雪妖怪の表裏一体の想い
氷麗さんの家に怪我人として居候し続けて、約一週間の時が過ぎた。
一週間足らずではこの脆い身体が完全に完治してくれるわけもなかったけど、でも一人で起き上がって座る分にはどうにかこなせるようにはなっていた。
立ち上がるのは流石に無理だけど、主に用を足す時などは氷麗さんに肩を貸してもらって移動している。そのことに関しては大助かりなんだけど、初めて厠を使用しようとした際に「お手伝いしましょうか?」と言われたあの日はどれだけパニくったことか。純粋無垢な天然って恐ろしいね。
何はともあれ、身体の方は氷麗さんの支えを得てゆっくりと回復しつつある。それよりも俺が問題視しているのは、雪羅さんとの関係のことだ。
氷麗さんとの関係については心配要素皆無で、俺が寝ている間はずっと俺と話を交わしてくれた。元々人が良い氷麗さんと親睦を深めるのは少しの間も必要なかったくらいで、今ではすっかり敬語を使わずに話すような仲になれていた。
だが、雪羅さんは氷麗さんのようにはいかなかった。俺からどんな話題を持ち掛けてもシカトの連鎖で、雪羅さんが唯一言葉を交わすのは氷麗さんだけ。たまに反応を見せてくれるとしても、それは「早く出て行け」と言う意味を込めた敵意の眼差しだけ。一向に心を開いてくれることはなかった。
しかし俺も挫けない屈強な精神力を携えし男。どれだけ冷たい態度を取られようと、毎日欠かさず雪羅さんに話し掛けていたりする。
山菜取りのために氷麗さんが家を空けて、俺と雪羅さんの二人だけの時間が訪れることが何度かあった。その時間だけは決して無駄にすることなく、話を尽きさせないように喋って喋って喋りまくる。しかしそれでも雪羅さんは耳無し芳一を演じ続けて、溜息の一つすら吐くことがなかった。
そして更に翌日。今日も氷麗さんは山菜取りに出掛けていて、俺は欠かさずトークを披露し続けていたけど、自らギブアップして読書の時間に勤しんでいた。
読書と言っても俺が読んでいるのは文字だらけの小説ではなくて、絵、紹介文、特徴の三つだけが綴られた妖怪図鑑。これはその昔、俺があの憎たらしき扱き使い魔に生まれて初めての土下座をして買ってもらったもので、何処に行こうにも常時見離さず持ち歩いている宝物だったりする。
雪崩に巻き込まれたせいで荷物は全て無くしてしまったけど、幸い服の中に入れていたこれだけは無事だった。これが不幸中の幸いというやつなんだろう。もしこれまで無くしていたら、今頃俺は涙で枕を濡らしていたところだ。
ちなみに雪羅さんも何かの本をずっと読んでいて、寂しく隅っこの方にぽつんと座っている。以前こっそりと近付こうとした時があったのだけれど、その際に何処からか取り出した氷柱を投げつけられて威嚇されてしまったので、半径二メートル以内に近付くことができなくなっていた。年頃の女の子って逞しいね。
「うっへぇ~……これまた凶暴な妖怪ですこと。恐竜でいうティラノサウルスかな?」
妖怪図鑑を床に置いてペラペラとページを捲る。そしてとあるページで手を止めて、俺は思わずそんなことを呟いていた。
この図鑑は一ページに一人ずつ妖怪が描かれているので、厚みとしては辞書並みのボリュームがある。そのお蔭で何度読んでも全部把握することができず、今もこうして初めて見たかのような感覚を味わえていた。
ちなみに今俺が見ているのは、『熊風』という妖怪。熊を原型にした大きな頭と身体が特徴的で、昔とある集落の人々を餌として食い殺し回った獰猛な妖怪らしい。
少なくとも俺が今まで出会って来た妖怪には、人に害を仇なすような人は誰一人としていなかった。いたとしてもそれはちょっとした悪戯(覗き等)をしているだけなので、毎日罪を犯す者を出している人間と比べたら、妖怪の人の良さは天と地の差があると自負している。
「……?」
熊風のページを開いたまま一人考察していると、不意に横から視線を感じた。無論、雪羅さんによるものだ。
でもいつもと違うのは、その視線に敵意がまるで感じられなかった。何故だろうと今度は今の雪羅さんについて模索してみると、結論はこの図鑑の存在に思い至った。
興味本位によるチラ見。俺じゃなくて図鑑の方に視線を向けているから、敵意が感じられないということだ。
これはチャンスなのでは? そう思った俺は身を起こして、雪羅さんにページが見えるように右手で持った。
「他の妖怪、もしかして興味あるの?」
「っ……」
急に話し掛けられたことでビクッと肩を跳ねさせると、すぐに読んでいた本に視線を戻して、本で顔を隠してしまう。
俺はニヤニヤとしながらまた横になって図鑑を床に広げる。ゆっくりページを開いてあれこれ呟いていると、また横から視線を感じるようになる。やっぱり妖怪図鑑に興味津々なご様子。
そこで一つ企んだ俺は、妖怪図鑑をとあるページまで開いて止めて、そのまま図鑑を放置して背を向けた。後に演技の寝息を立てて、目を瞑りながら彼女が動くのを待った。
そして数分が経過した時、俺が完全に寝ていると踏んだ雪羅さんに動きがあった。こっそり尻目で確認すると、自分が読んでいた本を閉じて置いて、物音を立てないようにこっそり図鑑の方に近付いて来ていた。
俺はバレないように視線を前に戻して、図鑑という餌に釣られた雪羅さんの様子を見ずに楽しむ。聞き耳を立ててそのまま固まっていると、図鑑のページが捲られる音が聞こえて来た。
それからしばらく雪羅さんが妖怪図鑑に没頭している最中、俺は意表を突いて呟いた。
「雪男」
「っ!?」
俺が起きていたことと、その一言に驚いた雪羅さんが図鑑を手元から落とした。
「当たってるでしょ? 今のページの妖怪」
「……なんで分かったのよペテン師」
この数日間全く口を聞いてくれなかったけど、ついに雪羅さんから話し掛けてもらうというノルマを達成し、俺は密かにガッツポーズを取った。というかペテン師なんて言葉よく知ってますね雪羅さんや。
「俺がはっきりと記憶してるページの最初に開いておいたんだよ。それでページを捲る音を聞いて、その度にそのページ毎の妖怪を思い出してたんだよ。それは俺の愛読書用の宝物だからさ。もう何度も読み返してるから分かるところは分かるんだなぁこれが」
まぁ、覚えてない所の方が圧倒的に多いんですけどね。
「……あっそ」
素っ気ない返事を頂いたけど、雪羅さんはそれを床に置くことはなかった。寝ている俺は存在しないものだと認識して、ペラペラとページを捲っていく。
「青行燈……大入道……鵺……ダイダラボッチ……柳女……豆腐小僧……百々目鬼――」
「うるさい黙ってて」
「……あぃ」
調子に乗って私妖怪詳しいんですアピールしてみたところ、一蹴されて口封じされた。さては雪羅さん、読み始めたら本に没頭するタイプだな? その年で読書好きとは大人だなぁ。
「ちなみに雪羅さんが好きな妖怪って何?」
「……雪女」
「っ!」
また一蹴されるつもりで聞いてみたところ、意外にも俺の問いに答えてくれた。まさか自分という妖怪が好きだったとは、なんてポジティブ精神だ。
雪女は妖怪の中でも一番人間に近しい妖怪の一人。妖怪の中でも一番メジャーであり、どういった書物でも基本美人として描かれている。好きになるのも何らおかしなことではない。
「雪女か〜……そういやその雪女で思ってることが一つあるんだけどさ。雪羅さん達って普通にお風呂に入ったりできるの?」
「それを貴方に答える義理はないわよ」
「いやん、冷たいわ雪羅さん。雪女の鏡ね」
その刹那、俺の頬近くを紙一重で何かが通り抜けた。チラッと後ろを振り向くと、三十センチ以上はあるであろう立派な氷柱が壁に突き刺さっていた。
「次喋ったら今のを眉間にぶち当てるわよ」
次の氷柱を右手に持ちながら睨みを利かせてくる。まさか雪羅さんは射的か何かの達人だったりするんだろうか? こんな芸当を軽くこなしてしまうなんて、その才能が羨ましい。
「雪羅さん今度ダーツの大会とかに出てみたら? 間違いなく優勝できると思うよ」
言い付けを守らずに口を開くと、宣言通り今度は本気で氷柱を当てに来た。
俺の眉間に放たれて来たそれを寸前のところでキャッチする。よく見たら氷柱ではなく、丸い球体の氷塊だった。殺傷能力がある氷柱は流石に本気で投げ当てようとは思い至らなかったらしい。何だかんだ言って優しいじゃんか。
「なっ!? くっ……!」
密かに和んでいるのも束の間、俺が受け止めるとは思わなかったようで少し驚いた反応を示す雪羅さん。それが気に食わなかったようで、歯軋りしながら意地になってまた氷塊を投げ付けて来た。
今度はそれを避ける、避ける、避ける。俺の残像混じりの華麗な回避能力に雪羅さんは翻弄され、気付けば俺の後ろに氷塊の山が組み立てられていた。この芸も含め、全て俺の手のひらの上での出来事よ。
「何よその滑らかな身体能力!? 本当に怪我人!?」
「フフフッ……その昔、俺は雪合戦の覇王と恐れられていた時期があってね。でも最後には集団で石入った雪玉を使われて袋叩きにあって……。それがトラウマになって物理的攻撃をひたすら回避する修行に明け暮れたことがあったんだよねこれが」
今でも思い返すと聡明に蘇ってくる冬の記憶。幼心に深く傷が付いたことは言うまでもない。
「状況が不利になると寄って集って一人の相手を貶めようとする……醜いものね人間は」
「おぉ!? 分かってくれるの俺のやるせないこの気持ち!?」
「勘違いしないでくれる? 貴方もその醜い人間の内の一人だって言ってるのよ」
「集団リンチには幾度となくあって来たけど、その逆は一度も体験したことないよ?」
「ならこれから体験するんでしょ。人間は差別無しに生きられない腐った生き物だもの」
「確かに今のご時世には、腐女子や腐男子といった人達の考え方が差別されてるよね。誰が誰を好きになるなんて個人の自由なのに、そんなの放っておけって話だよ実際。まぁ俺は普通に女の子が好きなんだけどね!」
「……貴方と話すとまるで話が噛み合わないわね。無駄な時間だったわ」
白い目で俺を一瞥して、再び妖怪図鑑の方に視線を戻した。無念にも話を切られてしまったけど、初めて交わせた会話のキャッチボールの喜びだけで今晩は飯五杯はイケると思った。
「そういやさっき雪女が好きって言ってたけど、雪女のどういうところが好きなの? 俺としては雪を自在に操れる的な特殊能力に目がいくかなぁ。本当に操れるのかは分からないけど」
「…………」
いつも通り返事を返してくれないけど、心なしか目付きが白けて冷たくなったように見える。呆れてモノが言えなくなってるんだろうか。でも反応してくれるだけこちらとしては普通に嬉しい。
次はどうしようかなと辺りをきょろきょろ見渡すと、さっきの氷塊の山が目に入った。俺はその山から丸みを帯びた氷塊を二つ程見定めて選び取って、胸の中に突っ込んで胸を張った。
「数年後の雪羅さんの物真似~。いやん、弥白君ったらス・ケ・ベ☆」
「死ねぇぇぇ!!」
俺の冗談混じりの芸にブチ切れた雪羅さんが目を三角にして立ち上がり、マシンガンのような勢いで短刀のような氷柱を乱射してきた。流石に調子に乗り過ぎちゃった、テヘッ。
「あらあら、賑やかで楽しそうですね二人共」
分身するが如く雪羅さんの猛攻を避けていると、山菜の入った籠を持った氷麗さんがニコニコしながら帰って来た。
「おかえり氷麗さん。いやぁ、雪羅さんって逞しいね。一回一回のツッコミがかなり激しくて、リハビリが捗ること捗ること」
「ふふっ、下手に身体を動かしてはいけませんよ弥白君? 雪羅ちゃんも楽しそうで何よりです」
「何処をどう見たら今の私が楽しそうに見えるの!? 私はただそこの変態野郎を仕留めようとしてるだけよ!」
「あら、つまり雪羅ちゃんは狩人になりたいのですか? 私の自慢の一人娘は逞しいですね。でも弥白君は狩るべき対象ではありませんよ? ただ、女として狩ると言うのであれば、余計な一言は挟まないでおきますね」
氷麗さんが珍しい冗談を混ぜて可愛らしくウインクする。そんな悪戯っ子のような顔をする母親を見て、雪羅さんは顔色を青くさせた。
「お母さん!? この短期間に一体何があったの!? そんな大胆な冗談を言うような人じゃなかったよね!?」
「そうですね。でも女は日々成長する生き物なんです……と、この前弥白君が教えてくれました。それと実は最近、女の魅力をアピールするやり方もレクチャーしてもらってるんです。弥白君曰く、今の世間では“ギャップ萌え”というものが流行っているとのことで、今はその練習を毎日密かに――」
「この人間め! ついにお母さんに毒牙を剥き出すだなんて! やっぱり死ね! 今すぐ死ね! とっとと死ね!」
「ハッハッハッ! 死ねと言われると寿命が伸びる今日この頃な俺に避けられない攻撃などありはしない!」
「避けるな腹立つ! 貴方は絶対私の手で殺してやるんだからぁ!!」
小屋内に雪羅さんの怒号が響き渡る。それから今度は俺と氷麗さん二人のトークによって、雪羅さん一人が永遠と弄られる羽目になった。
そうして今日は、ここに居候し始めて一番賑やかな日となった。少しは雪羅さんとの距離感が縮まってくれたかな? もしそうだったら嬉しいなぁ。
〜※〜
その夜。ふと目が覚めた俺は瞼を持ち上げて、すぐ右隣で眠っている氷麗さんの方を見た。
人妻でありながらもその美貌は二十歳の若者にも負けず劣らず、すやすやと寝息を立てて幸せそうに眠っている。その無防備な姿に密かに興奮してしまうが、すぐに頭を左右に振って邪念を振り払った。
気を紛らわすために逆方向に寝返りを打つと、ふと小屋の隅っこの方に一本の蝋燭が灯っていた。そのすぐ傍には雪羅さんの姿があり、俺の愛読書である妖怪図鑑を床に置いて布団の上に横になりながら静かに読書の真っ最中だった。
「眠れないの?」
布団の中から幼虫のように這い出て雪羅さんの傍に近寄る。
近付いてくる俺に対して反射的に嫌な顔になるものの、夜中だからか昼間のように氷塊を投げ付けてくることはなかった。口封じに眉間に氷柱を投げられると思っていたけど、ちょっとだけ……いや、大分安心した。
「虫が湧いて来たわね。蚊取り線香でも焚こうかしら」
「冬なのに羽虫が飛んでるなんて珍しいね。どの辺りで見たの?」
「……貴方のことよ人間」
「あっ、俺のことかぁ。そういや昔に蝉の鳴き声の物真似をしてて、虫野郎の白ちゃんというあだ名を付けられていた時期が一時――」
「そう……そんなに刺されたかったなら初めから言えばよかったのに」
真夜中のトークに興じようと思った矢先、一本の氷柱の針先を眉間に向けられる。止む無くお口にチャックをすると、深い溜息をつきながら氷柱を溶かして消してくれた。
「どうして貴方はそんなにしつこく構ってくるのよ……鬱陶しいんだけど」
「そんなの雪羅さんと仲良くなりたいからに決まってるじゃないか」
「ならだったら残念だったわね。私が貴方に心を開く日なんて今後一生やって来ないわ。時間を無駄に使う前にとっととここを出て行ったら?」
「雪羅さん、この世に絶対なんてものはないんだよ? それに俺はいつか必ず雪羅さんと仲良くなれる気がしてるんだよね」
「確証も何も無いのに、夢物語は貴方の妄想の中だけに留まらせておきなさいよ」
「確証ならあるよ。ほら、言霊ってあるでしょ? 口にした言葉が現実になってくれるっていうおまじないみたいなものなんだけどさ」
「……ここまで来ると救い様もない妄言者ね」
「はははっ、雪羅さんに褒められる日が来るなんて嬉しいなぁ」
「もういいから黙ってなさい。お願いだから」
お願いされてはしょうがない。余計な無駄口は叩かないように意識して、今一度お口にチャックをして閉めた。
俺と会話を止めてすぐ妖怪図鑑の方に視線を戻す。俺も好奇心に釣られて、邪魔にならないように横から覗き込んだ。
雪羅さんは何故か一向にページを捲ることをせず、一人の妖怪の絵を細めた目でただジッと見つめていた。
「“つらら女”……」
「……私が最も嫌いな妖怪よ」
「え?」
“つらら女”。見た目や身体の体質が雪女と瓜二つと言っても良い妖怪だ。ただ決定的に違うことと言えば、世に伝えられている俗説や伝承といった言い伝えだけだろうか。
俺の記憶によれば確か雪女は、人間界に入り混じって普通の暮らしをしていたところ、とある男と出会って結婚して、それはそれは幸せな日々を過ごしていた。だけど日を重ねるにつれて妖怪である身を隠す雪女がお風呂に入らないことを疑問に抱かれ、その男に無理矢理お風呂に入れられて溶けて消えてしまった。
男は雪女がお湯によって消えてしまったことに気付かず、家を出て行ってしまったと勘違いした。それから必死に雪女の所在を探るも、一向に見つからずに永遠の別れを告げざるを得なかった……という悲しいお話。
童話の人魚姫のお話に似通った悲恋話といったところだろうか。これは妖怪好きの俺でなくともよく知られているおとぎ話のようなものだ。
でもつらら女は違う。雪女と違って、更に残酷な結末の伝承が残されている。
話の内容的には雪女と殆ど同じ。結婚願望があった一人の男が一本の氷柱を見て、「あぁ~、あんな感じの煌いた女性とお近づきになりたい……」と淡い願望をボヤいていた。そしてその後日、突如男の家に氷柱のように綺麗な女性が訪れて来て、気付けば不自然さを感じさせることなく家に住み着かれていた。拒むこともなく男はその女性と日常と共にし、次第に愛情を育むようになった二人は結婚した。
だが、季節が巡って春になった頃。買い物に出て行ったはずのつらら女が消えたかのように所在が掴めなくなった。男は必死に探すものの、全く情報が掴めないせいで「逃げられたんだ……」と思い込むようになってしまい、つらら女を探すことを止めてしまった。
更に時が過ぎて、男は別の女性と出会いを果たし、結婚した。彼女の存在によって心の傷が癒され、また幸せの日々が続こうとしていた。だが再び冬になった頃、突如として再びつらら女が男の前に姿を現した。
男は必死に探していたことを伝え、「数年後にまたふらりと来られても困る」と打ち明けた。それを聞いたつらら女は「永遠の愛を誓ったのに……」と言い残し、悲しい顔になりながら消えるようにまた姿を消してしまった。
そして男が踵を返して家に戻ろうとしたところ、つらら女に呪いでも掛けられてしまったのか、家の屋根から生えていた一本の氷柱が落ちて来た。氷柱は男の首を貫通し、後に男はこの世に帰ざる身となってしまった……という悲しくも恐ろしいお話。
多分だけど、雪羅さんは人間を呪って死んで行ったつらら女が許せないと思っているのかもしれない。死んで相手を道連れにするのではなく、男を一生分叱り付けて強く生きて欲しいと思っているのかもしれない。死という逃げを選ぶのではなく、生という戦いに正面から挑むべきだったんだ、と。
……いや、考え過ぎかな。雪羅さんのことだからもっと単純な理由なのかも。一人で大人しく消えた雪女と違って、人を殺してしまったつらら女が怖いから、とか。いやでもそれも単純過ぎるかなぁ……?
「ちなみになんで嫌いなの? 何か理由があるのかな?」
「…………」
雪羅さんは何も喋らない。
すると何故か、つらら女の絵を見る目が悲しい目をしていることに気が付いた。それこそ、男に永遠の別れを告げたつらら女のように。
いつもは高飛車で相手に元気を振りまく余裕すらある元気な女の子。それが雪羅さんの良いところなのに、今はその影すら見当たらない。彼女のそんな顔を見てるだけなのに、胸の中が鎖か何かで締め付けられるように痛くなった。
一体この妖怪と何があったのか、もしくは何もなかったのかは分からない。でもその真実を知りたいという気持ちよりもまず、雪羅さんの悲しむ顔を見たくないと願いを乞う俺がいた。
「ん~、俺は好きなんだけどなぁつらら女。多分妖怪の中で一番好きだと思ってるよ」
俺は今まで誰にも打ち明けたことがなかったことを、今日この日に初めて打ち明けた。
雪羅さんは「は?」と呟くと、普段よりもより一層鋭い目付きで睨み付けてきた。
「何それ、嫌味のつもり? 調子づいて冗談言ってるつもりなら本気で殺すわよクズの人間」
本気で俺を嫌う目だ。もしかしたら本当にもう二度と口を聞いて貰えなくなるかもしれない。
だけど俺は言いたくなった。言わなくちゃと思った。多分、“その一つの可能性”に気付いた時からずっと言いたかったことなのかもしれない。
もしもこの本音を打ち明けることで彼女の何かが変わってくれるというのなら、俺はどれだけ嫌われても構わない。だから俺は迷わなかった。迷わずに口を動かそうと思えた。
「嘘でも冗談でもないよ。なんで雪羅さんがつらら女が嫌いなのか分からないけど、俺は本当につらら女が一番好きな妖怪なんだよね」
「人間を殺すような危険な妖怪が好きとか頭狂ってるんじゃないの? もしかして本当はあの雪崩で死にたかったとかでも言うつもり? だったら私が今ここで殺してやるわよ」
雪羅さんが本気の殺意そのものを向けるかのように氷柱を手に持ち、針先を俺の眉間に当てて来る。少しだけ突き刺さって微量の血が流れて来たけど、それでも俺は笑顔を崩さずにもっと笑ってやろうと思った。
「確かに人を殺したのかもしれないけどさ。でも俺は思ったんだよ。このつらら女は誰よりも暖かい愛情を持った優しい妖怪なんだなぁって」
「この状況で立て続けに嘘をつくだなんて良い度胸してるじゃない。それとも根性が腐ってるのかしら?」
一瞬だけど、氷柱を持つ手が震えたような気がした。
「だってさ、男の冗談めいた言葉のために本気になって、結婚する仲にまでなるような沢山の愛情を育んでくれたんだよ? それに数年間離れていたのに、最後にはちゃんと帰って来てくれた。それって凄いことだと思わない? ずっと離れ離れになってたのに、数年間欠かさず相手のことを強く想っていたってことなんだからさ。だから俺はつらら女の愛情深い優しい心根が好きになったんだよ」
そうして俺の想いを全てぶつけて微笑んで見せた。
すると、雪羅さんの手元から氷柱が落ちて溶けて消えた。
その後、ぽつぽつとつらら女が描かれた絵に雫が落ちる。雪羅さんは、本を開いたまま泣いていた。
「……バッカみたい……本当にあった話じゃないかもしれないのに……そこまで本気になって考えるなんて」
「俺はいつでもどこでも本気だからね! 何事においても全力投球……いやそれは嘘。俺って基本のんびり屋だから好きなことじゃないとやる気になれないや」
「ふんっ……あっそ」
手の甲で涙を拭き取ると、悲しそうにしていた目が消えていた。代わりにそこにあったのは、微かに口元を和らげた笑みだった。
……なんだ? 何だか妙に胸の中がざわつく。さっきまで何ともなかったのに、何処か落ち着かない。何これ凄いもどかしい。
自分の身に起こっている謎の現象に戸惑っていると、ふと目の前に妖怪図鑑を差し出された。
「はい」
「は、はい……?」
「返すって言ってるのよ」
「あっ……そ、そっか……」
落ち着かないまま妖怪図鑑を受け取って枕元に置く。
「取り敢えず、貴方は人間の中でも特に変人だってことがよーく分かったわ」
「じ、自覚があります故……」
「そう、既に救い様がなかったのね」
そうやってまた雪羅さんは微かに笑う。その顔を見ると、次第にじわりと汗が滲み出て来た。
「……? どうしたのよ急に。顔赤いわよ貴方」
「へっ!? そ、そうかなぁ~? 気のせいなんじゃないかなぁ~? は、はははははっ……」
「ふーん……変なの。じゃあ私もう寝るから。貴方もさっさと寝ることね」
俺の妙な変化に白い目を向けて、雪羅さんは自分布団の中に戻って行った。
俺も言われた通りにもう眠ろうと思い、氷麗さんの横に戻って大人しく布団の中で横になる。
しかし、一向に心臓の鼓動が遅くなる気配がない。こんな状態で熟睡できるはずもなし。むしろさっきより目が冴えてきてしまっている。
これはまずいと思い、心を落ち着かせるために氷麗さんの寝顔をジッと覗き見る。
……落ち着いた。癒し溢れるその麗しい寝顔のお蔭だ。一体さっきのアレはなんだったのか……謎は闇の中だ。
また発生しても困るので、そのまま氷麗さんの寝顔を見つめながらジッとする。
ずっとそうしていると、不意に氷麗さんの身体が動いた。寝返りかと思っていると、俺の方に両手を伸ばしてきてギュッと抱き締められた。
思わず声が出そうになったけど、何とか気合で堪える。顔の横から豊満で柔い巨乳を押し付けられるが、俺の分身も気合で堪える。
でも不思議なことに、再び高鳴っていた心臓の音が次第に落ち着いていき、最後には安らぎだけが心の中に留まった。
後に邪な感情が暴走して理性崩壊……なんて最悪の結果を予想していたけど、そうなる気配が一向にない。これは、この感情は、氷麗さんを初めて見た時と同じものだ。
俺は氷麗さんに一目惚れしている。今まではずっとそう思っていた。だけど、今こうして氷麗さんの胸の中で抱き締められて、それは違ったんだと自覚した。
俺は天涯孤独の身。故に血の繋がった家族が存在せず、親から一度も愛情を注がれたことがない。でも厠姉さん達がいるから、寂しいと思うことは一度もなかった。
だけど、もしかしたら俺は心の何処かで親の愛情――母性を求めていたのかもしれない。一度だけで良いから、思う存分親の愛情に甘えたいという子供ながらの気持ちが。
きっと俺は、この人が持つ母性に惹かれていたんだと思う。こんなに優しい人が俺の母親だったらなと、叶わない理想に焦がれながら……。
少しくらいなら……いいだろうか?
今日だけで良い。例え血の繋がりのない人でも良い。俺はその母性に甘えるように、氷麗さんの背に両手を伸ばして抱き付いた。
母性に甘えることがこんなにも心地良くて、こんなにも暖かいものだったなんて知らなかった。そんな想いを馳せていると、ほろりと片目から涙粒が滴り落ちた。
ずっとこうしていたい。ずっとこの人の元で甘えていたい。今までで一番幼くなっている自分に気付かぬまま、俺は眠りの世界に誘われていった。
眠る直前に「ありがとう……」と氷麗さんに囁かれた気がしたけど……夢じゃなかったら嬉しいなぁ……。




