一目惚れは吹雪の山の中で
何も見えない。真っ暗だ。宙に浮いているのか、上も下も分からない。手を伸ばそうとしても空回るばかりで、辺りには何も無い。
ここがもし無の空間だとするなら、この場所こそが所謂地獄という場所なのかもしれない。地獄に行けば閻魔様に会えると期待していたのに、現実はあまりにも残酷だ。
あの後……やっぱり俺は息絶えてしまったんだろうか。ようやく出会えた彼女を目の前に。最後に出会えただけまだマシだけど、欲を言えばもう少しだけこの手で触れ合いたかった。
待った期間はたったの三年。短いようで長い年月を経て、彼女はやっと約束を果たしに来てくれた。それなのにこのオチっていうのは……。人生においてバッドエンドは勘弁して欲しかったけど、生きるって難しいことだったんだなぁ。
この十六年間で本当に色んなことがあった。その中でも一番記憶に残っているのは、今年の初春に出会ったキサナや皆との思い出。基本的に馬鹿馬鹿しいことばかりだったけど、たった数ヶ月で一生モノの思い出を得られた。
それと……もう一つ。他でも無い、約束を交わした彼女と過ごした三ヶ月の日々。最初はどうなるかと思ったけど、最後には儚くも暖かい思い出となってくれていた。
あれは確か、俺が中学生になろうとしていた冬の頃だっただろうか。久し振りだし、少し思い返してみるとしよう。
一生忘れることのない、あの日々の記憶を。
〜※〜
「決めた! もう決めたよ俺は! 今日をもって俺はこの家を出て行くから!」
もう少しで小学校を卒業することになる最後の冬がやって来た。そんな大切な時期の中で俺は、必要最低限の物を全部リュックに詰め込んでいた。
「か、考え直してくださいシロちゃん。今はまだ早過ぎますよ。そんなに焦らずに、もう少しだけ気長に待ってみましょうよ」
「そうですよ兄さん。それに今は冬なんですよ? こんな寒い中で夜逃げなんてしても、寒さで野垂れ死ぬだけですよ」
「やだ! 待てないしもう待たない! これ以上この家にいても、永遠に扱き使われるだけだし!」
厠姉さんとサトリの反対を押し切り、防寒着を着たところで全ての準備を整える。後はあの扱き使い魔の目を盗んでこっそりここを出て行くだけだ。
俺は今までずっと堪えていた。あれやれこれやれと休みなく毎日俺に命令してきて、俺も食べさせて貰っている身として文句の一つも言わずに貢献してきた。
だけどそれももう限界。家の手伝いを強要されるせいで、学校の友達と遊ぶ時間すら取らせてもらえない。そのせいで俺は小学生なのにぼっちになってしまって、寂しい学園生活を六年も送ってしまった。
唯一の救いは、いつの間にか俺に取り憑き、この部屋に住み着いていた妖怪の皆という存在。きっと皆がいなかったら、俺はもっと早くにこの家を立ち退いていた自信すらある。
厠神の厠姉さんは優しくて、拗ねる俺を幾度となく甘えさせてくれた。覚のサトリや狸小僧のタヌっちは憎まれ口を叩きながらも、家の手伝いを終わらせた夜に遊び相手になってくれた。うまづらのウマちゃんは毎朝俺に心地良い目覚めを施してくれたし、百目爺は……まぁ、ずっとコンタクト探しに明け暮れていた。
しかし、それももう今日で終わり。今宵俺は暗い冬空の下、過去最年少の旅人となってこの世を流離うんだ!
そうなったら俺は晴れて自由の身。あぁ! 自由って素晴らしいね! アイラブフリーダム! アイラブフリーワールド!
「残念ながら兄さん。もっと昔の時代には、今の兄さんよりも年下の旅人がいたのはザラだったらしいですよ」
「えぇい! 旅の門出に水を差すような台詞を挟むんじゃありません! それとまた俺の心を読んだでしょ!? そうやって毎回毎回俺の中身を覗き見て……サトリはいつからそんなエロい子になったのさ!」
「フッ……無知であるぞ弥白。偽りを見透かす邪眼を持つその乙女は、この世に召喚された時より邪な情を備えし覚よ」
「本当? だとしたら……うわぁ、引くわぁサトリ。俺久し振りにドン引きしたわぁ」
「馬鹿狸の妄言を鵜呑みにしないでくれませんか!? 私は昔も今も健全ですよ! 厠姉さん並みの清廉潔白な乙女ですよ! ねぇ厠姉さん!?」
「えっと……そ、そうですね。あははっ……」
目を逸らして不器用に笑う厠姉さん。サトリが今の発言に盛ったところを感じた、と言いたげな表情だ。でも他にまだ何か思うところがあるような顔をしてるような……気のせいだろうか?
「なんですかその反応!? まさか厠姉さんまで私をエロい子だと思ってるんですか!?」
「い、いえいえ、そういうわけではないですよ! そんなことよりシロちゃん。本当にここを出て行ってしまうんですか?」
「そ、そんなことって……酷いです……うぅ……」
あんまりな扱いにサトリは拗ねてしまい、隅っこの方で縮こまってしまう。でもフォローの達人であるウマちゃんが空かさずサトリの隣に座り、紙の束とサインペンを手に慰めに入っていた。あれは放っておいても大丈夫だろう。
「止めないで厠姉さん、俺はもううんざりなんだ。これ以上年中無休で家の手伝いを無償でやらされるくらいなら、一人穏やかな場所でひっそりしながらのんびり暮らしたいんだよ。今の時期ならそうだなぁ……こたつの中で冬みかんを肴にテレビを見るとか?」
あぁ……想像するだけで幸せな気持ちに浸れてしまう。でもこの感情は一時的なものだし、妄想で終わらせるのではなくて実現させたい。なんて健気な夢だろうか! 俺まだ仮にも小学生なのに!
「しかし弥白よ。先にもあの邪なる邪眼の化身がボヤいていたが、この冷徹なる冷酷の世に単独で足を踏み入れるなど、悪魔との契約を契らずに天界の王と一手死合う並みの暴挙であるぞ。それでも尚貴様は、孤独の道を自ら歩むと言うのか」
「ごめんタヌっち、よく分からないからもっかい言って」
「……寒いから止めた方がいいぞ弥白」
「初めからそう言えばいいのに、なんでタヌっちって毎度のこと難しい言い方するの? 妖怪の間で流行ってるの? それともただイカしてると思ってるの? それは何というか……ご愁傷様です」
「……貴様の子孫はもしや外道の鬼なのか……?」
涙目になった狸小僧という、ウマちゃんの横に新たなお客が紛れ込んだ。なんで? 俺何か悪いこと言ったのかな? 何が気に障ったのか全く分からない。
「ほら、皆さんもシロちゃんのことを心配していますよ? だからまず落ち着いて考え直しましょう? ね?」
「落ち着いて考えた結果がこれなんだよ。まぁ出ていくと言っても、俺の住処を見つけ次第帰ってくるからさ。そしたら皆でそこに引っ越そうよ」
「でもそうなると金銭的な問題とか出て来るんじゃないですか? ですから家出なんてしても結局は――って、話の途中で出て行かないでくださいよ! シロちゃん!? シロちゃ~ん!?」
厠姉さんの一人演説を背に、日々鍛えていた身体能力を駆使して窓から華麗に飛び降りた。地面は雪塗れなので、着地する場所で怪我をして即旅終了等というフラグは回避だ。
そうして俺は自分の気配を押し殺して、誰にもバレることなくこの地から離れていった。
さぁ、冒険の門出だ! 未来溢れる希望探しに高らかに笑おうではないか!
「ハーッハッハッハッハッハッ!!」
〜※〜
「は……ははぅ……ぉぉぉぉぉ……」
未来溢れる希望探し。確かさっき俺はそんな妄言を呟いて笑っていたっけ。そんな過去の俺に敢えて言おう。君は本物の馬鹿であると。
冒険と言えば険しい道。即ち、冬の山道こそが旅道に相応しいと判断した俺は、わざと公共の道から外れて山の中へと入って行った。
難局を乗り越えてこそ楽園はより美しく見えるもの……と、俺は錯覚していた。そもそも難局とは、乗り越えるのが難しいから難局を言うんだ。口では一言で容易に言えるけど、実際乗り越えようとするとかなりの体力と精神力を使うことになる。俺はそれを全く理解していなかった。
元々、家を出る時から天候は宜しくなかった。数十メートル先は雪のせいで見えなくなっていて、風も若干強めだった。でもだからこそ、俺は景色に紛れて逃げやすいと考えたのだ。そしてそれは案の定その通りで、あの土地を抜け出すのは容易だった。
しかし、その先の問題を軽はずみに見て危惧していなかった。そのお蔭で山に入って数十分後、俺は見事に迷子になってしまった。
更に不幸に不幸が重なり、天候が更に荒れて猛吹雪。前を向こうにも風が強すぎて何も見えず、足場も雪で埋もれていて不安定。しかも長靴じゃなくてただの冬靴を履いているものだから、靴の中にガンガン雪が入って足の感覚が既にない。
雪の結晶の模様が描かれた俺特製のこの水色マフラーさえあれば冬道なんて屁の屁の河童、なんて思ってた俺はなんと浅はかだったんだろうか。もっと重ね着してくればこんな凍える目に合うはずもなかったのに。いやそもそも山道に入った時点で既にキチガイだった。
旅に格好良さなんて必要なかった。別に誰かに見られるわけでもないのに、何を舞い上がっていたんだ俺は? もっと先の苦労に視野を広げていれば、こんなことにはならなかったというのに。あぁ、考えれば考えるほど頭が痛くなってくる。
既に方角が分からないため、どっちが来た道なのかすら分からない。もしもの時は足跡を見れば大丈夫だろうと思っていたけど、吹雪なんだから足跡なんて残るわけがない。ヤバい、ここに来てホームシックに成り掛けてきた。
……いや、落ち着け俺。確かに今の状況は絶体絶命に近しいものがあるが、こういう時こそ前だけを見つめて歩き続けるんだ。厠姉さん達にあれだけ見栄張って出て来たんだだから、おめおめと尻尾巻いて帰るわけにはいかない。
進め弥白! 振り向くな! 前を見ろ! 天を仰げ! 雪と一体化し、逆に雪を支配するのだ! 俺は今日から雪の精! 指先一つで気候を操る魔導士よ!
「そぉ~れ! 雪よ晴れよ! 吹雪よ失せよ! 俺の道を切り開け~! おほほほほっ!」
吹雪道を舞うように歩む。きっと今の俺は本当に雪の精のような可憐さを帯びていることだろう。
このしなやかな踊りを見れば誰だって魅了されるはずさ! それが例え、意志を持たない気まぐれさんな天候であったとしてもね!
ゴゴゴゴゴッ……
ほら、聞こえてくるよ雪のお声が。失せろ失せろと俺に死の宣告を雪風と共に囁いてくるよ。
見て見て、正面に何か見えるよ。あれは所謂、大雪原の大行進ってやつだね。巻き込まれたら子供の俺じゃぁ一溜りもないや!
「おほほほほっ……嘘でしょ?」
俺の悪ふざけの舞いを見た天候様が気分でも害してしまったようで、前方より物凄い音と共に雪崩が迫り来ていた。俺は咄嗟に回れ右して逃げ出そうとするが、雪道のせいで上手く走ることができない。それ以前に雪崩から走って逃げられるわけもなかった。
小さな俺の身体は必然的に雪崩に巻き込まれ、無残にも雪の中に溺れていった。
七転八倒なんてレベルを越えた勢いに、俺の身体は回り続ける。最早上も下も分からなくなり、何もできぬまま雪に身を任せることしかできなかった。
〜※〜
一体どれだけの時が過ぎたんだろうか。そして、俺は何処まで雪崩に流されてしまったんだろう。
奇跡的に雪の中で死ぬような最悪の未来を辿ることなく、俺は薄れる視界の中で目を開いた。辺りは変わらず吹雪一色で、山の中なのか森の中なのかすら分からない場所まで来てしまっていた。
「痛っ!?」
雪の中から這い出て起き上がろうとすると、身体の節々に激痛が走って前のめりに倒れた。
無事で済んだと思っていたけど、全然無事なんかじゃなかった。よく自分を身体を確認したら、左腕があり得ない方向に曲がっているし、頭から暖かみを帯びた赤い液体が流れて出ていた。
あれ? これって本気でヤバいんじゃ……? 辛うじて死んでいないってだけで、このままだと本当に……。
『こんな寒い中で夜逃げなんてしても、寒さで野垂れ死ぬだけですよ』
こんな時にサトリが言っていた言葉を思い出した。サトリや他の皆が言っていたことは正論だった。俺一人で雪の中家出するなんて、自殺行為に等しかったんだ。
さっきまでは何とか起き上がる力があったのに、いつの間にか寒さが俺の身体を毒していたのか、指一本すら動かせなくなってしまう。防寒着が意味など成さず、身体中が凍えて震え出した。
いや、違う。この震えは寒さだけじゃない。死ぬかもしれないという恐怖心が自然と身体に現れているんだ。
嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ! こんなことで死にたくない! 自分勝手なことをしたことは謝るから誰か助けて!
しかしそれはあくまで心の声。口から言葉を発することもできず、恐怖のあまりに涙が流れ出て来た。
厠姉さんの言うことを聞いていればこんなことにはならなかった。俺のせいだ。俺の責任だ。だとしても死ぬことを受け入れたくない。俺はなんて我が儘なんだろう……。
目が覚めた意識が今一度薄れていく。瞼が急に重くなってきて、少しでも気遅れしたら眠ってしまうと自覚できた。そしてそれは即ち、俺がここで野垂れ死ぬことを表す。
死にたくない、眠っちゃ駄目だと分かっていても、俺の身体が言うことを聞いてくれない。ここには俺を助けてくれる人はいない。
孤独。それは人にとって、最も恐れるもの。誰からも見られずに一人死んで行くだなんて、これ以上に寂しくて恐ろしいことはない。
後から後から涙が溢れる。最後の最後でホームシックになり、皆と会いたい気持ちで心が埋め尽くされてしまった。
そろそろ限界だ。でもどうせ死ぬことになるのなら、誰でもいいから傍にいて欲しかった。
「……あっ」
視界の先にぼんやりと移った一人の人影。それを視界に捉えた俺は、消え入る声で思わず呟いた。
もしかしたら、死ぬ行く俺に神様が幻覚を見せてくれたのかもしれない。その抽象的な優しさに安堵してしまい、気付かぬ内に俺の意識は永遠の暗闇に沈んでいった。
〜※〜
「…………」
妙な物音が聞こえてくる。すぐ傍らで焚き火でも燃えているかのような、死んだ俺が聞くわけもない不可思議な物音だ。
……おかしい。俺は死んだはずなのに、どうして身体の感覚があるんだろうか? 動かそうとしても全く動かせないけど、確かに胸の中では心臓の鼓動が脈打っている。もしかして……俺ってまだ生きてるの?
恐る恐る重い瞼を開く。視界に移ったのは、見知らぬ天井の景色だった。
「あっ、気が付きましたか?」
一体何がどうなっているのか。困惑したまま天井を仰いでいると、すぐ近くから鈴の音のような声が聞こえてきて、無意識にその声の主の方に視線を向けた。
そこには、あの厠姉さんを越えた絶世の美女――女神様が正座していた。
今まで見たこともないそれこそ雪のような長い銀髪に、見ているだけで心が安らぐ穏やかな顔。真っ白な着物身を包み、白い花の髪飾りと髪で右目が隠れているのが印象的な若々しい大人の女性。
この日俺は、生まれて初めて女性の美貌に目を奪われ、見惚れた。
「……あの?」
「あっ……えっと……」
熱のこもった視線を送り続けていると、女神様の呟きに意識が一気に覚醒した。
一目惚れって初めてのことだから何を話せばいいのか分からない。それに恥ずかしくて目を合わせられない。
……って、そんなことよりお礼を言うのが常識ってものでしょうよ。
まずは布団の上から起き上がろうと身体に力を入れてみるものの、全く身体に力が入ってくれない。今気付いたけど、全身包帯に巻かれてミイラのようになっていた。特に左腕が一番酷くて、包帯の塊のような妙な物体に様変わりしていた。
「あっ、動かないでくださいね。所々骨が折れていましたから、下手に動いたら悪化してしまいます。そのまま寝た状態でいてくださいね」
「……ありがとう」
今一番言うべきことを言うと、女神様はふんわりと微笑んでくれた。
その顔を見たせいで、顔に熱が生じた。絶対顔赤くなってるよこれ。あっ、ヤバい見られてる。見ないで! こんな恥ずかしい俺を見ないで!
「君……じゃない、貴女は一体誰……なんですか?」
赤くなっているであろう顔を誤魔化すために話し掛ける。女神様はその意図を察したのか、口に手を当ててくすりと笑った。
「私は氷麗と言います。この小屋でずっと暮らしている者です」
「氷麗さん……ちなみにここってなんて言う村ですか?」
「いえ、ここは村ではないですよ。元々人気のない山奥ですね」
「や、山奥って……」
それってもしかして、この女神様も俺と同じ遭難者だと? いやでもそんな雰囲気でも格好でもないし、辺りにここに住んでいるという形跡がいくつか見られる。となると残された可能性は、この方が本当にここに住んでいるという事実だけだ。
しかし、人里離れた山奥に住んでるなんて明らかに異質だ。物好きな人という可能性もあるにはあるが、この人はそういう感じではないと俺の直感が告げている。
もしやと思い、俺は確かめるために一つの疑問を打ち明けた。
「えっと……つかぬ事を聞きますけど、もしかして貴女は妖怪だったりしますか?」
氷麗さんはキョトンとした顔になって目を丸くさせた。もしかしてやからしちゃった俺? 人としてズレた質問をしてしまったパターン?
普段は気にしないはずなのに、相手が相手だから滅茶苦茶恥ずかしくなってきた。これじゃ変人以外の何者でもないよ。元から自覚はあったけどさ。
しかしそんな俺とは裏腹に、氷麗さんの回答は予想通りのものだった。
「よく分かりましたね。もしや貴方は妖怪と面識があるお人なんでしょうか?」
的が外れていたと思いきや、見事俺の直感は当たっていた。本当に妖怪だったとは驚……いてもないか。だってこんな絶世の美女、人類にいるわけないもの。それだけこの人の美貌はレベルが高い。
「面識も何も、元いた実家で複数人の妖怪と日常を共にしてたくらいですよ。生まれつき霊感が強かったので、物心ついた辺りからはもう認知してました」
「まぁ、それは珍しい体質なんですね。でも納得がいきました。通りで貴方から感じられるはずです」
「感じられるって……何がですかね?」
「ん~、なんと言いましょうか……先程から貴方からは妙なオーラ? のようなものを感じるんです。不思議と傍にいる方を落ち着かせるような癒し……と言ったところでしょうか」
微笑みを浮かべる氷麗からそんなお褒めのお言葉を頂いてしまった。まさか初対面で癒し系男子の称号を与えてくれるなんて、そんな貴方こそ癒しの象徴ですよ女神様。
「はははっ、癒しそのもののような氷麗さんに言われてもなぁって感じですね」
「あら、まだ幼いのにお世辞がお上手なんですね」
くすりと笑う氷麗さん。
「いやいや氷麗さん、逆に氷麗さんに対してお世辞を言える人なんてまずいないですよ。正真正銘の癒し系美少女ですよ氷麗さんは。少なくとも俺が今まで出会ってきた女性の中でぶっちぎりの美貌ですね。反則級でレベルや格が違い過ぎます」
「うふふっ、そんなに褒めても何もでませんよ?」
口ではそう言うが、口に手を当てながら嬉しそうに笑っていた。
あぁ……なんて可憐に笑うんだろうか。さっきから氷麗さんの魅力に魅了されてばかりだ。胸の中の恋心が思わずはち切れてしまいそうになる。あわよくばその胸の中に飛び込んでハグしてもらいたい……。
まぁ、全身ボロボロで動けないから百パー無理なんだけどね。空気読んでよ俺の肉体よ。
「あの……氷麗さん。もしよかったら、俺がここに来るまでの経路を教えてくれませんか? ちょっとまだ色々と困惑していまして」
「えぇ、いいですよ」
それから俺は、氷麗さんから現在に至るまでの道筋を教えてもらった。
流れはこんな感じだ。
まず、俺が気を失う前に見えた人影は幻覚などではなく、その正体こそが氷麗さんだったらしい。
何故あんな場所に氷麗さんが現れたのかと言うと、その発端は氷麗さんの一人娘の存在だった。氷麗さん曰く、どうやら一人娘とここで二人暮らしをしているらしい。
そしてその娘さんだが、何を血迷ったのかこの吹雪の中を散歩しに出て行ったようで、帰りが遅いので心配した氷麗さんは娘さんを探すために外に出た。そこで偶然倒れて瀕死になっていた俺を見つけた、とのことだった。
ただ、俺を背負って帰る途中に娘さんも見つけられたようなのだが、もう少ししてから帰ると言われたようで、娘さんの無事を確認できた氷麗さんは安堵して、こうして小屋に帰って来て俺を小一時間掛けて治療してくれたとのこと。慈悲深いそのお心に感謝感激で涙が滝のように溢れてしまいそうになった。
話を聞き終えたところで俺はどうにか起き上がろうとするも、起き上がれないまま青虫のように動く。そんな独特な動きを見せながら、改めて感謝の意味を込めて頭を下げた。
「ほ、本当にありがとうございました氷麗さん。氷麗さんは俺の命の恩人です! 万歳! 女神様万歳!」
「うふふっ、いいんですよお礼なんて。妖怪だろうと人間だろうと、困った時はお互い様なんですから」
黄金色に輝く神秘的なオーラが氷麗さんの背景に描かれる。やはりこのお方は妖怪ではなく、本物の女神様なのかもしれない。
ありがたやありがたや……これで今宵も良い酒が飲めまする。未成年だから甘酒オンリーだけど。
まぁ冗談はともかくとして、命を救われておきながら感謝の言葉だけで終わらせるのは正直納得がいかない。こうなった以上、それ相応のお礼をしなくては帰ろうにも帰られない。それ以前に帰り道分かんないし。
「氷麗さん。一つ差し出がましいですけど、一つ俺のお願いを聞いてもらえませんか?」
「お願いですか? えぇ、何でも言ってくれて構わないですよ」
その慈悲深さに何度も感謝しつつ、氷麗さんの目を真っすぐに見据える。
「どんな方法でも良いので、どうか俺に一つ恩返しをさせてください!」
「恩返し……ですか?」
「えぇそうですとも!」
断固たる発言に表情だけは引き締めて見せる。こんなヘンテコな恰好でも、俺は至って真面目そのものだ。
「命を救ってもらった以上は、それ相応の恩を返すのが男の道理ってやつなんです! だからどうしても氷麗さんに恩返ししたいんです! この通りお願いします!」
きっと人が好い氷麗さんなら「恩返しなんて……見返りが欲しくて貴方を助けたわけではないのですよ?」と微笑みながら拒むに違いない。だからこそ俺は、心から願うように深く深く頭を下げた。それだけ俺はこの人に恩を返したいと思った。恩を返したいと思えた。
孤独の死の淵から救ってくれた。死ぬはずだった人間の俺に手を差し伸べてくれた。出会ったこともない初対面のはずなのに、無償でここまでの治療を施してくれた。俺からしたら一生を賭けても返しきれない大きな恩義。ただそれで少しでもこの人に恩を返せるというのなら本望だ。
俺は頭を下げたまま氷麗さんの言葉を待つ。
「ふふっ……そこまで言われてしまったらとても無下には出来かねますね。なら一つだけ私のお願いを聞いてもらえますか?」
何よりも望んでいたその言葉に、俺はパァっと表情を明るくさせて顔を上げた。
「も、勿論ですとも! 今はまだ身体動かないから大したことができませんけど、もし完全に完治した暁にはなんでも承りますよ! まだまだ幼い俺ではありますが、こう見えて家事全般に関しては専属主婦と同レベル以上に立ち回れると自負していますよ! 俺の数少ない誇れる部分の一つですからね!」
「まぁ、それはとても頼もしいですね。でも私がお願いしたいことは家事関係のことではないんです」
「ありゃ残念。なら一体何をお願いしたいんですか?」
「えぇ、それはですね――」
氷麗さんがお願いの内容を言い掛けた途中、突如小屋の戸が開かれた。
「何でもお願いを聞いてくれるのよね? なら私からも一つ良いかしら?」
氷麗さんとほぼ瓜二つの銀髪と顔付き。薄水色の着物の上から雲模様の半纏を羽織った、俺と大差ない年頃っぽい将来有望の美少女。一目見てこの子が氷麗さんの娘さんなんだろうと悟ることができた。
しかし、親に似た姿形の彼女ではあるが、決定的な違いが一つだけあった。それは――
「出て行ってくれないかしら。ここから今すぐに」
初対面の俺に対して向けてきた眼差しに、軽蔑の想いを込めていることであった。
「ただいまお母さん。心配かけてごめんね」
俺から視線を逸らして氷麗さんに身を向けると、俺を見る時とはえらい大違いの笑顔を浮かべた。流石は氷麗さんの娘さんなだけあって、笑う顔はそれはもう可愛らしいものだった。
ぶっちゃけウチのサトリと良い勝負……いや、ごめんサトリ。君の笑顔も十分可愛らしいけど、やっぱり彼女達と比べてしまうと嫌でも差が開いていることが分かってしまうよ。一端の妖怪が美の化身に勝てるはずもない。
「おかえりさない雪羅ちゃん。散歩中に怪我はしませんでしたか?」
「それさっきも言ってたよ? この通り私は大丈夫。どっかの脆い人間とは違ってね」
ごもっともな扱いをされつつ、また冷たい眼差しを送られる。
「なるほど、君が氷麗さんの言ってた一人娘か。どうも、脆い人間こと弥白です」
「ふんっ、気安く話し掛けないでくれるかしら? 生憎私は貴方と仲良くする気はないの」
冗談を混ぜながら自己紹介してみたけど、取り付く島もなかった。年頃の女の子の中には極端に男を嫌う人がいると風の噂で聞いてはいたけど、まさか本当に実在したとは思わなんだ。
雪羅と言う名らしい彼女のガードの硬さに関心していると、氷麗さんが眉をハの字にさせて苦笑していた。
「そんな冷たいこと言わないで雪羅ちゃん。この子……弥白君はとっても良い子ですよ」
「……何度も言ってるでしょお母さん。人間は平気な顔で私達妖怪を騙して裏切る最低な生き物なの。どうせこいつも同じだよ。優しすぎるお母さんの優しさを利用して、何か悪さをしようとしているに違いないよ」
「そんなこと――」
「あるよ。それは私よりお母さんが一番よく分かってるでしょ?」
そう言われた氷麗さんの表情が少しだけ曇り、俯いて悲しそうな目になった。
事情は全く分からないけど、今氷麗さんは悲しい気分になってしまっていることは明白。なればこそ、俺のやるべきことはただ一つ。
「氷麗さん氷麗さん」
しつこく氷麗さんの名を呼び、きょとんとした氷麗さんと変わらず冷たい眼差しを向けて来る雪羅さんの二人の視線を集める。
「はい、弥白君一発芸やりま~す。セキセイインコの真似」
謎の原理で顔の骨格を変えて世にも奇妙な表情に変化し、「ウゲゴゴォ~……」と甲高い鳴き声を上げた。
「「「…………」」」
しーんと静まり返る小屋の中。
「…………ぷっ、あははははっ!」
だが少しだけ沈黙の間が続いた後、ふと氷麗さんが吹き出して口を大きく開けながら笑い上げた。
「お、お母さん!?」
温厚な母親の大胆な反応を目の当たりにして、思わず雪羅さんが鞭で叩かれたような驚きっぷりを見せた。
「い、今のがセキセイインコさんの物真似だったんですか? 私、セキセイインコさんの鳴き声って初めて聞きました」
「いや、今のはただのノリです。俺もセキセイインコの鳴き声は聞いたことないです」
「ぶっ、あははははっ! ノリでそんなことができるなんて、弥白君はとても芸に秀でているのですね。ぷっぷっ、だ、駄目です、今の顔と鳴き声を思い出すだけでお腹が痛く……あははははっ!」
余程俺の芸がツボにハマってくれたようで、氷麗さんがついにはお腹を抱えたまま横に倒れて笑い出してしまっていた。
しかし楽しそうに笑う氷麗さんとは反比例するかのように、雪羅さんが俺に対して殺意に似た何かを向けてきた。
「お母さんに何するのよ人間! こんなことして只で済むと思っていないでしょうね!?」
「うん思ってないよ。だから後三つ程ネタを披露しようと思うんだけど……何かリクエストはあるかな? お勧めは働き始めてまだ一週間の○○○嬢の雰囲気物真似なんだけど――」
「誰も貴方の背伸びした物真似の話はしてないわよ! 御託はいいからさっさとここから出て行きなさい!」
「でも俺蓑虫状態だから、動きたくても動けないんだよ。君の言っていた通り、脆い人間なもので」
「だったら私が無理矢理叩き出してやるわよ!」
目くじらを立てた雪羅が蓑虫な俺を引っ張り上げて本当に外に叩き出そうとする。
「あっ!?」
この状態で外に出されてはまた命の危機に晒されるのは必定。故に俺は包帯の殻の中から羽化するが如く身体を捻じ曲げ、雪羅の腕の中から抜け出した。
そして床に着地した瞬間、グキッと足から鈍く嫌な音がした。
呆気なく俺の身体は崩れてしまい、再び指一本動かせない瀕死状態に陥ってしまう。全身ボロボロで這って動くのがやっとだったのに、無理して立とうとするからこうなる。
「こら、怪我人に乱暴しては駄目じゃないですか雪羅ちゃん」
「だ、だってこいつが!」
「だっても何もないです。とにかく、まだ弥白君をここから出そうとするのは禁止です。遊びたいのなら弥白君の怪我が治ってからにしてください。ね?」
「遊びに出そうとしたんじゃなくて叩き出そうとしたの!」
「なら尚更駄目です。大丈夫、安心してください雪羅ちゃん。こんな簡単に誰かを笑顔にさせることができる人に悪い人はいないんですから」
「うっ……」
すっかり氷麗さんは俺に心を開いてくれているようで、全面的に俺の味方になって雪羅さんを説得してくれた。何から何まで世話になりっぱなしで申し訳ない。
雪羅さんは上手く言い包められて反論できなくなると、親の仇のように俺を睨んで指を差してくる。
「怪我が治ったらすぐに出て行きなさい! 私は貴方のような人間が大っ嫌いなのよ!」
「はははっ、俺は君達のような妖怪大好きなんだけどなぁ。そんな邪険にならないでよ雪羅さん」
「知ったことじゃないわよ! 気安く名前を呼ばないで! 言っておくけど、私は今後一生貴方の口を聞くつもりはないから話し掛けないでよね」
冗談ではなく本気で俺のことが……人間が嫌いらしい。まぁそれでも彼女を嫌う理由にはならないんだけどね。
それから暫く雪羅さんに話し掛けてみたが、本当に一切口を聞いて貰えなくて、いつまで経っても俺に対する嫌悪感が取り除かれることがなかった。




