5
「指輪……ですか?」
俺は思わず二人の会話に割って入る形になった。
「ああ、フォード氏殺害現場には『 K & T 』と彫られた指輪が落ちていたんだ」
「……」
夏川さんは沈黙している。
「『 K & T 』……ケビンと千鶴……結婚指輪ですかね?」
と、俺は尋ねてみる。
「まあ……なんとも……色々妙な点があるからな」
松岡警部補は奥歯に物が挟まったような物言いだ。さっきまでの饒舌さが無くなった。
「妙な点ですか?」
すると、夏川さんは俺の方を少し冷たい目で一瞥したが、すぐ視線を逸らせた。
「どこが妙なんですか?」
と、俺はまた尋ねてみる。
「ひとつは、その指輪に指紋や皮脂や汗が全く付いていなかったことだ。明らかに綺麗に拭き取ってあった」
「なるほど、指にはめていた指輪を落としたという訳ではなさそうですねぇ」
俺もその理屈は理解できた。はめていた指輪が意図せず落ちたなら、皮脂や汗が綺麗に拭き取ってあるはずはない。
つまり、綺麗に拭き取った指輪をポケットか鞄か、どこかに所持していた犯人……いや、犯人かは分からないが、誰かがその指輪を落としてしまった。もしくはその指輪を意図的に現場に置いていった。そういうことになるだろう。
「もうひとつ妙な点は……」
と、言いかけて松岡警部補はニッと笑って俺の肩に手を載せる。
「自分で考えな」
「は?」
つい素っ頓狂な声が漏れてしまう。
「自分で……ですか?」
「ああ、探偵の助手やるなら、それくらいは気付けなきゃいかんよ」
松岡警部補の浅黒い顔が、とても意地悪な少年のようだった。
「探偵さんはもう気付いてるみたいだしな」
「ええ、確かに妙ですね。真樹君も分かると思いましたけどねぇ」
そう言われて少し悔しかったが、何が妙なのか俺には分からなかった。
「ところで、二つの現場から妙な物が見つかったって仰りましたが、千鶴さん殺害現場にも指輪が?」
夏川さんは俺を置いてけぼりにして、先に次の質問に進んでしまった。
「ああ、このガレージにも落ちてたんだ、指輪が」
「同じ指輪ですか?」
「いや、こっちは『 Kevin to ちづる 』と彫られた指輪だ」
「『ケビンから千鶴へ』ですか」
「ケビンは英語で、ちづるはひらがなで彫られていたよ」
「へぇ、珍しいですね」
率直にそう思った。夫婦の指輪といえば大抵、フォードさん殺害現場で見つかった指輪のように、イニシャルが彫られているイメージがあるからだ。
「これは、近所に住む千鶴さんの友人に聞いたら、間違いなく千鶴さん夫妻の結婚指輪だそうだ。英語とひらがなにしたのは、違う国で生まれた二人が国際結婚に至ったことの運命を表したかったから、それぞれの母国語で彫ってもらったらしい。新婚の頃、その友人がよく自慢されたらしいから間違いないだろう」
「なるほど、素敵ですね」
俺が月並みな感想を述べると、松岡警部補が大袈裟に目を見開き俺を凝視した。
「どうかされましたか?」
「いや、君も素敵とか思うんだなと思ってね。感傷的なイメージが無かったもんだから。すまんね」
明るい声色で俺の肩をポンポンと叩く。
確かに俺はポーカーフェースだが、それは感情が表情に出ないだけであって、感情が無いわけではない。俺だって感傷的な気持ちくらい湧いてくる。枯れた泉ではないのだ。
そんな俺の憤りもまた、表情には表れていないであろうが――
案の定、夏川さんが会話を元に戻すため口を開いた。
「で、その指輪は千鶴さんのものですか? フォードさんのものですか?」
「こっちは、指輪に皮脂が付着していたから、DNA鑑定に回してどちらのものか調べているところだ。まあ、サイズからして千鶴さんの方じゃなく、フォード氏の指輪だろうがな」
「千鶴さんの殺害現場にフォードさんの指輪が落ちていた……普通ならフォードさんが疑われるところですが……」
「ああ、ましてや二人は別居中。動機はありそうだが……」
「千鶴さんが殺害されるより先に、フォードさんが殺害されていた。そういうことですよねぇ」
「フォード氏が先に殺害されていたなら、なぜフォード氏の指輪がここに落ちていたのか……それが謎だな」
松岡警部補はまた、ボールペンで頭を掻く。かなり力がこもっていて、出血しないか心配になるくらいだ。
「私は、一週間フォードさんに張り付いてましたけど、フォードさんは別居してからは結婚指輪はしていなかったみたいですね」
「本当か?」
「ええ、千鶴さんから今は別居中だと聞いていましたから、指輪をしているかを注意深く見ていたんですが、指輪はしていませんでした」
「だとすれば、ますます、なぜ落ちていたのか分からないな。指輪をしていなかったということは、指輪はフォード氏の家にあったはずだろう?」
「フォードさんは千鶴さんより先に殺害されていますから、第三者がフォードさんの指輪を持ってきて、千鶴さんを殺害後指輪をここに落として逃げたとみるべきですよねぇ?」
夏川さんの言う第三者とは、浮気相手の女だろうか?
「何のためにそんなことをしたんだ? フォード氏を先に殺害したなら、罪を着せるわけじゃないだろうし……」
「ところで……フォードさんは目黒のマンションで殺害されたとのことですが、具体的にはどういう状況だったんですか?」
ずっと指輪に関する疑問を掘り下げていたのに、夏川さんが急に話題を切り替えた。松岡警部補はもう夏川さんからの質問を一切拒もうとしていない。さっきの取り引きは、まだ有効ということか。
「俺は神奈川県警だから、こっちの現場に回されたんでね。ハッキリとは分からないが、フォード氏はマンションの駐車場で後ろから頭を殴られていたらしい。そして、遺体の側に『 K & T 』の指輪が落ちていた」
「フォードさんは仕事から帰宅したところですか?」
「ああ、向こうからの情報によれば、フォード氏の部屋の鍵は掛かっていたから、勤め先から帰宅してきたところを襲われたということだ」
「なら、犯人はあらかじめフォードさんの指輪を入手していたということになりますよねぇ? それとも、フォードさんを殺害してからフォードさんが持っていた鍵を使って部屋に侵入し、指輪を入手したとか?」
「そりゃあ、分からない。どっちも可能性はあるだろうが。ただ、フォード氏の部屋は荒らされたりした形跡は無いそうだ」
俺の頭の中に浮かんだのは、浮気相手の女なら何度もフォードさん宅を訪れていたから、その時にこっそり指輪を盗ることは出来ただろうという仮説だった。だが、その女がフォードさんを殺した後千鶴さんを殺したとすれば、なぜその指輪を落としたのか?
松岡警部補が言うように、フォードさんを殺した後にそんなことをしても、死亡推定時刻によってフォードさんの方が先に殺されたと判明すれば、罪を着せることにはならないし……
指輪はたまたま落としてしまっただけだとしても、何のためにフォードさんの結婚指輪を盗ったのだろうか?
それにフォードさんの殺害現場にあった『 K & T 』の指輪はなんなのか? 松岡警部補や夏川さんは、その指輪が妙だと言っているが、俺には何が妙なのかも分からないし……
(まあ、単なる助手の俺には分からないよな)
なんだか脱力感を感じた。
「そういえば、犯人は千鶴さん宅に侵入しているんでしょう? 警察は強盗殺人と見てるんですよねぇ?」
「侵入したのは裏の窓からだ。ガラスを割って侵入、部屋の中もかなり荒らされているよ。家主が死んじまってるから、何をどれくらい盗られたのかはまだ分からないがな」
俺は朝、事務所で見たニュースを思い出した。
浮気相手の女が犯人だとすれば、動機は浮気絡みではなかったのか? 強盗目的ならわざわざ自分の浮気相手の妻の家を標的に選ぶというのは不自然に思えた。浮気絡みの動機で千鶴さんを殺し、ついでに部屋に侵入し、何かを盗ろうとしたとするのが一番現実的に思えた。
俺がそう考えていると隣で夏川さんも同じようなことを松岡警部補に話していた。
すると、逆に松岡警部補は夏川さんの目の前まで顔を近づける。
「聞きたいんだが、千鶴さんはあんな時間にどこに出かけていたか分かるか?」
「それは私も疑問です。千鶴さんがガレージで殺害されていたと聞いてから……千鶴さんはどういう格好だったんですか?」
夏川さんからの華麗な質問返しだ。
「上は長袖のカジュアルなTシャツで、下はジャージだったな。靴も普通のスニーカーで腰にポーチを巻いていた」
「スポーツでもするような服装ですね」
と、俺も頑張って二人の会話に自分の意見をねじこもうとする。
「そう思うよな、助手君。聞き込みによれば、近所の住人が最近同じような服装でウォーキングをしている千鶴さんと会ったそうだ。その時声をかけたら、健康のためにウォーキングを始めたと言っていたらしい」
「でも、二十四時にウォーキングはおかしいですよねぇ……ポーチには何が入っていたんですか?」
「大したもんは入ってなかったな。ハンドタオル・キーケース・財布くらいだな」
「キーケースといえば、この家鍵は掛かってたんですか?」
「ああ、玄関の鍵は掛かっていたよ。だから、ガレージで刺されていたことも踏まえれば、千鶴さんが帰ってきた時、すでに侵入し逃亡しようとした犯人とガレージで鉢合わせになり、刺されたと見るべきだな」
「ガレージで鉢合わせって、裏の窓とガレージは繋がっているんですか?」
「ああ、裏にリビングの大きな窓があってな、犯人はその窓のうち一枚を割って侵入したんだ。その窓の前は小綺麗な庭になってるんだ。このガレージの奥はその庭と繋がっているよ。ここからじゃ見えないがちょうど車の後ろあたりにドアがある」
松岡警部補は左手の親指を立てて、ガレージの奥を指し示した。
「うーん……確かによく見えませんねぇ……」
夏川さんは立ち入り禁止のテープに覆い被さるように上半身を乗り出すが、それでも数十センチしか変わらないので例のドアは見えないようだ。
「入ったらダメですよねぇ?」
「当たり前だ……」
松岡警部補のその一言は夏川さんや俺にとって、とてつもなく重い足枷だった。
「現場検証が終われば立ち入り禁止は解除されるんですよねぇ。解除されたら入って良いでしょう?」
「まあ、解除までは三日はかかるだろうがな」
「解除されたら入って良いんですね?」
夏川さんは小躍りしている。
「ああ、だが勝手に入るなよ。本当に困った探偵さんだな……!」
そういう割にはかなりの情報を与えてくれた気もするが、あえてそれは言わなかった……
「じゃあ探偵さん、またあんたには参考人として話を聞くかもしれないから、連絡先を教えてくれ。多分その時は、警視庁の合同捜査本部でってことにになるだろうが」
夏川さんが手帳に連絡先を走り書きし、そのページを破って松岡警部補に渡すと、松岡警部補はさっきの五十嵐という刑事を呼び、浮気相手の写真を合同捜査本部にメールで送るよう指示した。
「写真は本部に送ったから、そのうち女の素性も分かるだろうよ」
「こちらでも独自に調べますよ。乗り掛かった船ですから」
夏川さんは硬い笑みを浮かべた。
「やっぱりか……立ち入り禁止の領域には入るなよ。どうせフォード氏の家にも行くんだろう?」
「ええ、当然です」
「え、フォードさん宅にも行くんですか? この後に?」
俺は驚嘆の声をあげたが、内心ではそうなるんじゃないかと薄々感じていた。もう夏川さんの好奇心――いや、探偵としての使命感ということにしておこう――は真相を突き止めるまで止められないだろう。
「まあ、俺たちの邪魔だけはするなよ。あくまでも探偵さんは私人に過ぎないんだから」
と言い残し、松岡警部補は身を翻し千鶴さん宅へ姿を消そうとした――
が、左脚をまるでコンパスの針のように支点にして、こちらへくるりと向き直る。
「くれぐれも俺がこんなに事件の情報を漏らしたとは口外するなよ。妻子を路頭に迷わせる訳にはいかないからな」
さっきまでとは裏腹に、その声はドスが効いていて迫力があった。
俺と夏川さんは、松岡警部補が千鶴さん宅の奥へ消えるのをしばし見送っていた。
やがてその姿が見えなくなると、夏川さんは希望に満ちた子供のような目で俺を見つめた。俺にはまるで、遠足の前日の小学生に見えた。
「じゃあ真樹君、独自に調査を始めようか」




