君のために賭けたいと思った命 前編
氷麗さんの家に居候してから一ヶ月の時が過ぎた。
今までで最も短く感じた期間だったけれど、その僅かな日々に喜ばしい変化があった。
まず、雪崩によって重傷を負った身体は大分回復しつつあった。元々身体は丈夫な方だったので、一番重傷だった左腕以外は自由が効くようになってくれた。日々の筋トレがここぞというところで功を成してくれたようで大助かりだ。
でも正直なところ、今の俺にとって身体の回復状況は二の次の話。最も喜ばしいことは、雪羅さんとの関係性の変化にあった。
あの真夜中での出来事以来、キツい当たり方は一向に止む気配はないものの、シカトされるという寂しいことが一度も無くなった。やっとまともに話せるようになった現状に浸り、それを初めて自覚した時は何度小躍りしたことか覚えてない。
冗談を言って笑う俺。からかわれて氷塊を手に怒る雪羅さん。そしてそんな俺達を微笑みながら仲裁役として入ってくれる氷麗さん。それが今の俺達の自然な団らん模様だった。
まるで本当の家族のような関係が続く日々。これほどまでに幸せな時を感じたことはない……とは言い切れない。俺にも待っててくれている妖怪の皆がいるのだから。
だけど、正直俺は怪我が治っても帰りたいとはまだ思わなかった。もう少しだけ氷麗さんに甘えていたいという母性への欲求と、純粋に雪羅さんともっと一緒にいたいという想いが、俺をいつまでもここに留まらせておきたいという気持ちにさせているから。
普通に歩いたりある程度走ったりできる今の俺なら、もういつでも家に帰ることができると自覚している。それはきっと氷麗さんも認知していることだろう。
だけど氷麗さんは何も言わず、ただ俺に優しくしてくれた。その気遣いがとても嬉しくて……氷麗さん本人に言ったら怒られるだろうけど、少し申し訳ないとも思った。
だからこそ、ただここに居着いて甘えてばかりでは駄目だと思った。元々ここに残ったのは恩返しのため。なら氷麗さんのために何でもいいからできることをしたい。
そのことを今一度氷麗さんに告げると、氷麗さんは微笑みながら了承してくれた。それから俺はできる範囲で氷麗さんの仕事を手伝っている。
ちなみに今は、お風呂用の薪を割っている最中だ。左腕が使えないから右手一本で斧を持ち、研ぎ澄まされた一振りで真っ二つに薪を割る。これが案外上手くいかないもので、傍に置いてある大石に座っている雪羅さんからは白い目を向けられっ放し。俺ったら情けない。
「そもそも片手で薪を割れると思ってるのが浅はかなのよ。でも一応それで斧を振れてるからまたおかしいんだけども……」
振れてるには振れてるけど、はっきり言ってこの斧めっちゃ重い。筋トレしているとはいえ、俺もまだまだ幼い子供の身。片手で斧を身体の一部のように扱えるわけもなかった。
「くっ……ぜ、ぜ~んぜん余裕だよ? ここまでは所謂ウォーミングアップってやつだし? ここから俺の薪割りダイナミック劇場が繰り広げられるわけであって……」
「御託は良いからとっとと身体動かしなさいよ無能な人間」
「……あぃ」
手厳しい言葉を受けて、即座に斧を振り下ろす。
薪にはジャストな位置で当たっている。そのはずなのに、何故か斧は薪の上部分で止まってしまう。どうやっても足掻いても真っ二つに割れてくれる傾向が見えない。
俺は一旦斧を地面に置いて、どさりと雪の上に仰向けに寝転んだ。
「だ、駄目だぁ~。いつまで経っても俺の真の力が目覚めてくれないよ~」
「情けない……所詮は人間の力ね。腕の力が全然足りてないし、腰使いも全くなってない。それでよく薪割りを引き受けようと思ったわね」
「ぶぅ~……なら雪羅さんやってみてよ。華奢な身体つきの雪羅さんの方がもっと難しいと思うけどさぁ」
「……フッ」
俺を馬鹿にするような目で見て鼻で笑い、俺が使っていた斧を両手に持つ。
薪を切り株の中心に置いて狙いを定める。雪混じりの風がぴゅうと吹き抜け、辺りが静まり返った瞬間、まるで薪に吸い寄せられるかのように斧を振り切った。
スコーンと爽快感のある音が周囲に響き渡り、見事綺麗に真っ二つに割れた。
……切り株が。
「…………」
雪羅さんは斧を振り下げたまま固まり、傷の一つも付いていない立てられた薪をジッと見つめる。
その一部始終を見た俺は、口に手を当ててくすりと笑った。
「あらやだ、雪羅さんったらお茶目さん」
「…………」
無言と無表情のまま俺に向かって斧を振り上げて来る。威圧感あるその風貌はとても恐ろしい迫力があり、思わず肩が竦んでしまった。
「まぁまぁ落ち着いてよ雪羅さん。清々しい程に思いっ切り外してたけど、切り株が綺麗に割れてるじゃんか。少なくとも俺より薪を割るセンスはあるってことなんだから、自信もって胸を張りなよ。まぁ胸の大きさはまだまだ発展途上だけど……」
無言と無表情のまま俺の真横に斧を振り下げた。あと少しズレていたら俺の身体は真っ赤なトマト汁をぶちまけていたことだろう。
「しゃ、洒落になってないよ雪羅さん。でも大丈夫安心して。雪羅さんはまだまだ成長期なんだし、産みの親である氷麗さんは古代兵器並みの巨乳なんだ。つまりその遺伝子は雪羅さんにも受け継がれているわけで、後三年か四年したらモデルになれるくらいのエロい身体を手に入れ――」
荒々しくも舞うような動きで斧の一振りを乱打してきた。流石に殺され兼ねないと踏んで逃げ出そうとするも、すぐに小屋の壁際に追い詰められて、座り込む俺の腹に足裏を押し付けてきて斧を振り上げようとする。
「ま、待った待った! からかってるつもりはなかったから! 俺なりに褒めてるつもりだったから! 非力な人間である弥白君にどうかご慈悲を!」
「この世は常に残酷よ。一瞬の隙も見せては駄目。油断した人間に待つものは……死、だけよ」
「その年で世知辛い世の中を熟知しているだなんて……半端ないッス雪羅の姐さん……」
「誰が姐さんよ本日の夕食」
「あれぇ? いつの間に今晩の献立は弥白君の燻製一択? そんな未来誰も求めてないよ~」
「燻製じゃないわ。まずひき肉にしてからゆっくり献立を考えるつもりだから」
「それ一番バラバラにされるパターンじゃない!? 止めて! せめて丸焼きにしてあげて~!」
「あらあら、騒がしいと思ったら何をしてるんですかお二人共?」
雪羅さんに解体され掛けていたところ、小屋の中で何かしら作業をしていた氷麗さんが顔を出してきた。
「お母さん、今晩の夕飯はご馳走だよ。丁度良い角煮になりそうな素材を見つけたの」
「角煮の素材? でもその下にいるのは弥白君ですよ?」
「お母さん知らないの? こいつはクズ人間って言って、剥ぎ取れる肉はどんな風に食べても美味しいの」
「嘘だ! 本当は腹を下す級に不味い肉だと思ってるでしょ雪羅さん! 嘘つきは泥棒猫の始まりだよ! ドロドロの恋愛模様の開始宣言だよ!」
「普通に泥棒と言いなさいよそこは!」
目くじらを立てて本当に斧を振り下ろそうとしてくるような勢いを見せる雪羅さん。でもその途中で氷麗さんに斧を取り上げられて、こつんと頭に拳骨をされた。
「こら、駄目じゃないですか雪羅ちゃん。弥白君に向かってこんな危ない物を振り回してはいけませんよ。また弥白君が大怪我をしてしまったらどうするんですか」
「だ、だってこいつが変なこと言うから!」
「だっても何もありません。どんな理由があっても、他人を傷付けるようなことをしてはいけません」
「っ……ふんっ!」
いつもならここで素直に「ごめんなさい……」と氷麗さんに頭を下げているところなのに、何故か今日の雪羅さんは謝らずに踵を返した。
「何処に行くんですか雪羅ちゃん? ちゃんと弥白君にごめんなさいしないと駄目ですよ」
「そんな奴に頭を下げるなんて願い下げよ! 散歩に行ってくる!」
「あっ……」
そうして雪羅さんは背を向けたまま立ち去って行ってしまった。今回はちょっと調子に乗り過ぎてしまったかも。後で会ったらちゃんと謝らないと。
「ありがとう氷麗さん。それとごめんなさい。俺のせいで雪羅さんがまた怒っちゃって……」
「謝らないでください弥白君。雪羅ちゃんもまだ少し慣れていないだけなんです。きっと今の雪羅ちゃんは弥白君とどう接すればいいのか、ずっと迷ってしまっているんだと思います……」
「…………迷い」
雪羅さんとは普通に話ができるような仲になることができた。だけど俺は、雪羅さんが抱えている“何か”をまだ知らない。それはきっと、雪羅さん本人に聞いても決して教えてくれはしないだろう。
「氷麗さん。雪羅さんのことで前から一つ疑問に思ってたことがあるんですけど……聞いても良いですか?」
だからこそ俺は、卑怯だと自覚しながらも氷麗さんに聞いてみた。深入りすることは雪羅さんにとって迷惑なのかもしれないけど、それでも俺は彼女が何を抱えているのか知りたいと思った。それだけ俺にとって雪羅さんは、特別な妖怪になっているから。
「どうしてあんなに人間のことが嫌いなのか……ですよね?」
「っ!」
ずっと聞かれるのを待っていたかのように、俺の言葉の先を読まれた。やっぱり雪羅さんには過去に“何か”があったんだ。
「……そうですね。でもその前に一つ私から聞いてもいいですか?」
「うん。何?」
「弥白君は……雪羅ちゃんのことが好きですか?」
そんなこと言葉にするまでもない。俺は敢えて口を開かず、氷麗さんの瞳の奥を覗き込むように真っ直ぐその目を見つめた。
そんな俺を見た氷麗さんは「ありがとう……」と、以前にも聞いたことがある言葉を呟き、微笑んだ。
「分かりました。勝手に話すと雪羅ちゃんに怒られるかもしれませんが……それでも私はあの子のためにも、弥白君には知ってもらいたいです。少し長くなりますが、聞いてもらえますか?」
断る理由など何処にも見当たらなく、俺は力強く首を縦に振った。
〜※〜
氷麗さん達の正体は俺が途中で気付いた通り、雪女ではなくつらら女だった。
氷麗さんがとある妖怪と愛を育み、雪羅さんを生んで数年が経った頃のこと。氷麗さんから人間のことを聞いた雪羅さんは人間に興味を持ち始め、人間が住む世界に住んでみたいと打ち明けた。
妖怪は常に人間から迫害されている存在。故にそれは難しいこととされていたが、元々人の姿と変わらない氷麗さんと雪羅さんにはそれが可能だった。
氷麗さんは夫と相談し、一定期間だけ人間界に住むことを決断した。それを聞いた雪羅さんはこれ以上にないくらい喜んでいたらしい。
そして氷麗さんは雪羅さんを引き連れて人間界へと赴き、一時的に住み込める場所探しに路頭に迷っていたところ、一人の親切な男性と出会った。
氷麗さんはその男に自分が妖怪であることを隠しつつ、自分の現状を打ち明けて相談した。するとその男は、家の部屋が有り余っているからウチに来ないかと提案を申し入れてきて、氷麗さんはそのご厚意に甘えた。
それからの氷麗さん達の日常は一変し、その男は顔が広い人格者だったため、氷麗さんは様々な人間達と知り合いになり、雪羅さんもまた同じ年頃の友達が沢山できた。
妖怪と人間の枠を超えた幸せなひと時。しかしその中で氷麗さんは、一つの罪悪感に苛まされていた。
これだけの幸せを皆から貰っているというのに、自分は妖怪である身を隠している。こんなに親切にしてくれる人達に嘘を付き続けるのは、自分がまだ皆を信頼していない証拠だ、と。
そしてある日、氷麗さんは自分を信頼してくれている皆を本当の意味で信頼するために、同居を提案してくれた男に自分の正体を打ち明けた。自分はつらら女という妖怪で、一体つらら女がどのような妖怪なのかということを。
これでもう大丈夫。信頼の証をやっと皆に示すことができたと、氷麗さんは未来に今以上の幸せを遠目に見ていた。
……だが、現実はそう甘くはなかった。
氷麗さんの正体を知ってしまった男は、妖怪という言葉を聞いた瞬間、まるで人が変わったかのように氷麗さんを拒絶した。
つらら女を愛し、もし裏切るようなことがあれば呪われて殺される。俗説でしかないその伝承を男は鵜呑みにしてしまったのだ。
そう……男は氷麗さんに惚れていた。だからこそ、男は氷麗さんを恐れてしまった。いつか自分も彼女に呪い殺されてしまうのではないかと。
豹変してしまった男は顔の広さを利用して、周りの知り合い全ての人達に氷麗さんの正体を明かし、同時につらら女という恐ろしさを物語った。その恐ろしさを直に体験していないのにも関わらず、まるで本当に自分が殺され掛けているように尾ひれを付け加えて。
男の話を聞いた人達は一人残らず男の発言を疑わなかった。即ちそれは、氷麗さんが皆にとって害悪の存在に断定された瞬間だった。
皆は即座に氷麗さん達を町から追い払おうとした。だけど納得がいかなかった氷麗さんは、自分は無害だということを必死に主張した。
しかし願い叶わず、誰一人として氷麗さんの言葉を信じてくれる者はいなかった。
その時、氷麗さんは気付いてしまった。自分は誰からも信頼されていなかったのだと。
それでも氷麗さんは自分は無害だと主張し続けた。しかし、大人しく去ろうとしない氷麗さんを無理矢理追い払うために、皆は実力行使で雪羅さん諸共物理的な危害を加えた。
その出来事を聡明に思い出しながら、氷麗さんは前髪で隠していた右目を見せてくれた。その目は光を失っていて、何も見えなくなっていた。雪羅さんを庇った時に傷付けられた傷らしい。
妖怪は怪我の治りが早いと氷麗さんは言っていた。だけどそれでも未だに右目が治っていないのは、それだけ氷麗さんにとってショックな出来事だったのだとその傷が物語っていた。
そして……深い傷を負ったのは氷麗さんだけではなく、雪羅さんも同じだった。
元々人間が好きだった雪羅さん。同居していた男を兄のように慕い、友達だった子供達とも兄弟のように日々遊んでいた。
しかし自分の正体を知られて以降、皆から与えられたのは軽蔑と暴力。ずっと信じ、信じられていたと思っていた幸せの日常が粉々に崩壊してしまった。
その残酷な出来事により、雪羅さんの心は闇に染まった。
自分の思い付きのせいで母親である氷麗さんを傷付けてしまった罪悪感。人間は自分達にとって災害であり、敵であり、決して信用してはならない悪しき存在だと認識してしまったことから生まれた憎悪の心。
二つの業を背負った雪羅さんは、家族以外に心を開くことを断ち切ってしまった。皮肉なことにその枷として、今も雪羅さんの素肌には人間達から受けた暴力の痕がいくつも残っているのだという。
そして長い月日が流れ、再びこの場所で静かで平穏な日常を送っていたある日――俺がこの場所へとやって来た。
全ての話を聞き終えて、俺は一つの疑問を氷麗さんに聞いた。
「どうして……どうして俺を助けてくれたの? 俺は氷麗さんと雪羅さんに憎まれてる存在のはずなのに……」
「それは……実は私にもよく分からないのです」
氷麗さんが悲しい目をしたまま弱々しく笑う。
「初めて出会った時に私は言いましたよね? 貴方からは心を落ち着かせてくれる不思議な何かを感じると」
「うん……」
「本来なら人間の子供でも私は恐れていたはずなのです。ですが不思議なことに、私は弥白君を一目見ても恐れることがなかったのです。むしろ貴方からは……底の見えない安らぎを感じました。だから私は助けようと思った。助けたいと思えたのです。この子はきっと悪い人間ではないと、そう思うことができたのです」
あまりにも大袈裟で過大評価し過ぎていると思った。俺はただ霊感が異常に強いというだけで、それ以外はその辺の人間と対して変わらない小さな存在だというのに。
だけど俺は、知らぬ間に氷麗さんにとって救いの存在になれていた。氷麗さんは俺と出会って話を交わした時から、既に俺から恩を返してもらっていたと思ってくれていたんだ。
……だけど。
「雪羅さんは……本当は今でも俺に出て行って欲しいって思ってるのかな……」
出会った当初よりは仲良くなれていると思っていた。でももしかしたらそれは、俺の一方的な勘違いだったのかもしれない。そう思うと、酷く胸の中が痛んだ。
でもこの胸の痛みは、雪羅さんから決して信用も信頼もされていなかったという落胆からくる痛みではない。これは、過去に雪羅さんが今の俺以上に苦しみ、ずっと胸を痛ませていたのだという真実を知ってしまったことからくる悲壮の苦痛だ。
一体雪羅さんはどれだけの苦しみを味わい続けているんだろうか。想像を絶するその苦痛を、いつまで孤独に抱え続けるんだろうか。
きっと氷麗さんは今までもずっと雪羅さんの抱える業を取り除こうとしていたんだろう。でも氷麗さんが雪羅さんと接する度に、氷麗さんに対する雪羅さんの罪悪感が渦を巻いて離れてくれず、今も雪羅さんは氷麗さんに罪の意識を抱き続けているに違いない。
母親である氷麗さんには、雪羅さんを救えない。
だったら……と、俺は握り拳に力を込めて歯を食い縛った。
……いや、無理だ。俺は妖怪ではなくて人間の身。憎まれているはずの存在がどうして雪羅さんを救えるか。今の雪羅さんを作ってしまった悪の権現氷麗さんを救うなんて、そんな矛盾したことを成せるはずもない。
彼女の力になりたい。でもどれだけ懇願しても、俺にできることは何もない。その歯痒さに発狂して叫び出したくなった。
「弥白君」
でもそんな時、氷麗さんの一言で我に帰り、氷麗さんを見つめた。
「雪崩に巻き込まれて重傷を負って死に掛けていた貴方を助け出したのは……本当は雪羅ちゃんだったんです」
「…………え?」
突然の告白に耳を疑った。
「な、なんで……だって雪羅さんは何度も俺のことを追い払おうとして……」
「そう……ですね。ここに弥白君が住み始めた頃、雪羅ちゃんは貴方を拒絶して追い払おうとしていました。だけど弥白君がやって来たあの日、散歩に出ていた雪羅ちゃんが瀕死の弥白君を引き摺って来たんです。そして何も言わずに貴方を私に預けて、あの子はまた散歩に出て行きました」
ずっと氷麗さんに助けられていたものだと思っていた。だけどそれは違った。あの日、薄れる意識の中で見た人影の正体は氷麗さんではなく、雪羅さんだったんだ。
「今から話すことは全て私の憶測ですが……きっと雪羅ちゃんは私と同じように、弥白君から不思議な何かを感じていたんだと思います。……いえ、でもそれだけではありません。雪羅ちゃんは人間を憎みながらも、実は自分の知らない心の奥底で人間の優しさを……貴方の温かい善の心を信じていたのかもしれません。人間の中にも、妖怪の存在を正面から認めてくれる人がいるのだと……」
「……俺が」
もし、もしもだ。氷麗さんの言ったことが本当のことだったなら、脆くて弱い人間の俺でも彼女を救えるのかもしれない。方法なんて今はまだ何も思い付かないけど、ほんの少しだけの望みがあるというのなら、俺はその望みに賭けたい。
……何故俺はそこまで雪羅さんに尽くそうとするのか。そんなこと、本当はもうとっくの昔に分かり切っている。
聞く耳持たずにまた耳を塞がれてしまうかもしれない。それでも彼女に伝わるまで伝え続けるんだ。俺が抱いているこの誰よりも暖かい心を持った二人への想いを。
以前、氷麗さんは俺に対して一つだけお願いをしたいと言っていた。あの時は聞きそびれて結局有耶無耶になってしまったけど、今ようやくその願いの内容を知ることができた。
「弥白君。初めて出会ったあの日に言おうとしたお願いを、今改めて聞いてもらっても良いですか?」
俺は立ち上がり、お気に入りのマフラーを巻いて防寒着を着る。
「雪羅ちゃんを……どうか助けてあげてください」
願ってもいないその願いを、俺は優しく微笑みながら承った。
首を縦に振った俺を見た氷麗さんは「ありがとう……」と呟き、雪の結晶のような涙を流していた。
〜※〜
氷麗さんの情報によると、雪羅さんの散歩コースは大体決まった道しか使っていないらしい。
散歩道の最終地点に大きな一本松があるらしく、いつも決まってその場所にしばらく佇んでいるんだとか。
きっと雪羅さんはその場所で一人になって、氷麗さんへの罪悪感と人間への憎悪を忘れないよう物思いに耽っているんだろう。
もうこれ以上その戒めの鎖に縛らせておくわけにはいかない。善は急げと言うし、早く雪羅さんに追い付かないと。
今はもう一本松で佇んでいるであろう雪羅さんに一刻も早く追い付くため、左腕を気遣いながら駆けて行く。雪に足を取られて何度も転びそうになるけど、歩幅も速度も緩めることなく走り続ける。
しばらくして木々の道を抜けて、広い大雪原へと出た。遠目には氷麗さんの言っていた巨大な一本松が確かに立っている。一体何十メートルあるんだろうあの一本松……。
……と、いけないいけない。一本松に目を奪われる時間を割く暇があるなら、とっとと走って雪羅さんの元に向かえってね。
頭を左右に振って意識を転換して、再び雪の上を駆けて行く。
「……あっ!」
その途中、一本松の根元に辿り着く前に雪羅さんの姿を視界に捉えた。既に沈黙の時間を終えていたのか、こちらに向かって走って来ているようだ。
……なんだ? 何かが妙だ。走っている姿に余裕が見えなくて、覚束無い足取りで走って来てる。まるで何かから逃げている最中に見えて――
「待てぇ! 逃がさないぞ化け物!」
「……なっ!?」
不吉な予感を漂わせる男の声を聞いた瞬間、俺はようやく雪羅さんが置かれていた状況を察知した。
逃げているように見えるんじゃない。本当に逃げているんだ。雪羅さんの後ろから凄い剣幕で追って来ている一人の男から。
よく見ると、雪羅さんは自分の左腕を右手で掴んでいた。その左腕からは真っ赤な液体が流れ出ていて、雪羅さんの表情は苦痛で歪んでいた。
男の手には矢が取り付けられたボウガンが握られていた。つまりはそういうこと。あの男がボウガンを駆使して雪羅さんを攻撃したんだ。
「ハァ、ハァ、ハァ……っ!? 人間!?」
必死に逃げる雪羅さんが俺の前まで来て立ち止まり、「なんでこんなところにいるのか」とでも聞きたげな表情になって目を見開いた。
「っ! 雪羅さん!」
追って来ていた男が立ち止まってボウガンを構えるのが見えた。俺は咄嗟に雪羅さんの元に駆け寄り、右腕で彼女を抱えたまま思い切り真横に飛んだ。
ボウガンから放たれた矢は先程まで雪羅さんが走っていた場所を通り過ぎ、雪の中へと消えて見えなくなった。
「止めて……止めてよ兄さん!」
雪羅さんは俺の右腕を撥ね退けて立ち上がり、悲痛の叫びで男に訴えた。
兄さんって……じゃあまさかあの男が……。
「黙れ! 僕を騙していた人殺しの化け物め……ようやく見つけたぞ!」
男は殺伐とした様子で次の矢を装填し、雪羅さんに向けてまた構えを取った。
「どうして!? どうして数年間経った今になってまた私達を探しに来たの!? もう終わったことのはずなのに!」
「終わったことだと? ふざけるな! 人の良心に付け込んで、お前らは密かに僕を殺そうとしていたんだ! 僕は……僕は信じていたのに! 本当の家族のように接していたというのに!」
再び矢を放つ男。しかし慌てていたのか照準がズレていたようで、風で靡いている雪羅さんの髪先を掠めていった。
牽制に合った雪羅さんがしゃがんで縮こまって嗚咽を漏らす。俺はすぐさま雪羅さんを庇うように立ち塞がり、大声を上げた。
「止めろよ! 何してんだよアンタ!」
「な、なんだお前! さてはお前もその化け物の仲間だな!?」
「いやもう色々と違うし……俺は歴とした人間だし、彼女は化け物なんかじゃない! そんな危ない物撃ってきて怪我したらどうするんだよ!? ていうかもう怪我させちゃってるし、何考えてんだよアンタ!?」
「決まってるだろう! その化け物を殺しに来たんだよ!」
頭に血が上っているのか、人の話を大人しく聞こうとせずにまた次の矢を装填して構えてきた。
「なんだよ化け物って……一体雪羅さんがアンタに何をしたってんだよ!?」
「お、お前には関係ない! 邪魔をするならお前も殺すぞガキ!」
カタカタと腕を振るわせる男。照準がさっきよりもまるで合わさってない。
「関係なくない! 俺は雪羅さんの同居人だ!」
決して逃げ出さず、雪羅さんの盾となって立ち塞がり続ける。あんな屁っ放り腰のボウガンなんて怖くもなんともない。
「な、何してるのよ! 貴方は早く消えなさいよ! 今度こそ死にたいの!?」
「……聞いたよ雪羅さん。昔君にあったこと全部」
「っ!?」
俺の発言に只でさえ悪くなっていた顔色が更に青白く染まる。
俺は雪羅さんを尻目に見ながら話を続ける。
「雪羅さんには悪いと思ったけど、氷麗さんに聞いて教えてもらったんだよ。あの人が……例の同居人だった人なんだよね?」
「…………」
頷きもせず雪羅さんは喋らない。俺はその反応を肯定として受け取り、再び視線を男の方へと戻した。
「教えてくれるかな。アンタがなんでそこまでして雪羅さんを殺そうとしてるのか」
「だ、だからお前は一体誰なんだ! 何度も言わせるな! 関係ない奴は――」
「そっちこそ同じこと言わせないでくれるかな……?」
男と言葉を交わす度に湧き上がってくる憤怒の感情。俺はそれを必死に押し殺しながらも、怒りの片鱗を声に込めて呟いた。
「俺は、雪羅さんの“家族”だ」
俺の言葉を聞いた男は、子供相手に本気で恐れ慄いていた。
見る見るうちに血の気が引いていく男は、少し冷静さを取り戻した様子で自分の身の想いを語り出した。




