平穏の間に現れた厄災の悪魔
「死に晒せ脳筋がぁ!!」
「骨も残さないわよゲス野郎!!」
俺達の話し合いが終えられた頃、外の方から鬼兄妹の怒声が聞こえてきた。予想通り、桜華さんは温羅兄と狙いに行ってくれたようだ。やはりあの二人はどんな戦いにおいても、導かれ合う宿命にあるんだろう。
他の生存者のべくわ太郎やキサナが今何処で何をしているのか気に掛かる……が、俺達は俺達でやるべきことを成そう。全ては奴を打ち滅ぼさんがために。
温羅兄達の声がする逆の方向から一斉に屋敷を飛び出して、すぐに林の中へと身を潜める。それから猫さんには木の上を飛んで移動してもらい、辺りを警戒しながら奴を見付けてもらうのを待った。
そして約十分後。顔色をより一層悪くさせて戻って来た。奴を見付けた何よりの証拠である。
「ここから北西の方角に進んだところにいたわ。見たところ桜華ちゃん達の様子を伺ってるようだったわね」
となると、桜華さんの隙をついてあの二人の戦いに水を差すつもりなんだろうか。でもいくら温羅兄がゲスとは言え、桜華さんを倒すのは自分だと主張するだろう。そう言われることを予期して、奴は身を潜めて傍観しているのかもしれない。
だとしたらこれは好機だ。三人同時に奇襲を掛けさえすれば、あの恐ろしい技を持つ奴とて対応できないだろう。それに俺達には奇襲を得意とする猫さんがいる。成功確率は極めて高い。
「よし、なら木の上から一斉に仕掛けよう。さっきの話し合いの通り、ポジショニングは右から猫さん、左から俺、後ろから厠姉さんが攻める」
こくりと二人とも頷いてくれると、早速移動を開始した。万が一のことを備えて銃を常時手に持ちつつ足音を殺し、奴が潜んでいる北西の方角へと向かう。
「そろそろよ」と猫さんが言うと、俺が厠姉さんを背負って木の上によじ登り、慎重に木々を飛び交って移動する。そしてついに、奴の姿を視界に捉えた。
奴は温羅兄達から見える茂みの影に寝そべることで身を潜めていて、銃を構えたまま微動だにせずに固まっていた。どう見ても完全に隙だらけだ。
打ち合わせ通りに各々の立ち位置に付き、俺と猫さんはサバイバルナイフを手に持ち、厠姉さんはリロード済みのアサルトライフルを構えた。
「(……今だ!)」
右手を上げて、振り下ろす。その合図と同時に、厠姉さんが奇襲の発砲を仕掛けた。
「むっ!?」
銃声に気付いた奴はすぐに立ち上がるが、何発かの弾が背中にヒット。ぐらりと身体が横に揺れて、俺は猫さんと目を合わせて頷き合い、阿吽の呼吸でナイフを構えて飛び出した。
奴の尻は厠姉さんの方に向いている。仮に俺達どちらかに尻を向けて来たとしても、もう一方が奴の寝首を刈り取る。この布陣を破れるものなら破ってみろ!
「…………フフッ」
形勢は完全にこちらに傾いている。そのはずなのに、奴がふと笑った瞬間、身体中に底知れない謎の悪寒が迸った。
「うっ!?」
奴が両の手のひらをそれぞれ俺達に向けて来た瞬間、俺は咄嗟に奴目掛けてナイフを投げて、鼻を摘んだ。
しかしナイフは奴に当たることはなく、少し首を傾けられることで容易に避けられる。そして――
「ポァ!! 浅はかなり若人達よ!!」
手のひらより放たれた黄土色の煙に包まれ、猫さんは鼻をやられて白目を剥き、俺は目をやられて地面をのたうち回った。
「にゃ……にゃん……で……」
「ぐぉおおお!? 目がぁ!? 目が腐るぅ!?」
腐臭さえ防げればどうにかなると思っていたのが浅い考えだった。まさか周囲の草むらを腐らせるくらい、奴のアレが凄まじい威力だと想像だにしていなかった。
そして何より、その攻撃手段が盲点だった。名前が名前なだけに、アレは尻からしか出せないものだと常識的に考えていた。しかし、相手は世の常識が通じない妖怪だということをすっかり忘れていた。忘れてしまっていたのだ。
「見事な連携であったが……甘い。その程度で我の首を取れるとでも? 貴様ら如き一般妖怪と人間が、この希少妖怪たる我を倒せると自惚れたか!?」
希少妖怪って……まさか!?
「ぐぅっ……き、君はもしかして……ただの尻目じゃないってこと?」
「フッハッハッハッハッ!! その通りだ人間! というか、何故審判の立場である貴様が我を狙う? まぁ、誰に狙われようと我の敵ではないがな!」
座敷荒という伝承に載っていないキサナがいるくらいなんだ。だったら他に希少妖怪がいてもおかしくない。その可能性も考慮しておくべきだったなんて、そんなの無茶振りにも程がある。
「だがまぁ……貴様らは我に幾分か攻撃を当てた功績がある。故に敬意を称し、我の真の正体を教えてやろう」
そう言いながら奴――尻目は、自信過剰に高らかと笑う。
「我はな、人間の想像から生誕せし妖怪ではないのだよ。妖怪と妖怪が縁を結び、その間に生まれし混血妖怪なのだ! 一方は貴様らが知っての通り、尻の穴に目があるのが特徴の尻目。そしてもう一方は、身体中の至る部分から放屁を可能とする妖怪、その名も‟オッケルイペ”である!」
オッケルイペ……趣味用の妖怪図鑑で見たことがある。今尻目が説明した通り、身体中から屁を出すことができる変態妖怪なんだとか。特徴的なのが、その屁の音は必ず『ポァ』と鳴り、一嗅ぎしただけで相手の気を失わせられる腐臭を放つということ。通りで屁にしては腐臭の領域を超えていると思わされたわけだ。
「クククッ……我が丸腰であることを、貴様らはただの変態として断定していたようだが……笑止! 我が常時裸でいるのは、身体全体を常に武器にしておくがためよ! 変態という先入観に捕われ、大いに油断したのが貴様らの敗因よ!」
悔しいけど返す言葉が見つからない。初めて見た時のインパクトが強過ぎたため、誰もが尻目のことをただの変態としか見ていなかった。
奴は……奴は変態という器に収まるべきではない、変態の神様だったんだ! そんな相手に勝てるわけがなかったんだ!
「さて……残るは貴様だけだトイレの化身よ。木の上に隠れているようだが、無駄な抵抗だ。弾道で貴様の位置は既に割れているからな」
「くっ……なんて凄まじい変態さんでしょうか……」
歯を食い縛りながら、木の影から厠姉さんが姿を現して飛び降りて来た。厠姉さんも変態といえば変態だけど、奴の変態度には決して及ばない。
万が一、奴に勝てる存在がいたとすれば……それは、同じ希少種のど変態だけ。
俺は薄れる視界で尻目を見つめながら、ニヤリと不敵に笑った。
「どうした人間? この状況で笑うとは、余程の肝の持ち主か、それともただ頭のおかしい狂人か。いや、恐らく後者であろうな」
「……君はさ。以心伝心って言葉を信じてるクチかな?」
質問の意図が伝わっていないようで、尻目は首を傾げる。
「急に何を言い出すか人間。時間稼ぎのつもりか? ならば敗北の証として、貴様の眉間にこいつを叩き込んでやろう」
尻目が片手で銃を構え、銃口を俺の額に向ける。この距離ならまず外すことはないだろう。
それでも俺は目を背けなかった。“その可能性”を信じて、表情を崩さずに笑い続けた。
「俺さ、初めてだったんだよね。直接言葉で伝えなくても、妙な能力を使われなくても、思っている言葉を理解してくれる妖怪に出会ったのって」
「貴様は……何を言っている?」
「何って……決まってるじゃんか。自慢してるのさ」
突如、尻目の真下から少しだけ盛り上がった“それ”を見て、俺はニッコリと微笑んだ。
「唯一無二のソウルフレンドをね」
「何っ!?」
腐臭で染みる目に堪えて見開き、尻目の両足首を掴んで動かないようにする。そしてそのタイミングを見計らうかのように、地面から這い出たアサルトライフルの銃口が尻目の尻穴を突き刺した。
「んぎゃぁぁぁ!?」
劈くような悲鳴が上がり、その激痛によって尻目の身体が空高く跳ね上がって、頭から地面に落下して頭から地に埋もれた。
「ほほほっ、どうやら上手くいったようじゃの」
「ざ、座敷荒さん!?」
いつの間にか軍服に着替えた土埃だらけのキサナが地面から這い出て来て、仕留めた尻目を尻目に見てからからと笑う。
「な、なんで座敷荒さんが地面から出てくるんですか!?」
「あぁそれなんじゃが……実はその昔、我は埋蔵金探しにハマっていた時期があっての。その時にこの辺一帯を掘って掘って掘りまくっていたのじゃが、気付けばモグラ道のような形跡が至る場所に残ってしまって、面倒じゃから直さずに放っておいたのじゃ。そして偶然にもこのような機会が訪れ、これは使うざるを得ないと判断したのじゃ」
流石は幸運と不運を操りし妖怪。暇潰しで残した形跡すら味方に付けるとは、尻目の正体と同様、敵方は誰も思っていないことだっただろう。
「貴様……使用の銃は大筒であったはず……何故アサルトを持っていたのだ……」
「お主がトラウマ植え付けおった二番手の忘れ形見じゃよ。彼奴の仇を討ってやるために、こっそり屍から拝借したのじゃ。敗北者の銃を使ってはいけない、等というルールは言われてなかったからの」
確かに俺はこのサバゲーを始める際に、三つの銃から選んで使ってとしか言っていなかった。交換や貸し借りの禁止事例を出した覚えはない。一丁だけしか選ばなかったことにより、この銃でしか戦えないという先入観から見事抜け出したキサナが、尻目よりも一枚上手だったということだ。
「己を力を過信し過ぎたの。変態の王を名乗るつもりなら、まずはエロの化身たる我を穿つのじゃな。まぁ、取り敢えず今回は……」
引き金に指を添え、ピクリと尻目の全身が動く。
「我の完勝じゃ」
静かに引き金が引かれ、一発だけの銃声が周囲に鳴り響く。そうして尻目は、この世で最も醜く汚いオブジェクトと化した。
「ほほほっ、我に敵無しじゃ。無事かお主ら?」
「私は大丈夫ですが……猫又さんとシロちゃんが負傷してしまいまして」
「なぬっ? 猫はともかくとして、シロもやられるとは意外じゃの」
「面目ない。油断して両目を遮断されちゃってさ。正直まだ目が染みててよく見えないや」
「そういう時は目薬じゃ。ほれ、我の膝に頭を乗せい」
俺の傍で正座するキサナの膝に頭を乗せると、キサナの手で目を見開かされて目薬を一滴ずつ注入される。
次第に眼球の奥の奥まで清い水分が染み渡り、腐り掛けていた目に光が灯った。
「あ~、本当に失明するかと思った。やっぱり俺の相棒は頼りになりますわ」
「ほほほっ、当然じゃ。エロの化身じゃからの」
「……それ関係あるんでしょうか?」
とにかく、皆の奮闘とキサナのお蔭もあって、残る敵は僅か二人。桜華さんは未だに温羅兄と死闘を繰り広げていて、気付けば二人共サバゲーのルールを忘れて殴り合いをしていた。結局はいつも通りになってしまうわけね鬼兄妹は。
「大将首は桜華が討ち取ってくれるじゃろ。まだべくわ太郎が見つかっとらんし、我達はそっちに当たった方が賢明じゃの」
「だね。ほら、起きて猫さん。起きないとキサナにおっぱい揉ませちゃうよ」
「……一応起きてるわよ……うぇっぷ……」
未だに腐臭の余韻が残っているようで、立ち上がるも足取りが千鳥足だ。この分だと猫さんがこれ以上戦うのは無理か。
「厠姉さん、猫さんのことお願いしていいかな? 俺とキサナでとっとと見つけて倒して来るからさ」
「分かりました。ご武運を祈ってますね」
「ほいさ。行こう、キサナ」
キサナの膝の上から立ち上がり、キサナに向けて手を差し出す。
「うむ。では、そろそろこの戦に終止符を――」
「打つ」と言おうとした、その時だった。
「た、大変だすぅぅぅ!!」
温羅兄達がバトっている間に、俺達から見て向かい側の林から血相を変えたべくわ太郎が走って来た。なにやら只ならぬ慌て様だけど……。
「あんだァべくわ!? 今立て込んでるから引っ込んでろ! つーかテメェ、今まで何処ほっつき歩いていやがったこの野郎!? せめて俺の援護くらい――」
「そんなこと言ってる場合じゃないだす温羅どん! 大変なんだす! とにかく大変なんだすよ!」
「……温羅。勝負は一旦中止よ」
「あァ? なんだってんだ一体……」
唐突な緊急事態に桜華さんが冷静さを取り戻し、諭された温羅兄も流石に拳を引っ込めた。一時休戦になったようなので、俺達も林から出て桜華さん達と合流した。
「なんじゃなんじゃ、一体何事じゃべくわ?」
「あぁ皆さん! 丁度良……くもないだす! むしろ全然良くないだす! 今すぐ皆でここから遠くに逃げるだす!」
「逃げる? 何からだってんだ?」
「そ、それは――」
突如、林の向こう側から木が倒れる音が鳴り響いた。
それから二度、三度と次々に木が倒れていき、次第にその音の元がこちら側へと近付いてくる。俺達は無意識の内にその音が聞こえる方に振り返り、瞬きすらせずに見つめる。
やがて、視界に捉えている木がドミノ倒しのように倒れていき――‟それ”は俺達の前に現れた。
「な……なんですか……あれ……」
「おいおい……冗談じゃねぇぞ……」
「ねぇ温羅……あれってもしかして、さっきアンタが言ってた……」
皆が‟奴”を見て絶句し、ある者はがたがたと身を震わせ、またある者は額から一雫の汗を垂らす。
その中で俺は、昔にある人より聞いた昔話を思い出していた。決して忘れることのない、まるで悪夢が現実となってしまったかのような衝撃の昔話を。
〜※〜
その昔、日本の最北の地にとある集落がありました。
そこは人里離れた緑豊かな憩いの場。住み着く人は決して多くはありませんでしたが、そこに住む人は皆平和に日々を過ごしていました。
しかし、平穏の輪が保たれていたある日のこと。そこに、突如として一匹の獣が現れました。
集落は森の中にあったため、野生の動物達が出没してもおかしくはない。それは集落に住む人々にとっても、常識として知られていることでした。
しかし、その獣の姿は一目見て明らかに異質で異様なものでした。
大人一人丸め込めるような大きな頭に、胸に袈裟懸けの白斑がある巨大な肉体。どんな物も一振りで抉り取ってしまいそうな強靭な爪と牙。世間の常識ではその獣を‟熊”と称すのですが、実際にその目で見た人々はその獣を‟熊”ではなく、‟化け物”と呼びました。
初めて集落に現れた化け物でしたが、集落に住み込んでいた狩人の猟銃により、犠牲者を誰一人として出さずに何とか難を逃れることができました。
これでこの集落は再び安泰……と、集落の人々は思いました。しかしそれは、つかの間の平穏でしかありませんでした。
日が更に過ぎたある日のこと。集落で農作物を出荷する作業が長らく行われていて、忙しい日々が続いていた。
そして、その作業を一旦切り上げ、昼飯を食べるために一人の男が家へ帰りました。
男が家に帰ると、土間の囲炉裏の端の方に、よく見知った一人の子供が座っていました。ふざけて狸寝入りでもしているのだろうと思った男は、ちょっとした悪戯心を抱き、大声を出して驚かしてやろうとこっそり子供の元へと近付きました。
「からかってるつもりなのか~?」と男が言うと、子供の肩に手を掛けて顔を覗き込みました。そこで男は見てしまったのです。子供の顔下に付着した血の塊と、穿たれて真っ赤に染まった喉元と側頭部を。
男は恐怖に包まれるも、身体を震わせながら家の中にいるはずの友人の女を呼びました。しかし返事が返ってくることはなく、覚束無い足取りで居間の方へ向かうと、異様な腐臭が漂ってくるのを嗅ぎ取りました。
只ならぬ事態に男は家を飛び出し、集落に住む男達を何人か呼び付けて、慎重に家の中と周囲を調べました。
その結果、分かったことは二つ。一つ目は、以前に現れた化け物の足音があったため、再び化け物がこの集落に現れたということ。そしてもう一つは、窓際に女の髪の毛の痕跡があり、その化け物によって男の友人の女が化け物に連れ去られてしまったということでした。
後日、男は捜索隊を派遣し、友人の女の捜索を始めました。
時期が冬だったため、捜索は困難なものでした。更に捜索途中、五人の捜索隊が森の中で再び化け物と出くわしてしまいました。
しかし化け物は捜索隊が扱う猟銃により、呆気なく彼らの元から去りました。それから改めて捜索が再開され、その結果、一本の椴松の根元近くに妙に重ねられた小枝の山と、血に染まった雪の一部が見つけられました。
捜索隊は嫌な予感を抱きつつ、その場所を掘り返しました。すると出てきたのは、黒い足袋を履いた膝下の脚と、頭蓋の一部分しか残されていない女の遺体でした。
女の遺体が雪の中に隠されていたのは、彼女を保存食にするための行動だと、後に捜索隊によって発覚しました。
化け物は知ってしまったのです。人間の血と、肉の味を。
そして更に後日。化け物の存在にすっかり怯えてしまっていた集落の人々は、未だ討伐されない化け物に怯える毎日を過ごしていました。中には家の中に長く引き籠もる者まで現れ、集落の不穏の風は取り除かれることなく、夥しく吹き荒れる一方でした。
そんな中、避難民総勢十一人が一か所の家に集まっていた時のこと。幼子を背負ったとある女性が夜食の支度をしている最中、地響きと共に窓を破って黒い塊が侵入して来ました。それは他でもない、化け物そのものでした。
女は「何があったの!?」と叫びましたが、返って来る言葉はない。化け物はその場で暴れ出し、囲炉裏の大鍋をひっくり返す等をして家の明かりを消して、避難民に混乱を招きました。
化け物を見てしまった女は、慌てて屋外へ逃げようとしました。しかし、恐怖のあまりに転んで身動きが取れなくなっていた一人の男に足元を取られ、よろついてしまいました。
そこへ化け物が襲い掛かり、まず女が背負っていた幼子に噛み付きました。更にその三人を手元に引き摺り込み、女の頭部に噛み付きました。しかしその直後、戸口へと走って逃げていく別の男に化け物が気を取られ、女はその隙をついて男と幼子を連れて脱出しました。
化け物に追われる羽目となったその男は、必死に逃げて物陰に隠れてやり過ごそうと企むものの、化け物に腰を引き裂かれて重症を負いました。
男はあまりもの痛みに悲鳴を上げると、その声に反応した化け物が再び家の中の避難民に狙いを定め。再び家の中へと獲物を探しに侵入しました。
更なる獲物を見つけた化け物は、ある者を撲殺し、またある者を噛み殺す。その光景をひっそり見ていた子を身籠りし女が更に見つかってしまい、化け物に「お腹の子供には手を出さないでぇ!!」と命乞いするも、上半身から捕食され、絶命しました。
阿鼻叫喚の地獄絵図。断末魔の叫び声を耳にしつつ、脱出に成功した女は他の集落の人々と合流し、避難民の皆を助けるべく応援を呼び付けました。
そして銃を携えた十人程の人達に駆け付けてもらいましたが、暗闇に包まれた家の中にうかつに近付けば、また更なる犠牲者が出るのは必然。中からは何者かの骨を噛み砕く咀嚼の音が聞こえ、皆はただジッと様子を伺うことしかできませんでした。
一か八か家に火をかけようと言い出した者がいましたが、脱出した女が必死に反対しました。それは、家の中にいるであろう避難民の子供の生存を信じていたためでした。
しかしただジッと待っているわけにもいかないと、応援の一人が空砲を撃つという機転を利かせ、化け物は応援の人達の前に現れました。しかし討伐を図るも失敗に終わり、化け物は再び森の中へと姿を消しました。
その後、化け物が暴れた家の中を調べました。何処もかしこも血塗れで、避難民の姿は子供を含め、無残なものへと変わり果てていました。
二日後。多くの犠牲者が出てしまったことにより、集落の人々は本格的な討伐隊を派遣しました。そして更にその二日後、化け物は熊狩りを得意とする一人の狩人により――最期の時を迎えました。悲願の化け物が討伐され、総勢二百名の討伐隊はこだまする歓喜の声をあげました。
化け物の死骸は集落の人々の手によって農道まで下ろされ、そりを使って大人数で集落へと運びました。その途中、降り注いでいた雪が激しい吹雪に変わり、化け物を運ぶ一行を激しく打ちました。
この世にはこんな言い伝えがありました。‟熊”を殺すと、空が荒れるという。
集落の人々はその急変した天候を付け加え、化け物に‟名”を与えて未来永劫語り継がせるのでした。
「この感じ……まさか……お願い! 間に合って!」
私は底知れない嫌な予感を感じ取り、お婆さんが言っていた屋敷のある離れへと駆け出しました。
〜※〜
もしこれが夢だったとしたら、俺は泣いて喜んでいることだろう。
しかし俺の心臓は、ハッキリと鼓動の音を弾ませている。動揺や恐怖といった負の感情が混ざり合い、胸の中を素手でかき混ぜられるような気持ち悪さを感じる。
「シロ君! しっかりしてシロ君!」
ズキズキと背中が痛み出し、自然と息が荒くなる。いつの間にか回復した猫さんが呼び掛けてくるが、返事を返す余裕がなかった。
当たり前だ。無理もない。声も出なくなるのは自然の摂理だ。何せ、俺達の目の前にいるあいつは、この世で最も恐ろしい存在であろう化け物なのだから。
俺は以前、学校の友達から「貴方って怖い感情抜けてるんじゃない?」と言われたことがあった。霊感が馬鹿みたいに強いとはいえ、俺も人から生まれた人の子なんだ。怖いものの一つや二つくらいある。
そして、その怖いものの中で俺が最も怖いと思っているものは――“人の命に害を為す妖怪”だった。
大人一人を丸ごと食らってしまいそうな大きな頭。全身を黒い剛毛で覆い、胸元にある袈裟懸けの白斑。一振りすれば、人一人をいとも容易く瀕死にしてしまう強靭な爪と牙。その姿はさながら、突然変異によって巨大化した――熊。
一生忘れることのない奴の名前を、俺はぼそりと呟いた。
「熊風……」と。
「熊だぁ? 危険な肉食動物ならオヤジが昔に追っ払ったってのに……どうしてまたこんなところにいやがんだ!?」
「違う……あれは妖怪だよ温羅兄。多分、この世で最も危険な妖怪で……誰かを殺すことを躊躇しない悪魔だ」
「殺すことを躊躇しない……ねぇ。常にどっかの馬鹿に殺されかけてる俺としては、恐るに足りねぇっつの」
冗談めいたことを言いながら笑う温羅兄だけど、その表情は引き攣っている。あれほど巨大な妖怪に会ったのが初めてだったのかもしれない。
「温羅」
「わーってるっつの。こういう時のための鬼の怪力ってな。テメェら、邪魔だから全員下がってろ」
俺を含めた皆を背に追いやり、伝説の鬼妖怪の二人がゆっくりと熊風の元へ歩み寄って行く。
「ここは貴方のような場違いな妖怪が来て良い場所じゃないわよ。これ以上ここで暴れようというものなら、一切容赦はしないわ」
「無駄だと思いつつ念の為言っとくが、こいつはマジで加減を知らねぇ脳筋でな。頭かち割られたくなかったら尻尾巻いて逃げた方が身の為だぜ」
相手は元々化け物だったとはいえ、今は仮にも妖怪の一人。桜華さんと温羅兄は説得を試みて、それで済めば良いものだと思っていた。
だが……熊風の答えは、周囲を暴風で吹き飛ばす程の咆哮だった。
「先手必勝ってなぁ!」
四足歩行で襲い掛かってくる熊風に対し、奴が突進する前のところで温羅兄が飛び出した。
虚を突いて後ろに回り、本気の回し蹴りを放つ。その勢いに乗った桜華さんも飛び出し、右腕に向かって正拳突きを解き放った。
鬼の一撃ならば、いくら図体のでかい熊風と言えど堪らず崩れるだろう。俺は本気でそう思っていた。
「うっ……!?」
「ぐぉお!? 硬ってぇこの野郎!?」
しかし、あの化け物の危険性は、伝説の鬼達をも遥かに凌駕していた。
熊風の動きがピタリと止まり、すぐさま温羅兄と桜華さんが距離を取る。
あれだけの攻撃をされて尚も、熊風の視線は桜華さんや温羅兄にくれていなかった。奴の目線の先にいるのはただ一人。人間である、俺だけだった。
……違う。あいつは俺と出会ったことのある奴じゃない。まさかとは思ったが、ひょっとしてあいつは……?
よく見れば、俺が以前出会った熊風よりも少し小さい。それに白斑の模様が若干違う。これはもしかしなくとも、そういうことなんだろう。
「あいつ……きっと俺に復讐しに来たんだ」
「復讐って……シロちゃん、もしかしてあの熊さんに会ったことがあるんですか!? もしかして長く家を空けてたあの時に……?」
「そういうこと。ごめん皆、俺のせいで皆を危険に晒すことになるだなんて思ってなかったんだ……」
子供。それ以外に奴の正体は考えられない。親の仇を討つために、あいつは今までずっと俺のことを捜し続けていたんだ。
それと恐らく……“彼女達”のことも。でもその結果、先に俺を見つけたということだ。あの時に全部終わったことだと思っていたのに、子供という存在がまだ終わらせてくれていなかったんだ!
どうすればいい……このままじゃ、桜華さんと温羅兄がやられてしまう。俺に何かできることはないのか?
脳みそ穿り返してでも考えるんだ。今の俺に成せること全部。




