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「どの駐車スペースにどの部屋の人が停めているかは、分からないねぇ……」
マンションの観音開きになっている玄関扉をくぐったすぐ左手の壁に、銀色の郵便受けが設置されている。ケビン・フォードの名前は105号室の所にあった。
「もしかして、遺体の第一発見者の部屋を訪ねて、話を聞くつもりですか?」
恐る恐る訪ねてみる。千鶴さん宅の周辺では、民家を訪問するのは疎ましがられるから止めようと言っていたが……今度はそうしようと言うのか。
「それしか方法は無さそうだからねぇ。まだ、十五時台だし第一発見者の人は在宅してないようだしねぇ」
「第一発見者の人が在宅してないって、なんで分かるんですか?」
「さっきの刑事さんは、遺体を発見したのは、遺体が倒れていた所に車を停めていた人だと言っていたよね? 立ち入り禁止のテープの中を見たら、遺体が倒れていた所にチョークでマークしてあったから、どこに遺体が倒れていたかは分かったんだけど……」
そう言えば夏川さんは、立ち入り禁止区域の中をじっと凝視していた。
「倒れていた所に車は停まってなかったってことですね?」
「そういうこと。多分、出掛けるときに車に乗ろうとして見つけたんだろうね。だから、フォードさんは昨日の夜に殺害されたのに、一晩発見されなかったんだよ」
このマンションの駐車場では、駐車スペースが敷地を囲む塀に沿って設置されているから、停められた車の後ろは死角になる。夜、暗ければ、近付かないと見つけられなかったんだろう。
「朝発見されて、今も車がないということは、勤め人だろうから、夜まで帰ってこないかもしれないねぇ」
「じゃあ、それまで他の住人に聞き込みですか……」
こりゃ大変そうだ。ただでさえ、不審な二人組なのにこんな都会で、取り合ってもらえるのだろうか……
自分自身が田舎の出身だから、どうしても都会の人間は冷たいイメージがある。
「悪いけど、遅くなるかもねぇ。大丈夫、真樹君?」
「ええ、構いませんよ」
「割増給料は払うからさ」
夏川さんは両目を閉じて、口角を吊り上げた。――これは多分、ウインクのつもりだ。
「割増なんて大丈夫ですよ。僕も実際の事件の調査、興味ありますから」
「まあまあ、悪いから払うよ。……でも、ペットが心配だねぇ」
夏川さんの口から「ペット」というフレーズが漏れた途端、俺は言いようのない悪寒に震えあがった。
――いつだったか、朝早く目覚めたので、早めに出勤した時、夏川さんの住居スペースから聞き慣れない嬌声が聞こえてきた。
『カッちゃーん、モモちゃーん。ちょっと大人しくしといてくだちゃいねー。はいはい、ご飯は今あげまちゅからねー』
頭の中で再生されたその声に、背中一面鳥肌が広がる。額に滲んでいた汗も、引いてきた気がする。
住居スペースには、ペットのカッちゃんとモモちゃんが飼われている。夏川さんは、子供の頃から爬虫類に目がないらしく、カッちゃんとモモちゃんも爬虫類だ。
種類はなんて言ったか忘れたが、のっそり動く、老人のような肌をしたイグアナ。なんでも肌が褐色だからカッちゃんらしい……
もう一匹は見るからに危険そうなピンクの蛇だ。もちろん、ピンクだからモモちゃん……
最初は何かの間違いだと思ったが、声の主は夏川探偵事務所所長・夏川一郎以外の何者でもなかった。夏川さんは俺に気付くと
「ああ、真樹君。今日は早かったんだねぇ」
と、いつもの調子で話しかけてきた。
あれ以来俺は出来るだけ早く出勤しないようにしている。――おぞましい赤ちゃん言葉をもう聞きたくはない。
「どうしたの? 真樹君?」
「あ、いえ、なんでもありません」
「じゃあ早速、フォードさんの隣の部屋から行ってみようか」
足早に廊下を歩いて、105号室の前にやってくると、この部屋も立ち入り禁止のテープが貼られている。今日一日で、この黄色い結界を何度見ただろうか……
夏川さんは105号室には気にも留めず、その一つ向こう側の103号室の前に立つ。不吉だから4は使っていないのだろう。
表札に酒井と書かれている。夏川さんは何のためらいもなく、黒い玄関チャイムを鳴らした。
暫く沈黙がながれたが、いきなり玄関扉が開いて、夏川さんの額にぶつかりそうになる。
「はぁ……? どなたですか?」
出て来たのは小太りの中年女性だ。夏川さん的には、格好の聞き込み相手ではないか。
「いきなり申し訳ありません。私、私立探偵をやっております、夏川というものです」
女性は差し出された名刺を上の空で受け取り、俺の方に視線を送る。
「あ、夏川探偵事務所の職員の者です」
とりあえず、おれも自己紹介はしておく。不審者だと思われると話を聞けなくなってしまう。
「はぁ……。お隣さんのことなら、警察の人に話しましたよ?」
「ええ、我々は事件の関係者でありましてねぇ……。良かったら我々にも少しお話を聞かせて頂けませんか?」
「は、はぁ……。構いませんが……」
意外とあっさり了承された。関係者だと言ったのが効いたのか?
確かに推理小説なんかでは、私立探偵なる人物が大手を振って事件の捜査をしている場面が良くある。それを見れば、現実にもそういうことが良くあると思っていても、仕方ないのかもしれない。
「ではまず、隣のケビン・フォードさんが殺害された訳ですが、誰が最初に発見したかご存知ですか?」
「はぁ……。今日の朝、私の主人が仕事に行こうと外に出たら、すごい人だかりが出来てて……。見てみたら、駐車場にパトカーがいっぱい停まってて……。サイレンは聞こえてたんですけど……何処かで何かあったのかなって思ってたくらいで……」
自分の住んでいるマンションで殺人事件があったからなのか、それとも元々なのか、かなりオドオドした様子で会話が少しずれている。質問と答えが噛み合っていない。
「では、最初に発見されたのは、知らない方ですか?」
「はぁ……。スーツを着た男の方ですけど、どの部屋の方かは……。近所付き合いとかあんまり無いので……」
「では、フォードさんとも付き合いは無かったんですか?」
「はぁ……。廊下で会ったら挨拶するくらいで……」
今時の近所付き合いなんてそんなものだろう。
「では、この人を見かけたことはありますか?」
と、夏川さんは浮気相手の女の写真を取り出して見せた。女性は写真を一瞥するなり、「またか」というような表情を浮かべる。
「はぁ……。この方ですか……。さっきも刑事さんが見せに来ましたよ……。お隣さんを訪ねてきたのを、見たことはないかって……」
千鶴さん宅からメールで送られた、浮気相手の女の写真はすぐに捜査線上で拡散されたのだろう。
「それで、見たことは?」
「はぁ……。あるような、無いような……。はっきり覚えてないんです」
「警察の人は、何を尋ねられましたか?」
「はぁ……。最初に来た時は、お隣さんのことで知ってることを教えてくれとか……。お隣さんの奥さんを見たことはないかとか……。昨日の夜、いつもと変わったことや、妙なことはなかったかとか……。私が昨日の夜何をしていたかも聞かれました……」
この女性が話す言葉は、俺の頭の中で箇条書きされる。一つピリオドを打ち、簡潔に書く――そして、またピリオドを打ち、簡潔に書く。そんな感じの話し方だ。
「二回目に来た時に、さっきの写真の女性のことを聞かれたわけですね?」
「はぁ……。そうです」
「フォードさんの奥さんを見たことはあったんですか?」
「はぁ……。奥さんと言われても……。あの方、ここで一人暮らしじゃなかったんですか? ニュースでは別居してたとか……。それで、奥さんも神奈川で殺されたんですよね?」
異常に臆病な様子で、背中を丸めて問い返すその姿は、か弱い小動物を連想させる。
「ええ、そうなんです。妙な事件ですねぇ。――で、昨日の夜、何か変わったことはありましたか?」
「はぁ……。どうでしょう……。あ、なんか若い人の話し声は聞こえてました……」
これは、重要な手掛かりではないか? 夏川さんはいたって冷静だが……
「数人でしたか?」
「はぁ……。多分……」
「では、最後に、昨日の夜、何をされてましたか? 二十時半頃から二十四時頃」
「はぁ……。主人と一緒に、夕食を食べて……あとは洗い物をしたり、テレビを見たり、ずっとこの部屋にいました……」
夏川さんは、手帳をパタリと閉じる。
「ありがとうございました」
とだけ礼を言うと、女性も頭を下げて、不安そうな面持ちのまま、扉を閉めた。
収穫はどれくらいのものだろう?
「昨日の夜、話をしていた数人組って怪しくないですか?」
「それは、僕が張り込んでいた時も、たまに居たよ」
「えっ?」
「二十一時くらいになったら、中学生か高校生くらいの何人組かが、ここの駐車場で長話をしているんだよ」
だから夏川さんは冷静だったのか……。よくよく考えれば、夏川さんだって、一週間ここに通ってたのだから、それなりに詳しいはずだ。
「じゃあ、事件とは無関係ですかね……」
「それはまだ分からないねぇ……。昨日も彼らがここに居たなら、何か重大な証言を聞けるかもしれないよ」
「あれ、二十一時頃に居るってことは、もうフォードさんが殺害されてたかもしれないですよね? 死亡推定時刻は、二十時半頃から二十二時半頃ですから」
二十時半から二十一時に殺害されていれば、すでに遺体は車の死角に転がっていたことになる。
「警察もそのことは聞いただろうから、すぐ、見つかるんじゃないかな。結果次第ではかなり、死亡推定時刻を絞れるかもしれないねぇ」
――その後、他の部屋も訪ねて回ったが、留守だったり、追い返されたりと、不憫な思いをした。保険のセールスマンの気持ちがよく分かる……
「なかなか、上手くいかないねぇ」
「そろそろ諦めますか?」
「まだ、一階に一部屋残ってるからねぇ。そこを当たってからにしようか」
一階でまだ訪ねてないのは一番端にある、111号室だ。
また追い返されると思えば、気が重いが、夏川さんはもう件の部屋の前に勇み立っている。
俺も慌ててそちらへ向かう。ちょうど気の抜けた玄関チャイムの音が俺の鼓膜にも届く。
「今度はどうですかね……。また、怒鳴りつけられるんじゃ……」
と、肩をすくめた時、ゆっくりと扉が開かれた――
「またまた、事情聴取ですかー?」
無精髭に、痩けた頬。白目を視認できないほどの細目に、ボサボサの髪。歳は四十代くらいか、もしかしたら老け顔な三十代かもしれない。服もクタクタのグレーのスウェットの上下で、身なりはどう見てもニート。まさしくニートを絵に描いたような男だ。
「ん? 今度は警察じゃ無さそうですね」
心なしか、男の表情が緩んだ気がした。




