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謀計リング  作者: 茜坂 健
第一章 「来訪者の死」
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 KOBAYASHIと書かれた、モダンな表札の前で松岡という警察官が出てくるのを数分待っている。腕につけている安物の腕時計によれば、時刻は午前九時五十六分になっている。

 今立っている門扉のすぐ正面に黒い玄関扉がある。扉は捜査員が出入りし易いよう、ストッパーを噛ませて開きっぱなしにされているようだ。

 玄関扉に向かって右側に千鶴さんの遺体があったというガレージが見える。停まっているのは黒の軽自動車だ。

 よく見ると、ちょうど運転席側のコンクリートの地面に黒ずんだ染みが広がっているのが分かった。恐らく血の跡だろう。

 俺がガレージから視線を玄関に移したとき、玄関の奥から黒スーツに深海のような群青色のネクタイを締めた男が、大柄な躯体に似つかわしくないひょこひょことした足取りでこちらへ近づいて来た。

「どうも、神奈川県警刑事課強行犯係の松岡です」

 男の胸ポケットから取り出された警察手帳が俺たちに示される。俺の記憶では本物の警察手帳を見るのはこれが初めてだが、テレビのサスペンスドラマで見るものとそんなに違いは無かった。

 松岡警部補の浅黒い肌に精悍な顔立ち、そして大きな手はスポーツ選手をイメージさせる。年は四十代後半というところか。

「東京で私立探偵をしている夏川というものです」

 夏川さんが名刺を差し出そうとすると、松岡警部補は大きな右手を広げてそれを制止した。

「名刺は五十嵐から預かっています」

 さっきの警察官は五十嵐というらしい。夏川さんは即座に動きを止める。

「小林千鶴さんから依頼を受けまして」

「らしいですな。夫のケビン・フォード氏の浮気調査だとか?」

「ええ、依頼を受けたのは先月の二十一日でした。依頼を受けてから一週間、フォードさんに張り付いた結果、この女性と浮気をしている可能性が高いとの結論を出しました」

 夏川さんは持参した浮気相手の女の写真を松岡警部補に見せた。女がフォードさんのマンションから出てくる場面を隠し撮りしたものだ。

「この女が浮気相手か……素性は?」

「それは分かっていません」

 夏川さんの簡素な返事に松岡警部補はわざとらしく落胆した。この警察官は比較的感情表現が豊かなようだ。

「調べなかったのか?」

 突然、夏川さんに対してタメ口気味になった。ドラマに出てくるような刑事の口調といった感じ……

(距離の縮め方が極端だなあ……やっぱり、体育会系っぽいな)

 なんとなくだがそんな気がした。もちろん夏川さんは三十五歳で、見た目だけでも松岡警部補より明らかに年下だからそういう口調を使っても不思議ではないが。

「千鶴さんが身元調査は構わないと仰りましたから」

「にしても、一週間張り付いてたならいくらか情報はあるんじゃないか?」

 その問いかけに、夏川さんはパラパラと手帳をめくっていたがやがて目当てのページを探り当てた。

「分かったことは……浮気相手の女はフォードさんの自宅のある目黒まで黒い車で通っていたこと。目黒より西方に居住しているであろうこと……くらいですかねぇ」

「目黒より西方?」

「ええ、西方面から車で来て、帰りも同じく西方面に帰っていきましたから」

 松岡警部補は右手に持っているボールペンで頭を掻いた。

「写真とその情報だけで絞り出すのは骨だな……まずはフォード氏の勤め先から洗っていくか」

 またボールペンで頭を掻き、苦虫を噛み潰したような顔をした。

「探偵さんのご用件はそれだけ?」

「まあ、お伝えしたいことはそれだけですが、千鶴さん殺害とフォードさん殺害の状況をお聞きしたいんです」

 夏川さんの声がやや無邪気さの混じったトーンになったのが分かった。

 すると松岡警部補は眉間に皺を寄せる。

「まったく! ……探偵さん? これはサスペンスや推理小説じゃないんだ。確かにあなたには捜査に役立つ情報を提供して頂きましたがね、だからと言って詳しい捜査状況まで教える訳にはいかないよ」

 正直ガッカリした……やはり現実の事件にそんなに深入りすることは出来ないか……

 そう思って夏川さんの方に目をやると、驚くほど真顔で何とも思ってないように見えた。

 ピクリともしないかと思えたほどの真顔だったが、特徴的な真っ赤な唇が動き出す。

「何も、詳しい捜査状況を教えてくれだなんて言ってませんよ。軽くで構いませんから。それに、教えてくださればこちらもより詳しい情報を提供しますから」

 夏川さんはオモチャを与えられた子供のように、楽しそうにイタズラじみた声を発した。それは出会って一ヶ月半ほどの間、俺の耳には捉えられたことのない夏川さんの新たな音色だ。

「はあ? 情報は全て話したって、さっき言ってたじゃないか?」

「もっと詳しくということですよ。浮気相手の女を探し出すのに詳しい情報が必要でしょ?」

「まったく! ……困った探偵さんだな」

 松岡警部補は顔をしかめながら反り返ったかと思えば、その反動で前屈みになる。やはり感情表現が豊かだ、随分と。

「じゃあまず、浮気相手の女の詳しい情報を教えてもらおうか」

 参った参った、というふうに首を小さく横に降る。

「こちらからですか、まあそれは仕方ないですねぇ……」

 夏川さんは何かしらの表情を浮かべた。残念がる気持ちを表したかったんだろうが、いかんせん硬すぎてよく分からなかった。

「まず、浮気相手の女ですが、四月二十一日から二十八日までの一週間のうち三日フォードさん宅を訪れました。二十二日の火曜日と、二十四日の木曜日、そして二十五日の金曜日です」

 と、夏川さんが自分の手帳を見ながら発した言葉を、松岡警部補も彼の手帳に写していく。

「三日間とも、フォードさんと浮気相手の女が一緒に帰宅してきたということはありませんでした。いずれも女が車でフォードさん宅を訪問して来ました」

「その女が帰るまで張り込んでたのか?」

「ええ、三日間とも。女は二十一時台から二十二時台にフォードさん宅を訪ね、帰ったのは二十四時台から二十五時台でした。これは千鶴さんにも伝えたことです」

「まあ、それだけの時間滞在していたなら、なんだかんだと営めるな」

 松岡警部補がいやらしそうに笑う。

「そのことですが、女は帰りに家から出てきたとき、シャワーを浴びたような感じが無かったんです。それがどうも引っ掛かってて……」

 俺はそれを聞いて、夏川さんが女を隠し撮りした写真を思い出した。

 今はその写真は松岡警部補の手元にあるが、俺はデジカメで撮られたその写真を現像するのを手伝ったし、ここに来る途中の車の中で夏川さんにまた見せてもらったから、容易に写っていた女を思い出せた。

 クリーム色の薄手のブラウスに、膝下くらいまでのジーンズ。足元は低めのヒールを履いているが、それが無くても一般的な女性よりは身長が高いと思われる。シンプルだがスタイリッシュな服装だった。

 年齢は千鶴さんよりやや上に見えたが、肩にかかる程度の黒髪に、千鶴さんと同じく色白。

 目がクリッとしていて若い頃は美人だっただろうといった雰囲気。口元にあったほくろが印象的だった。

 ただ、確かに夏川さんが言うようにメイクはしっかりしていたと思うし、髪が濡れたような感じもなかった。

「確かに、いい大人が家で二人きりなのに何もないのは妙だが……」

 と、二人は数秒、虚空を眺めていたが

「まあそれは置いといて、他に情報は?」

 と、松岡警部補が夏川さんに尋ねる。

「千鶴さんはこの女性に見覚えがあるような反応では無かったですねぇ」

「しかし、彼女はこの女の身元調査を断ったんだろう? この女を知っていたからじゃないのか?」

「その可能性もありますが……自分の夫の浮気相手が知人なら、普通狼狽すると思うんですよねぇ。でもそんな風には見えなかったんですよ。だよね、真樹君?」

「え、あ、はい!」

 今まで目の前のやり取りをただ静観していた俺に、突然夏川さんから投げかけられた問いかけ。――いや、投げつけられたと言った方が良いかもしれない。

 俺が慌てて、問いかけの内容を噛み砕いていると、今度は松岡警部補からの視線も俺に突き刺さる。

「その眼鏡の青年も探偵か?」

「彼は小島真樹君、探偵じゃないです。助手みたいなもので……」

 夏川さんが頭をポリポリと搔くような仕草をしながら答えた。

 俺はとりあえず松岡警部補に軽く会釈をし、夏川さんからの問いかけの答えを探した。

「……ええ、千鶴さんが調査書を受け取った時、狼狽している様子はありませんでした。どちらかといえば静かで落ち着いた感じでした」

 思い出したのは、千鶴さんのやや怒りを覗かせた、それでいて冷静な表情だった。

「千鶴さんはこの女を知らなかった可能性が高いか……まあ浮気相手のケビン・フォード氏と、その妻の千鶴さんが殺害された以上、この女が事件の鍵を握っている可能性は高いのは間違いない」

 松岡警部補は独り言のように呟いた。

「ところで、千鶴さんの死亡推定時刻は二十三時五十分から二十四時二十分の間でしたよねぇ?」

「ああ、そうだ」

「フォードさんの死亡推定時刻は二十時半から二十二時半の間でしたよねぇ?」

「ああ、そうだ」

「ということは、二人が殺害された時間、最大で三時間五十分、最小で一時間二十分の開きがありますが、目黒のフォードさん宅からこの千鶴さん宅まで、どれくらいかかりますか?」

 夏川さんは機械のように、淡々と松岡警部補に問いかけている。松岡警部補もそれにつられるように、淡々と受け応えしている。

「車なら中央自動車道を通って、一時間半くらいだな……鉄道なら最寄りの京王電鉄橋本駅までは一時間弱くらいだが、そこから車で二十分から三十分くらいかかるだろう」

 ちょうど俺と夏川さんが車で来た道のりと同じような感じだ。世田谷の事務所は目黒の西に位置していて、中央自動車道はそのさらに西から乗るから、目黒からここに来ようと思えば、必然的に同じような経路になる。

「つまり、目黒でフォードさんを殺害した後、ここへやって来て千鶴さんを殺害することも、時間的には可能だということですよねぇ?」

「そうだな、死亡推定時刻の最小の間隔で考えても一時間二十分だからな」

「浮気相手の女が、二人を殺害した……というのが一番妥当な線ですかねぇ?」

 夏川さんはなぜか、右手を口の横に立てて、ひそひそ声でそう尋ねる。

「うーん……」

 松岡警部補は煮え切らない唸り声をあげた。口角が妙に上がっている。

「実は二つの現場から妙な物が見つかってな……」

「妙な物?」

「指輪なんだよ……」

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