8.願望と現実の区別がついていないタイプの馬鹿だな
その日、アンナ・アンリはセルフリッジが待つ家に帰っては来なかった。夜の八時を過ぎた段階で、オリバー・セルフリッジは彼女が行きそうなところを一通り回り、知っていそうな人々に声をかけ、それでも彼女の居場所の手掛かりを何も発見できずに戻って来ると、本気で彼女が暴漢の類に襲われたかもしれないと心配した。魔女である彼女でも、不意を突かれたなら負けてしまうかもしれないし、強力な抗魔力道具を使われた可能性だってある。この国には、まだまだ魔法使いへ根強い差別意識を持つ人も多い。彼女の活躍を快く思っていない人間だってたくさんいるのだ。
しかし、それから彼はアンナの部屋を調べてみてその可能性は低いだろうと判断した。
アンナの部屋からは荷物が消えていたのだが、それは生活に必要な最低限の物と、セルフリッジが彼女に初めてプレゼントしたあのダミーの首輪だけだったのだ。仮に強盗に襲われたのだとすれば、もっと金になる物を狙うはずだし、アンナに危害を加える事が目的でも首輪は盗まない。明らかに、アンナ・アンリは自らこの家を出て行ったのだ。
一体、どうして彼女は自分に何も告げずに出て行ってしまったのか?
酷く悲しんだ彼はそれから不安定になり、絶望感に苛まれ、彼女への怒りや憎しみを覚え、そして全ての事を呪いすらした。だがやがて、なんとかそんな気持ちを鎮める事に成功する。アンナが出て行ったのには、何か事情があるはずなのだ。彼女が裏切ったと判断するのはまだ早い。何しろ、彼女にはその理由がないのだから。それに、この状況を打開するのに、こんな気持ちの状態ではいけない。彼はそれを分かっていた。暗い中で横になり、彼は冷静に事態を見つめ始める。
――なんとしても彼女を取り戻す。
魔女であるアンナ・アンリは、国の管理下から離れた状態では、真っ当に社会生活を送ることはできない。裏社会に行くか、親しい誰かに匿ってもらうかしか手段はないだろう。彼女にはどちらの伝手もないはずだった。もちろん、後先考えずに逃げ出さなければいけない程、彼女が追い詰められていたとも考え難い。
ならば、彼女は何処へ消えたのか?
彼女に行先があり、計画的にそこに消えたのだとすれば、必ずここ最近で何かしらその兆候があったはずなのだ。そして、
――ネズミが現れた。
少し前に、そんな事を彼女が言っていた事を彼は思い出した。
確か、魔法使いが操っているネズミだと言っていた。そしてそこからの連想で、彼はそれよりも前に、アンナを頻繁に誘っていた男の事も思い出した。
“あの男は間違いなく‘シャロム・シャイロー’のはずだ“
強固な魔法使い差別主義を執る、シャイロー家の次男だ。
セルフリッジは、アンナに声をかけているその相手が誰なのかを調べていたのだ。それは単なる嫉妬ではなく、この時期にアンナにしつこくコンタクトを取って来る人間は、誰であろうと無視はできないという事情があった。直ぐに諦めたようだから、特にセルフリッジはその後シャロムを気にしてはいなかったのだが、或いは……
“用途は色々あるでしょうから、彼らが魔法使いを欲しがるだろう事は予想がついていましたが、まさか、狙い難い上にリスクも高いアンナさんを、敢えてターゲットにしたのでしょうか?”
アンナはセルフリッジとの信頼関係を築いているから、簡単には誘いに乗らない上に、国の管理下にある魔法使いを奪う事は罪になる。仮に犯人が魔法使いを欲しがっていたのだとしても、普通に考えれば、ターゲットには選ばないだろう。しかし、アンナは大丈夫だと思っていたからこそ、彼がその油断を突かれてしまったのは事実で、だからそれは有効な策だったのかもしれない。もしそうなら、相手は彼が思っているよりも手強い可能性がある。
その晩、彼は一睡もせずに考え続け、そして朝になる頃には、今の状況を受け入れ、アンナの失踪に関してのある仮説を立てていた。
“恐らくキーになるのは、消えた荷物の中に僕が彼女にプレゼントしたダミーの首輪があった事でしょうね”
それから、彼は職場に出勤すると、アンナが失踪してしまった事を上司に告げ、自分の管理不足を謝罪した。ただし、「直ぐに取り戻します」とその場で宣言もしたのだが。そして彼は、その後すぐに警察にアンナの失踪届を出した。
魔法使いは重要な存在である為、もしいなくなるような事があれば必ず報告をしなければいけないし、その責任も問われる事になるのだ。
最近、アンナは大きな活躍をし続けていただけに、その失踪事件は瞬く間に世間に広まってしまった。
“……アンナ・アンリは魔法使い差別主義者達に殺されたのだ”
“……彼女はセルフリッジを裏切り、魔法を使って裏社会で裕福に暮らそうとしているのではないだろうか?”
“……魔法使い解放が進んでいるセルティア共和国に、彼女は逃げてしまったのさ”
様々な噂や憶測が飛び交ったが、どれも信憑性は低そうだった。そして、この魔法使いに対するマイナスの印象は、魔法使い差別主義者達にとって望ましい事だった。恐らく、“敵”の目的の一つはそれなのだろうとセルフリッジは考えた。
その日、セルフリッジは、午後の休暇を申請すると、自分の仮説を補強する為にチニックに会いにベルゼーブ工房へ向かった。自分の仮説が正しいとして、どうしても一つだけ分からない事があったのだ。
どうやって、“敵”はアンナ・アンリに自ら去るよう促したのか?
彼女と自分との信頼関係を考えるのなら、真っ当な方法では、アンナを騙す事はできない。ならば、後はわずかな隙を突いたとしか考えられなかった。そして、彼にはそれはチニックに渡しているあのアンナ・アンリの特殊貸与契約書くらいしか思い付けなかったのだ。
セルフリッジの顔を見るなり、チニックはとても申し訳なさそうな顔になった。それで彼はチニックがアンナに特殊貸与契約書の存在を教えてしまったのだと察した。
「旦那、すまない。あの魔女のお嬢ちゃんが失踪したってさっき聞いたよ。契約について訊かれたものだから、ボクはお嬢ちゃんは承知しているものだとばかり思って、あの契約書を見せてしまったんだ。あの時、お嬢ちゃんの様子はなんかおかしかったんだが、まさか失踪するなんて……」
セルフリッジは、それを聞くと「つまり、アンナさんの方から、契約書についてチニック君に尋ねてきたのですね?」とそう訊いた。
「ああ、彼女は知っていたよ。だからボクは、てっきり旦那が教えたのだと思ったのだけど…… やっぱり、違ったのかな?」
チニックはまだ申し訳なさそうにしていたが、その彼の回答にセルフリッジは満足気な表情を浮かべたのだった。
「いえ、ありがとうございます。それだけ聞ければ充分です、チニック君。気にしないでください。今回の事は、僕のミスですから。
――それに、大体は分かりましたし……」
そのチニックの証言で、彼は、自分の仮説が正しいだろう可能性が高くなったと判断し、それに則って計画を立てる事にその場で決めた。アンナを取り戻す為には、迅速な決断と行動が求められるはずだからだ。チニックから聞き出すべき情報がもっとないかをチェックする為に、彼はそれから大まかな方針をまとめた。
自分の仮説が正しければ、恐らく犯人だろう魔法使い差別主義者達はアンナ・アンリを仕事や魔法使い解放運動妨害の為に使うつもりでいるはずだ。ならば、そこに罠を張れば良い。その為にはまだ得なければいけない情報がある……
そこで彼は、まだチニックに質問すべき事があると気が付いた。
「そういえば、チニック君。相変わらず、ここには、抗魔力道具や魔法道具の発注依頼が来ているのですか?」
チニックはそれに不思議そうな表情を見せる。
「ん? ああ、来ているよ。量産体制が整っていないからバカ高いのに。しかも複数の客だよ。どうしたのだろうね? そういえば、今回は変わった商品の受注もあったな」
セルフリッジはその言葉に頷く。発注元など、いくらでも誤魔化せる。恐らく、その発注主は一つだと彼は判断した。
「今度は、どんな商品を売る事になったのですか?」
「長距離間魔法発動装置だよ。遠く離れた場所に、魔法を発動させる事ができる装置。もっとも、かなり魔力を使う上に威力も弱くなるけど。有効範囲は80キロほど。術者の魔力が強ければ、それ以上もいけるかも」
「なるほど、なるほど。以前に教えてもらったあの商品ですか。大がかりな装置だから、自由に動かす事はできないという話でしたよね?」
「ああ、その通りだね」
“――それは怪しい”と彼は思う。
実はその“長距離間魔法発動装置”の存在を以前から知っていたセルフリッジは、それをマークしていて、魔法使い差別主義者達が悪用する可能性を考えていたのだ。だから警戒してその為の準備もしていた。もしも犯人が、その装置をアンナを使って利用するつもりでいるのなら、策は練り易い。
そしてそれから彼は、ようやく普段の自分を取り戻すと、どうかアンナが酷い目に遭ってないようにと、彼女の身を深く案じたのだった。シャイロー家は、魔法使い差別意識も女性差別意識も激しい。もし彼女が囚われているのがシャイロー家なら、彼女が虐待を受けている可能性は大いにあるのだ。
「――さぁ、シャロムさん。約束通り、アンナ・アンリを連れて来ましたよ」
誇らしげな表情で、シロアキはそう言った。それは街の一角にあるシャイロー家の銀行が融資しているホテルの一室だった。そこで彼、シャロム・シャイローはアンナ・アンリを待っていたのだ。ベッドの上に腰を下ろしている。彼は仕事の力関係が上であるお蔭でその部屋を自由に使える身なのだ。とても高そうな部屋だが、ほぼ無料である。室内には、彼の他にも数人の部下がいた。ただし、彼は金融機関に勤めているはずなのに、その部下達の風貌はギャングにしか見えない。
シャロムは、憎悪と欲望と愛情がない交ぜになったような複雑な表情でアンナを見ると、彼女を見たままシロアキにこう言った。
「ああ、確かに。約束通りだな、シロアキ。金は後で支払うよ」
その獲物を狙うような視線に、アンナは竦む。こう呟いた。
「あなたは……」
以前に自分にしつこく付き纏い、宝石までプレゼントしようとした男が彼である事を彼女は思い出したのだ。
シャロムは頷く。
「久しぶりだな、アンナ・アンリ」
それから彼は、彼女の全身をなめるように眺めた。
「オリバー・セルフリッジとかいう、あんな変な男よりも、この僕を選んでくれてうれしいよ。君はやっぱり男を見る目があるようだな」
それを聞いて、シロアキは内心でこう呟く。
“お前になびいたんじゃなくて、自分を裏切ったセルフリッジの所にいたくなくなっただけだよ。説明したじゃねぇか”
どうやらシロアキはシャロムに呆れているようだった。それからシャロムはこう言う。
「……ただし、君が僕の所に来た以上は、これをつけてもらうよ」
それから彼はベッドの上に無造作に置かれてあった首輪を手に持った。もちろん、ただの首輪ではない。魔力抑制効果を遠隔操作できる新しいタイプの首輪だ。
アンナはそれを冷たい目で見つめる。
“やっぱり、この男も、わたしに首輪を嵌めようとするのね”
覚悟をしていた彼女は、大人しくされるままにした。シャロムは彼女の首に、それを嵌める。そして首輪を嵌めるなり、シャロムは豹変したのだった。いきなり彼女の顔を平手で思い切り引っ叩いたのだ。不意を突かれた彼女は、その勢いに逆らえず、床の上に倒れてしまう。
「なっ! 何をするんですか?」
その彼女の抗議の声に、当然だと言わんばかりに彼はこう返す。
「“何を”だと? お前がこの僕にした仕打ちを忘れたのか? この僕が折角用意してやったプレゼントを拒絶して、恥をかかせやがって!」
それからシャロムはもう一度アンナの顔を引っ叩いた。アンナは彼を睨む。セルフリッジの所で生活する前は、役人達の許で酷い扱いを受けていたから、彼女はここに来ても耐え切れると思っていたのだが、この男は役人達よりももっと酷いかもしれない。反抗的な表情を見せたアンナの顔をもう一度叩いてから、彼は彼女の腹を足で踏んだ。
「なんだ、その顔は? これは儀式だよ。受け入れろ。あんな事を僕にしておいて、僕の所に何もなしで転がり込んで来れると思うなよ? 虫がよすぎるだろうが? ああ?」
その彼の行動に驚いたシロアキが言った。
「おい、ちょっと、シャロムさん。そんな扱いはやめてくれよ。せっかく連れて来たのに、これじゃ、逃げられちまうじゃないか」
ところが、その忠告をシャロムは意に介さない。
「分かっていないな、シロアキ。この女は本当は悦んでいるんだ。女ってのは男にこうしてしつけられるのを望む生き物なんだよ。だから、こいつは、甘過ぎて物足りないセルフリッジの所を出て来たのだろう?」
シロアキはその言葉に「ハハ…」と笑う。そして隣にいたデンプタリンに小声でそっとこう言った。
「おい、こいつマジだぜ? 流石に、ドン引いた。願望と現実の区別がついていないタイプの馬鹿だな」
シャロムはそれからまた数回アンナの顔を引っ叩く。アンナの悲痛な声が部屋に響いた。アンナが涙声で「やめてください」と懇願するとそれでようやく彼は満足したらしく、打つのを止めてポケットの中から宝石を取り出した。それはかつて彼がアンナにプレゼントしようとしたあの宝石だった。
それをシャロムは無理矢理にアンナの口の中に入れる。アンナは嫌悪の表情を浮かべたが、ほとんど抵抗はしなかった。また彼の虐待行為が始まることを恐れたのだ。嗜虐的な表情で、シャロムは言う。
「それはお前にやるよ。ありがたく思うんだな、アンナ・アンリ。これから、この僕に大人しく従うのなら、あの件は水に流してやる」
アンナは口の中の宝石を、手の平の上に吐き出しながら、「はい」と頷いた。
“耐えろ。今は耐えないと……”
顔を伏せ、怒りの表情を隠しながら、彼女は心の中でそう呟いていた。
その光景を見ながら、シロアキは“こいつ、駄目だな。稼ぐだけ稼いだら、さっさと手を切るか”とそんな事を思った。そして、
「そうだ、こっち側についたというのなら、教えてくれよアンナ・アンリ。セルフリッジに関する情報を、洗い浚い」
その後でふと思い付くと、シロアキはそう言った。シャロムと手を切るのがいつになるのかは分からないが、できるだけ早いうちに有用な情報は入手しておくべきだと考えたのだ。ところが、それを聞くとアンナは態度を変えたのだった。少しの間の後で、立ち上がりながら「そうですね……」と言い、表情を整えると叩かれた所為で腫れている顔を気丈に結ぶ。さっきまでの気弱な様子が嘘のようだ。まるで“セルフリッジ”という単語に反応してそうなったようにシロアキには思えた。それから彼女は口を開く。
「彼は意外に性欲が強いです」
真っ当な答えではない。
それにシロアキは顔をしかめたが、シャロムは大笑いをした。
「ハッハッハ! やっぱりな、そんな事だろうと思ったよ。こいつから聞き出そうとしても、無駄だぞ、シロアキ。彼女は何も知らないんだ。セルフリッジにとって彼女は、ただの道具だったのさ。道具にそんなに重要な情報を教えているはずがない!」
シャロムはどうやら本気でそう考えているらしかったが、その時、シロアキは疑っていた。アンナ・アンリは完全にオリバー・セルフリッジを見限った訳ではないのではないか?と。ただ、シャロムに反論するのは面倒そうなのでそれを口には出さなかったが。
そして改めてシロアキは、シャロムと組んでいる事に不安を覚えたのだった。この男は、危機意識が薄すぎる。情報の重要性も分かっていない。
――やはり、こいつとは早く手を切るべきだ。
そして、またそう思った。
手痛い失敗をし、タンゲア帝国の暗黒街の連中から睨まれたシロアキが、それを挽回する為に考えた手段は、人身売買ルートの新規開拓だった。それも、高く売れる人間を高く買ってくれる客に向けて販売し、効率良く稼ぐという高額売買の計画を立てた。そして、そこで彼がまず目を付けたのが、ランカ・ライカと、マカレトシア王国の魔法使い差別主義達だったのだ。
ランカ・ライカの驚異的な身体能力の源は魔力だ。だから魔力抑制効果のある道具さえ使えば捕まえておくことは容易なはずだ。しかも魔力を使うというからにはランカは魔法使いの一種だ。魔法使い差別主義者達にとっては奴隷も同じで、だから“買う”ことにも抵抗を感じないはずだ。
もちろん、マカレトシア王国で売ろうと考えた事にもちゃんと理由があった。
ランカ・ライカは山賊認定されている。つまりは捕まえても罪にはならない。そして、にもかかわらず、ランカはマカレトシア王国の王子達に恩を売っている。王子達はランカに愛情すら感じている程なのだ。だから捕まえておけば、いざという時の貴重な交渉材料になる。
ところが、その客として選んだシャロム・シャイローという男は、その話に強く興味を覚えたようではあったが、ランカ・ライカを買い取るに当たってまだ条件を出して来たのだった。
「利用できる魔法使いが欲しい。二人。一人は炎を使えるのなら、他に条件はない。しかし、もう一人はアンナ・アンリ限定だ。もし連れてくれば、ランカ・ライカも買おうじゃないか」
その条件にシロアキは、目を丸くした。その時は、そこにどんな意図があるのか分からなかったが、炎の魔法使いについてはやがて判明した。タンゲア帝国から連れて来たその男を騙して、シャロムは自分達に歯向かうある同系列の銀行を襲わせたのだ。
それには魔法使いへの印象を悪くしたいという目論見の他にも、自らの犯罪の証拠隠滅と、その銀行への脅迫と報復という目的があったらしかった。炎の魔法使いが銀行を襲って燃やしたとされている書類の中には、銀行がシャロムに対抗する為に保持していた彼の犯罪の証拠があったのだ。もちろん、本当はそれは燃やされておらず、シャロム達が秘密裏に回収していたのだが。
それを知ったシロアキは、シャロム・シャイローをこう評価した。
頭は良いが、感情のコントロール能力は低く、視野が狭い。プライドが高過ぎる所為で、慎重さに欠ける。いずれ大きな失敗をするかもしれない。
……確かにその計画の大凡は上手くいったように思える。銀行強盗達は捕まったが、シャロム達が警察から疑われる事はなかった。多少の噂が立った程度だ。だが、果たして、その費用とリスクに見合うだけの効果があったのかと問うのなら疑問が残る。もっと別の安価で安全な手段があったはずだ。
それに、そもそもその銀行がシャロムに歯向かっていたのも、どうやら彼の酷い性格にその原因があるらしかった。つまりは、本来は高いコストをかけて対策を執る必要はなく、彼がその態度を改めさえすれば、初めから防げていた問題だったのだ。だが、しかし、彼自身はそうは思っていないようだった。自分の計画の成功に満足しているように、少なくともシロアキの目には見えた。
――金融業界で、高い額の取引ばかり経験してきた所為で、コストに対する感覚がおかしくなっちまったってところか……
そう考えたシロアキは、アンナ・アンリを捕まえて来るに当たって、炎の魔法使いよりも遥かに高い金額をシャロムに要求した。この男なら、その条件を飲むだろうと判断して。結果は彼の予想通りだった。シャロムはシロアキの提示したその高過ぎる金額をあっさりと受け入れたのだ。
もっとも、アンナ・アンリを捕まえるのは、炎の魔法使いを連れて来るよりも格段に難しいことは確かだったから、その額にはそれなりの根拠もあったのだが。実際、ネズミへの“宿り身の魔法”を駆使し、オリバー・セルフリッジの身辺を探りまわって、彼がチニックと特殊貸与契約を結んでいるという事実を突き止めなければ、アンナ・アンリを連れて来る事はできなかっただろう。
そして、それに関して、シロアキには腑に落ちない点があったのだった。
アンナ・アンリは世間から注目されていて有名で、国の管理下にある魔法使いだから、捕まえた後も高いリスクがある。もし彼女を所持している事が明るみになれば、シャロムは罪に問われるだろう。何故、高額の費用をかけてまで彼女を狙うのか、シロアキには分からなかったのだ。魔法使いが必要だというのなら、国外かアンダーグラウンドの魔法使いを探して連れて来れば良い。その方が安価だし、リスクも遥かに少なくて済む。
確かに注目を集めているアンナ・アンリがセルフリッジの所から失踪すれば、魔法使い解放運動を少しは抑えられるだろう。だが、既に魔法使いの解放は、国際的な魔力活用競争のステージで語られる問題に移行している。だから、それにそれほど効果があるとは思えなかった。
“或いは、セルフリッジは油断しているだろうから、アンナ・アンリは実は奪い易く、しかもそれで奴の強力な戦力を減らせるとシャロムは判断したのかもしれない”ともシロアキは考えた。上策かどうかは別問題にして、それならば分からなくはない。魔法使い差別撤廃を進めるセルフリッジは、邪魔な存在だから弱らしておきたいはずだ。
が、実際に、アンナ・アンリをシャロムの元に連れて来て、それはないとシロアキは判断した。明らかにシャロムが屈辱を与える目的で彼女をいたぶっていたからだ。話の流れから察するに、シャロムはアンナに振られた事を根に持って、その理不尽な復讐の為に、彼女を奴隷にしたかっただけのようだ。
“――このシャロムって野郎はプライドが高過ぎる。それにリスク評価能力も低いな。そのうち、大きな失敗をする可能性が高い”
シロアキは、それでそう考えたのだ。だからこそその失敗に巻き込まれない内に、できるだけ早く手を切ろうと思っていたのだが。
オリバー・セルフリッジは、経済雑誌と新聞の記事を、ここ最近、つぶさに読んでは欠片のような情報ですらも一つも逃すまいと必死に拾っていた。特に注意していたのは、シャイロー家に関する記事で、その中でもシャロム・シャイローに関わる話題には取り分け気を付けていた。
「やはり、派手にやっているようですね」
そして、その日、それら記事の確認を終えてから、彼はそう呟いたのだった。アンナ・アンリを奪ったのは、シャロムだろうと彼はそれでほとんど断定した。
シャロムが投資している会社の株が値上がりしている事、その他にもどうも金融取引で儲けているだろう事が、それらの記事からは窺い知れたのだ。しかも、不自然にライバルの企業の工場が事故を起こしたり、まるで千里眼でもあるとしか思えないような取引を行い、彼は成功を収めている。恐らくは、アンナ・アンリを使って事故を起こしたり、不正に情報を得たりしているのだろうと思われた。
シャロム・シャイローが、セルフリッジの予想通り、軽率な男で助かったと彼は思っていた。もし、シャロムが慎重な人間で、もっと分かり難い方法でアンナ・アンリを使っていたなら、こんなに簡単に犯人はシャロムだと確信する事はできなかっただろう。
今回、彼が策を巡らせるに当たって、最も気を付けなくていけないのは、自分が恐らくは監視されているだろう点だ。その監視の目を掻い潜って、シャロム達の事を調べ、罠を張らなくてはならない。因みに、セルフリッジは平素から雑誌や新聞を買っているので、その情報収集方法は特別変わった行動ではない。監視されていても問題ないだろう。
“先日、インヒレイン山岳地帯近くの廃村まで調べに行ってしまいましたからね。もう、あんな大胆な行動は控えないと……”
彼は考えを整理しながらそう思う。
シャイロー家は、魔法使い差別主義を執っている。だから、魔法使い達を解放するに当たって、障害になる可能性が大きい。セルフリッジは彼らに対抗する為、かなり前から彼らの情報を少しずつ集め続けていたのだ。そして、ある時期にシャイローグループが、インヒレイン山岳地帯近くの廃村に倉庫を買ったという情報を入手した。
廃村の倉庫の名義上の持ち主は、シャイローグループ系列の子会社の一つだったが、シャイロー家の人間ならば、誰でも自由に使えると見てまず間違いはなさそうだった。もちろん、シャロム・シャイローもその一人だ。
確かにその廃村は土地も建物も安いが、それでも交通の便を考えるのなら、そこは倉庫に適した土地とは言い難かった。タンゲア帝国とセルティア共和国に近いとはいっても、険しいインヒレイン山岳地帯を挟んでいる為、大量の荷物は運び難い。
ならば、一体、どうして、シャイローグループはそんな土地に倉庫を買ったのか?
セルフリッジは当初は特にそれを気にしていなかったのだが、ある時にチニックから“長距離間魔法発動装置”の存在を聞いて、もしかしたらと思ったのだ。或いは、シャイローグループ内の何者かが、その倉庫に、長距離間魔法発動装置を設置するつもりでいるのではないか? 長距離間魔法発動装置ならば、山岳地帯はあまり問題にならず、タンゲア帝国、マカレトシア王国、セルティア共和国の三カ国がその射程内に入る上に、周囲には人気がほとんどない。長距離間魔法発動装置を使うのに、非常に適した地理条件だ。
その可能性を考えた彼は、以前からいくつか布石を打ち、もしもシャイロー家が長距離間魔法発動装置を悪用しようとしているのなら、それを使って阻止しようと準備していた。だから、今回、シャロムがアンナを使って長距離間魔法発動装置を悪用するつもりでいるのなら、その布石がそのままアンナを救う為に使えるかもしれないと考えていたのだ。
アンナが失踪した二日後には、彼は「ランカ山賊団に行ってきます」と職場に断り、その廃村を調べに行った。インヒレイン山岳地帯はランカ山賊団が根城にしている山だが、だからその廃村は山賊団へ行く途中に寄れるような位置関係にあったのだ。もっとも、調べたのは廃村へと向かう道だけだ。廃村に向かう馬車など滅多にない。それを彼はいつもランカ山賊団に行くついでに確かめていたのだが、その時はいくつもの馬車が通った跡が廃村までの道に残されてあったのだ。つまり、ここ最近で、廃村のその倉庫に大量の荷物が運び込まれた可能性が大きい事になる。
そして恐らくその荷物は、長距離間魔法発動装置及びに、その他の魔法道具や魔力抑制道具の類だろうと彼は考えた。
その時、彼はそれだけを確かめると直ぐに戻った。ランカ達には会っていかなかった。ランカ・ライカは妙に勘が鋭いところがあるから、セルフリッジの様子がおかしいと気が付くかもしれないし、アンナが何処かに捕まっている事を知れば、勝手に動いてしまう可能性もある。相手が罠に嵌るまで、それは避けたかったのだ。
もっとも、この時既にランカ・ライカはシロアキに騙されて連れ去られており、ランカ山賊団のアジトからは消えていたのだが。もしも、セルフリッジがこの時にアジトを訪ねていたら、ランカの失踪に混乱している団員達と会い、自ずからそれを知る事になっただろう。実はランカ・ライカは、彼が怪しいと考えている廃村の倉庫に幽閉されていたのだが、或いは彼なら、そこでそれを予想していたかもしれない。
家に帰ってから、オリバー・セルフリッジはじっくりとシャロム・シャイローという男について考えた。
シャイロー家に注目してはいたが、セルフリッジは、実を言うのなら、以前はシャロム・シャイローにはあまり注意を向けていなかったのだ。資料の上では、どんな人間なのか把握していたが、それだけだった。シャロムは実力者ではないと評価していたためだ。だから、シャロムがアンナに付き纏うまではその顔すら知らなかった。もちろん、それなりの権力とそれなりの財力を持ち、影響力だって充分に彼にはあるのだが、国の人間が出てくるような重要な場面には、何故かシャロムはほとんど関わっていなかったのだ。
どうやら、シャイロー家のトップクラスの人間達は、シャロムの行動を意図的に制限しているようだった。恐らくは、重大なリスクが伴うような場面には、彼をできるだけ関わらせないようにしている。
その理由を、セルフリッジはこう判断した。
それは、このシャロムという男に、リスク評価能力が欠けているからではないか?
シャロムに関する資料を見ると、確かに彼は金融取引で大きな実績を上げる事もあった。だが、その反対に大きな損失を出す事も多く、安定性がない。つまり、大胆な行動力はあるが慎重さに欠けるという欠点がある。もしかしたら、彼は恐怖感が著しく鈍いのかもしれない。
シャイロー家のトップクラスの人間達は、シャロムの存在自体にリスクを感じている可能性もある。その大胆な性格の所為か、シャロムには犯罪組織と関わっているという噂もあった。いざとなれば、シャイロー家は彼の事を切るつもりでいるのかもしれない。
セルフリッジは、シャイロー家の人間は実はそれほど魔法使い差別主義に拘泥していないのではないかと最近になって考えるようになっていた。魔法使い解放運動を苦々しく思ってはいるが、ビジネスの成功と比較すれば重大ではない。だから、犯罪に関わるような事には手出しはしない。リスクが大き過ぎるからだ。
しかし、シャロム・シャイローは別だ。そのリスク評価能力の低さの為に、愚かな行動を執る可能性がある。
“大人しく、気取られないように行動していけば、僕の罠に気付かないまま、必ずシャロム・シャイローは、安易で軽率な行動を執るはずです……”
ゆっくりと、静かに、セルフリッジは自分の策を進めていった。
アンナ・アンリはシャロム・シャイローの邸宅にある会議室で、座っているシャロムの直ぐ後に立たされていた。彼女は役人や政治家達にじっと見られていた。それはまるで自分が見世物になっているかのようで、しかもその役人や政治家達の中には何人か見知った顔もいた為、彼女は酷く無様な気持ちになっていた。
アンナの首にはもちろん、シャロムによって嵌められた遠隔操作型の首輪がある。が、その上から彼女はセルフリッジからもらったあのダミーの首輪をつけていた。
役人や政治家の何人かは、それを訝しく思ったようだったが、シャロムは得に気にしてはいなかった。
その会議の席で、シャロムはここ最近、大きく業績を上げた所為か、とてもご機嫌だった。もっとも、それはほとんどアンナのお蔭だったのだが。
アンナ・アンリは、ライバルの銀行から重要な書類を盗み出したり、極秘の会合を盗み聞きしたり、工場を事故に見せかけて破壊したりといった事を、シャロムに命令されて、無理矢理に魔法でやらされていたのだ。
アンナはシャロムに多少は抵抗したが、叩かれたり蹴られたりといった虐待を受け、結局は彼の意のままに動いてしまった。少しでもミスをすれば、やはり彼女は罵られたり暴力を受けたりした。極秘の会合の盗み聞きをした時などは、彼女には分かるはずもない専門用語の言い間違いをしたという理由で、大きな支障はなかったにもかかわらず、理不尽にも酷く罵られ叩かれた。
彼女がその仕事の為に魔法を使った施設の中には、抗魔力が施されていた場所もあったが、どれも首輪で抑えられた弱い魔力が想定されており、彼女の強い魔力にとってはほとんど支障がなかった。そして、魔力を全力で使える存在がいかに役に立つのか、それでシャロムは実感し、自分の計画の自信を深めたのだった。
シャロムが自宅の会議室に、役人や政治家達を集めたのには、そんな理由もあった。
――会議室。
「ここにいるアンナ・アンリが証拠ですよ、皆さん。遠隔操作型の首輪を使えば、魔法使い解放など行わなくても、魔力を最大限に活かせるのです!」
シャロムはそこに集められた役人や政治家達の前でそう演説をした。役人や政治家達は大袈裟に「ほほぉ」と頷く。
つまり、その場でシャロム・シャイローは“遠隔操作型の首輪”のプレゼンを行っていたのだ。もっとも、それは商品を売り込む為のものではなく、魔法使い解放反対の為のものだったのだが。
シャロムがご機嫌だった事には、仕事の成功以外にも実はもう一つ原因があった。彼は今までに国の人間達にこうして会った事がほとんどなかったのだが、ここ最近の業績の向上によって初めて実現したのだ。それでシャイロー家の他の実力者達に対して彼が持っていた劣等感が癒されたのである。家の名前はもちろん使ったが、彼は家を介さずにこの会合を企画し、そして見事に彼らを呼ぶ事ができた。彼はこれで自分もトップレベルに達したとそう思っていた。
しかし、そこに集まった役人や政治家達は実をいえば、アンナ・アンリを見せられて、少しばかり焦ってもいた。法律上、彼女はオリバー・セルフリッジの持ち物であり、シャロムが彼女を所有しているのは明らかに違法だったからだ。更に彼が、他の犯罪行為に彼女を利用しているだろう点も明らかだった。秘密裏に行われている会合とはいえ、犯罪の証拠をお披露目するというのはあまりにも大胆過ぎる。もし、明るみになれば、自分達まで罪に問われかねない。
「遠隔操作型の首輪の効果は十分に分かりましたが、その魔女の所有者はオリバー・セルフリッジのはずです。つまり、シャロムさんは、彼から彼女を違法に奪ったという事になりますが……」
やがて役人の一人が当然の懸念を口にした。シャロムはほんのわずかに首を傾げる。
「それが何か?」
役人は淡々と言う。
「シャロムさんはご存知ないかもしれませんが、セルフリッジという男は油断ができません。充分に気を付けた方がいい」
どうやらその役人は、そもそもアンナ・アンリがここにいる事自体、セルフリッジの罠ではないかと疑っているようだった。シャロムは顔をしかめる。肩を軽く竦めた。
「あの男がそんな大物には思えませんが、気になるというのなら潰しておきましょうか?」
そう言ってから彼はアンナの顔を見た。
“この女にあの男を殺させるというのも、一興かもしれない”
などと嗜虐的で趣味の悪い事を考える。アンナはそれに敏感に反応した。口を開く。
「彼は確かに少々の知恵は働きますが、何の権力も財力もありません。個人的な理由では、警察や軍隊も動かせない小物です。それに、彼は打算的な人間ですから、勝つ見込みのない喧嘩はしないでしょう。特に気にする必要はないかと思います」
その彼女の言葉を受けて、シャロムは面白そうに言う。
「‘元’恋人もこう言っている事ですし、放置しておいても問題ないのでは?」
それに別の役人が口を開く。
「いえ、放置は駄目です。ただ、こちらから仕掛けるのも止めておいた方が良い。あの男は彼女の言う通り、権力はほとんど持っていないが、人を利用する術には長けている。罠を張っている危険は大いにあります。下手に仕掛ければ、その罠に嵌るでしょう。今まで、そうして奴の罠にかかった者も多い。シャロムさんには、罪を犯しているという弱点もある」
それに今度は政治家の一人がこう尋ねる。
「では、どうすれば良いと?」
「監視ですな」とその役人。続ける。
「監視をして、おかしな動きを見せるようだったら、その時に対処すれば良い。恐らく、あの男に対する場合、それがベストです」
総員がその役人の言葉に納得したようだった。シャロムはまた肩を竦める。
「まぁ、それならそれで構いません。監視なら今までもしていますしね」
今まで監視をし、セルフリッジが問題のありそうな行動を見せたのは、ランカ山賊団の所へ向かった事くらいだった。恐らく、セルフリッジはランカ・ライカに助けを求めに行ったのだろうと、シャロム達はそれでそう考えた。しかし、当のランカ・ライカが消えており、為す術もなくそのまま帰って来たのだと。まさか、そのランカ・ライカも自分達が捕えているとは思ってもいないだろうと、シャロムは彼を馬鹿にしていたのだが。
「その監視を、これからも続ける事をお勧めします」
そう役人が言うとシャロムは「いいですよ」とそう応えた。
同意したというよりは、彼にとってはどちらでも良かったのだ。シャロムはセルフリッジを軽視していた。王子側の役人や政治家達の知恵袋的な役割を果たしているようだが、何の権力も持っていないのは、その程度の小物だからだとそう思っていたからだ。男は権力を欲する生き物で、それができないのは、つまりは実力がないから。そういった男性原理的な単純な発想しか彼にはない。だから、セルフリッジは自分とは異なった価値観を持っているという事が理解できないのだ。
物騒な流れをなんとか回避できたその結果を受けて、アンナ・アンリはとても安堵していた。
“流石、セルフリッジさん。こういうのは上手。予め心理に働きかける防衛策を打っていたのね……”
と。
シャロム・シャイローは、その会合が終わった後、更に上機嫌になっていた。“遠隔操作型の首輪”のプレゼンの結果は成功と言って良かった。決定打とまではいかないが、魔法使い解放運動を潰す為に大きく前進したと見てまず間違いないだろう。
「後は、魔法使い達の危険性について、よく世間の連中に知らしめてやるだけだ」
彼は一人で部屋で寛ぎながら、そんな呟きを漏らした。そして、それでふとある事を思い付いたのだった。
“やはり、あのアンナ・アンリって女は使えるな。そろそろ本格的に僕の物にするか……”
シャロムは常日頃から、アンナに暴行を加えている。彼自身はそれをしつけだと考えており、かつアンナ自身がそれを望んでいるとも本気で思っていたのだが、周囲の人間達は“酷い扱いをし続ければアンナに逃げられる”とそう心配していたのだ。それを彼は余計な心配だと思っていたが、彼女への支配を決定的なものにするべきだとは考えていた。
アンナ・アンリの容姿は悪くない。彼は気に入っていた。彼女が魔女でなければ、彼は彼女をとっくに抱いていただろう。
“今晩辺りが、頃合いか……”
そう思うと、彼は夜中になったら自分の部屋にアンナを呼ぶようにと、使用人に命令を下したのだった。
「あの女に、そろそろ褒美をやろうと思ってな」
彼は笑ってそう言った。
夜中。
使用人から、シャロムの部屋に行くようにと言われると、アンナは顔面を蒼白にした。いつかはそんな指示が来るとは思っていたが、遂に来てしまった……。
シャロムは夜になるとよく酒を飲んでいる。それを彼女は使用人達の会話を盗み聞きして知っていた。酒に強くないくせに大量に飲む事が多いので、よく泥酔しているらしい。それを利用するしかないと、アンナはそう思っていた。首輪で魔力が抑制されているといっても、完全に封じられている訳ではない。使える魔法もあるにはある。
アンナを呼びに来た使用人は初老の男だったが、アンナの様子を見て彼女の心中を察したようだった。
「今晩は、特に高級なお酒を部屋にたくさん用意しておきました。シャロム様をおだててできる限りたくさん飲ませれば……」
もちろん、その後は“抱かれずに済むかもしれない”と続くのだろう。アンナは彼のその言葉に感謝して「はい。ありがとうございます」とそう礼を言った。
シャロムの部屋に着く。使用人が到着を告げると「入れろ」と彼の声が。使用人がそれを受けて扉を開けると、アンナは恐る恐る部屋に足を踏み入れた。シャロムの酔っ払った姿が目に入って来る。
朱色の電灯が照らす薄暗い中、シャロムは小さな高い脚のテーブルの上に酒を乗せて飲んでいた。食べ物はない。酒だけだ。どうやら上等なワインのようだった。
ゆっくりとアンナはそこに近付いて行く。「座れ」と言われたので、シャロムの前の席に腰を下ろした。
「酒は飲めるか?」
シャロムがそう尋ねてくる。アンナは首を横に振った。
「いいえ。
ずっと奴隷の立場でしたし、セルフリッジさんは、少なくとも家ではお酒を飲まない人でしたし……」
それを聞くと、シャロムは馬鹿にした顔をつくった。
「あいつは、男のくせに酒も飲めないのか」
どういう価値観は分からなかったが、シャロムの中では酒を飲む方が男らしいという事になっているらしかった。アンナは少し考えるとそれに同調した。
「そうですわね。お酒を飲まれる方が、なんというか、頼りになる感じがします」
もちろん、てきとーに言っただけだ。何の根拠もない。だが、それにシャロムは気を良くしたようだった。その様子を見ると、彼女は慣れない手つきで彼のグラスにワインを注いだ。
「ふん」
と彼は言うと、その彼女が注いだワインを飲む。
「お前の事は、可愛いとは思っていたんだよ。しかしお前は、魔女だからな。そんなに簡単には抱く訳にはいかない。だが、お前は良い働きをしてくれた。そろそろ褒美をやろうと思ってな」
それにアンナは「はい」と返す。それを受けると、シャロムは「お前も飲め」と言って、空のグラスにワインを注いだ。アンナはそれを少しだけ口に含むと「すいません。わたしなどには早いようです」とそう言って、直ぐにグラスを置いた。
「酔っ払って、なにかそそうをしてしまうかもしれませんし」
だが、内心では彼女はこう呟いていた。
“もし、酔っ払ってしまったら、魔法を使えなくなってしまう”
「そうか。まぁ、そうかもな。お前は女だしな」
シャロムはそんな返しをする。そして、一気にワインを飲んだ。それをアンナはまた褒める。
「凄いですね、わたしにはとても……」
そしてまたワインを注ぐ。シャロムはそれもまた飲んだ。やがて何度かそんな事を繰り返すうち、シャロムは一瞬、意識がもうろうとしかけた。このままでは寝てしまうと、それで彼はここにアンナを呼んだ本来の目的を思い出す。
「おい、アンナ・アンリ。この部屋の風呂で身体を清めて来い。もう洗っているだろうが、念の為だ。この僕が抱いてやるんだからな」
それにアンナはうやうやしく「はい、分かりました」とそう返事をした。風呂へと消える。その間でシャロムは自分のベッドに転がった。それから十分ほど経っただろうか、やがてアンナが一糸纏わぬ姿で風呂から上がって来た。
「お待たせしました」
そう言うと、彼女はシャロムのベッドの中に入って来る。まるで強奪するように、シャロムはその身体を抱き寄せる。
「今晩は、たくさん虐めてやるぞ」
彼がそう言うと、アンナは恥ずかしそうにしながら「はい。ありがとうございます」とそう答えた。
そしてそれから、彼は彼女の肉体を思う様にいたぶったのだった。
――朝になってシャロムが目を覚ますと、アンナはソファで眠っていた。
“昨晩、あれだけ抱かれても、僕の女面しないでソファで寝るか。主従関係をよく分かっているじゃないか。なかなかしおらしい良い態度だ”
彼の身体は綺麗になっていた。体液の類は付着していない。恐らく、彼女が拭いたのだろう。彼はそれにも大いに満足をしたようだった。
その日、またシャロムはアンナに暴行を加えていた。彼の会社のオフィスから、やや遠く離れた位置にある別の企業の秘密を探るという長時間魔力を使う仕事があったのだが、彼女の精神力がもたず、それをシャロムが叱責していたのだ。もちろん、理不尽な暴力である。数発叩かれてアンナは彼を睨んだ。すると、シャロムは「なんだ、その目は?」とそう言って彼女を蹴った。
それで彼女が転ぶと「三十分だけ休ませてやる」とそう言って彼は彼女から離れ、近くにあった長椅子に座った。その席には、シロアキとデンプタリンの姿がある。
今日、デンプタリンがタンゲア帝国の銀行に振り込まれる予定だったシロアキがアンナを連れ来た分の料金の支払いを確認したのだが、その報告に彼らは来ていたのだ。ランカ・ライカの分は、直接シロアキが受け取る事になっており、それについては未払いで、だからランカに関しては契約上はまだシロアキの持ち物だったのだが、これから先どうしていくのか、その交渉も彼らはその報告のついでにするつもりでいた。
弱々しく起き上がるアンナを見て、シロアキは呆れた顔で言う。
「シャロムさん。前から言っていますが、アンナ・アンリをそんな風に扱っていたら、いつかは逃げられちまいますよ?」
普通なら、既に逃亡しようとしていてもおかしくはない。どうして彼女が一度も逃げ出そうとしないのか、シロアキは不思議にすら思っていたのだ。強いストレス状態になると、思考麻痺に陥り、その恐怖から委縮してしまって動けなくなるという話を聞いた事があるが、彼女の場合は少し違うような気がする。シャロムはシロアキの言葉にこう返した。
「その心配なら必要ない。あの女は、既に僕の物だ。夜中に僕が虐めてやると、あの女がどれだけ悦ぶのか、シロアキ、お前にも見せてやりたいよ」
それを聞くとシロアキは意外そうな顔でアンナを見た。アンナはシロアキの視線に気付いたらしく、顔を背ける。
そのわずかな動きで、シロアキは何かを察したらしかった。肩を竦めると小さな声で
「――願望と現実の区別がついていないタイプの馬鹿だな」
と、デンプタリンにそっと言った。
それを聞くとデンプタリンは「顧客の悪口は、あんまり言うもんじゃないぜ、シロアキ」とそう返す。その言葉にシロアキはまた呆れた顔を見せるのだった。