美しき氷柱の救世主
「ぐぁ!?」
熊風との激しい攻防戦が繰り広げられる中、飛び蹴りを放った温羅兄がリーチの差を見せ付けられ、熊風の爪によって右足が切り裂かれた。
右足一本が持っていかれるようなことはなかったものの、脛の部分から真っ赤な血が痛々しく滴る。あの分だといくら温羅兄とはいえ、もうさっきまでのように動き回ることができないかもしれない。
「日頃の行いが悪いからヘマやらかすのよ。男なんだから少しは頼りにさせなさいよね」
「うっせぇ脳筋! テメェと違ってこちとら非暴力主義なんだっつの! 訛っててもしょうがねぇだろうが!」
でも訛ってるとはいえ、仮にも温羅兄は伝説の鬼。しかし、さっきから何度も殴打してるはずなのに、熊風の骨が折れるどころか、擦り傷一つすら負うことがなかった。
あの二人でさえ傷一つ付けられないだなんて、やはり奴は化け物だ。奇策の一つでも設けない限り、奴を退けるのは恐らく不可能。そしてそれを考えられるのは、守られている立場の俺達だ。
先程から見るに、奴の身体はかなりでかい。そのため、温羅兄も桜華さんも腕や脚、腹や背中といった場所しか殴打することができていない。
妖怪とはいえ、奴の根本は熊だ。ならば、熊の弱点を突けば一矢報いることができるかもしれない。だとすると、過去に調べた情報がもし本当だとしたら……奴の弱点は恐らく“鼻”だ。
しかし今のままじゃ顔に届かないし、下手に顔に飛び込めば牙の餌食になる可能性が高い。弱点を突くにせよ、やはり奇策は外せない。
梯子を使ったところで振り払われるのは目に見えてるし、木から飛び降りようとしても木を登る途中でへし折られるだろう。これじゃこの辺にあるものを使ったとしても、奴の背丈に届くことは叶わない。
……待てよ? そうだ、奴の大きさに及ばないというのなら、逆に発想を転換させればいいんだ。とすると、この辺で使えるものは……‟アレ”しかない。
「桜華さん! 一旦離れて俺のところに来て! それとキサナも!」
「は、はい! ちゃんと引き留めておきなさいよ温羅!」
「おまっ!? 俺の足こんなんなってんのに、んな無茶振り押し付けんのかよ!?」
怪我を負いながらもどうにか熊風の鉤爪を避ける。温羅兄一人に気を取られている内に、桜華さんが急いでこちら側に戻って来た。
「その様子から察するに、何か奇策を思い付いたようじゃの。して、我達を呼んだ意図は何じゃ?」
「うん。ちょっと二人にやってもらいたいことがあって」
それから俺は奇策の内容を二人に伝えた。
人数が多過ぎるとそっちに熊風が目を付ける可能性があるため、この策は内容的にもこの二人が一番適任だ。それには二人も納得してくれたようで、全て伝え終えると首を縦に振ってくれた。
「分かりました……けど、それだと他の皆さんや主様が危険に晒されるのでは……」
「だとしてもなりふり構っていられないよ。桜華さん達の力でどうにもならない以上、これしかもう手がないんだ。それに、肝心な時の囮は俺がやるから大丈夫」
「いや何も大丈夫じゃないじゃろうて。物理的に妖怪が死ぬことはないのじゃ。人間の身であるお主が無茶する必要はない。そういう危険な役目は温羅に押し付けとけば良いのじゃ」
「そうですよ主様。あいつはこの世の肥やしも同然なんですから」
「テメェらぁ! 好き放題言いやがって、職務放棄すんぞ今ここでぇ!」
確かにキサナの言う通り、妖怪は物理的に死ぬことはない。あの鉤爪で切り裂かれようと、あの牙で噛み砕かれようと、一日も経てば完全に傷が再生するんだろう。
それでも俺は、かぶりを振って否定した。
「死ぬことはなくても、死ぬより辛い苦痛を受けることになるんでしょ? あいつが来た発端は俺なのに、皆を俺の都合でそんな目に合わせたくないよ。勿論、それが肥やしの温羅兄であってもさ」
「珍しく素直に感動し掛けたってのに、テメェまで肥やし扱いしてんじゃねぇよ! 良い台詞が台無しだろうが!」
熊風の猛攻を受けながらも負傷した足を持ちながら器用に避けて、更にこっちにツッコミを入れてくる余裕すら見せ付ける。力だけが温羅兄唯一の長所と思っていたけど、どうやらそれだけではなかったらしい。人並み外れた身体能力を見て、内心が目から鱗だった。
「とにかく、一番のリスクは俺が引き受けるよ。だから二人は指示通り早く!」
「やれやれ、こういう時は頑固になるんじゃのシロは。じゃが、我は敢えてそれを尊重しよう。急かすぞ桜華よ」
「分かりました! 主様、ご武運を!」
俺の指示通りに動くため、キサナと桜華さんがこの場から離脱した。後は二人の準備が整うまで時間を稼ぐだけだ。
「も、もう無理だ! そろそろ体力が限界……ぐはぁ!?」
身体能力は高けれど、それを生かすための体力がなかったようで、温羅兄がへろへろになっていた。そしてその隙を突いて、熊風が力強い剛腕で温羅兄をこちら側に吹き飛ばした。
七転八倒してくる温羅兄をなんとかキャッチするも、既に全身はボロボロ状態。この分じゃもう温羅兄は駄目だ。
まぁ、それでも無理矢理扱き使うけど。
「ほら起きて温羅兄。もう戦わなくていいけど、今度は知恵を振り絞ってもらうよ」
「お、鬼かテメェ……こっちはもうへとへとだってのに……」
「鬼は温羅兄自身でしょ。今一番頼りになるのは温羅兄なんだから、たまには良いところ見せてよ。それにここで名誉挽回して目立てたら、皆の評価も上がるかもしれないよ? そしたら温羅兄の周りには必然的に女の子達が――」
「ウジ虫の如くうようよ寄ってくるってか? 仕方無ぇなぁおい! テメェら俺がいなきゃ何にもできないんだもんなぁ!」
『女の子』というキーワードに反応して、水を得た魚の如く潤って復活を遂げる。欲望に忠実な人ってこんなに単純で扱い易いんだなぁ。
「それでシロ君、私達は何をすればいいの? と言っても、できそうにゃことにゃんてたかが知れてると思うけど……」
「何……と聞かれるとね。実はキサナ達に伝えた策以外は何も考えてないんだよね。ただ……今俺達がやらなくちゃいけないことは、あいつから逃げ延びながら時間を稼がなくちゃいけないってことだよ」
「口で言うは易くも行うは難し……ですね。あんなおっきな熊さんから逃げ切るだなんて無茶苦茶ですよシロちゃん!」
今この場にいるのは、俺、温羅兄、猫さん、厠姉さん、べくわ太郎の五人のみ。他の皆はさっきまでの戦で伸びてるだろうし、このメンバーだけでどうにかするしかない。
しかも……考える余裕をあいつが与えてくれるわけない。これ見よがしに熊風が迫り掛かって来て、俺達は固まって逃げ始めた。
「どどどどうするんだすかぁ~!? このままじゃ全員共倒れだすよぉ~!?」
「それを皆で考えろってことでしょ! 誰か良い案にゃいの!?」
「へっ! ならここはまた俺に任せろ! 戦わなくて済むアイデアなら山のようにあるぜ!」
温羅兄が考えるアイデアだからあまり期待できそうもないけど、他に頼れるアテがないから文句なんて言っていられない。もしかしたらというオッズに全員の命を賭けるしかない。
「できることは全部やってみるしかないよ! それで温羅兄、そのアイデアって何!?」
「おう! いいかよく考えろテメェら? あいつは化け物である前に妖怪なんだ。つまり、女の色仕掛けで攻めれば――」
「死に目に合いたいのにゃら今ここで合わせてあげるわよ?」
「……はい」
殺意と共に光る猫さんを爪を見て、温羅兄は咄嗟に言葉を引っ込ませた。桜華さんにはいつも強気な癖に、他の女の子にこうして責められると弱くなると立証された。
「あぁもう! 他には何かにゃいのゲス!?」
「も、勿論あるぜ! 名付けて『同族の説得なら多分応じるだろう作戦』ってやつだ!」
‟多分”が付いてる時点でもう駄目落ち感しか伝わってこないけど、百歩譲って色仕掛け作戦よりは幾分かマシだ。
「内容は至って単純明快! 誰かが熊に変装し、熊語を駆使してあの野郎を言い包めるっつー作戦だ!」
「そんな策が通じる相手ではないと思うのですが!?」
「馬鹿野郎! やらなきゃこっちが殺られんだぞ! だったら少しでも可能性がある賭けに出るしかねぇだろーが! つーわけでやれ、べくわ!」
「はぃぃ!? おいどんだすかぁ~!?」
恐らく、この中で一番体系が熊に近しいから決めたに違いない。俺も役割を担う人物としては賛成する。
「つべこべ言わずにやれ! テメェさっきの戦でクソも役に立ってねぇんだからよ! それに熊の着ぐるみなら……」
俺はポケットに手を突っ込み、べくわに合ったサイズの等身大着ぐるみを取り出した。
「この通り、坊が既に用意済みだ! さっさとこれに着替えろ!」
「何処から取り出してるんだすか!? それにどうやったらそんな大きな着ぐるみを収納できるんだすか!?」
「んな理屈はどうだっていいんだっつの! ただ坊が不可能を可能にする力を持っているだけっつー話だ! さぁ着替えろ、さぁさぁさぁ!」
「そ、そう言われても! そもそも熊語なんておいどん知らんだす!」
「ノリでやれ! 以上!」
「そんな滅茶苦茶なぁ~!?」
俺から熊の着ぐるみを受け取り、温羅兄が強引にべくわ太郎へとそれを引き渡す。いつもなら無茶を言いまくる温羅兄を軽蔑しているところだけど、今は見て見ぬフリをして口笛を吹いて誤魔化した。
べくわ太郎は一人で立ち止まり、いそいそと熊の着ぐるみ姿に着替える。そして迫り来る熊風の方へと振り向いた。
右腕を頭の後ろにやり、左腕を胸の前に持っていく。腰と両膝を少し折り曲げ、首を少しだけ横に傾ける。そしてべくわ太郎は――
「アッハ~ン、くまっ☆」
全身全霊のお色気ポーズと猫なで声で攻めに出た。
結果、四足歩行で走る熊風の前足で踏み潰され、肉体を真っ赤な肉塊に変えた。
「……策を二つ合わせればどうにかにゃるとでも思ったのかしら」
「美味しい物と美味しい物を合わせればもっと美味しくなるという、偏った思考の持ち主だったんだと思いますよ……」
女の子二人が息絶えたべくわ太郎を尻目に見て、助けようとしてくれた相手にも関わらず失望の眼差しを送っていた。無理もないと俺は静かに合掌した。天晴だけど残念な奴だった……。
「ちっ、作戦失敗か。次の策に移るぞ!」
「いやもう駄目でしょ! 貴方の作戦まるで期待できにゃいもの!」
「ならテメェらも考えてくれよ! 今更だけど、こちとら考えるのは苦手なんだっつの!」
「ならさっきの自信満々な態度は何だったんですか!? 苦手なら苦手と最初に言ってくださいよゲスさん!」
「……はい」
ゲス呼ばわりされることが積み重なり、ついに温羅兄の一人から希望と自信の光が消失した。やっぱりゲスはどこまでもゲスだったらしい。少しでも望みをかけた俺が間違っていた。勝手に頼っておいて性格悪いなぁ俺も。
「シロ君は!? シロ君は何かにゃいの!? こういうこと考えるの得意にゃんでしょ!?」
「いやぁ、俺は考えるより本能に従って動く質だからさぁ。思い付いてることなんて一つしかないんだよね」
「にゃら言いにゃさいよ! 一刻も早く言いにゃさいよ! ゲスのアイデアに従うのにゃら、シロ君のアイデアに従う方が全然安心できるわよ!」
「そうですよシロちゃん! ゲスさんは所詮ゲスさんなんですから、シロちゃんの頼り甲斐とは天と地の差がありますよ!」
「二人共その辺にしてあげて。温羅兄の目に潤いが見えてきてるから」
人を褒めるのに誰かをディスってはいけません。これ必須事項です。
「それで、シロ君の策って何!?」
「策って言えるようなことじゃないんだけど……ほら、あいつって妖怪とは言え、その前に熊でしょ? で、熊を前にした時と言えば……死んだフリが定番だよね」
すると丁度良く、前方に気絶したまま放置されていたサトリを発見。俺は駆けたままの状態で上手い具合にサトリを肩に抱き抱えた。
「あの……シロちゃん? もしかしてですけど……」
厠姉さんに背後から心配を掛けられつつ、俺はポケットからトマトケチャップのボトルを取り出す。そしてサトリの胸辺りにケチャップを満遍なく塗り付けて、一旦足を止めた後にゆっくりとその身を地に下ろした。
「ほ~ら、ここに死体があるよ~? 世にも珍しい死体だよ~? 物理的に死ぬはずのない妖怪、覚の死体だよ~? 見てこれ、死んでるはずなのにこんなにお肌ピチピチ。まるで生きているかのようじゃありません? 凄いですよね? 疑問ですよね? 実はこれ、秘訣のアイテムを使用することによって保たれているんですね~。その商品がこちら、弥白印のフェイスクリームでございま~す」
「おい、あそこにもゲスがいんぞ。義理妹売り付けると同時に狡い商売してる悪徳商人がいんぞ」
すまぬマイシスター……危なくなったら意地でも助けに入るから、それまで出来る限り時間を稼いでくれぞ。大丈夫、君は俺の自慢の義理妹なんだ。そこに俺の商品が合わされば、ここで活躍できないわけがない!
……と、思っていたのも束の間。少し目を離した隙に、サトリがペロリと噛まれず丸呑みにされていた。
「うわぁぁぁ!? サトリが食われたぁぁぁ!?」
「いやそりゃそうにゃるに決まってるでしょう!? 男子二人揃って馬鹿かっ!」
「こ、コンニャロウ! 返せ! その無駄にでかい口から吐き出せ熊公――うわっ!?」
熊風の腹を蹴飛ばそうとしたが、その前に鉤爪で牽制されてしまう。ギリギリのところで避けられたものの、サトリがそのまま胃の中へと呑み込まれてしまった。
「と、とにかく今は必死に逃げましょう! 私達じゃどうにもなりません!」
「そんな……なんでこんなことになっちゃったんだぁ!?」
「いやテメェが餌にしたんだろーが! 撒き餌扱いにしたんだろーが!」
温羅兄に首根っこを掴まれて熊風の元から引き離される。一応噛み砕かれてはいないし、きっと無事でいてくれてる……よね? 食われてすぐ消化液で溶けたりしないよね?
「結局どの作戦も駄目なんじゃねーか! そもそもそっちも何か考えろよ女勢! 男ばっかに押し付けんな!」
「そ、そんにゃこと言われても……自力で逃げる以外に何も思い付かにゃいし……」
「そうですね! こんな慌ただしいことが続いてたら考えられるものも考えられません! なので一旦トイレでもして落ち着きましょう! 別に私が気持ちよくなりたいだとか、そんなことは思ってませんから!」
「……猫はともかく、テメェは頭でも沸いたか?」
男勢以上に女勢は使い物にならなかった。まずい、このままじゃ熊風に追いつめられる。そしたら皆あの鉤爪の餌食だ。
「あっ!?」
更にそこで最悪の事態が発生する。林の中を走り続けていたところ、猫さんが草むらに躓いて転んでしまった。
後方からは凄い速さで追い掛けてくる熊風が。その恐ろしい姿に猫さんの身が硬直してしまい、立ち上がる気力もなく恐怖心に支配されている。
俺は咄嗟に足を止めて猫さんの元に引き返した。
「ばっ!? おい坊!?」
すぐに猫さんを抱き起して走り出す。だがその前に熊風に追い付かれてしまい、右側から豪風のような勢いの鉤爪が放たれてきた。
猫さんを抱き抱えたまま咄嗟に前方へ飛んで回避する。しかし避けるタイミングが遅かったため、左腕の肌が三爪の鉤爪によって抉られた。
「ぐぅっ……!」
辛うじて直撃は避けられたものの、左腕から声も凍り付くほどの激痛が伝わってくる。痛みの余りに大量の汗が滲み出てきて、同時に傷口から血が滲み出て肌が真っ赤に染まった。
「シ……シロ君! しっかりしてシロ君!!」
「おいおいマジかよ!? 洒落になってねぇっつんだよ!」
草むらの上に倒れる俺に追撃を仕掛けようと、熊風が左腕を大きく振り被る。それを見越した温羅兄が熊風を止めようと駆け戻ってくるが、それよりも早く悍ましき鉤爪が振るわれる。
だが更にそれよりも早く、突如何処からか岩石が弾丸のように飛んできた。それは熊風の脇腹に当たり、怯んでピタリと動きを止めた。
「遅れて申し訳ありません主様! お待たせいたしました!」
一生の危機を救ってくれたのは桜華さんだった。その姿は土埃に塗れていて、少しだけ息を荒げていた。
「遅ぇぞ脳筋! もう少しで俺の弟分が殺られ掛けただろうが!」
「アンタがクソも役に立たないからこうなったんじゃない! 大丈夫ですか主様!?」
「あはは……多分骨までイッてるかなぁ。でもまだ動けるから大丈夫……」
無事だった右腕で猫さんの手を引いて起こし、桜華さんに肩を貸してもらう。口では平気と言ってみせたけど、正直立ってるのも辛い。皆と違って脆い身体に心底腹が立つ。
だが、それでも、ここから先の重要な役割は絶対に俺が担う。この因縁に落とし前をつけなくちゃいけないのに、これ以上誰かに頼ってばかりじゃいられない。
「皆、後は俺に任せて。あいつの標的は俺だし、俺一人がここから離れれば皆は追われないだろうから」
「な、何を言ってるんですかシロちゃん!? そんな怪我で囮が勤まるわけないじゃないですか!」
「そうですよ主様! それ以上無理をして、もし下手をすれば死――」
「死なないよ」
その先は言わせないように、強く断言した。いつにない力強い俺の声に、皆が一瞬息を止めた。
そう、俺は死なない。死ぬわけにはいかない。こんな事故みたいな出来事で絶対に死ぬわけにはいかないんだ。
必ずまた会うと約束した。どれだけの年月が過ぎようと、寿命が続く限りいつまでもこの場所で待っていると。約束の一つすら守れないようじゃ、男として、人間として終わってる。
「場所を教えて桜華さん! 早くしないとまた熊風が!」
「っ……あ、あの木の根元です!」
桜華さんが指を差したのは、サバゲーを始めた時に俺が最初に登っていた木だった。幸い近場だったため、今すぐ走れば熊風に追い付かれる前に辿り着けるはず。
俺は桜華さんから離れ、死に物狂いでその木の根元へ駆け出した。
「桜華さんと温羅兄は俺から離れた横から付いて来て! 他の皆はそこから動かないように!」
「ったく、世話掛けさせやがる!」
尻目に後ろを見やると、頭を左右に振る熊風が俺に狙いを定めて来た。その凶悪な目にぞわりと背筋が凍り付き、後ろを見るのを止めて前だけを見て駆け続けた。
それから確実に近付いてくる大きな足音。次第に音が近付いてくるに連れて、心臓の音が加速して大きくなっていく。過去にも一度だけ感じたことのある恐怖心であったが、慣れているわけもなく胸の中が張り裂けそうだ。
傷の痛みに怯んで転べば終わり。その先に待っているのは、奴の爪と牙によって肉塊に変わる自分の姿。想像するだけで胃の中のものが全て吐き出てきそうになり、考えることを止めるために思考を遮断した。
口の端から唾液が零れるも、気にも止めずに前へ前へと進み続ける。そんなに遠くない距離のはずなのに、一歩一歩が重く感じるせいで同じ場所を永遠に走っているかのような感覚だ。気が滅入りそうになるが、頭を強く振って決して諦めずに突き進む。
そして、ようやく見えてきた木の根元。俺は残る全ての力を振り絞るように、両足に全神経を注ぎ込んだ。
ある程度近付いたところで大きく上に飛び上がり、背中から木の根元にぶつかる。
「これで……やれるだけのことはやったね……」
後は奇策が成功することを神に祈るしかない。一直線に向かってくる熊風を目にして、俺は思わず息を呑んだ。
「……ジャストポジションじゃの」
木の根元から離れた一部分の地面がもっこりと膨れ上がる。そこから不敵に笑うキサナの顔がキノコのように生えてきた。
それとほぼ同時に――俺のすぐ目の前で熊風の足場が崩れ落ちた。
下半身が地面に埋まり、突然の罠に熊風が咄嗟に身じろぐ。透かさず俺は大きく息を吸い込み、ここ一番の大声で叫んだ。
「今だぁぁぁ!!」
周囲に響き渡るほどの合図に反応して、初めて俺に鬼のような形相を見せる桜華さんと温羅兄が飛び出してきた。
「失せろやクソ熊公」
怒りの怒号と共に全力で放った二人の蹴りが、熊風の鼻を確実に捉えた。熊風の上半身が大きく後ろに傾いて下半身が飛び出し、とてつもない地鳴りと共に仰向けに倒れ込んだ。
鬼の二人の表情がいつもの優しいものへと戻り、熊風の様子を確認するべく二人並んで歩み寄る。地面から這い出てきたキサナも後ろから付いていき、木の枝を使って熊風の脇腹辺りを何度か突っついた。
「……動かぬの」
「だな。全くよぉ、はた迷惑な化けもんだったぜ」
熊風が伸びていることを確認して、温羅兄が背を向けて頭を掻く。
――だが、伸びていたのは束の間の間だった。消え入りそうな呻き声が聞こえてきた瞬間、この場にいる全員の目が見開いた。
「っ! キサナ様!!」
小さな呻き声が怒りの咆哮に変わり、一番近くにいたキサナに熊風の鉤爪が襲った。
しかしキサナに当たる直前、桜華さんがキサナを守るように抱えて前に出た。キサナを庇う形となった桜華さんは、熊風の鉤爪をモノにくらい、キサナと共に身体ごと遠くに吹き飛ばされた。
「おいおい……これでも駄目だってのかよ……」
地面を引き摺って倒れ込む桜華さんを横目に、温羅兄がヤケクソ気味に笑う。熊風の怒りは最高潮に達してしまったようで、すぐさま温羅兄に向けて鉤爪を振るった。
避ける余裕もなく、温羅兄も身体ごと吹き飛ばされて背中から木に直撃した。それから木の根元に崩れ倒れて、頭から血を流しながら動かなくなった。
絶体絶命。即戦力だった二人がやられてしまったことにより、熊風の狙いが再び俺に定められる。
既に俺に逃げるだけの気力はない。それに出血し過ぎたせいか、次第に視界が薄れてきた。熱湯に入れられているかのように身体中が熱く、皮膚も肉も溶けてしまいそうな感覚に包まれる。
さっきまでサバゲーをして遊んでいたことが嘘のように、突如現れた一匹の悪魔によって平穏な日常が壊された。それなのに不思議と憎しみや恨みといった感情は一向に湧き上がってこなかった。
何故なのか――いや、本当は分かっている。‟俺達”があいつの平穏を奪ったから、その罪悪感によってあいつに対する負の感情が相殺されているんだろう。
因果応報とはよく言ったものだけど、今回のこれはとても皮肉な話だ。最初に仕掛けてきたのはそっちの方で、俺達は自分の身を守ろうとしただけだった。しかしその結果、あいつの親は失われ、その出来事があいつに復讐心を植え付けた。
恨むとしたら、それは子供のあいつじゃない。この負の連鎖の引き金を引いた、あいつの親こそが悪の権現だ。しかしその親はもういなければ、子供のあいつを止められる者もここにはいない。
ここでもし俺があいつに殺されたら、他の皆はどうなってしまうんだろうか。いや、人が良い皆のことだ。きっと俺の弔い合戦を仕掛けるに違いない。恨みや妬みといった負の感情が渦を巻き、また同じ悲劇が繰り返されることになるんだろう。
冗談じゃない。俺のせいで皆が不幸になるなんて、俺自身が一番願ってない。そのためにもやはり俺は死ぬわけにはいかない。
動け……動いてくれよ身体! この程度の傷で参ってる場合じゃないだろう! こんな時くらいのんびりしてないで、男らしく根性見せろよ!
歯を食いしばって立ち上がろうと身体を起こす。しかし身体は思い通りに動いてはくれず、足に鞭打って無理矢理立ち上がろうとするも、バランスを崩して前のめりに倒れてしまった。
倒れた先で、大きな影に包まれる。目の前にいる熊風の巨体の影だ。
「……これが絶体絶命ってやつなんだろうね」
確実に近付いてくる死を感じ取ると、ふと脳裏に走馬燈が駆け巡った。それは、初めて妖怪を見た頃から、ここに来てキサナや皆と出会うまでの暖かい思い出。
そして最後に目に焼き付いたのは――約束を交わした少女の顔だった。
熊風が口を大きく開き、その牙で俺を噛み砕こうと顔を近付けて来る。俺は少女の顔を思い浮かべながらふと笑い、静かに目を瞑った。
その瞬間、あり得ない熱さだった体温が急に冷めて、今度は氷のように全身が冷たい感覚に包まれた。俺の記憶だと確か、死ぬ間際になると身体は冷たくなるものだと聞いた。つまりはそういうことなんだろう。
嫌だなぁ、死にたくないなぁ、もっとやりたいことが沢山あるのになぁ。
せめて最後に……好きだって……伝えたかったなぁ……。
――ふと、頬に何かが触れ、滴った。
それに、違った。冷たいのは俺の体温じゃない。これは、この感覚は、辺りの気温が冷たくなっているんだ。
風一つ吹いていなかったはずの周囲に、突如静かな音の冷風が吹き荒れる。それから頬だけでなく、身体中に何かが触れて、滴り始めた。
どうしてだろう。どうして熊風はここまで俺を追い詰めておいて、俺を食らおうとしないんだろう。衰弱していく俺を見て弄んでいたりするんだろうか。だとしたら温羅兄以上に性格の悪い妖怪だ。
……いや、そんなはずがない。何故ならあいつは、今すぐにでも俺を殺そうと襲い掛かって来ていた。そんな凶暴な奴が、俺のくたばる様を永遠と眺めているわけがない。
だとすると……残る可能性はただ一つ。熊風自身に何かがあったとしか思えない。
俺はその原因を突き止めるべく、恐れの感情を抱きながらゆっくりと目を開いた。
「…………え?」
思わず掠れた声でぼそりと呟く。その光景があまりにも信じられないものだったからだ。
それはとても非科学的で、神秘的な景色だった。季節外れの数え切れない雪の結晶が宙を舞い、銀色に煌く巨大な氷柱がそびえ立つ。その中に雄叫びを上げるかのような姿で熊風が凍り付いていて、それはまるで氷によって造形されたオブジェクトのようだった。
だがそれよりも前に――俺はその氷柱の前に佇む存在に目を奪われていた。
薄水色の着物の上から雲模様の半纏を羽織り、腰まで伸びた銀色の長髪を冷風に靡かせた少女の後ろ姿。微かに見える雪の結晶の模様が入った水色のマフラーを見て、ふと俺の目から一雫の涙が滴った。
初めて出会った時とは全く違い、成長した大人びた姿。でも俺は見間違えることなく、一度も忘れたことのないその名を呟いた。
雪羅、と。
俺の呟きに答えるかのようにそっと少女が後ろを振り向き、被っていた藁帽子を脱ぐ。その優しい白い瞳と目が合った時、彼女は初めて口を開いた。
「やっと……やっと会えたね……弥白」
俺の名を呼ぶ彼女の瞳は涙に包まれ、星空のように淡く光り輝いていた。




