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6.シロアキの暗躍とアンナの弱さ 一

 アンナ・アンリはチニックから受け取った魔法医療道具をオリバー・セルフリッジに試していた。とても細い針のように思えるそれを、ベッドの上でうつ伏せになって寝ているセルフリッジの肩に何本か刺して、魔力を注いでいる。

 「どんな感じですか、セルフリッジさん?」

 そうアンナが問いかけると、セルフリッジは首を傾げながら「うーん、どうですかね? よく分かりません」とそう返す。その後で少し考えるとこう続けた。

 「ところで、そもそも、この医療魔法針は肩こりに効くのですかね?」

 つまり、その針で彼女はセルフリッジの肩こりを試しに治してみようとしていたのだ。アンナは「さぁ?」とそう言ってからこう続ける。

 「あの説明からすると、チニックさん自身もよく分かっていないのじゃないでしょうかね? 身体能力強化魔法を応用しているというのなら、今度、セピアさんにでも聞いてみましょうか。肩こりに効きそうかどうか」

 「セピアさん? ああ、セピア・ローニーさんのことですか。たしか、“魔人”と自称しているアンナさんの友人で、警察に所属している方ですよね」

 「……セルフリッジさん。一応断っておきますが、彼女は別にわたしの友人ではありません。単なる知合いです」

 そう言いながら、アンナは魔法針をセルフリッジの肩から抜いていった。

 「やっぱり、いきなりで成功は難しいみたいですね。取り敢えず、わたし自身が身体能力強化魔法をもう少し訓練してから、再チャレンジしてみます」

 アンナが針を抜き終えると、セルフリッジは彼女にこう尋ねた。

 「ところで、どうしてアンナさん自身がこの針を試してみなかったのですか?」

 すると彼女はにこやかに笑いながら、こう返す。

 「だって、痛そうじゃないですか」

 「ちょっと、アンナさん……」

 セルフリッジは困ったような顔で笑いながらそう言った。それに、可笑しそうにしながら彼女はこう返す。

 「冗談ですよ。針を刺している状態じゃ、魔法に集中できそうになかったからです。それに、自分自身に使って意味があるのかどうかも分からないですし」

 それから彼女は針を一本ずつ布で拭き、丁寧に仕舞いながらこう尋ねた。

 「ところで、セルフリッジさん。あのチニックさんとは、どうやって知り合ったのですか? ベルゼーブ工房のエース技術者と知合いだなんて少し偶然が過ぎます。しかも、今日見た限りでは、とても親しいように思えましたし」

 それにセルフリッジは、「ああ、それは簡単です」と言うと、こう続けた。

 「そもそも僕がチニック君を、ベルゼーブ工房に紹介したんですよ。僕は仕事上の繋がりで魔法関係にもコネがあるので、ベルゼーブ・マジック・アイテム・カンパニーにも話を通せたんです」

 「だとしても、偶然が過ぎませんか? 偶々、あんな高い技術力を持った人と知り合いだったなんて……」

 そのアンナの言葉に、セルフリッジは首を横に振った。

 「いいえ、偶然じゃありませんよ。世間には認められていない不遇の身だけど、本当は優秀な異端の技術者がいないかと、僕はずっと探し続けていたんです。それで見つけたのがチニック君なんですよ。

 もっとも、今という時代に彼が現れてくれた事は、幸運に恵まれていたと言えるかもしれませんがね」

 それにアンナは首を傾げる。

 「どうして、そんな事を?」

 「魔法技術の発展が、魔法使いへの差別撤廃の鍵を握ると僕は考えているからです。魔法使いを“安全な存在”にする為にも、その魔力を活用する為にも、それは重要です。それに、彼に恩を売った事にもなりますから、彼からの協力も得やすくなります」

 その言葉にアンナは驚く。

 「つまり、セルフリッジさんは、そんなに前から魔法使い差別撤廃の為、周到に準備をしていたという事ですか?」

 「まぁ、そうなりますね」

 アンナはそれを聞くと感心した。続けて、こう質問する。

 「でも、チニックさんはセルフリッジさんに色々と企業秘密を教えてしまっていたようですが、それは構わなかったのですか? 協力といっても限界はあるでしょう? 法律上、何かしら問題があるような気がします」

 するとセルフリッジは少しだけ悪戯っぽく笑ってから、こう言った。

 「それも大丈夫ですよ、アンナさん。何しろ、僕は国の人間で、しかも特殊捜査権限までも与えられている身なので。地位は高くありませんが、一応、これでも王子側の政治家や官僚達の相談役の一人です」

 「ああ、忘れていました。という事は、むしろ情報提供を断る方が、チニックさんの罪になるのですね……」

 それからアンナは少しだけ不安になった。それはセルフリッジの計画が巧妙過ぎたからだ。

 彼はまるで当たり前の事のように言っているが、チニックをベルゼーブ工房に紹介する事で、魔法技術の発展を促し、同時に強力な情報入手ルートを得る事に成功し、しかもそれが法律上は何の問題もない、という計算され尽くされた状況を作り出している。なかなかできる事ではない。

 だから、彼女はこう思ってしまったのだ。

 “もしかしたら、わたしも、彼にとってそういう駒の一つでしかないのかもしれない”

 と。

 だが、

 「あの……」

 それからその不安を払拭しようと彼に何かを言いかけて、彼女は口をつぐんでしまう。何を言えば良いのか分からなかったし、仮にいい言葉が思い浮かんでも、まったく無意味な気がしたからだ。

 セルフリッジがお人好しである点はほぼ間違いない。だから、例えアンナの事を駒の一つとして考えていたとしても、彼女を傷つけるような事は言わないだろう。それに、深い愛情を彼が彼女に対して抱いていると分かっても、それは“アンナが役に立つ”という前提の上である愛情なのかもしれない。

 「どうかしたのですか?」

 セルフリッジがそんな彼女の様子に気が付いてそう訊いて来たが、アンナは「いえ、別に」としか返すことができなかった。

 

 『――なら、確かめてみれば良いじゃないか』

 

 そのネズミ達が初めて現れたのは、その日の晩だった。

 彼女は一人で真っ暗な自宅の廊下を歩いていて、怪しい気配を足元に感じたと思ったその瞬間にこう話しかけられたのだ。

 『いよぉ、アンナ・アンリ!』

 ゾッとした。暗闇の中に声がするだけでも充分に恐怖なのに、普通なら有り得ない足元からそれが聞こえて来たからだ。

 「きゃっ!」

 だから彼女はそう小さく悲鳴を上げて飛び退いた。するとその何かの気配は、それから廊下の窓から差し込む月明かりの下にチョロチョロと素早く移動して自らの姿をさらす。

 ネズミ?

 そこにいたのはネズミ二匹。しかし、普通のそれでないのは明らかだった。まるで人間がするように二本足で立っている。魔法使いの彼女には直ぐに分かった。魔法だ。何処かに術者がいて、こいつらを操っている。冷静さを取り戻すと、それから彼女は魔力を使った。暗闇にたくさんの光る目が浮かぶ。“虚ろな影達”というものを魔法で産み出し、周囲に這わせたのだ。つまり、臨戦態勢を執ったのである。ところがそこでネズミの一匹が彼女にこう言って来たのだった。

 『そう怖がるなよ、アンナ・アンリ。襲うつもりなら、挨拶なんかするかい。魔女相手に正面から喧嘩を挑むほど、ボクらは馬鹿じゃない』

 少し迷ったが、それからアンナは床に手を付けてから、こう問いかけた。臨戦態勢のままだ。

 「あなたは何者? いったい、わたしに何の用かしら?」

 床につけた手から影を這わせ、周囲の様子を探る。まずはセルフリッジの安全を確かめ、それから術者の魔力を探した。恐らくは、近くに魔法使いがいるはずなのだ。

 そのアンナの様子に気付いたのか、ネズミは鼻で笑った。

 『はっ! ボクらの居場所を探っているのかな? 無駄だよ。止めておけ。ボクらの魔力はとても弱い。だから感知し難いんだ。よく覚えておきな、アンナ・アンリ。弱いって事にもメリットはあるんだぜ』

 それを聞いてアンナは目の前にいる二匹のネズミを捕まえようかとも思ったが、まったく無意味だろうと悟って止めた。捕まえても、それはただのネズミでしかない。

 「いったい、何の用なのかと、わたしは尋ねているのだけど?」

 ネズミは嫌味ったらしい口調で返す。

 『そう慌てるなよ。ボクらの名前はイギギとモギギ。以後、よろしく』

 「イギギとモギギ?」

 それを聞いてアンナは苛立ちを覚えた。それは児童向け文学の中に登場する二匹のネズミの名だったからだ。明らかにふざけている。

 『名前がないと不便だろう?』

 そう恐らくはイギギだろう方が言った。モギギの方は口を開かない。児童向け文学の中のイギギとモギギは、二匹ともお喋りだから、設定が一致しない。

 『君の前に今日、ボクらが現れたのは他でもない。君の事が心配だったからだよ。あの胡散臭いセルフリッジってインチキ野郎に騙されてしまわないかって、ね』

 「騙されるって何よ?」

 『セルフリッジは、ずる賢い野郎だよ。それは君も分かっているのだろう? 策士で、よく人を利用する』

 それはもちろんアンナにも分かっていた。だが彼の場合、“騙す”のニュアンスが少しばかり違っている。

 「彼は人を騙しても、その相手を決して不幸にしたりしないわ。明らかな敵だったら別だけど」

 それにイギギは『フフン』と馬鹿にした風に応えた。

 『それがあいつの巧妙なところだね。そう君に思わせているのさ』

 そのイギギの言葉にアンナは怒りを覚えた。何をいい加減な事を言っているのかと。そしてそれと同時に、訝しく思ってもいた。このイギギとやらの目的は何なのだろう?

 「何の根拠もないそんな話を、わたしが信じるとでも思っているの?」

 探るようなつもりでそう言ってみる。ただし、そこにはイギギへの反発心も込められてあった。

 だがしかし、それは彼女にとって失敗だった。何故なら、その質問に誘導する事こそがイギギの目的だったからだ。それは彼の罠だったのだ。それから彼はこう言った。

 『――なら、確かめてみれば良いじゃないか』

 と。

 アンナはその言葉を不可解に思う。

 「確かめるって何よ?」

 『だから、セルフリッジが本当に君を騙していないかどうかを確かめるんだよ。それでボクに、セルフリッジが本当に良い奴だって証明してみろよ』

 「そんな方法が――」

 『あるんだよ』

 イギギは笑う。アンナはそれを聞いて黙る。もしも、セルフリッジの本当の気持ちを確かめられるのなら確かめたい。彼女は常にそう思っていたからだ。イギギは続ける。

 『ごく簡単に確かめられるぜ、セルフリッジにこう言えば良いんだ……』

 それからイギギは、彼女にその方法を説明した。アンナはそれに聞き入ってしまう。巧妙に口車に乗せられている。その自覚はあった。しかし、それでも彼女はその言葉から耳を背ける事ができなかったのだ。

 そして、

 ――イギギにセルフリッジの善良さを証明するため、

 そんな言い訳を用意された彼女は、それを決行してしまったのだった。

 

 次の日。夕食が終わった後、セルフリッジと一緒に寛ぎながらアンナは緊張していた。

 “冗談だったと言えば、彼は怒らない”

 そう自分に言い聞かせている。彼女はこれから彼の事を騙すつもりでいたのだ。セルフリッジは彼女の様子が少しおかしい事には気付いていたが、特別警戒してはいなかった。

 「あの…… セルフリッジさん」

 意を決すると彼女はそう口を開く。彼は怒らない。リスクはない。そう自分に言い聞かせる。「なんでしょう?」とセルフリッジは言う。

 「実は、お伝えしなくてはならない事があるんです」

 「はい」

 「何故かは分かりませんが、あの、わたしから、魔力が消えてしまいまして…… だからもう魔法を使う事は……」

 魔法使いから魔力がある日突然に消えてしまう。そんな事が時々起こるのだ。もっとも、もちろん彼女の言葉は嘘だったが。アンナが魔力を失ったと知った時の反応で、セルフリッジがアンナに対してどんな思いを抱いているのかが分かるはずだ。それがシロアキがアンナに言った“セルフリッジの本当の気持ちを確かめる方法”だった。

 もしも、彼女を単に利用しているだけなら、彼の態度は急変するか、なんとしても彼女の魔力を復活させようと促すかだろう。

 アンナが注目する中で、セルフリッジはその言葉に目を丸くした。多少のショックを受けているようだ。

 「それは、本当ですか?」

 「はい」

 心苦しさを感じ、かつ、やや怯えながら彼女は頷く。

 少し経つと彼は目を瞑り、「そうですか」とそう呟く。どうやらそれで自身を落ち着けたようだ。それから、まずはこう言った。

 「大丈夫ですよ。既に充分に布石は打った後ですから、魔法使いへの差別撤廃は問題なく進められます」

 どうやら彼は彼女を安心させようとしているようだった。自分が不安がっていては彼女を動揺させると、努めて平静を保っているのだろう。彼は嘘をついていることで彼女が怯えているのを勘違いしたようで、彼女の事をそっと抱きしめるとこう尋ねた。

 「魔力を失ってしまって、恐いですか?」

 アンナはそれに何も返せなかった。そんな彼女を見て、彼は更に彼女を安心をさせる為の言葉を探す。

 「あなたにとって魔力は忌むべき力だったのだろうと思います。お蔭で、さんざん酷い目に遭って来た。ですが同時に魔力は、あなたの一部にもなってしまっている。あなたは恐らくそれに頼り、自分を肯定付ける手段の一つにすらしているのでしょう。これからあなたは、だから魔力のない新しい自分を見つけ出していかなくてはならない。不安になるのは当然です。ですが、安心してください。僕はできる限りそれを手伝います。あなたはハンデを背負っている立場なのだから、気兼ねなんてしないで、困った事があったら何でも言ってください」

 それから抱きしめている力を緩めると、彼は今度はアンナの瞳をじっと見つめた。明らかに彼女を心配している表情。その彼の言葉と表情を浴びて、彼女は感動を覚えるのと同時に焦っていた。

 “かなり本気になっている。まずい。早く冗談だって言わないと……”

 「あの…」と彼女は言う。

 「なんですか?」

 「魔力を失っているというのは、嘘です。軽い冗談のつもりで……」

 「え?」

 そう呟く。アンナは辛そうな表情を見せた。

 「どうして、そんな嘘を?」

 セルフリッジの表情がみるみる変わっていくのが分かる。怒る…… 訳がないのは、彼女の予想通りだった。この程度の事で彼が怒るはずがない。しかし、それからの彼の反応はその彼女の予想を超えていた。

 「すいません」

 何故か、そう彼は彼女に謝って来たのだ。アンナはそれに驚く。

 「どうして、謝るんですか?」

 「だって、僕がアンナさんの魔力に頼り過ぎるから、あなたを不安にさせてしまったのでしょう?」

 自分がその魔力をただ利用しているだけだと。“見抜かれていた?”。アンナはその言葉に目を丸くする。

 「あの、それは……」

 一瞬、彼女は誤魔化そうかと考えた。しかし何と言っても見抜かれてしまうような気がしたし、それに今はもう彼に嘘をつきたくはなかったので、正直に彼女はこう言った。

 「はい。不安でした……」

 その言葉にセルフリッジは、もう一度ゆっくりと「すいませんでした」とそう言った。続ける。

 「確かにアンナさんが魔法を使えるのは、便利な事ですけどね。それはただそれだけです。僕にとって、あなたはそんな事とは関係なく重要な存在です。だから、安心をしてください」

 「はい……」

 その一時は、アンナは不安感を忘れる事ができた。ただ、同時にその出来事で、彼女はセルフリッジの巧みさを、また思い知らされもしたのだった。間違いなく、セルフリッジはアンナの状態を見抜いた上で、安心させる為に最も効果的に響くだろう言葉と態度を選んでいた。

 ……もしも、さっきの言葉が、ただ一時、わたしを騙す為のものだったとしたら?

 もしも、アンナが本当に魔力を失っていたら、安心させた後で、彼は彼女を裏切っていたかもしれない。彼の巧みさを見せられ、そう思ってしまった所為で、完全には、彼女はその不安と猜疑心を払拭し切れなかったのだ。

 ――その日、それから雰囲気が落ち着くと、アンナは昨晩に会った、恐らくは魔法使いが操っているだろう二匹のネズミについてセルフリッジに話した。ただし、自分の嘘がそのネズミにそそのかされた所為である事は言わなかったが。

 「なるほど。それは怪しいですね」

 セルフリッジはそれに気付いているのかいないのか、泰然とした様子でそう応える。彼女はこう付け加えた。

 「あのネズミを操っていたのが、何者かは分かりませんが、毒でも食べ物に入れられたらと思うと心配です。警戒はしておくべきだと思うんです」

 セルフリッジはそれに頷く。

 「それは確かにその通りですね。充分に気を付けましょう」

 アンナにはあのネズミ達の狙いが何だったのか未だに分からない。もしかしたら、セルフリッジになら予想がついているかとも思ったが、何故かそれは恐くて聞けなかった。そしてその晩、ネズミ達は再び彼女の前に現れたのだ。

 直ぐに寝てしまったセルフリッジの隣で、彼女はなかなか寝付けないでいたのだが、そこにイギギとモギギがやって来たのだ。

 『――今日のを見たよ。まったく、狡猾な男だよな』

 イギギはそんな事を言った。

 「うるさい! 良い気分でいるのを壊さないでよ!」

 そうアンナは返したが、イギギが何を言いたいのかは分かっていた。やはり、人に働きかけるのがセルフリッジは巧過ぎるのだ。

 アンナはそれから影を操って、ネズミを捕まえる。しかし、捕まえた瞬間に、ネズミはただのネズミに戻ってしまった。「キュイッ」と小さく悲鳴を上げる。それで慌ててアンナはネズミを放したのだが、その瞬間にまたネズミは“イギギ”になった。

 『君も分かっているのだろう? あの男は君の心を完璧に見抜き、巧みに隙間に入り込んだんだぜ』

 アンナはそれに歯を食いしばる。“それはあなたの事でしょう”と思っていたが、悔しいので口には出さなかった。

 『まぁ、いいさ。君を追い詰めても仕方ない。また、顔を出すよ。その時はよろしく。ただ、ボクは君の事が心配なんだ。それだけは分かってくれよな』

 その後で直ぐにイギギはいなくなったが、やはりアンナはなかなか眠りにつけなかったのだった。

 

 ……セルフリッジの家の近くにある野原。その隅に二人の影があった。一人は子供のような姿をしている。シロアキだ。もう一人は、花瓶のような特徴的な体型をしている。デンプタリンだ。

 「シロアキ、これは、失敗したのじゃないか?」

 そうデンプタリンが言ったが、シロアキは少しも動じない。

 「なに、取り敢えずはこんなもんだろう。ボクの仮説はちゃんと確かめられたしな」

 「仮説?」

 「ああ、あのアンナ・アンリって女は、頭が良い。だから、セルフリッジが自分を利用しているだけだって可能性を疑っている。もちろん、ただ頭が良いだけなら、それほどの動揺は誘えない。が、あの女はセルフリッジに対して依存し過ぎてもいる。その所為で、その不安を無視できない。だから、言葉で誘導すれば簡単に崩れる」

 シロアキの言った事は正しかった。セルフリッジに依存しているからこそ、彼を失う事をアンナは恐れているのだ。それがどんな形であったとしても。

 「そんなもんかね?」と、それにデンプタリン。

 「まぁ、見ていれば分かるさ。セルフリッジの事は既に調べ尽くしているし、準備は万端。このまま揺さぶって、あの二人を別れさせて、アンナ・アンリをあのシャロムって奴に引き渡してやるさ。

 この仕事は意外にチョロイぜ、デンプタリン!」

 そう言い終えると、シロアキは不敵に笑った。

 

 それからしばらくは、何事も起こらなかった。あの二匹のネズミ達はアンナ・アンリの前に現れなかったし、順調にアンナは魔法を使って様々な仕事をこなし、世間の高い評価を得ていた。更にアンナはチニックから受け取った医療魔法針を少しずつ使えるようにもなっていた。治療に成功しているのは今のところ肩こり腰痛筋肉痛といったささやかなものばかりだが、それでもコツを彼女は掴みつつあったし、医学書のお蔭で、彼女はその応用の幅を広げられそうでもあった。

 そんなある日に事件が起きた。

 銀行強盗が街に現れたのだ。辺りは騒然となり、アンナ・アンリも協力を要請されたのだが、その場には警察に所属しているセピア・ローニーの姿もあった。

 「よぉ! お前も呼ばれたのか、アンナ・アンリ!」

 彼女はそう気軽に声をかけてきた。

 「あら? “魔人”のセピアさんじゃありませんか」

 皮肉を込めてアンナがそう言うと、セピアは呆れた様子でこう言った。

 「相変わらずだな、お前は。ったく、いったい、誰が呼んだんだ?」

 すると、セピアの背後で「ワシだ」と、そんな声が。彼女は振り返ると「おっと、カチョーじゃないですか」とわざとらしそうにそう言う。

 カチョー…、つまり課長と呼ばれたその男はセピアの上司に当たる人物で、名をノットナット・バナーという。上司なのだから、セピアに対して強い立場にあるはずなのだが、その彼女の態度からは、まったくそれが感じられない。

 バナーのその半分禿げあがった頭を、彼女はピタピタと叩きながら「で、どうして、このクソ女を呼んだんですかね、カチョー?」とそんな事を言っている。

 「セピア……、お前、ワシの事をなめているだろう?」

 「ぶっちゃけ、なめていますがね。ただ、オッサンの事は意外に好きだから、指示には従いますよ?」

 「少しも嬉しくない」

 「で、どうして、このアンナって魔女を呼んだんですか?」

 「その理由は、ほれ、あれだ」

 そう言われて、セピアとアンナが目を向けると、銀行強盗のうちの一人、赤い髪を逆立てている柄の悪そうな男が、目の前の炎に油を注いでいるのが見えた。しかし、その炎は燃え上がらず、まるでその男のペットであるかのように従順に、チロチロとその油を少しずつ吸い上げて燃え続けている。

 「どうもあの男は魔法使いらしい。炎を操る術に長けているようだ。国に登録されていないモグリの魔法使いか、それとも国外からやって来たのかは分からないが、とにかく、厄介だ」

 セピアが言う。

 「なるほど。で、アタシ達二人が必要って事ですか。まぁ、アタシ一人でも平気な気はしますが……」

 ところが、それを聞くとバナーはこう言うのだった。

 「しかし、それだけではない!」

 そして振り返ると、戦闘訓練を受けていないため後方に下がっているオリバー・セルフリッジを指差しながらこう言った。

 「ワシは、あのオリバー・セルフリッジによく利用されているからな! 偶には利用し返してやりたいのだ!」

 アンナはそれを聞いて、“それはまた、セルフリッジさんに比べれば、随分とカワイイ利用方法ね”とそう思った。

 「なんじゃい、そりゃ?」とセピアはその言葉にやや呆れている。ただ、そう言いながら彼女は銀行強盗達を観察し始めていた。彼女は視力が鋭いのだ。人数は五、六人ほど。人質もいる。女一人と、子供が二人。更に銀行強盗達は銃火器で武装しているようでもあった。

 「おい、オッサン…」

 観察し終えると、セピアが言う。

 「頭がハゲているからって、なに、ハゲた事を言っているんだ? 問題は魔法使いだけじゃないだろ、これ。連中、銃を持っているぞ。しかも、人質を取られている。奴らを倒した上で、人質を無事に救出するなんて至難の技だぞ?」

 「お前……、もう少し上司に気を遣え」

 「気を遣われるような上司になれよ。とにかく、あれだ。この状況じゃ、今のままのアタシじゃ、ちときついぞ?」

 そう言いながら、何故かセピアは嬉しそうにしている。まるでステップを踏むように、足踏みをし始める。そして、バナーに向けて自らの背中を向けた。

 「分かっている。魔力を大幅に解放してやるから、良い働きをしろ」

 彼はそう言うと、セピアのうなじ近くの首元に指を当てて、首輪についているネジを回した。彼の微弱な魔力を感知して初めて効果を発揮するそれは、魔力を抑制する首輪の効果を調整する為のもので、もちろん、彼はセピアの魔力抑制をそれで解いているのだ。

 「ハハハ… 久しぶりだなぁ、この感覚! 思いっきり暴れてやるぞ!」

 ネジが回される度に、セピアは足踏みのテンポを速めている。興奮しているようだ。それを見ながら、アンナは軽くため息を漏らした。

 「不謹慎よね、こいつ……」

 そう呟く。だが、確かに状況は厳しい。セピアの魔力が解放されなければ、無事に解決するのは難しいだろう。

 “さて。どうするかしらね? 取り敢えず、影がある場所を確認しないと……”

 アンナは影……、闇を操る魔法を得意としているのだ。影はいたる所にできるが、やはりある程度の“濃さ”と“量”は必要だ。影を確認しながらアンナは考える。

 “順当な作戦は、やっぱり、不意打ちでわたしが人質の安全を確保して、その隙にセピアさんが突進して、強盗達をやっつけるってところかしら…… でも、問題は、あの炎を使う魔法使いをどうするかって事なのよね。せめて、大量に水があれば、わたしが抑えられるのに……”

 そこまでを考えたところで、セピアの直ぐ傍に後ろから紙飛行機が舞い降りてきた。顧みてみると、セルフリッジが手を振って、その紙飛行機を指差している。

 “セルフリッジさん? なんだろう?”

 不思議に思って、彼女がその紙飛行機を拾って広げてみると、そこにはこんな事が書かれてあった。

 『噴水を止めて、地下に水を流してもらってきます。少し待っていてください』

 セルフリッジは、治水工事や灌漑設備に関わった事がある。だから、そういった知識も持っているのだ。

 アンナは彼の意図を察すると“なるほど、分かりました”と視線で合図を送った。するとセルフリッジは、直ぐに消える。何処かに頼みに行ったのだろう。それから彼女はセピアに向けて言う。

 「セピアさん。人質を助けるのと、あの魔法使いの炎は、わたしがなんとかするわ。だからあなたは、その他の銀行強盗を倒して。わたしが合図を送ったら突進して欲しい」

 セピアは相変わらず足踏みをしていたが、それを聞くと「なんだぁ? 何か作戦があるのか?」とそう言って、彼女の愛用の武器である鉄の棍を握った。多少、アンナに主導権を握られていることが面白くなさそうではあったが、反対する気はなさそうだった。

 セルフリッジが消えてからしばらくが経つと、やがて地下に水が流れて来た。地下道に発生させた“虚ろな影達”を通して、アンナはそれを感知すると、その水を影達に吸収させ始めた。それから、水をたっぷり吸収させ終えると、その影達を這わせて、銀行強盗達の足元の地下天井辺りに集めていく。

 やがて水道の下水を見つけると、そこから彼女は少しずつその水を吸った影達を、地上へ地上へと移動させ始めた。

 気付かれてはいけない。慎重に、慎重に。ここは焦るところではない。時間をかけても構わない場面だ。

 しかし、一方、その時間を利用して、炎の魔法使いは、自分の炎を銀行の出入り口に燃え移らせていた。ただし、大きくは燃え広がらない。まるでアーチを描くようにして炎が伝わると、そこで炎は止まった。恐らくは、臨戦態勢を執ったのだろう。

 「おい、アンナ・アンリ。まだか?」

 三十分以上は過ぎただろうか、不安もあったのかもしれないが、痺れを切らせたセピアが彼女にそう問いかけてくる。

 「静かにして、準備がそろそろ整うわ」

 アンナは苛立たしげな口調でそう返す。セピアは肩を竦めた。セピアに説明をしたいところだが、そこまでの時間はなさそうだった。

 やがて、炎の魔法使いの背後にまで、アンナは水を吸った影達を這わせる事に成功した。地下から水をくみ上げれば、大量に放水する事が可能だ。

 “いける!”

 アンナはそう判断すると、セピアに合図を送った。

 「今よ! セピアさん! 突撃して!」

 「あいよ! 待ってました!」

 そう応えると、セピア・ローニーは猛ダッシュした。銀行強盗達はそれに反応する。半分はセピアに向けて銃を構え、もう半分は人質に銃口を向けようとした。炎の魔法使いの意識は、セピアに向かったようだ。しかし、そこで人質の足元から、影が急速に広がって彼らを包み込んでしまう。銀行強盗はそれに戸惑う。その影が人質を守っているのだと理解した時にはもう手遅れだった。人質には手出しできない状態になっていた。慌てて銃を撃っても影が吸収してしまう。しかも、近くにいた一人を影は呑み込んでしまった。

 セピアに銃を向けていた銀行強盗達も、その異変に気を取られたようだった。それは炎の魔法使いも同じで、アンナの影を気にしている。それはわずかな隙だったが、それだけでセピアには充分だった。神速の域に達する彼女の“足”は、既に彼女を銀行の出入り口にまで運んでいたのだ。ただし、そこには炎があって、彼女の行く手を邪魔している。

 「さぁ、この炎を、何とかしろ!」

 そうセピアは叫ぶ。

 アンナは答えた。

 「分かってるわよ!」

 その瞬間、影から大量の水が炎に向けて噴射される。炎の勢いが弱まる。炎の魔法使いは、その光景に愕然となった。ここで真っ先にセピアが炎の魔法使いを倒していれば、彼はもう終わっていたかもしれない。しかし、彼女は炎を失ったその男よりも、先に銃を持っている他の銀行強盗達を倒す事を優先した。

 銃撃を華麗に躱しながら、棍を回して、次々と吹き飛ばしていく。異様な速さで動く彼女に、強盗達の銃は当たらない。

 セピアが強盗達を先に相手にしたのは、或いは正しい判断だったのかもしれないが、その間で炎の魔法使いは、体勢を取り戻してしまった。手元にある炎に油を注ぎ、活性化させると、炎の魔法使いはその炎を人質を守っていた影に向かって放ったのだ。

 業火がとぐろを巻いて、アンナの影に襲いかかっていく。もう大丈夫だろうと油断をしていたアンナは、その攻撃に対処できなかった。業火により、影の一部が剥ぎ取られ、露わになったそこからは子供の姿が見える。そして、炎はそのままその子供を捕えてしまったのだった。

 「しまった!」

 アンナはそれに気付いた瞬間、迷わずに走り出した。

 「何をやっているんだ! アンナ・アンリ!」

 というセピアの怒鳴り声が響く。

 炎の魔法使いは、残酷にも炎で子供を巻き上げている。どうやら、そのままその子供を人質として使うつもりらしい。当然、子供の身体は炎で焼かれている。

 「熱いぃぃ!」

 という子供の悲鳴。

 アンナは思う。

 “なんて事をしているのよ!”

 アンナは足を加速させた。医療魔法針を使う為に、彼女は最近になって少しばかり身体能力強化魔法も使えるようになっている。セピアには遠く及ばないが、だからそれでも、それはかなりの速度に達していた。炎の魔法使いは、セピアに向けて炎を燃え盛らせていた。威嚇している。どうやら彼女からの攻撃を警戒しているらしい。アンナはノーマークだ。

 “ランカさんじゃないけど……”

 既に炎の魔法使いの背中が、アンナの目の前には迫っていた。

 彼女は叫んだ。

 「可愛い子供に何をしているのよ!」

 そう言って、炎の魔法使いに思い切り体当たりをする。それで彼のその身体は前方に転がった。体術を学んでいない彼女にとってはそれが精一杯の攻撃で、とても拙いものだったが、それで充分だった。

 「セピアさん! 後はお願い!」

 何故なら、セピア・ローニーが彼女の目の前にはいたからだ。

 「おう!」と言うと、セピアは転がって来た炎の魔法使いを棍で打ち据える。「グッ」というくぐもった悲鳴の後で、彼は動かなくなった。それから支配者のいなくなった炎が、無秩序に燃え盛るかに思えたが、その前にアンナは影達で水をかけて炎のほとんどを消してしまった。残ったわずかな火も、セピアがもみ消していく。

 それからアンナは、直ぐに近くの水道で虚ろな影達に蛇口をひねらせ、そこから出る水を影達で吸収した。

 “地下の不潔な水では駄目。できる限り、綺麗な水じゃないと……。早く処置をしないと、この子が死んじゃう”

 治療の為には、できる限り清潔な水の方がいい。アンナが影達ではなく、自ら走って炎の魔法使いを攻撃したのは、そのまま続けて子供の治療を行う為だったのだ。

 まずは彼女は影達に吸収させた水を、子供の火傷した部分に吹きかける。それから水を吸収させたままの影で患部を覆った。そしてその後で医療魔法針を取り出すと、素早く患部に刺していった。魔力を注ぐ。

 「なんだ、それは?」

 セピアが近づいて来てそう尋ねる。

 「医療魔法の道具よ。これで患部を刺して、魔力を注ぐと身体能力強化と同じ効果が得られるの」

 それを聞くと彼女は感心した声を上げる。

 「ほーん。そりゃ、また、随分と便利なもんがあるもんだな」

 何故か、とても呑気だ。その彼女の態度にアンナは少し苛立ちを覚えたが、そんな事に構ってはいられない。アンナが必死に魔力を注ぎ続けると、やがて子供の苦痛の表情が和らぎ始めた。どうやら、助かりそうだ。アンナはホッと息を吐き出した。

 

 その光景を、銀行の前でオリバー・セルフリッジが見ていた。手にはハチミツと油を抱えている。

 「どうやら、大した損害もなく、なんとか無事に済みそうですね」

 とそしてそう言う。それで傍にいたノットナット・バナーは彼に気付いたらしく、こう言った。

 「あ、こら、セルフリッジ! 勝手に入って来ては駄目だ。非戦闘員は立ち入り禁止なんだぞ?」

 「もう良いじゃないですか。既に終わった後です。それに僕はアンナさんの上司でもありますし」

 言い終えた後で、セルフリッジはバナーにこう尋ねる。

 「ところで、あのセピア・ローニーさんという彼女は凄いですね。ランカさんよりも速く動ける人を、僕は初めて見ましたよ。あの速度で長時間動けるのですか?」

 それを聞くと、バナーは誇らしそうにこう応えた。

 「そうだろう? 恐らく、あいつはこの国で、いや、もしかしたら、人間の中で最も速いかもしれない。魔力を全て解放してやれば、長時間あの速度で走り続ける事も可能だろうな」

 セルフリッジは頷きながら言う。

 「なるほど。それは頼もしい……」

 それから彼はアンナ達のいる所に向かって歩き始めた。バナーが問いかける。

 「おい、セルフリッジ! 何処へいく? そのお前の抱えている物はなんだ?」

 「ハチミツと油ですよ。これを混ぜたものを塗ると火傷を治す効果があるんです」

 「それは分かったが、勝手に事件現場に入っていくな!」

 「まぁ、良いじゃないですか。僕はアンナさんの上司ですし」

 「何でも、それで済ませようとするなぁ!」

 

 その後、色々と事後処理はあったが、大きな問題はほとんどなく無事に終わった。火傷を負った子供も命に別条はなさそうだった。

 そして、その銀行強盗事件を無事に解決した事で、セルフリッジとアンナの評価は更に上がったのだ。魔法使いが犯人グループにいた訳だが、アンナ達がその魔法使いをやっつけた事で、魔法使いへの印象はなんとか相殺できそうだった。ノットナット・バナーは「利用してやるつもりで逆に利用された!」と憤っていたが、それはもちろん言いがかりだった。

 この事件の解決で、最も高い貢献をしたのはアンナ・アンリとセピア・ローニーだろう。だが、社会的にはそれは魔法使いである彼女達ではなく、上司であるセルフリッジ達のものになってしまう。もちろんそれはセルフリッジの所為ではないし、アンナも別に不満を持っている訳ではなかったのだが。

 しかし、そこにまたあのネズミ達が現れてしまったのだった。

 その時、アンナはちょうど自宅の風呂から上がったところだった。汗もかなりかいていたし、大量の魔力を使った上にとても緊張した所為で酷く疲労していたので、先に風呂に入って癒したかったのだ。

 『また、あの男に巧く利用されたな、アンナ・アンリ』

 良い気分でいたところに、その厭らしいイギギの声を聞いて、彼女は怒りを覚えた。

 「また来たの、イギギ?」

 人の心をかき乱すことに長けたそのネズミは、澄ました表情でこう返す。

 『ああ、君が心配だからね、アンナ・アンリ』

 アンナは思う。

 “こいつの言葉に耳を貸したら、その時点で負けだわ”

 しかし、イギギはそんな彼女の心の弱点を突いて来る。

 『これでセルフリッジの評価はまた上がった。今回の事件解決の功績は、ほとんど君のお蔭だってのにな。あいつはサポートしかしていないじゃないか』

 「それは別に彼の所為じゃないわ」

 そういう仕組みになっているこの社会が悪いのだ。

 『それは、その通りだな。だが、それが奴の狡猾なところさ。“社会が悪い”という言い訳を利用して、君の手柄を横取りしているんだからな……。君は本来なら、自分の働きに見合うだけの報酬を受け取るべきだよ』

 アンナはそれを聞いて、イギギを睨む。

 「つまり、セルフリッジさんにお金を要求しろっての? 馬鹿馬鹿しい。彼だって別に、今日の件でお金をもらっている訳じゃないわ」

 イギギは口の端を歪めて笑う。

 『そうは言ってないさ。だが、あいつよりも君の方が優位に立つ事ならできる。君の働きを考えるのならそれが妥当だろう。その為の方法だってちゃんとあるんだぜ』

 イギギは今回は、セルフリッジを疑えとあまり強調しては来ない。それでアンナはつい油断してしまった。話を聞いてしまう。

 「どういう事よ?」

 そう問いかけると、イギギはそれを説明し始めた。

 『いいか? セルフリッジは、もう君の事を傷つけられない。そういう社会的立場に立たされている。仮に君がどんな酷い態度であいつに接しても、例えば、魔力で脅しても、それを世の中に訴えられないんだよ。それをただただ享受するしかない。何故なら、魔法使いの差別撤廃の為には“魔女である君が、大人しく一緒に生活をしている”という体裁を、どうしても保たないといけないからな。いいか? それを利用すれば君はあいつを支配できるぞ……』

 アンナは彼の言う事を全て受け入れた訳ではなかった。だが、セルフリッジが自分を利用しているだけという可能性を考慮して、彼に対して強い立場を作っておくというのは有効かもしれないと、そんな風には思ってしまっていたのだった。

 そしてそれは、もちろん、彼女の弱さの所為だった。

 

 アンナが居間に行くと、セルフリッジはソファに座って寛いでいた。今日はアンナが夕食の当番だから、それは別に問題ない。彼も手伝うが、メインは彼女だ。だが、それでも彼女はわざと怒ったような表情をつくるとこう言った。

 「今日はセルフリッジさんが、夕食を全て作ってください」

 セルフリッジはその言葉に目を丸くする。

 「どうしてです?」

 今日の夕食当番は彼女なのだから、その疑問は当たり前だろう。

 「わたし、今日はとても疲れているんです。だからです」

 少しは疲れている自分を気遣ってくれても良い。それは、イギギに言われる前から思っていた彼女の本音でもあった。

 その言葉に、彼女は彼が多少は気を悪くするだろうと思っていた。ところが、それを聞くと彼は嬉しそうに笑ったのだ。そして、

 「はい。分かりました」

 と、そう言うと、そのまま台所に向かう。あまりに彼が素直なので、逆にアンナは戸惑いを覚えてしまった。

 「あの……、怒らないのですか?」

 それでアンナがそう問いかけると、セルフリッジはまるで何でもない事のようにこう返して来る。

 「だって、アンナさん。今日は特に疲れたのじゃありませんか?」

 「それは、そうですけど……」

 そうして台所で作業に入ったセルフリッジの様子を見て彼女は驚く。何故なら、不思議な事に、料理の下ごしらえは既に全て済んでいるようだったからだ。後は具材を鍋の中に放り込んで、煮るだけでお仕舞いのようだった。

 つまり、初めから彼は疲れていだろうアンナを気遣って、料理を引き受ける気でいた事になる。彼は話し続ける。

 「実はずっと前から思っていたのですよ。魔力を使うのって意外に疲れるのじゃないかって。だから、ちょっとだけアンナさんの事を心配していましてね。無理はして欲しくないですから。

 特に今日は疲れたはずです」

 「それは分かりましたけど、でも、どうしてそんなに嬉しそうなんですか?」

 「そりゃ、アンナさんが遠慮なく僕を頼ってくれたからですよ。それは、僕にそれだけ心を許してくれているって事でしょう?」

 それでアンナは何も言えなくなる。それから彼女は思い出していた。

 “そういえば、この人、わたしが来たばかりの初めの頃は、自分一人で家事を全てやっていたんだった……”

 それでは流石に悪いと思った彼女が、自ら“家事を手伝う”と言って、二人で家事をやるようになったのだ。だから彼がこの程度の事を、嫌がるはずがない。

 やがて、料理が出来上がった。アンナは何となく気まずい思いで、スープをすする。「美味しいですか?」とセルフリッジ。「はい」とアンナ。スープの味付けはやや濃いめにしてあった。疲れている彼女の事を慮ったのだろう。それも込みで、そのスープはとても美味しく感じた。

 やがて夕食が終わる。セルフリッジが彼女の分も食器を運んで洗おうとするので、アンナは慌てて自分がやるとそう言ってしまった。

 「でも、疲れているのでしょう?」

 「これくらい平気です」

 するとセルフリッジは嬉しそうな顔で「では、お願いします」とそう言って、自分は鍋の方を綺麗にし始めた。

 食器を洗いながら、アンナは思う。

 “違う。なんか、違う。わたしが優位に立つってのは、こーいう事じゃない”

 食器洗いが終わると、二人はソファに座って寛いだ。いつも通りの光景だ。しかし、アンナは意を決すると、こうセルフリッジに向かって言ったのだった。

 「セルフリッジさん。わたしには凄まじい魔力があります」

 彼はそれを聞いて不思議そうにする。

 「はい」

 アンナは続ける。

 「もしもわたしが本気を出せば、簡単にあなたを倒す事だってできます。何の抵抗もできないんですよ?」

 そう言いながら、アンナはセルフリッジが怯えるシーンを想像した。軽く脅して、自分の優位を知らしめる。そんな事を彼女は考えていたのだ。

 しかし。

 “あれ? もしも、この人がわたしに怯えたら、どうなるのだろう?”

 その途中で、アンナは不意にそんな恐怖に襲われたのだった。

 “もしも、この人がわたしに怯えたら……、わたしは……、わたしは、どうすれば?”

 セルフリッジは応える。

 「はい。分かっていますよ」

 その言葉にアンナは竦んだ。しかし、それでも声を出そうとする。

 「だから、ですね。もしも、わたしに……」

 ……もしも、わたしに逆らったら。裏切ったら。もし、利用しているだけなら、どんな酷い目に遭わせてやるか……。彼女はそんな言葉を口にしようとしていた。ところが、それが声にならない。やがて、その様子を心配したのだろう、セルフリッジが言った。

 「アンナさん」

 「はい」

 「僕はあなたにどれだけの力があるかを分かった上で、あなたを好きになったんです。もちろんそれは知識の上だけの話で、身近に触れた訳ではありません。そして、確かにここ最近になって、アンナさんの魔力を目の当たりにする機会が増えて、その力の凄さを僕は実感するようになりました。

 だけど、僕はあなたと一緒に暮らそうと思った時から、それを覚悟していました。それも含めて、あなたを受け入れようと。だから、決してあなたに怯えたりしません。だから、どうか、そんなに怖がらないでください」

 そのセルフリッジの言葉に、アンナは無意識の内に微かに震えていた。

 「あの……、そうでは、なくて、ですね」

 アンナは違うと思っていた。彼は勘違いをしていると。しかし、それは彼の勘違いではなかったのかもしれない。彼は彼女の怯えを的確に見抜いていたのかもしれない。アンナにはそれが分からなくなる。

 「違うんですか?」

 セルフリッジは首を傾げる。

 それにアンナはどう返せば良いのか分からなくなった。それでこう返す。

 「いえ……、違わ……、ないです」

 セルフリッジは嬉しそうに笑って頷く。

 「はい」

 その笑顔に心の底から安心している自分を、彼女は深く自覚してしまった。

 

 その後で彼女は再び思い出していた。セルフリッジが今まで、自分の優位を示そうとした事など一度もないということに。否、それどころか……

 「あの……、セルフリッジさん?」

 その晩、寝る前、ベッドの上で、アンナはそう彼に問いかけた。

 「なんですか?」

 「初めて、わたしがセルフリッジさんの布団に潜り込んだ時の事を覚えていますか? 身体の冷えが辛くて、思わず入ってしまったのですが。たしか、休日の朝でした」

 セルフリッジはそれに頷く。

 「覚えていますよ」

 「あの時、一緒に寝て欲しいかとわたしが尋ねたら、セルフリッジさんは変な顔をしていました。あれは、本当はわたしの方がセルフリッジさんと一緒に寝たがっているように見えたからじゃないのですか?」

 それを受けると、彼は少しばかり考えるような仕草をした後でこう言った。

 「いいえ、考え過ぎですよ。僕がアンナさんと一緒に寝て欲しかったんです」

 セルフリッジは嘘が下手だ。それがアンナを優位に立たせる為についた嘘である事は、その表情から明らかだった。

 彼女は思う。

 “やっぱり、そうだ。この人は、わたしを優位に立たせようとしている”

 続けて彼女はこう思う。

 “なんだか物凄く馬鹿馬鹿しくなってきた。わたしを優位に立たせようとしている人に向けて、優位を示そうとするなんて……。そんなの、ただの甘えている子供じゃない”

 それからランプの灯りを消して、部屋を暗くすると、アンナは彼に抱き付いた。どうせなら、本当に甘えてやれと思って。セルフリッジは戸惑っていたが、それでも明らかに喜んでいた。皮肉にも、その時になって初めて、アンナは彼よりも自分が優位に立ったような気になった。

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