み締めると、下に俯いて目線を前髪で隠した。


「……あれは気まぐれよ。今だってそう。ただ私の目の前で死人が出るのが胸糞悪いってだけよ」


「そうだとしても……やっぱり嬉しいんだよ。俺が思っていた通り、雪羅さんが本当に優しい人だって知れたからさ」


「……どうしてっ」


 泣き入りそうになる声を堪えて歯を食いしばり、俺の肩を支えている華奢な手に力が入る。


「どうして貴方は……何度も私に拒絶されているのに……いつまでもそうして信じ続けられるのよ……」


「…………それは」


 その問いに答えようとした時、背後から何かが折れる不吉な音が聞こえた。


 度重なる嫌な予感を感じ取り、俺は後ろを振り向いた。


 視界に映ったのは、トチ狂って暴れ回る熊風が何本もの木を薙ぎ倒す姿。そしてその内の一本の木が、俺達の方に倒れて来ている光景だった。


 さっきと同じだ。飛んで躱そうとしてもとても間に合わない。咄嗟に雪羅さんに声を掛けたとしても、倒れる木に気付いた瞬間に木の下敷きになって共倒れになるのは目に見えてる。


 数秒間の中で、俺は躊躇わず覚悟を決めた。


「うあ゛ぁぁぁ!!」


 有り余る力全てを吐き出すように、俺の身を支える雪羅さんの身体を持ち上げて投げ飛ばした。


 投げ飛ばされる雪羅さんが目を見開き、咄嗟に俺に向かって手を伸ばす。


 俺は、自分の手を伸ばさなかった。


 木が倒れて地響きの音が鳴り響き、辺り一面に粉吹雪が舞い上がる。


「……弥……白?」


 俺はうつ伏せに横たわり、視界の悪い中で自分の下半身を見遣る。


 身体全体が木によって押し潰される最悪の事態は免れた。しかし、唯一の移動手段である両脚が木の下敷きになっていた。奇跡的に骨肉は潰れてはいないようだけど、骨が折れていることは明らかだった。


「……行って」


 肩を震わせて座り込む雪羅さんに向かって呟き、逃げ道の先の方向へ指を差す。


 身を隠すものが無くなってしまった以上、既に俺を抱えて逃げるのは不可能。そもそも足を失ってしまった時点で、俺が助かるという道は完全に閉ざされた。


 今はまだ粉吹雪のお陰で身を隠せている。逃げるならもうこのタイミングしか残されてない。


 でも、それでも雪羅さんは逃げなかった。俺を見捨てて逃げようとしてくれなかった。瀕死になった俺に擦り寄って来て、折れてる足を引き抜こうとする。


「雪羅さん」


「うるさい! 黙って!」


 優しく語り掛けるけど、一喝されて無下にされる。


「もういいから」


「良くない! 何も良くないわよ!」


 諦め切らない彼女を諦めさせようとしても、泣きじゃくりながら必死に俺の右手を引く。


「ごめんね。もう少し一緒にいたかったんだけど、俺はもう――」


「黙れ!!」


 言い切る前に頰を殴られた。ついには俺を無理矢理黙らせて、それでも尚俺を助け出そうとする。


 ……幸せだ。こんな時に何馬鹿なこと考えてるんだと思われるだろうけど、こんなに嬉しい思いをしたことは過去に一度もない。


 彼女は俺が今まで出会って来た中で、本当に優しくて、魅力的で、俺には勿体無いくらいの強い女の子だ。だけど凄く頑固で、意固地で、人の話を聞こうとしない悪い部分もある。


 でも俺は、その全てを含めて彼女を愛おしく思った。俺は彼女のことが好きなんだと、今一度強く感じることができた。


 後悔はない。もう満足している。だからもう助かりたいとも思わない。


 でも……死に際にほんの少しの欲を求めても良いというのなら、せめて最後に伝えたい。悔いのないよう何もかもを吐き出したい。


 俺にこの愛しい女の子を少しでも救えるのならば、最後の最後まで力になりたい。彼女の未来の先にある新たな幸せに導けると言うのなら、俺に迷いなんてない。






 君の幸せのためならば、俺は喜んでこの命を賭けよう。






「雪羅さん。聞いてもらいたいことがあるんだ」


「うるさい! 黙れって言ってるのが分からないの!?」


「お願い……どうしても聞いて欲しいんだ」


「っ……」


 また俺を殴ろうと右腕を振り被ったが、今生の思いで頼み込むと、納得いっていない様子のまま拳を下ろしてくれた。


 時間はない。だから本当に言いたいだけのことを伝える。言いたいことはたったの二つだ。


「雪羅さん。人間の中には、俺以外にも君を大切に想ってくれる人が必ずいる。俺はもう君の隣を歩けそうにないけど、いつかまたそんな人に出会えた時は……全力で怒って、泣いて、笑って、幸せに生きてね。それから……」


 彼女を安心させるように。本当は人間も優しい生き物だと伝わるように。


 俺はいつものように、笑ってみせた。


「好きだよ、雪羅さん」


 ……最悪だ。最悪のタイミングで目から涙が溢れ出て来た。これじゃまるで、俺にまだ未練があるようじゃないか。


 笑え……笑ってくれよ……俺は最後の最後まで笑って死にたいんだよ!


 伝えたいことも全部言った! 後は彼女を逃すだけだ! 早く逃げてくれよ雪羅さん!


「逃げ――っ!?」


 また声に出して言おうとした途端、急に声が出なくなった。さっきまで身体中が異様に暑かったはずなのに、今度は冷凍庫の中にいるかのように寒くなった。


 腕どころか指の一本すら動かない。やけに重い瞼だけがまだ機能していて、視線の先にはこちらに近付いてくる熊風が見えた。


 口パクで何度も「逃げて」と伝えようとする。でも雪羅さんは俺の意に反し続けて、俺の元から決して離れようとしなかった。


「……そんなの……無理に決まってるじゃない」


 ぽたぽたと滴る涙が俺の頰に落ちる。


「私はもう……貴方以上に優しい人間に会える気がしないよ……」


「そんなことはない」と伝えたくても、声が出なくて伝えられない。でもそう伝えたとしても、彼女なら今と同じ答えを言うんだろう。


 なんて情けないんだ俺は。好きな女の子一人すら逃すこともできないのか。自分の無力さが憎くて仕方無い。


 粉吹雪が完全に晴れてしまい、熊風が俺達を完全に視界に捉える。四足歩行でゆっくり近付いて来ていたが、俺達の姿を捉えた途端に物凄い剣幕で駆け出して来た。


 それでも雪羅さんは逃げようとしない。俺を庇うように立ち塞がり、座り込んだまま震える右手に氷柱を携えた。


 雪羅さんの表情は涙を流したまま強張っている。氷柱で抗おうとしてはいるけど、それよりも熊風の恐怖に押し潰されて肩の力が抜けていた。


 そしてついに熊風が俺達の目の前までやって来た瞬間、雪羅さんを鉤爪で切り裂こうと大振りに右腕を振り上げた。


「止めろ!!」と叫ぶこともできず、俺はこの世で最も残酷な光景を見ることから逃げ出すように、恐怖あまりに力強く目を瞑った。


「…………?」


 その刹那――“その音”を耳にした瞬間、俺は即座に目を見開いた。


「えっ……?」


 目の前には、熊風が横薙ぎに振られた木で吹き飛ばされる光景があった。あの巨体が七転八倒を繰り返し、呆気なく仰向けに倒れ込んだ。


 勿論俺の仕業じゃない。かと言って雪羅さんがしたわけでもない。なら一体誰の仕業か。


 そしてその者の姿を目に捉えた瞬間、俺はここに来てから実はずっと気になっていた疑問を思い出した。


 氷麗さんは雪羅さんと二人で人間界に行っていた。ならその間、父親は何処で何をしていたのかという疑問。その答えは、今目の前にあった。


「……間に合ったようだな。よくぞ我が愛娘を守り抜いてくれた。感謝するぞ少年よ」


 二メートル強はあるであろう大きくて逞しい身体。全身が白い毛皮に覆われていて、溢れんばかりの筋肉が唸りを上げるかのように所々(うごめ)いている。まるでかの猛将関羽のような白い髭を生やした、強者の風貌を醸し出す引き締められた顔立ち。


 “雪男”。UMAと呼ばれているあの伝説の人が今、救世主として現れてくれた。


「お父さん!?」


「すまなかったな雪羅よ。お前達が人間界に行っている間、私はずっと身体を鍛えると同時にハンティングに勤しんでいてな。それに没頭し過ぎて数年間も家を空けてしまった」


 雪男は謝罪の言葉と共に、俺の足を拘束している木を片手で軽々と持ち上げて放り投げた。熊風に引けを取らない常軌を逸脱した怪力だ。


「弥白君! まだ意識はありますか!? しっかりしてください!」


 雪男の背後から氷麗さんもやって来て、倒れ込む俺を抱えて上げて仰向けに寝かせてくれた。


 何とか喋ろうと口を動かすが、やはり声は出てくれない。それを察した氷麗さんは俺の口を塞ぎ――


「……待っていてください。すぐに終わらせます」


 あのいつも微笑んでいた優しい氷麗さんが、まるで阿修羅のような風貌を感じさせる程に怒っていた。瞳孔が開いた鋭い目付きで熊風を睨み、俺の身体から手を離して立ち上がった。


 同時に熊風も体勢を立て直して立ち上がり、雪空に向かって怒りの咆哮を上げた。


 親の二人は微塵も物怖じせず、並んで熊風の元に自分達から近付いて行った。


「我が愛娘を守り抜いてくれた勇敢なる少年に応えよう。報いを受けてもらおう、過去の遺物の化け物よ」


 怒り狂いながら荒い足取りで突進してくる。雪男は氷麗さんの前に立つと、腕に担ぎ持っていた木を(こん)のように振り回して勢いを付けて、迫り来る熊風の巨体をまたもや吹き飛ばした。


「氷麗、頼む」


「はい」


 空かさず氷麗さんが倒れ込む熊風に歩み寄る。逆さまになっている熊風の顔に向けて右手を伸ばし、手の平を開いた。


「凍てつきなさい。もう二度と目覚めないで」


 氷麗の手の平から目に見える冷気が発生した瞬間、熊風の身体が一瞬で氷の結晶に包まれた。


「ふんっ!」


 雪男が凍り付いた熊風に向けて思い切り木を振り下ろす。氷と共に熊風の身体に亀裂が生じ、熊風の身体が氷塊の欠片となってバラバラに砕け散った。


 あの恐ろしい化け物を瞬く間に葬ってしまった。温厚な人ほど怒ると怖いと言うけれど、どうやらそれは本当らしい。


 何にせよ、これで雪羅さんはもう大丈夫。これで本当に俺の役目は終わった。


 安心したせいか、意識が朦朧(もうろう)として来た。瞼を開いているのも限界だ。


「お父さんお母さん! 早く! 早く弥白を助けて!!」


 急いで二人が戻って来ると、雪男は驚いた様子で自分の足にすがりついて来る雪羅さんを見た。


「雪羅……お主……」


「お願い死なせないで!! この人は……この人は私の……」


 泣き叫ぶ雪羅さんの声が遠くに聞こえて来る。


「私の……大切な人なの!!」


 最後の最後で、ようやく雪羅さんの“内”に入ることができた。長いようで短い時間だったけど、思い残すことは何もない。


 俺は微かに笑みを浮かべると、自ら意識を手放すようにそっと瞼を閉じた。

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