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一つの小さな機械が、穴が空く程の視線を集める。視線の主は三人。皆が机に置かれたICレコーダーを凝視している。
「すいませんねぇ……。昨日、私の懐で、この機械を作動させていました」
「あら、盗み録りされたんですね?」
「無粋な事をしまして申し訳ありませんねぇ……。しかしそのお陰で、あなたがあの時千鶴さん宅に居たことを、証明出来そうです」
凄みのある声には自信が込もっている。一方の吉永貴子はどこか冷めた目で機械と探偵を交互に見遣っている。
「早速再生したいところですが、まず予備知識を入れておいた方が良いでしょう」
「予備知識ですか?」
「千鶴さん宅の斜向かいに住んでおられる女性から、幾らかの証言をしてもらいました。事件が起こるのとほぼ同時に発生した火事についてです」
一体紗知さんから仕入れた情報の中に、何があったというのか? 一緒に訊きに行った俺には見当が付いていない。
夏川さんが唾を飲み込んだのが分かった。俺も誘われるように喉を鳴らす。
「訊いたのは二つのことです。一つは、消防車の出動ルートについてです」
「確か、道路工事の影響で、迂回したんですよね?」
「ええ。それはあなたもご存知でしたねぇ。ただ、訊きたかったのはその事じゃなくて回数です」
「回数?」
「道路工事が始まって以降、あの火事までに消防車が出動した回数ですよ」
吉永貴子は知らない言語を聞いたかのように、不思議そうに眉をひそめる。
「あの火事の時が、初めてだという事が分かりました。そして二つ目が、野次馬の動きについてです。遺体の第一発見者は、千鶴さん宅よりももっと北にある、火事に遭った家の親族の方のお宅に行こうとして、千鶴さんの遺体を発見したそうですねぇ」
火事が起こったのは千鶴さん宅よりも南側――登り坂を登った先だ。千鶴さん宅よりも北とはつまり、坂を下った先のダム湖のある方面だ。
そして、消防車は北から坂を登ってきたのだ。
「野次馬も皆、千鶴さん宅よりも坂の上に住んでいる人ばかりで、千鶴さん宅周辺からわざわざ坂を登って見に行った人は、一人もいなかったとも聞きました」
「それが予備知識なんですか?」
「そうです。今の話を踏まえて、再生しましょう」
男の割には綺麗に艶のある爪が、ICレコーダーに近付く。数個のボタンの内、電源を入れるボタンをまず押し、一呼吸置いて再生ボタンが同じように押される。
『あの日は……現場近くで大きな火事があったんですよねぇ』
『それは私も知ってますよ……。ニュースでも言ってましたもん、第一発見者は火事の野次馬だって』
『そうですよ。火事の起こった建物の周辺には野次馬が集まっていましたし、消防車もたくさん来ていました。目撃されなかった犯人は随分幸運でしたねぇ』
『犯人は火事が起こった家とは逆側に逃げたんじゃないですか? だから野次馬には見られなかったんですよ、きっと! 逃げる時に消防車が通れないような細い道を探して逃げたら、消防車ともすれ違わずに済みますし!』
「この部分を聞いて、真樹君は何か気付くことはない?」
「いやぁ……普通の会話にしか……」
喉の奥が詰まる思いで答えた。吉永貴子は火事のことをニュースで知っていたし、特に妙な所は無いように聞こえる。
「では、ご自身で聞いて、何か思い付きませんかねぇ?」
夏川さんが吉永貴子の全身を舐めるように見回す。
「私は自分の思ったことを、そのまま喋っただけですよ?」
「思ったこと、というのは犯人が目撃されなかったことに対する、あなたの推理……の部分ですかねぇ?」
「推理だなんて大袈裟ですよ。でも、何も変なことは言ってないでしょ?」
夏川さんはまたICレコーダーに手を伸ばし、今度は時間をかけてボタンを弄っている。どうやら、聴きたい部分を頭出ししているようだ。
「この辺ですねぇ……。えー、では、今度は問題の部分だけを……」
『犯人は火事が起こった家とは逆側に逃げたんじゃないですか? だから野次馬には見られなかったんですよ、きっと! 逃げる時に消防車が通れないような細い道を探して逃げたら、消防車ともすれ違わずに済みますし!』
「これがあなたの推理ですねぇ。おかしな所があるんですがねぇ」
時間にして十数秒足らずの彼女の発言に、俺も全神経を集中させる。吉永貴子は千鶴さん宅に行ったことはないと言う。しかし夏川さんはこの音声から、彼女があの時千鶴さん宅に居たことを証明出来ると豪語する。
遠路はるばる紗知さんに訊きに行った、二つの予備知識……
(そうだ……夏川さんの言う通り、おかしい!)
背筋に電流が走るような、それでいて肩が軽くなったような感覚に溺れそうになる。パズルが噛み合った途端、俺の脳裏にも吉永貴子が消防車のサイレンを聞いて慌てて逃げた情景が、容易く描かれた。
「真樹君もどうやら分かったような顔をしているねぇ」
「えっ、そうですか?」
分かったのは事実だが、それよりも、ポーカーフェースの俺でも顔にそれが出ていたことに驚いた。
さすがに表情になる衝撃だった。
「説明してくれる?」
俺は促されるまま、乾燥して皮が張った唇を舌で舐めて潤してから、口を開く。
「はい……。消防車が道路工事のために迂回して現場に向かったことは、周知の事実だと思いますが、千鶴さん宅の斜向かいに住んでいる紗知さんの話では、道路工事が始まってから消防車が出動したのはあの日が初めてだということでした。すると、消防車がそのような本来とは異なる経路を取ったことを知っている人物は限られてきます」
肩の力は抜いているが、口内は渇く。唾液が枯渇する。乾燥した舌の根から嫌な臭いが鼻孔をくぐる。
推理小説では、探偵役が大見得を切って容疑者の前で真相を話すことがよくあるが、このように緊張感に包まれた物だとは想像できなかった。
「……それはあの辺の地域に住んでいる人です。紗知さんも自宅前を消防車が通る様子を、玄関先から見ていました。見れば、当然、通る筈のない道を走っていることを知り得ますから。あの火事には野次馬がたくさん居たそうです。野次馬達も、迂回路から駆けつけて来る消防車を見て知り得ます……」
吉永貴子は意図してか、俺の目を真っ直ぐ見つめている。逸らしたら負けだと意固地になった。
「それ以外で知っているのは、実際に消防車が迂回路を通っていたことをあの日・あの場所で見ていた人物だけ……。それはまさに、千鶴さんを殺害した犯人だけです」
依然として目は逸らさない。力が入り過ぎて、眉間に縦皺が刻まれているかもしれない……
「そこで、あなたが話された内容なんですが……。夏川さんが『目撃されなかった犯人は随分幸運だ』と言ったのに対して……」
俺の言葉尻を捕まえ、夏川さんがICレコーダーを三たび操作する。
『犯人は火事が起こった家とは逆側に逃げたんじゃないですか? だから野次馬には見られなかったんですよ、きっと!』
そこまで流れたところで、俺は夏川さんの前に手をかざして停止を要請した。
素早く頷いた夏川さんによって、音声が途切れる。
「今の部分は、何というか……グレーですね。百パーセントおかしいわけではありませんが、少し妙です。火事が起こった方面と逆側に逃げるというのは、至極当たり前です。わざわざ人が集まりそうな方に逃げるのは危険ですからね。ですが、だからと言って野次馬に見られないとも言えないですよね」
吉永貴子の表情に変化は無い。指先を微かに動かしているだけだ。
「普通野次馬というのは、火事が起これば次第に周りから集まってくる物です。生ゴミに蠅が群がって来るように……。もちろんこれは一般論であって、あの場所は登り坂が続く地形ですから、北からやって来る野次馬は居ませんでした。ですが、この事は実際にあの現場に居なければ分からないことです。僕たちも紗知さんから、登り坂を登って見に行った人はいなかったと、証言してもらって初めて知った訳です」
「なのに私は、逆に逃げたから野次馬と会わなかったと言った……。まさかそんなことで疑ってるんですか? それは実際に、犯人が目撃されていない事実を知った上で考えているからです」
ここで動じてはいけない――
自分に言い聞かせる。そのように反論されるのは想定済みだ。今度は自分でICレコーダーの再生ボタンを押す。
『逃げる時に消防車が通れないような細い道を探して逃げたら、消防車ともすれ違わずに済みますし!』
「じゃあこの部分はどう説明されますか? ここは百パーセントおかしいですよ」
「どうおかしいのか、説明して下さい」
「確かに、消防車が通れないような細い道を通れば、消防車とすれ違うこともありません。しかし、あなたは火事とは逆側に逃げることを提案していた筈です」
隣の夏川さんを一瞥すると、先程と変わらない顔をしている。それは、そのまま続けて良いとの意思表示に思えた。
「おかしくありませんか? あなたの言葉を借りれば、犯人が目撃されなかった事実を知った上で考えた訳ですよね? 何の先入観もなく考えれば、消防車に乗っている消防士からも目撃されなかったのは、火事と同じく消防車とも逆側に逃げたからだと考えますよね?」
頬を小さく膨らませて息を吐いた。乾いた吐息が唇をかすめて霧散する。
「あなたのあの発言は、火事現場と千鶴さん宅と迫り来る消防車の位置関係についてはっきりと明言していますよねぇ。千鶴さん宅から火事と逆側に逃げた犯人――つまり、南向きに坂を下って逃げた犯人。その犯人が消防車と『すれ違わずに済んだ』なら、消防車は坂の下から北向きに登って来たことになりますねぇ……。何故その位置関係を前提に考えたんですかねぇ?」
俺の後を継いだ夏川さんの発言から、俺の話した内容は絵空事ではないことが分かって、密かに胸を撫で下ろした。




