春
「ちょっと、あなた生きてる人でしょ? 早く帰った方がいいっすよ」
コンビニの店内をのぞいていたところを後ろから声をかけられ、私は一瞬硬直した。
「あんまり体から離れてると良くないらしいんで」
振り返ると、声の主はこちらをチラッと見て、それからさっさと歩き去っていく。私は慌てて後を追いかけた。
「ちょっと待って! ねえ、あたしが見えるんでしょ? ちょっと!」
いくら呼びかけても、その男性は振り向きもしない。そっちから声をかけておいて無視なんて。肩にかけているバッグのベルトを引っ張ろうとしたけど、どうしても触れることができない。
「ねえ! 待てっつってんの! 止まれ!」
私は加速して男性の前に回り、正面に立った。軽く腰を落として、もし避けられてもついていける体勢をとる。バスケ経験者のフットワークなめんな。
「……何すか?」
「何すか? じゃないでしょ! 人に話しかけといて無視とはやるじゃない! 話くらい聞いて……」
すっと手のひらで私の話を制し、男性は特に表情も変えず、小さな声で言った。
「すんません、俺、聞こえないんで」
「耳、悪いの……?」
「ちなみに、耳は悪くないっすよ」
「はあ?」
男性は周りをチラチラと見回す。つられて見回して気づいた。私のことが見えない人からすれば、男性は一人でしゃべっている変な人だ。幸い、近くには誰もいないみたいだ。
「歩きながらでいいすか?」
「いいけど……あ」
私がうなずいて見せると、男性はゆっくり歩きだした。高校の制服を着ている。学年章を見ると三年生らしい。
「すんません、俺、見えるけど聞こえないタイプなんで」
「えー!? そんなのありー?」
「そっちは俺の声聞こえるみたいなんで、勝手にしゃべりますけど、ほんと早く帰った方がいいっすよ」
死んでる気はしないから生き霊か幽体離脱だろうけど、体から長く離れてていいことなんかない、と彼はボソボソつぶやく。まあまあガッチリしている体に、丸顔の童顔。ちょっとほっぺたが赤い。心配してもらってて失礼だけど、イケメンとは言えない。
「バス降りたら、ウロウロしてんのが見えたんでつい声かけたけど、俺、家もうそこなんで。あなたも早く帰ってくださいね」
その瞬間、思い出した。自分がなぜ、ウロウロしていたのかを。
「帰れないの!」
もちろん、彼には聞こえない。彼は歩いていく。私はまた彼の前に回り込み、口を大きく開いて一音ずつ叫んだ。
「か・え・れ・な・い・の!」
「あ、亜依? ごめん、車あるから家にいるかと思って……うん、お願いがあるんだけどさ、俺の代わりに聞いてくれない? おごる! 今度おごるから!」
彼が電話を切って間もなく、目の前の家から同じ年頃の女性が二人出てきた。イケメンじゃないくせに、やるなこいつ。
「あ、祐紀もいたの」
「失礼だなー! あ、そこにいるね? 女の人? 成、ナンパしてきたのー!?」
祐紀、と呼ばれた方は私の方を向いてニッコリ笑う。な、なかなか可愛いじゃないか。彼は成くんっていうのか。
「ナンパとは違うだろ! あ、祐紀は見えてないんで。感じてるだけで」
「そんなのもありなの!?」
「ありありー。ちなみに、あたしは聞こえるけど見えない」
「あ、こっちが亜依。聞こえるから、言いたいことあったら言ってみてください」
亜依の方もなかなか可愛い。どっちも成くんにはもったいないぞ。ついついニヤニヤして彼を見ていたら、目で怒られてしまった。
「引っ越してきたばっかりだったの……車に乗ってるとき、交差点で信号無視の軽トラに突っ込まれて……」
軽トラックの運転手が信号を見落とし、ノーブレーキで母が運転する軽乗用車の右腹に衝突した。車はあっさり横倒しになり、下側になった私は意識を失った。
亜依が私の話を、少しずつまとめて二人に話す。
「で、意識不明?」
祐紀がこちらをまっすぐ見ながら聞いてきた。本当に見えてないのか、ってぐらい目線がきてる。
「いや、一回は目ぇさめたんだけど、気ぃ抜けたら寝ちゃったって言うか浮いてたって言うか」
真横からの衝突だったのが不幸中の幸いで、サイドエアバッグに守られて母も無事だった。それを知って安心した途端、私は病院の天井に背をつけて自分を見下ろしていたのだ。
「命に別状はありません、ってリアルで聞いて、自分のことなんだけどニュースみたーい、なんて思ったりしてさー」
しばらく、ぼんやりと自分を見つめていると、隣のベッドの母が目に入った。起きあがり、検査のために移動するらしい。一緒に行かなきゃ、そう思って戻ろうとしたのだが……。
「なんでか戻れなくってさー。ねえ、戻り方知らない?」
「戻りたくない理由でもあるの?」
数秒の沈黙のあと、最初に口を開いたのは祐紀だった。
「心のどこかで、戻りたくないって思ってるとか」
「ああ……なくもない……あるかも」
たしかに、戻っても辛い現実が待っている。眠っている間に、すべての嵐が過ぎてくれたらどんなにか楽だろう。
「でも、逃げらんないのも分かってんだよね」
亜依が優しく微笑む。彼女の笑顔の奥には芯があるように感じる。何か、大きな苦しみを乗り越えてきている芯が。
「お母さん、待ってるよ。早く戻ってあげなよ」
「このまま死んでもいいんすか? 心残りとか、ないんすか?」
しばらく黙っていた成が口を開いた。
「心残り」
「やりたいこととか、夢とか」
「夢、ねえ……」
考えても何も思いつかない自分に愕然とする。いつの間に、自分はこんなつまらない人間になっていたんだろう。
「辛いこともあるかもだけど、楽しみにしてたこととか、ないの?」
優しくたずねる亜依の声。年下の子たちの親切さが、事故の日以来ぼんやりとしていた私を照らす。心残り……楽しみ……突然、周囲に光を感じた。
「あ……入学式! 高校の、入学式!」
真新しい制服、カバン、靴、高校の正門などの映像が、フラッシュのように目の前で瞬いた。
――首が痛い。寝違えたかな? それより今何時だろう。
目を開けると、見慣れない天井が見えた。ベッドを取り囲むためのカーテンレール、黄色い液の入った点滴パックが視野にある。
「あー、そっか事故って……」
首の痛みは、むち打ちにでもなったのだろう。とりあえず、ゆっくり起きあがってみた。なんと、個室だ。差額ベッド代って高いんじゃなかったっけ。保険金はいくら出るかな、仕事はいつから復帰できるかな……。
「お母さん!!」
顔を向けるより早く、娘の制服姿が飛び込んできた。
「あっ、制服! 似合ってるよー」
「それどころじゃないでしょー!!」
「そう、入学式! えーと、八日ってあさって?」
「終わったよ! とっくに……今日、十五日だよ……!」
「えっ?」
「あらっ、気がついたの!? ご家族に連絡しますね!」
部屋をのぞいた看護師が、早足で歩き去っていく。娘が立ったままボロボロ泣いている。驚いたことに、私は丸々十日間も眠っていたのだ。夢を見ていた気がするが、覚えていない。記憶は、母が無事だったと確認したところで途切れていた。
「ねえ、本屋に寄ってよ」
一週間後、母の運転(車は私のもの)で家路についた私には、一つ心に決めていたことがあった。英語学習の本を三冊ほど選び、購入する。
「あら、再燃?」
「うん」
病院のベッドの上で、ふと高校時代の夢を思い出した。英語をマスターして、アメリカでNBA(全米プロバスケットボールリーグ)の試合を生で観戦すること。今まで忘れていたし今さらだけど、心に残っている夢なら片をつけてやりたい。
「なんかさ、いつ死ぬか分かんないなら、やりたいことやっとこうと思ってさ」
「そうね、いいんじゃない? あー、私は温泉巡りでもしたいわー日本の端から端まで」
「あらっ、それもいいじゃない!」
これから、二十五年ぶりの実家での生活が始まる。要介護の祖母と、母と私と娘、女ばかりの四人家族。前途は多難だ。
だけど、できるだけ日々明るく暮らそう。娘のこれからの人生が、私たちの重みで歪んでしまわないように。
車が娘の高校の前を通った。正門を入ってすぐの桜が、少し散り始めた頃合いだった。