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謀計リング  作者: 茜坂 健
第五章 「残りの真相」
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「自転車の傷も、あなたの怪我も左側面。これは偶然ですかねぇ?」

「そうですよ、偶然です」

 吉永貴子は毅然とした態度で言い放つ。

 夏川さんは無言で自身の右脚を前に伸ばした。皆の視線がその爪先に集まる。

「実は私も転んだんですよ。あの道を歩いている時にねぇ。真樹君は覚えているよねぇ?」

 何度もかぶりを振った。革靴の先がアスファルトの割れ目に引っ掛かり、前方につんのめって転ぶ姿はよく焼き付けられている。

「舗装が酷かったですからねぇ、あの道路。夜中で慌てていれば盛大に転びますよねぇ」

「ですから、それは想像でしょ?」

「あのアスファルトの割れ目から覗いていた土……粘土質で私の革靴の爪先にもたくさんこびり付きました。似たような土があの折り畳み自転車の前輪にも、付着していましたよ」

 吉永貴子の眉間に力が込もった。狼狽を隠すように額や鼻頭を右手で擦っている。

「夏川さんは土の専門家なんですか? 似てるだけですよね?」

「うーん……残念ながら私には、土についての素養はありませんねぇ」

 と、苦笑のような表情をすると共に、上着のポケットから二枚の写真を摘まみ出し、机の天板に並べる。

 写っているのは、吉永貴子だ。背景の臙脂色の扉から察するに、フォードさん宅の玄関先での写真のようだ。

「これは千鶴さんが川崎にある成瀬総合興信所に、あなたの身元調査を依頼した結果、撮られた写真です」

 恐らく、遠藤さんからメールで送ってもらったという物だろう。

 メールに添付された写真のデータを、事務所のプリンターで光沢紙にコピーしたらしく、よく見ると写真の縁が歪に曲がったりささくれ立ったりしている。コピー後の余白の部分を夏川さんが鋏で切り取ったらしい。

「あぁ……一つ申し上げておきますと、探偵には守秘義務がありますから、本来なら私がこの写真を所持していてはまずい訳です。しかし、この写真は警察が既に捜査のために件の興信所から提出を受けた物であり、警察から正式に協力を求められた私が、この写真を見ても合法ですので悪しからず……」

 俺はつい声が漏れそうになって、食道の入り口辺りに力を入れて堪えた。夏川さんの言ったことは嘘八百だ。

 そもそも警察からの協力要請自体が、非公式で世間には内緒のことなのだ。だから、遠藤さんが写真を夏川さんに送信した行為は違法……なのだろう。

 そういえば昨日も、夏川さんと警察が一緒にここを訪れている。彼女も夏川さんと警察の関係について、正式な物だと思っているであろうことを利用してこの様な嘘をついたのだろう。

(冷静に考えりゃ、随分ブラックな事やってるな……。グレーじゃなくて、真っ黒だ)

 真相を突き止めるためなら、多少黒くても構わないとでも思っているようだ。元々金で証言を買うような探偵だし、夏川さんの善悪の観念はよく分からない。

「この写真で、注目していただきたいのはあなたの左手です。こちらの写真ではあなたは指輪をはめておられますねぇ」

 と、二つ並んだ写真のうち片方を指差す。

 指し示された写真に写る彼女の左手の薬指に指輪がある。特に宝石などはあしらわれていない、シンプルなデザインの指輪だ。

「この写真はあなたがフォードさん宅を訪れ、これから中に入る瞬間です。撮影されたのは五月十三日の火曜日です」

 夏川さんの指先がもう一方の写真へと移動する。

「こちらは……その日、あなたがフォードさん宅から帰宅する時の写真です。同じ日の写真ですが、あなたの指には……」

 彼女の左手の薬指には光る物は無かった。他の指にもだ。

「指輪が無くなっていますねぇ。興信所に連絡して、必死で探してもらいましたよ。そして、この指輪を失くした瞬間を見つけることが出来ました」

 この写真の吉永貴子の髪が湿っていることに気付いた。そして化粧も落ちているように見える。

 もしかするとこの日吉永貴子は、彼の家でシャワーでも浴びたのかもしれない。ならば指輪を外して、失くしてしまったとしても頷ける。

「これこそ、千鶴さんが五月十八日にフォードさん宅で拾い、フォードさんの遺体の側に落とした『 K & T 』の指輪でしょう」

 昨日写真で見た『 K & T 』の指輪を思い浮かべた。夏川さんの言うように、シンプルな指輪だったが、言い換えれば特徴の無い指輪という事でもある。俺にはこの写真だけで確信は持てない。

「何でそんなことが分かるんですか? あの『 K & T 』と彫られた指輪は私の物じゃないですよ」

「あなたは自分の結婚指輪は日付を彫った物だと仰いました」

「そうですけど……」

 夏川さんがおもむろに瞼を下ろして、眼球を覆い隠した。記憶の中から何かを探り出しているようだ。

「確か……『二ヶ月後、貴子の誕生日だろ? その日に結婚しないか?』というのが、寛さんのあなたに対するプロポーズの言葉ですよねぇ?」

「はい。良く覚えてらっしゃいますね」

 吉永貴子の表情が幾分か柔和になったように感じられる。夏川さんの記憶力に素直に感歎しているのかもしれない。

「あの言葉は結婚の契りを結んだ言葉。婚約の言葉ですが……ここから分かるのは、婚約の時点で結婚――つまり入籍の日にちを決めたということですよねぇ?」

「……ええ。二ヶ月後の私の誕生日に結婚しようって言って、婚約した訳ですから」

「そしてあなたに見せていただいた結婚指輪には、日付が彫られていた。ならばあの指輪は、結婚指輪でなくて婚約指輪だと考えても不自然でないですよねぇ?」

「いや、あの指輪は結婚指輪ですけど」

「いや、奥さんがいる松岡警部補に電話をして確認しました。一般的には、結婚指輪は大きな宝石を付けずに、シンプルな物にするそうですねぇ。一方で、婚約指輪はソリティアといって、割と派手な一粒石をあしらうのが普通だとも教えてもらいました」

 結婚指輪とは無縁の俺にはピンと来ない話だ。松岡警部補に聞いたのは、夏川さんにとってもそうだからだろう。

「そして結婚後は婚約指輪よりも、結婚指輪を付けることが多いですからねぇ。この写真の中であなたの指にはまっているシンプルな指輪が『 K & T 』の結婚指輪で、昨日あなたが結婚指輪だと言って見せた日付入りの指輪は、本当は婚約指輪だった……と考えればどうでしょう? 私や警察に『 K & T 』の指輪は知らないと嘘をついてしまったが故に、手元に残っていた婚約指輪を結婚指輪だと偽らざるを得なかった」

 往々にして、一度嘘をつくと以後辻褄合わせのために嘘を重ねることになる。

 警察から『 K & T 』の指輪が現場に落ちていたと聞かされて、それが自分の結婚指輪だと気付き、咄嗟に嘘をついた。昨日のように、結婚指輪を見せろと言われた時に矛盾しないために、婚約指輪の特徴を結婚指輪の特徴として話した。

 やはり吉永貴子もかなり頭の回転が速いのだと痛感する。

「それも想像じゃないですか! 私の友達には結婚指輪でも大きな宝石を付けている人は居ますよ!」

 吉永貴子は眦を上げて語気を強めた。

「じゃあこの一枚目の写真に写っている指輪はどうされたんですかねぇ? 彼の家の中に失くしたなら、彼の家を捜索した警察が見つけている筈ですしねぇ」

「警察でも見つけられないくらいの所に落としたんじゃないですか? それに、私がこの写真に写ってる指輪を失くしたからって、私が彼の奥さんを殺したって事にはならないでしょう?」

「ええ、確かに……。あなたが否定する限り、この写真の指輪が『 K & T 』の指輪だという事を証明するのは難しいですからねぇ。それに、私はあなたが千鶴さんを殺害したという、直接的な証拠は掴んでいません」

 余りにも堂々とそのような事を言い放つので、俺は困惑した。遠藤さんに頼んで見つけてもらった証拠がある筈なのに……

「証拠が無いなら、もうお話はこれくらいにしませんか?」

 吉永貴子の声色が穏やかになった。

「あなたが千鶴さん宅に侵入し、千鶴さんに凶器を突き立てた直接的な証拠はありませんが……あなたがあの日あの時間に、千鶴さん宅に居たという証拠ならあります」

「私はあの家に行った事なんてありませんから」

 夏川さんは吉永貴子の話など耳に入っていないふうに、写真を取り出したのと同じ胸ポケットから、小さな袋を取り出した。

 袋の中には、白色をした何かの小さな破片が収まっている。

「これは……?」

「さっき言ったように、あなたは折り畳み自転車で逃げる際に転倒した。その場所を捜索してこれを見つけました。まあ見つけたのは私じゃありませんがねぇ」

 どうやら遠藤さんに探してもらったのはこの破片のようだ。

「昨日あの折り畳み自転車を見た時に、ペダルやハンドルに傷が付いているだけでなく、車体の白い塗装が一部欠けているのを見つけました。さて、この破片も同じような色と形をしていますねぇ……」

 夏川さんが言う塗装の欠けは、俺も見つけていた。ペダルやハンドルに傷が付いた時に、塗装も一緒に欠けたのだろうと思っていたが、その見立ては間違っていなかった。

 ペダルやハンドルが傷付いたのも、塗装が欠けたのも、同一の原因によるものだったのだ。

 夏川さんが転んだあの場所で、彼女も自転車ごと転んでいたのだ。

「どうです? タイヤに付着した土とこの塗装。土はあのアスファルトの割れ目の土で、塗装はあなたの折り畳み自転車の物だと証明するくらい、鑑識なら訳無く出来ますがねぇ」

 吉永貴子は右の掌で、サブリナパンツの膝の辺りをギュッと握りしめる。生地が引っ張られて脛が大きく露出した。

「で、でも……それも殺人の証拠には……」

「おや? あなたは千鶴さん宅には行った事は無いんですよねぇ? それは嘘だと認めるんですか?」

「その破片を拾った場所は、彼女の家からどれくらい離れているんですか?」

「それなりの距離はありますねぇ……。少なくとも『近く』とは言えないでしょうねぇ」

「だったら、それも証拠にはならないんじゃないですか? 私はそこまでは行った事はありますけど、彼女の家には行った事はありません」

 かなり苦しい言い訳だが、そう言われればこの破片も役には立つまい。実際千鶴さん宅から夏川さんが転倒した場所まで歩いて、かなりの距離があった。

「では……仕方ないですねぇ。これを……」

 夏川さんが机の天板の中間辺りに、ICレコーダーを置いた。こつん、と無機質な音が鳴る。

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