3.褒めてもらえると思った
――いつの頃からだろう?
その晩、行為が終わった後、オリバー・セルフリッジの横で眠りに就こうとしながら、そうアンナ・アンリは疑問に思っていた。
“いつの頃から、わたしはこの人のことを、こんなに……”
世の中には、言葉が勘違いを助長させてしまうという事がままある。例えば“攻撃”という言葉。様々な“攻撃”があるにもかかわらず、どんなタイプの攻撃行動も同じ様に“攻撃”と呼んでいる所為で、攻撃行動があたかもたった一種類しか存在しないという錯覚を人々に抱かせてしまっている。しかし、実際には、捕食の為の攻撃もあれば、プライドの為の攻撃もあれば、防衛反応としての攻撃もあるのだ(因みに、“捕食”の為の行動を、攻撃に含めない学者もいる)。
“平等”という言葉にもこれと似たような事情がある。“平等”には実は二種類あるのだ。ところが、これを意識せず用いている為、混同されたり勘違いされたりで“平等”に関する議論が混乱する場合が多々ある。
冷静になって考えれば直ぐに分かるのだが、例えば身分差別撤廃のような“平等”は、違っているとされているものを“同じ”にする平等だ。これを仮に同化平等と呼ぶとしよう。それに対して、人種差別撤廃のような“平等”は異なったものを異なったまま受け入れる平等だ(価値を“同じ”にすると、言い換えても良いかもしれない)。これを仮に異質平等と呼ぶとしよう。この二つは全く別の概念なのに、同じ様に“平等”と呼ばれている。
さて。これを踏まえた上で、こんな問いかけをしてみようか。
「果たして、“男女平等”は同化平等と考えるべきなのか、それとも異質平等と考えるべきなのか……?」
恐らく、この答えは両方というのが正解になるのだろうと思う。ある部分では、男女を同じ人間として捉える必要があるし、ある部分では異なった存在としてそのまま受け入れる必要もある。
ただし、「その境界線が何処にあるのか?」と問うのなら、それに答えるのは非常に難しいと言わざるを得ない。だからこそ、何をもって“男女平等”とすれば良いのか、それを定める事は困難で、それが男女平等問題をより拗らせてしまっているのかもしれない。一体、どのような考えを社会の中に浸透させれば、男女が共に仕合せになれるような社会になるのだろう?
もちろん、価値観の問題もある。男性中心社会の価値観で、男女平等を推し進めたなら、それは単なる“女性の男性化”となってしまうだけではないだろうか。
オリバー・セルフリッジは、その問題点を自覚していた。そして、アンナ・アンリに対して「対等なパートナー」と明言しているからには男女平等を目指そうとも思っていた。がしかし、彼は“社会”の問題として捉えれば、男女平等問題は厄介だが、“個人”間の問題として捉えるのなら、実はこの問題は比較的シンプルではないのかとも考えていた。
要は、互いが仕合せになるような関係を築ければ良い、とそう思っていたのだ。
自分の考えを押し付けず、相手の性質と自分の性質を見極め、その上で適切なアプローチをしていくといったプロセスを経るのなら、それは比較的容易に達成できるのではないか。
だから彼は、自分とアンナ・アンリの性質を考えた上で、一番仕合せになれるだろう行動を選択していったのだった。
だが、しばらくして、彼は男女平等を達成するべくアンナとの間に適切な関係を築こうとすればするほど、ある面では男女平等とは言えなくなってしまうという歪な問題点に気が付いたのだった。
セルフリッジには慈父のような一面がある。そして、アンナ・アンリは“魔法使い”としても“女性”としても二重の意味で差別を受けていて、世の中から傷けられて来たし社会的に弱い立場にもいる。慈父でもある彼が、彼女に接しようとすれば、だから、そのハンデをサポートするような態度になってしまうのは必然だった。それはつまりは、ある意味では彼女の庇護者になる事でもあった。
会ったばかりの頃は、その態度には凍てついたアンナの心を溶かすという意味もあったのだが、それはセルフリッジにとって自然なものでもあったから、止める理由が見つからなかったのだ。
アンナ・アンリに依存的な部分がある事は、初めからセルフリッジは気が付いていたが、同時に彼女にある自立心にも気付いていた。だから庇護者として振る舞ったとしても、彼女に“魔法が使える”という優位性がある以上は、「対等なパートナー」という関係をつくる事は可能だと彼は思っていたのだ。
しかし、その彼女の自立心は、実は“自分を差別する社会に対しての反発”として形作られたものだったのだ。だから、反発の対象にはなり得ない“庇護者”であるセルフリッジに対しては、その自立心は消失してしまい、結果として、その彼女の精神面での依存性が徐々に剥き出しになっていってしまったのだった。
そして、慈父としての彼の性質とその依存性は非常に相性が良かった為、その関係性はより強くなり、安定していったのだ。
それはセルフリッジにとって予想外の事態だった。そして、彼には他人に対しては非常に敏感で巧みである一方で、自分自身に対しては不器用という側面があった為(だから彼は意外にも嘘が苦手だ)、それをどうする事もできなかった。早い話が、アンナを突き放すような態度を執る事が、彼にはできなかったのだ。彼女の協力が必要という事情を抜きにしても。
もっとも、その庇護する者とされる者という関係は必ずしも悪いものとは言えない、そう彼は考えてもいた。前述したが、本人達が満足しているのなら、それで何の問題もないはずなのだ。それに、そもそもその関係性に、優劣と呼べるものがあるかどうかも彼は疑っていたのだった。人間を上下関係で捉えるという発想は、男性原理的なものだ。彼は自分とアンナの関係はそういったものではない気がしていた。
ただし。
それでも彼は、アンナが自分に依存しているという状態に問題がない訳ではないと考えていた。まず、それは敵につけ込まれかねない弱点になる。例えば、魔法使い差別主義者達から何かしら利用されてしまうかもしれない。更に、こんな不安もある。
もしも自分がいなくなったなら、果たしてアンナ・アンリは、それに耐え切れるのだろうか?
アンナ・アンリが、オリバー・セルフリッジと一緒のベッドで寝るようになったのは、秋の中頃のことで、その日は休日だった。
その日の朝、彼女は早くに目を覚ましてしまった。その前の晩は、冷え症の彼女にとってはやや辛い程に冷え込み、その所為で彼女は心地よく眠ってはいられなかったのだ。それに対してセルフリッジは珍しく朝寝坊をしていた。それで彼女は彼を起こしに行ったのだが、その時、そこで心地よさそうに眠る彼を見て、ついその布団に潜り込んでしまったのだった。その程度の事で、彼が怒らないのは分かっていた。いや、むしろ喜ぶだろう。
「どうしたんですか?」
アンナが同衾してきたことでセルフリッジは目を覚ますと、目を丸くしてそう言った。彼女はそんな彼を面白そうに見ながらこう返す。
「朝なので、起こしに来たのですよ。もっとも、今日は休みなので、もう少しくらいぐうたらしても良いかもしれませんが」
彼の質問の意図が、そんな事を尋ねたものではないと分かっていながら、彼女は少しおどけてそう答えた。
「いえ、そうではなくてですね」
その冗談に付き合うようにしながらも、やや困った風に彼がそう返すと、アンナは心地良さそうにしながらこう言った。
「温かそうだなと思ったものですから。昨晩は少し冷えましたから」
それで彼は自分の配慮が不足していた事に気が付いた。
「あ、そうか。すいません。僕はまだ平気なので、大丈夫なのかと思ってしまって…… 起こしてくれれば良かったのに」
アンナがこの家に来てから初めての冬だったので、彼女は毛布の置き場所を知らなかったのだ。
「起こすのも悪いかと思いまして。それに耐え切れない程でもありませんでしたし。今日、毛布を出してくれれば良いですよ」
それにセルフリッジは何故か少しだけ嬉しそうな顔をするとこう言った。
「もちろん、毛布を出すのは構いませんが、でも………」
それから彼は控えめに彼女の頬に触れた。その行動と表情から何かを感じた彼女は「何ですか?」とそう尋ねた。そして彼が答えるよりも前に、続けてこう尋ねたのだった。
「もしかして、わたしと一緒に寝たいのですか?」
その言葉に、少しだけセルフリッジは変な顔を見せた。それを彼女は不思議に思ったのだが、その時はそれほど気にしなった。その一瞬の間の後に彼は続ける。
「はい。もし良ければ、同衾して欲しいです」
微笑みながら。
アンナはその答えに嬉しそうにしながら、こう返した。
「良いですよ。温かいですし。わたし、寒いのは苦手なんです」
そして、そう言って、軽く彼に寄り添うようにしてからこう続けた。
「でも、“あれ”は、そんなに頻繁にはしませんよ?」
「させてくれないんですか?」
「はい。しません」
そしてその晩から、彼女はセルフリッジと一緒に寝るようになったのだ。もちろん、彼女自身が言うように、冷え症の彼女にとって物理的な意味での温もりが欲しかったという事もあるのだが、それはそれだけではなく、彼と一緒に寝る事によって得られる安心感を彼女が欲していたからでもあった。
……因みに、その時の会話に反して、“あれ”を彼らは頻繁にしていた。それはもちろん、彼が求めるからなのだが。
それからアンナがセルフリッジと一緒に寝るのは、すっかり習慣となっていた。そしてそれは彼女にとって、安心感を得られる心地良い一時にもなっていたのだった。だがしかし、それから数ヶ月が過ぎた冬の日のその時は、少しばかり様子が違っていた。
その日も、アンナ・アンリはいつものようにセルフリッジの横で寝ていたが、いつものような安心感を感じられてはいなかった。それどころか、彼女は少なからず怯えていた。もっとも別にセルフリッジは怒ってはいなかったのだが。それどころか、いつもよりも優しいくらいだった。ただし、少しだけ不自然だったが。
アンナ・アンリは、彼を怒らせてしまったのではないかと不安になっていたのだ。少なくとも外見上は彼はまったく怒っていなかったし、彼の性格からいって、恐らくは本当に怒っていないのだろうとは分かっていたが、それでも彼女は安心をし切れなった。
それは或いは、彼女の罪悪感の裏返しだったのかもしれない。彼が怒って自分が謝罪する。そういった手続きを経なければ、彼女は自分を納得させられなかったのだ。
“本当はショックを受けているのに、わたしを気遣って、隠しているだけかもしれないし……”
優し過ぎる彼の場合、そんな不安もあった。
その日の日中、彼女は彼に対して、酷い事を言ってしまったのだ。
青空。人気の少ない広場。近くには運動場もあるが、平日の昼間の為、利用者はいない。広場の中央では、見る者のほとんどいない存在義を問われそうな噴水が、元気なさそうに水を噴き出し続けている。その直ぐ前、そんな気の抜けるような平和な光景の中に、一人だけ浮いている者がいた。金属製の棍を持っている。どうやらこれから武術の鍛錬をするつもりでいるようだ。その人物は「はぁ」と精神を統一するように息を吐き出す。気合を入れる。そして、
ビュン!
と、強く風を切る音が聞こえた。一呼吸の間の後、控えめにヒュンヒュンと小さく音が鳴り始め、それは徐々に加速していった。金属製の棍が回っているのだ。それはまるで音楽を奏でているようでもあった。やがて棍は、一度目と同じくらい力強く風を切り始めた。それだけの強さで回し続ければ、棍の使い手の体力も消耗する。やがて使い手の息が切れ始めた。しかし、それでも棍の勢いは衰えない。それどころか、更に加速をした。
棍が物凄い音を発している中、広場の外からその棍の使い手に向かって、一人の影が近付いていた。分厚い濃い紺のコートを身に纏い、大きな杖を持っている。魔女だ。一目でそれと分かる。
やがて、棍の速度が限界に達したタイミングで、棍の使い手は身体ごと棍を回転させて、棍を振り回すようにして打ち下ろした。ただし地面には当たらない。寸前で止まっている。
「ふぅ!」
それが終わると、その棍の使い手はそう息を吐き出して汗をぬぐった。息を整える。赤毛のポニーテール。全体としてやや濃いめの赤を基調としたファッション。動き易いようにズボンを履いているが、その棍の使い手は女性だった。名をセピア・ローニーという。そこで声が響いた。先ほどの影。魔女だ。
「セピアさん。あなたは、相変わらずこんなトレーニングをしているのね」
その魔女の正体はアンナ・アンリだった。彼女から話しかけられて、セピアという女性はこう返す。
「アタシの強みは、これをやり続けないとなくなっちまうんだよ。お前と違って。それに、ま、身体を動かすのは気持ち良いしな」
セピア・ローニー。彼女は“魔人”を自称している。彼女は魔力で身体能力を高めることを得意としている珍しいタイプの魔法使いで、そればかりか魔力により身体を錬成するというかなり特殊な事もやっていた。原理はまったく不明なのだが、そうして魔力で鍛え上げられた身体は、体格はさほど変わらず能力だけは高くなるらしい。しかも、魔力抑制の効果もその身体には半減する。つまり、首輪で魔力を抑えられている今も、彼女は驚異的な身体能力を持っているのだ。因みに、その事実は公にはされていなかった。似たような事を試みる魔法使いが、他にもたくさん現れたら厄介だからだ。
「それで今日は何の用だ? アンナ・アンリ。お前が会いに来るなんて珍しいじゃないか」
軽くため息をつくと、アンナはこう言った。
「あなたが魔力解放のテストメンバーの一人に選ばれたと聞いて、釘を刺しに来たのよ。間違っても問題は起こさないようにって。ここで魔法使いが問題を起こしたら、魔法使いの差別撤廃は白紙に戻りかねないわ」
それを聞くと、セピアは肩を竦めた。
「何言っているんだ? アタシは問題を起こしたことなんか、ほとんどないだろうがよ」
「始終起こしているようなものじゃない。あなたは自分の能力で、半ば周囲を脅しているようなものでしょう?」
「人聞きが悪いな。アタシは人を脅した事なんか一度もない」
魔力抑制が効いている状態でも驚異的な身体能力を持つ。それはつまりは、彼女が人間社会の支配下に置かれていない事を意味していた。一応、管理されてはいるが、それは彼女自身が納得して“管理されてやっている”だけの話なのだ。いつでも歯向かえるし、逃げ出せる。だからこそ、彼女の処遇は他の魔法使いに比べれば随分と良かった。彼女は警察に所属していて、主には戦闘行為を担当しているのだが、上司や周囲との間には真っ当な人と人との関係を築けており、彼女が反抗しないのはだからでもあった。
「そもそもお前に言われたくないんだよ。アタシよりもお前の方が、よっぽど反抗的で問題ばかり起こしていたじゃねーか。施設にいた頃から、そうだったよな?」
“魔法使い特殊能力育成施設”。子供が入れられるその施設で、彼女達は同期だったのだ。セピアはその頃から魔力で身体を鍛える事を好んでいた。もっとも、魔力で錬成された身体には魔力抑制の効きが鈍くなる事は知らなかったから、それは幸運な偶然だったのだが。アンナはその頃も社会に出てからも反抗的だった。
「ま、今は随分と良い待遇になったみたいだから、その必要もないのか。オリバー・セルフリッジだっけ? 良いご主人様に回り逢ったじゃないか。この国で魔法使いが首輪を外されているなんて、聞いたこともないぞ」
今はアンナの首輪は公の場でも外してあったのだ。それが偽物であった事は、周知の事実になってしまっていたから。そのセピアの言葉に、アンナはやや機嫌を悪くした。
「彼は別にわたしのご主人様じゃないわ。一応、上司ってことになってはいるけど、“対等なパートナー”って彼は明言している」
「はっ! 随分と優しい男だな。だが、聞いた話じゃ、そいつは誰にでも優しいんだろう?」
セピアはもちろん、“誰にでも優しい奴は信用できない”とそういう意味でそれを言ったのだ。しかし、アンナはそれを違った意味で捉えたようだった。こんな返しをする。しかも、やや“ツン”とした感じで。
「ええ、そうね。彼は誰にでも優しいわ」
その言葉と態度を受けて、彼女は“なんだそりゃ?”とそう思う。そして、“誰にでも優しいけど、彼はわたしに一番優しい”とか、そんな事を思っていそうな顔だな、と続けて思った。そしてアンナは実際に“誰にでも優しいけど、彼はわたしに一番優しい”とそう思っていたのだが。
意味が何故か通じないので、セピアは仕方なく、直接こう言った。
「そいつは信用できるのか?ってアタシはそう訊いているんだよ。お前を騙す気でいるんじゃないのか?」
するとやや変な顔をした後で、アンナはそれにこう応えるのだった。
「わたしは彼を信用してなんかいないわよ。いつも騙されているようなものだし」
そう言った後で、彼女は心の中で“そうよ。信用なんかしない。彼は黙ったまま自分の身を犠牲にして、皆の為に何かをしようとするような人だもの。わたしにだって、それを黙ってた”とそう呟いた。
セピアはそのアンナの言葉に怪訝そうな表情を見せる。“だったら、なんで反抗しないんだよ?”とそう思う。セルフリッジが特殊な人間である事を知らない彼女に、その言葉の意味が分かるはずもなかったのだ。だが、それでも、久しぶりに会った自分の知り合いに何が起こったのかは、色恋沙汰に疎い彼女でも容易に察する事ができた。早い話が……
「つまり、あれか、お前はオリバー・セルフリッジって野郎にたらし込まれて、すっかり従順にさせられちまったって事か」
そういう事だと彼女は思ったのだ。
その言葉のニュアンスを、アンナは敏感に感じ取った。それでこう返す。
「あなたね、ケンカ売ってるの?」
杖を構える。
それにセピアは肩を竦めた。
「おいおい。勘弁してくれよ。魔力が全開で使えるお前とじゃ、いくらなんでも分が悪い。アタシは首輪で、魔力を抑えられているんだぞ? ケンカなんか売るかい。それに、アタシに釘を刺しに来たお前自身が、問題を起こしてどうするんだよ?」
その真っ当なセピアの指摘にアンナはやや悔しそうな表情を見せはしたが、それでも自分を落ち着けるようにしながら口を開いた。
「ちゃんと彼から嫌な仕事を頼まれた時は、拒否しているわよ……」
ただ、そう言いかけて、セルフリッジからの仕事依頼を断った記憶がほとんどない事に彼女は気が付いて口をつぐむ。もっともそれは、セルフリッジが彼女が断るような仕事を滅多に依頼しない上に、彼の仕事の頼み方が“命令”ではなく“お願い”だったからなのだが。“お願い”には彼女は弱いのだ。
「問題を起こさなくなったのは、彼はわたしの生活の為の重要なパトロンだから。それくらいの配慮はするわ。それに立場としてはわたしの方が上なくらいなのよ?」
ある意味ではそれは事実だった。セルフリッジには公私共にアンナを傷つけられない事情があった。冷酷にそれを利用しさえすれば、アンナは彼を支配だってできるだろう。もっとも、彼女にそのつもりはないだろうが。
ところが、そう言い終えるとセピアは鼻をくんくんと鳴らし始めたのだった。それにアンナは悪い予感を覚える。
「ほう。立場が上ね。で、そのパトロン様となら、お前は夜も一緒に寝るのか?」
彼女は身体能力だけでなく、視覚も聴覚もそして嗅覚も驚くほど鋭い。恐らく彼女は、アンナの身体に染みついたセルフリッジの臭いを嗅ぎ取ったのだろう。言い訳をするようにアンナはそれに返す。
「同衾するように彼に頼まれたのよ。それくらい別に構わないし……」
しかし、それに対し、呆れたようにセピアはこう言う。
「同衾するだけじゃないだろう?」
その言葉に、アンナは顔を赤くした。そして、それから興奮して、思わずこう怒鳴ってしまったのだった。
「彼は重要なパトロンだから、餌を与えるくらいするのよ! 別にそんな程度の事で……」
彼女は更に言葉を続けようとしたのだが、そこでセピアが急に真顔になったので口を止める。なんだろう?と思っていると、セピアは何故かこう問いかけて来た。「おい、いいのか?」と。
「何がよ?」
「いや、さ」
そう言ってセピアは視線をアンナの右斜め後方に向けた。アンナはその時、ほぼ恐怖に近い悪い予感を覚えた。恐る恐る後ろを振り向く。すると、そこにはオリバー・セルフリッジが澄ました顔で立っていたのだった。アンナは顔面蒼白になった。
“嵌めたわね!”
アンナは視線でセピアに対しそう抗議する。彼女はそれに表情で“誤解だ。ただの偶然だよ”とそう返す。
「ここに寄ると言っていたので、来てみたんですよ。アンナさんのお友達も見てみたかったですし」
セルフリッジはまるで何事もなかったかのようにアンナにそう言った。アンナは声を震わせながらこう返す。
「いえ、彼女は別に友達って訳じゃ……」
彼女は彼の事を必死に観察している。怒っているようにはまるで見えない。しかし、アンナの動揺は治まらなかった。
「今の……」
と言いかけて口にできない。
「そろそろ帰りませんか?」
それからセルフリッジからそう言われ、アンナはやはり震えた声で「はい」とそう返した。歩き出したが、不自然によろめいている。
その様子を見ながら、セピアは“とてもじゃないが、立場が上って感じには見えないな、やっぱり”とそう思っていた。そして、それから去って行く二人を眺めながらこんな事を思う。
“そういや、アタシを見てみたいとか言っていた割には、アタシには何にもなかったな、あのセルフリッジって野郎。さっきの言葉でそれなりにショックを受けたってことか”
――その日の夜。
ベッドの上。
今晩も彼女達は同衾している。
アンナ・アンリは不安に苛まれながら、オリバー・セルフリッジの横顔を見ていた。夕食の時も寛いでいる時も、少しいつもよりも優しいくらいで後は普段通りの彼だったが、逆にそれが不自然なように彼女には思えた。そして今晩は彼は自分に肉体を求めては来ない。その訳を彼女は穿って考え過ぎてしまっていた。
ショックを受けて動揺しているのか、或いは本心では怒っているのか。
しかし、その心配は杞憂だった。
セルフリッジは確かにアンナの言葉を聞いた時はショックを受けた。ただ、大体の事情は察しているし、その後の彼女の狼狽振りを観ればもうそれだけで充分で、いつまでもその程度の事を引きずるほど彼は精神的に未熟ではない。そして、彼女を安心させる為には、彼女の肉体を求めた方が良い事も分かっていた。
では、どうして彼がそうしないのかと言えば、それは前にも書いた彼の自身への不器用さが影響していた。
ここで彼女に肉体を求めるのは、良心の呵責を利用して、無理強いしているのと変わらない。
そんな風に彼は思ってしまっていたのだ。ただし、どうすればこの悪い空気を変えられるのかは分かっていなかったのだが。
そうしている内に、不安に耐え切れなくなったのか、アンナがセルフリッジの袖を引いて来た。彼女は小声で言う。
「あの…… セルフリッジさん」
月明かりが照らす薄らとした暗闇の中で、彼の目を見つめる。
それが何を意味するのか、彼には簡単に分かった。だが、迷っていた。ここでこの誘いを拒むのは絶対にしてはいけない。ただ、だからといって、そのままの流れに任せても駄目だと彼は考えていた。彼女が不安に苛まれ、彼との関係を修復する為にそんな行動に出ている事は明らかだ。が、彼女の誘いを受けるだけでは、その問題の根を取り除くまでには至らない。
それから、彼は彼女に覆い被さるような恰好になった。それは彼女を守っているようにも逆に襲っているようにも思えた。
「アンナさん…… 無理をしていませんか? あなたから誘って来るなんて、滅多にありません」
そう問いかける。
アンナはその言葉に少しだけ動揺する。目が泳いだ。
「何の話ですか?」
言葉の意味を分かっていながらそう返す。それを無視してセルフリッジは口を開いた。
「どうか怯えないでください。僕はあなたに怯えられるのがとても辛いんです。僕はあの程度のことでは怒りませんから」
そう言われて、アンナはとぼけるのを止めた。
「昼間のあれは、彼女…… セピアさんに挑発されてつい言ってしまっただけで、だから、本心なんかじゃなくて」
目に涙を浮かべながらそう言った。セルフリッジはそんなアンナを安心させる為に微笑みを浮かべる。
「はい。大丈夫です。分かっていますよ。だから僕は怒らなかったんです」
「それは、なんとなく分かっていましたけど。でも、普通はそんなに簡単に許さないものなんです。それに、何にも反応がないとどうしたら良いのか分からなくもなります。こういう場合は振りでも良いから、ちゃんと怒ってくれないと、言い訳もできないじゃないですか」
それを聞いてセルフリッジはなるほどと思う。そういう配慮の仕方もあるのか。それで素直にこう返す。
「すいませんでした」
「謝らないでください。今回は、わたしが一方的に悪かったんですから」
それから彼女は、彼に少しだけ身を寄せるように身体を動かすと、媚びるような目つきでこう尋ねた。
「あんな酷い事を言われたのに、セルフリッジさんは、本当に平気だったんですか?」
「そりゃ、少しは傷つきましたけどね。でも、もう大丈夫です。僕は意外に強いんですよ」
それを聞くと、彼女は彼から視線を逸らした。そして何を思ったのか、少しばかり照れながらこう言う。
「では、それなら…… ところで、あの…… 今日は、しないんですか?」
その態度を受けて、彼女がまた誘っているのだと悟ると彼は言う。
「さっきも言いましたけど、別に無理をする必要は……」
「無理ってなんですか? それじゃセルフリッジさんは、いつもはわたしが嫌がっていると思っていたんですか?」
「いえ、それは…… そんな事はありませんが…… その…、いじめないでください」
セルフリッジは返答に窮し、困ったような顔でそう言った。それを見てアンナは可笑しそうに笑う。こういうところは、ちょっと可愛い。
「そもそもセルフリッジさんは、頻繁に求めてき過ぎなんです。これじゃ、わたしから誘うも何もないじゃないですか」
「そんなに頻繁に求めていますかね?」
「求めています」
少しだけ不機嫌になったような振りをした後で、アンナはようやく余裕のある表情になってこう尋ねた。
「で、どうするんですか?」
と。
セルフリッジはそれに「それでは、お言葉に甘えます」とそう返すと、それから彼女に身体を重ねた。
恐らく、彼女からの誘いには“お詫び”の意味があるのだろうと薄々察しながらも彼は喜んでいた。こういうところは自分は本当に単純だと、それで彼はそう思った。
――いつの頃からだろう?
行為が終わった後、アンナ・アンリはセルフリッジの横顔を見ていた。そして、自分がいつからセルフリッジにこんなにも依存してしまっているのか、心を奪われているのか、それを思い出そうとしていた。
初めて精神的にも彼が支えになっていると彼女が気付かされたのは、魔力の道具を扱う会社『ベルゼーブ・マジック・アイテム・カンパニー』の販売企画部門の部長、セルビア・クリムソンの自宅でセルビアからいじめられた時のことだった。そこで彼女は、セルフリッジと共にセルビアへプレゼンをしていたのだが、社会に対して反発ばかりしていた彼女には、どうすれば人に好印象を与えられるのかが分からず、とても緊張していた。
魔法使いへの差別撤廃の為には失敗は許されないという状況が、更に彼女を委縮させていたのかもしれない。だから、非常に落ち着いているセルフリッジが、彼女にはとても頼もしく思えたのを覚えている。もっとも、精神的に彼が支えになっていると気付かされたのは、その為ではない。
「奴隷制が撤廃されれば、あなたが彼の許にいる理由はなくなるわ。出て行っても良いのじゃない?」
二人切りになった時、セルビアからそう言われ、彼女は激しく動揺してしまったのだ。彼の許を去るなど、今まで考えた事もなかった。恐らく、セルビアはそんな彼女の心中を察していた。
「彼はどういうつもりでいるのでしょうね? もし、奴隷制がなくなれば、あなたを部下として扱う正当性もなくなるのだし」
だからそれで、それから更にそう言って彼女をいじめたのだ。席を外していたセルフリッジがそこに戻って来て、それは有耶無耶になったのだが、アンナの心中は揺れたままだった。
その帰り道、セルフリッジは「アンナさんのお蔭で助かりました」とそんな事を言って来た。それは恐らくは、セルビアの幼い娘に魔力が発現しそうな兆候があるのを彼女が彼に教えたことを言っているのだろうが、彼がそれを言った本当の理由は、アンナが落ち込んでいるのを見て心配したからだと、そう彼女には思えた。
「いえ、そんな。むしろ、わたしはああいう場は初めてだったので、どうすれば良いのか分からなくて、足手まといになったのじゃないかと」
そうアンナは言ったが、セルフリッジはごく自然にこう返す。
「アンナさんは、自分の役割を確りと果たしましたよ。充分です」
その優しい言葉に、彼女は思わず泣きそうになった。そしてそれから、勇気を出して、彼に向かってこう尋ねたのだ。
「セルフリッジさんは、もしも、魔法使いへの差別が撤廃されたら、わたしが出て行っても良いと思っていますか?」
それに彼は驚いた顔を見せる。そして、それに直ぐにこう答えた。
「えっ? 僕はずっとアンナさんは一緒にいてくれるものだと思っていたのですが、出て行ってしまうのですか?」
勘が良いセルフリッジのことだから、そのアンナの問いかけで、彼女がセルビアから何を言われたのかを大体は察していたのだろう。その上で、彼はアンナを安心させる為にそんな事を言ったのだろうが、それでもそれは本心でもあるように思えた。そしてアンナは、彼の言葉に心から安心している自分を自覚していたのだ。
「少し言ってみただけです。今のところは、そんな気は少しもありませんよ」
安心している自分を隠すこともせず、気付くと彼女はそう応えていた。
そしてそれで、この時アンナ・アンリは自分にとって、オリバー・セルフリッジがいかに精神的な面でも支えになっているかに気付かされたのだった。
だが、彼に依存したのは、この時じゃない。
もっと前だ。
彼女はそう思っていた。
アンナ・アンリがオリバー・セルフリッジからの協力依頼を承諾したのは、“魔法使いへの差別を撤廃させる”と彼が約束をしたからだった。彼女にしてみれば厳しい条件を出したつもりだったのだが、今にして思えば、彼女はこの時、彼に騙されていたのだ。
何故なら、アンナが彼に約束をさせる前から、彼は魔法使いへの差別撤廃を目指して隠れて行動していたからだ。つまり、それは彼自身の望みでもあったのだ。だからそんな条件はまったく無意味だった事になる。もっとも、それでも利害の一致という意味で、彼女が彼に協力するのは理に適っていたから、あまり変わらなかったのだが。
彼が彼女にそれを隠した意図は、セルフリッジには情報をあまり伝えないという悪いクセがあるから分からないのだが、或いはその時はまだ、彼女の事を信用し切ってはいなかったからなのかもしれない。彼女が直ぐに逃げ出す可能性も確かにあったから、それは責められない。
しかし、アンナ・アンリの方は、自覚がなかっただけで、本当は彼の事を既に信用していたのかもしれない。
彼女はベッドに横になりながら、そんな可能性を思っていた。
何故なら彼は、彼女に嵌められていた首輪を、会ったばかりのその時に外したからだ。しかも、何でもない当たり前の事のように。
“お母さんですら、わたしを恐がって、わたしに首輪を嵌めたのに”
そうアンナ・アンリは思う。
だから、わたしはあの時、既に……。
――褒めてもらえると思った。
幼い日。
アンナ・アンリは自分に発現した奇妙な力を面白がっていた。黒い影を生み出せて、しかも彼女はそれを操れたのだ。
“凄い! なんだろ、これ?”
アンナは自分に発現したその力を喜び、そして母親に見せに行った。母親はきっとその自分の力を褒めてくれると彼女は思っていたのだ。ところが、母親は自分がその力を見せるなり恐怖に引きつった表情になったのだった。そして、何故かその事を父親や祖父や祖母に相談しに行き、訳も分からないままでいるアンナの前で泣き崩れた。
彼女の母親は、魔法使いに対して、酷い偏見を持っていて差別していたのだ。だから、自分の娘に魔力が発現した事に慄き、恐れ、悲しみ、蔑み、そして彼女の存在事、それを拒絶したのだ。
父親は母親ほどには激しく反応しなかったが、それでもアンナから距離を取った。祖父や祖母は信心が足りない所為だと神に祈って、やはりアンナを忌んでいた。母親は直ぐに魔力抑制の為の首輪を買ってきて、アンナの首にそれを嵌めた。彼女はその日から、独房のような倉庫の中で寝かされるようになった。泣き叫んでも、誰もそこから出してはくれなかった。
そしてそれから一週間も経たない内に、彼女は“魔法使い特殊能力育成施設”に入れられてしまったのだった。同じ施設にいる他の子供達の親のほとんどは顔を見せに来ていたが、彼女の両親も祖父母も彼女の身内は誰一人として、彼女に会いには来なかった。
要するに、幼い彼女は心の準備がほとんど整っていない状態で、いきなり信頼していた庇護者達から裏切られ、真っ暗闇の中に放り込まれてしまったのだ。庇護者に対する渇望と憎悪。それは彼女の中の反抗心の根になった。そしてその反抗心は、協調行動を執るという部分での彼女の成長を阻害してしまい、結果として、彼女にある強い依存性はそのまま反抗心の影に隠れて残ってしまったのだ。彼女は自分の依存性に気付かぬまま、その反抗心の殻の上で、仮初の自立心を育てていった。
社会に出てから、彼女は無理矢理に役人の部下にさせられたのだが、悉く逆らった。逃げ出そうとした事も一度ではない。懲罰を受ける事も多々あったが、彼女の反抗心は消えはしなかった。むしろ強くなった。
オリバー・セルフリッジの部下になると知った時、彼女はどうせ彼も他の“大人達”と同じだろうとそう考えた。
なのに……
オリバー・セルフリッジは、アンナ・アンリに嵌められていたその首輪を外したのだ。しかも、何でもない事のように。
“多分、わたしはあの時既に、この人に心を奪われていたんだ……”
セルフリッジは彼女の横で、いつの間にか眠りに就いたようだった。寝息が聞こえる。身を寄せる。そこでアンナにも急速に眠気が襲ってきた。瞼が閉じかける。
が、その時だった。
『相変わらず、人の心を操るのが巧い男だよな、そいつは』
そんな声が響いたのだ。その声に驚き、アンナは布団で身体を隠しながら、半身を起こした。
「また、あなた達? イギギとモギギ」
目を凝らすと、床の上の月明かりがほんのり照らしている部分に二匹のネズミの姿があった。そのネズミ達が、彼女に向かってそう話しかけて来たのだ。
もちろん、ネズミは本体ではない。何処かにそのネズミ達を操っている魔法使いがいるのだ。イギギとモギギというのは、子供向けの本に登場するイタズラ好きのネズミ達の事で、明らかに偽名だった。
『君の事が心配でね。今回の件で、もっとその胡散臭い狡猾な男を信頼してしまうのじゃないかと思って』
イギギと名乗っている方がそう言って来た。
「うるさいわね。少なくとも、あなた達よりは、この人は信頼できるわよ! 人の安眠を邪魔しないで」
そう言って彼女は、魔力を放出した。今日こそは捕えてやると。しかし、可笑しそうに笑いながら、そのネズミ達は直ぐに闇に紛れて消えてしまうのだった。
『おっと、ちょっと今日は、タイミングが悪かったかな? 気分を害しちゃったみたいだ。日を改めよう。まぁ、いずれ、近い内にまた会いに行くから、よろしく』
完全に消えた後で、イギギのそんな声が響いた。
“なにが、‘よろしく’よ”
良い気分が台無しだと不満に思いながら、彼女は再びベッドで横になると、布団の中でセルフリッジに身を寄せる。
“この人は確かにちょっとばかり人の心に働きかけるのが巧すぎる。だから、時々不安になるけれど、でも、絶対に悪い人じゃない”
そして、そう自分に言い聞かせるようにしながら、彼女は眠りに就いた。