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謀計リング  作者: 茜坂 健
第五章 「残りの真相」
36/39

 俺の湯飲み茶碗の中身は、もう空になってしまった。辛うじて細かい茶っ葉が、底の滑らかな丸みに残っているだけだ。

「千鶴さんの遺体をガレージに残して、室内で車のキーを探すも見つからない。それが無いと予定通りの逃走手段を講じ得ないあなたは焦ります。……まぁ、予定通りに逃走していれば、フォードさんの術中にはまっていたところですがねぇ」

 吉永貴子の目が泳ぐ。なぜなら彼女自身もそのような計略が仕込まれていたことを、ついさっき知ったばかりだからだ。

「いくら探しても見つけられなかったあなたは、その内気付いた。千鶴さんが車のキーも持って出掛けていたのではないかとねぇ」

「じゃあまたガレージに行って、キーを?」

「それなら、私はそのキーを使って逃走している筈じゃない?」

 と、問う吉永貴子の口許には微笑が浮かんでいる。確かに彼女は今も存命している。

「千鶴さんのポーチを探ろうとガレージに出たあなたの耳に、聞こえてきたんでしょう? 火事の現場に向かう、消防車のサイレンがねぇ」

「なるほど……だからキーを探すのを諦めて、逃げた。その結果あの細工済みの車に乗らずに助かったということですね」

 夏川さんが俺に向かって頷く。その通り、ということだ。

 消防車が近付いてきて慌てて逃げたが故に、フォードさんの策略に陥るのを免れたとは、皮肉なこともあるもんだ……

「因みに千鶴さんの遺体から凶器の刃物が抜かれていたのは、落とした指輪に真実味を持たせるためでしょう。指輪が落ちるという事は、彼女を刺した時には手袋をしていなかったという事ですから、凶器に指紋が付いていた筈……。ならば犯人は凶器をそのままにしておかないですからねぇ」

 夏川さんは大きく、そして長く息をついた。

 俺は夏川さんがここまで話したことを頭の中で整理してみた。――理解出来なかったわけではない。だが、三人の人間がそれぞれ立てた謀計が重なり合っているせいで、三又の枝分かれを大きな幹――そう、あの夜起こった一つのストーリー――にまとめ上げる必要があったのだ。

 ケビン・フォード。小林千鶴。吉永貴子。この三人がそれぞれに謀をした。

 まずはフォードさんだ。去年の五月二十二日に事故で親友の寛さんを亡くし、その原因を作った吉永貴子への復讐を企てた。しかも、彼にはもう一人恨んでいる人物がいた。それは、妻の千鶴さんだ。

 そこで彼は、この二人を同時に死へと誘う案を創り出した。

 吉永貴子を利用し、強盗に見せかけて千鶴さんを殺害させた上、逃亡に使う車のブレーキに細工をしておくことで、逃亡しようとした吉永貴子がダム湖に落ちて死ぬ。

 もし実現していれば、強盗犯は吉永貴子だったと結論付けられただろう。被害者宅の車に乗ってダム湖に落ちた人物なのだから当然だ。恐らくフォードさんと吉永貴子との関係は明るみになっただろうが、彼女がフォードさんと知り合いならば、フォードさんが大企業に勤めていることを知っていた彼女が、その財産目当てで彼の宅を標的に選んだ程度にしか思われないだろう。車の中から凶器や奪った金品が見つかれば、どうしたって彼女が犯人だということで収まった筈だ。

 二人は携帯電話で連絡を取ることを極力避け、吉永貴子のパート先で会う日程を相談し、夜遅くにフォードさん宅で会って計画を立てていた。だが千鶴さんが浮気調査を依頼したために、その様子を夏川さんや成瀬総合興信所の所長によって見られていた。

 実行日は五月二十二日の深夜、二時から三時頃。さすれば吉永貴子は寛さんの命日に死ぬことになる。フォードさんは二十三時台には仮眠を取っておき、実行時刻の頃にアリバイを作る手筈だった。

 ――と、ここまでがフォードさんが立てていた謀計。

 その謀計を利用しようとしたのが吉永貴子。フォードさんからの報酬を吊り上げようとして、実行時刻よりも早い時刻に犯行に及んだ。

 仮眠を取っていて、アリバイのないフォードさんに対し、嘘のアリバイ証言をする代わりに報酬をもっと上げるよう働きかけた。

 フォードさんとしてはアリバイが無い上に動機がありまさに窮地だっただろう。警察に真相を話しても、言い逃れのための狂言だと思われるかもしれない――口頭でしか打ち合わせをしなかったために、犯行を依頼した証拠が無いのだ。信じてもらえたとしても、教唆犯であることに変わりはない。

 そう思えば、吉永貴子の企てはフォードさんの計画を上手く逆手に取っていた。

 その際、強請るためのより強固な材料として用いたのが、フォードさん宅でくすねた『 Kevin to ちづる 』の指輪だった。

 ――これが吉永貴子の謀計。

 実際に彼女は二十一日にパートから帰宅後、二十一時半に自宅を出発。向かいの住人に目撃されたので、口実としてコンビニに寄った上で相模原に向かった。この行為が意図せずフォードさん殺害事件の方のアリバイを成立させたのだが……

 二十二時半頃に事前に決めていた場所に車を停め、千鶴さん宅へ向かった。千鶴さんは既に就寝していると思い、窓を破って侵入したが、千鶴さんは留守だった。標的が玄関先に居るかもしれないと様子を見に行ったが、ガレージで千鶴さんと鉢合わせ。その場で殺害し、用意していた指輪を置いた。――これが二十三時五十分頃だろう。

 そしてやや狂った計画を完遂するため、室内に戻り部屋を荒らし、現金を幾らか奪う。そして逃亡に使う車のキーを探した。

 だが、千鶴さんは車のキーもキーケースに付けていたために、室内にそれは無かった。

 二十四時二十分頃、その事に気付いた彼女はガレージに戻り、ポーチの中を探ろうとしたが、消防車のサイレンが聞こえてきたため、近隣で火事が起きた事を知る。

 野次馬や消防士などに見つかるといけないと焦った吉永貴子は、結局計画通りに車で逃げることは出来なかった。結果的に彼女は、フォードさんの仕掛けた罠に嵌らずに、命拾いする事になった。

 ――そして、千鶴さんがなぜそんな時間に出掛けていたかというと、彼女は彼女で別な謀計を企てていたからだ。

 夫、フォードさんの浮気を知った千鶴さんは、フォードさんを殺害して保険金を受け取る事を思い付いた。

 成瀬総合興信所から得た身元調査の書類から、一年前に事故で夫を亡くした、吉永貴子という女性が浮気相手であることを知った。但し、その夫の名前を中尾『ひろし』だと勘違いした。郵送で送られてきた調査書には振り仮名が振っていなかったし、彼女が昔働いていた喫茶店のマスターの名前からも先入観を抱いていたのが原因だった。

 四月十八日にフォードさん宅を訪れた彼女は、自らの殺害計画を話し合うためにフォードさん宅を何度も訪れていた吉永貴子の『 K & T 』の指輪を見つけた。彼女はそれを『ケビンと貴子』だと思い、夫が浮気相手に贈ったものだと思った。

 その指輪をフォードさんの遺体の側に落として、吉永貴子に罪を着せようと考えた。自らの口で、夫には貴子という名の浮気相手が存在すると証言すれば、その指輪から当然警察は吉永貴子を疑うと踏んだのだろう。

 だが、いかんせん彼女は指輪を見つけた時、素手で触ってしまったために、指輪から指紋を綺麗に拭き取らざるを得なかった。

 身元調査によって吉永貴子の生活リズムを把握した彼女は、彼女が二十時までのパートから帰宅後は、出掛けることはまず無いことに気付き、水曜日の二十時四十分から五十分頃をフォードさん殺害時刻に設定した。

 当日彼女は上はTシャツ、下はジャージのズボンを着用し、更に変装を施した。

 上下に別な種類のジャージを二枚重ねに着る。後に履き替える靴をリュックサックに詰めておく。そして、帽子を被った。こうして橋本駅や目黒駅の防犯カメラに映った謎の女性が出来上がったのだ。

 リュックサックの中には靴以外にも、雨ガッパや黒いビニール袋、そして彼女が腰に巻いていたポーチなども入れておいた。

 自宅ではフォードさんの遺体がすぐに発見されてしまった場合に備えて、固定電話の電話線を抜いておいた。

 後はフォードさん宅の駐車場へ出向き、フォードさんを撲殺し『 K & T 』の指輪を置いた。一応、吉永貴子の疑いが晴れる場合も考えて、無差別の強盗にも見えるよう財布から現金を抜き、自分の財布に忍ばせるという工作もした。

 橋本駅まで帰ると、予め探しておいた人目の無い場所で、上に着用したジャージの上下と帽子と靴を脱ぎ、リュックサックや返り血の付着した雨ガッパや手袋と一緒に袋にまとめて、ダム湖に投げ捨てた。

 そして、徒歩で自宅へと帰宅。到着が二十三時五十分頃。

 そこで、吉永貴子と鉢合わせし、刺し殺されてしまった……

 ――こんなものだろう。

 偶然が重なったようにも見えるが、吉永貴子のパートが二十時までであるのは、平日では水曜日だけ。千鶴さんからすれば、吉永貴子に罪を着せつつ、フォードさんが会社から帰宅するのを待って襲撃するには水曜日しか無かったことになる。

 そして、フォードさんが吉永貴子を殺害しようとした、寛さんの命日が木曜日であったために、実行時刻を早めた吉永貴子と同日に決行することになってしまったのだ。

「――よく分かりました。でも……それって何か証拠があるんですか?」

 吉永貴子はわざとらしく首を傾げた。

 彼女がこう尋ねてくることは俺にも予見済みだ。夏川さんの推理は辻褄は合っているが、証拠が無い。

「確かに今の話は私の推測に過ぎませんねぇ。残念ながらフォードさんと千鶴さんが亡くなった以上、推測が多くなってしまいますからねぇ」

「あら……じゃあただの作り話だって言われて終わりじゃないですか」

 吉永貴子が目を細める。肩の力が抜けたように見える。

「ところで、あなたは千鶴さん宅なんて行ったことは無いと仰りましたよねぇ?」

「そうですよ、行ったことなんて無いですよ」

「それは妙ですねぇ……。私はあなたがあの家を訪れたことがあると、確信していますが」

 そう言って、視線をやや下に落とす。視線は膝の上で組まれて重なり合った彼女の白い手に注がれているようだ。

「あなた、私の事務所に来られた時、左手に絆創膏を貼ってましたよねぇ?」

「ああ……でも、玄関で躓いて擦りむいたって言いませんでしたっけ?」

 彼女の左手には今は絆創膏は無い。

「絆創膏を貼っておられたのは、左手の甲の外側でしたねぇ……。そして、この前見せてもらった折り畳み自転車。あの自転車も左側のハンドルやペダルが傷付いていました」

「だからあの傷は、風で自転車が倒れた時についたものだって言ったじゃないですか!」

 今までになく大きな声に憤りが現れている。一瞬冷静さを欠いたことに気付いた吉永貴子は、前のめりになって伸びた背筋をソファの背もたれに埋めた。

「あなたは車を停めた場所から千鶴さん宅へと向かうのに、あの折り畳み自転車を使ったんじゃないですかねぇ? 徒歩で向かうよりも時間を稼げますし、折り畳みなら車に載せて簡単に運べますからねぇ」

 吉永貴子は白けた目でこちらを眺めている。また想像話を聞かせるのか、とでも言いたげだ。

「犯人は逃走する時に目撃されていません。となると、消防車が走っていた玄関に面した通りではなく、裏の公園沿いの細い道から逃げたと考えられます。その事を踏まえれば……」

 一旦、湯飲み茶碗に手を伸ばし、一口だけ啜った。尖った喉仏が昇降し終わると、すぐに再び口を開いた。

「当初の予定はこうだったんじゃないですかねぇ? ――折り畳み自転車で千鶴さん宅の裏に到着後、その自転車を裏庭の柵を越えて千鶴さん宅の敷地内へと放り込む。あの自転車は小振りでしたし、折り畳みなら元々軽量ですからねぇ。壊れても構わないつもりで乱暴にでも柵を越えさせれば、女性のあなたでも可能な筈です」

 半袖のトレーナーの袖口から覗く、筋肉質でしなやかな二の腕。元々バスケットボール部で体育会系の彼女なら、可能だろう。

「あなたも裏庭の柵を乗り越えて侵入し、計画を実行後、その折り畳み自転車も例の車に載せて逃亡。あなたの車の所まで逃げれば、自転車もあなたの車に移し替えて自宅まで戻る算段だった……。しかし、その計画が狂ってしまった。車で逃げるのを諦めた訳ですからねぇ……」

 また遠くで踏切の警報機の奏でる騒音が鳴り始めた。

「そこで裏の公園沿いの道を逃げる事にしたあなたは、もう一度折り畳み自転車に柵を越えさせて、自らも柵を乗り越え、折り畳み自転車に乗って、あの小径を下って逃げたんじゃないですかねぇ?」

「で、その話には証拠はあるんですか?」

「事件後ですから二十四時過ぎです、辺りは暗く、あなたはアスファルトのひび割れに気付かなかった。下り坂を急いで下っている最中に、転倒したんでしょう? その時、折り畳み自転車とあなたの左手が傷付いたんじゃないですかねぇ?」

 吉永貴子は絆創膏があった辺りを右手で覆い隠した。

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